10.

 ふうっと息を吸って、はいて。

 ソラが持っていた楽譜を睨みつけて。

 僕はまた、「ソラ」を始める。

 奴ほどピアノはうまく弾けないけれど、彼女が騙されてくれているのだから問題ない。

 音が流れ出す。題名は知らない。楽譜を読むので精いっぱいだ。

 和音、和音、和音。

 ああ、ソラはこんな曲を弾いてたのだろうか。

 どこか物悲しげ。

 つたなさの見え隠れするピアノでも、それくらいは伝わる。

「ベートーヴェン。ピアノ・ソナタ 第14番 嬰ハ短調「月光」 第1楽章……」

 サクラの透き通った声が、闇に溶けていく。

 僕はサクラを手に入れた。僕だけを見てくれる、僕のサクラだ。

 危なかった。今夜は本当に、危なかった。

 後、危険なものは。

 ふっと、頭の中で、ショートヘアの女の子が浮かぶ。自然と、眉がよる。

『なんかね、私、怖いの。黒田くんが』

 茶色の、ちっともきれいじゃない瞳が僕に黄色い声を飛ばす。

 でも、なんで怖いのか分からないの。

 七不思議の七つ目を、勝手に実は……と話し始める感じ?

 ぞくぞくする。

 楽しいの。

『だから、こうして話しかけているのだけれど』

 ねえ、黒田くん、とクラスメイトはにっこりと微笑んだ。彼女にとっては天使の微笑みのつもりだったのだろうけれど、僕にとっては鬼女にしか見えなかった。


『七不思議、作ろうよ。ソラくんとサクラちゃんの。きっと面白いよ。ソラくんとサクラちゃんが、本当はお互いのことが好きで、音楽室でピアノを弾いているとかどう? みんな、怖がってくれるよ。黒田くんがいれば、ううん、ユキくんがいれば、みんな本当のことだと思うよ。ねえ、やろう?』


 背筋が震えた。

 駄目だ。そんなことさせちゃ駄目だ。

 サクラは僕だけのサクラなのに……また、ソラにとられてたまるものか。

 サクラの気持ちがどうであろうと。


 サクラは、僕のサクラだ。


 そんな、幾多もある「不思議」の中に、彼女を埋もれさせて――たまるものか。

「……じゃまだなあ」

と、僕は呟いた。ピアノの音に、悪意が混じっていく。

 月光が、闇にのまれていく。

 どうしたの? と聞いてくるサクラに、僕は何でもない、と答える。

「次は、プールで泳いでみようかと、思って」

 二度も偶然がおこるわけがない。

 だから……僕が。

 今度こそ、プールは閉鎖になるだろうか。

 クラスメイトのあの子は、死んだら幽霊にでもなるのだろうか。

「今度こそ呪い殺される……かも、なんて」

 ばかばかしい、と。

 僕はぽつんと椅子に座る少女には聞こえないよう、小さく、でも確かに呟いた。

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ソラ 桜枝 巧 @ouetakumi

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