見えない風船の糸

神楽坂

彼は、浮いていた。

 彼は浮いていた。

「浮く」という動詞は色々な使い道がある。周りの人間にうまく解け込めずに、また解け込もうとせずに輪から外れてしまう人間を「浮いている」と表現する。もちろん、彼はその意味でも「浮いていた」のだが、辞書を引くと一番初めの項目である「浮く」の意味も実行していた。

 要するに、彼は実際に浮遊していた。

 ふわり、と浮いていたのだ。

 どれくらい浮いているのかというと、結構浮いていた。地上から五十センチほどは浮いていただろう。僕の腰の辺りをくるくると回っていた記憶がある。移動するときも浮遊したまま平行移動していたし、授業中ももちろんぷかぷか浮いていた。しかしクラスの前のほうに座っていると、後ろの生徒の邪魔になるためいつも一番後ろの席に座らされていた。後ろの席なら寝たり、内職をしたりいろいろできるはずなのだが浮いている彼にはプライバシーというものがなく、仕方なく真面目に授業を聞いていた。浮いているのも考え物である。

「浮いてるのってどんな気分なんだ?」

 僕はある日聞いてみた。高校生だった僕は自由に空でも飛んでどこへでも行きたいという希望があったのだろう。

「どうなんだろうね。地面を歩いてたことを覚えてないからわからないな」

 僕はその時、彼の言葉にどう返したかは覚えていない。ふぅん、と言って流したかもしれないし、どうにか思い出せ、と問い詰めたかもしれないが記憶は定かではない。記憶というものは不思議なものだ。不必要なものは隅に残っているのに、本当に必要なものはどんどん上書き保存をされてしまう。必要だからこそ、上書きをしてしまうのだろうか。どっちにしろ僕にはわからない。

「わからないけど、記憶っていうものも結局はフィクションなんだよね」

 いつだったか、彼は急に話し始めた。

「フィクション? 嘘とは違うの?」

「それは違うと思う」

「どう違うのかな。僕にはわからない」

「フィクションは他人のための嘘。嘘は自分のためのフィクションだよ」

「じゃあ、記憶は他人のための嘘ってこと?」

「そうなるね」

「でも、記憶は自分だけのものだろう? それっておかしくないか?」

「自分にとって、記憶している自分は他人だよ」

 彼はそんな話をした気がする。僕は臆することなく続けた。

「記憶は歴史みたいなものかな?」

「歴史かぁ。歴史もフィクションだからね。誰かの主観を通して作られたものには間違いない」

「なるほど」

「でも、やっぱり違うのかなぁ」

 彼はふわふわと浮かびながら言った。決して快適そうな顔をせずに、自分は浮いていないとでも言いたげな表情を顔に張り付けていた。 

 彼との会話の断片を思い出してみると、あの頃の僕は意味もわからない会話をよくつづけていたと思う。僕の今一番嫌いなものは意味のわからない会話だ。あれほど不毛な時間はない。しかし、あの頃の人間というのは意味のわからない、意味のないものほど意味のあることだったのだろう、と思う。ただの言い訳かもしれないが。

「大人になるってどういうことかな」

 僕は言った。深夜ラジオのおせっかいなディスクジョッキーに向かって葉書を出すように、明確な答えを求めるかのように。そんなものは存在しないのに。

「君は大人になりたいのかい?」

 彼は言った。

「君はなりたくないのか?」

「大人かぁ」

 彼は一瞬考えた。

「大人っていうものがどういうのかはよくわからないけど」

 彼は空中でくるりと前回りをした。

「とりあえず、大人はっていうのは浮いていない人のことを言うんだろうね」

 彼はいつもの通り、寂しそうな笑顔をした。

「そういうものか」

「そういうものだよ」

 僕と彼はその時、何を見ていたのだろう。

 彼と僕は同じものを見ていたのだろうか。


 彼と出会ったのは高校一年生の時だった。私立の高校に入って初めて編成されたクラスに彼はいた。その時、彼はすでに浮いていた。ぷかぷか、と。周りの生徒はもちろん、教師も彼に不審な視線を浴びせていた。もちろん、僕もその中の一人である。いくら航空力学が発展したところで人間が浮くということは、僕たちにとっては非現実なものだった。

「初めまして。よく人からは浮いているねって言われます」

 彼は最初の自己紹介で朗らかに言い放った。クラスは白けた笑いに包まれた。

 それから、彼は学校の注目の的だった。彼の浮きっぷりを覗きに他のクラス、他の学年から人が僕たちのクラスを訪れ、彼を見学した。まるで彼は突然川に現れたアザラシのような存在だった。彼は彼で皆の視線を気にすることもなく、アザラシが日向ぼっこをするように淡々と日々の生活を送っていた。その時、僕は彼のことをどうとも思っていなかった。あの頃の年代はどうもあまのじゃくで、人々が群がるものを嫌がる性質があったように思える。

 しかし流行というものは非情なもので、一年経った頃には彼のまわりに人は集まらなくなった。使い古されたおもちゃを捨てるように、皆は彼の存在を気にしなくなった。ただ彼はその変化に対して何も思ってはいなかったようだ。周りが静かになった、という僅かな環境の変化を嬉しく感じたぐらいだろう。彼は飄々と文庫本を手に、ふよふよと浮いていた。

 僕が彼と最初に話したのは高校二年生の夏のことだ。

 僕は休日の散歩を満喫するため、河原をふらふらと歩いていた。夏だというのに、日差しに手加減が感じられ、少し汗ばむ程度の気温だった。そんな時、彼とばったり遭遇してしまった。

 彼は河原の砂利の上にふわりと浮いていた。本を読むわけでもなく、川を見つめていた。その姿は行き場をなくした風船のようだった。どこへ行くこともなく、誰が持つでもなく、ぷかぷかと浮いていた。

 僕が彼の姿に見入っていると、彼は僕の存在に気がついた。彼は少しだけ表情を綻ばせて右手を軽く挙げた。僕は僅かに反応が遅れたものの、同じように右手を挙げた。そして彼は僕の名前を言った。

「当たってるよね?」

 僕は軽く頷いた。

「よかった。記憶力に自信がなくて」

 彼は笑った。その時から、彼の笑顔には影があった。僕も記憶力には自信がないがそれは覚えていた。あまり重要な記憶ではないのだろうか。

「何してるんだ?」

 僕は彼に聞いた。

「人間って絶えず何かをしているのかな」

 彼はふわふわ浮きながら言う。

「何もしていない時ってどんな時だと思う? というより何もしていないことって実現は可能なのかな?」

 正直、変な奴だなと思った。そう思わない人間は恐らくいないだろう。第一印象は、あまり良くなかった。

 しかし、その日を境に妙に彼と接触するようになった。一緒に昼御飯を食べたり、読んだ小説の品評をし合ったりしていた。僕も彼と同様に友人と呼べる人間があまりいなかったので、お互い希少な友人となった、と僕は思っていたが彼はどうなのだろう。

 しかし、彼と出会って半年ほど経っても彼の存在はよくわからなかった。彼は本当は雲が化けて出たんじゃないかとも思った。雲のように一定の形を持たずに、空高いところを彷徨い続けている。僕はその雲をどうにか手に取ろうと努力をしてみたのだが、やはり雲は掴むことが出来ないものなのだ。高校三年生になる頃には、僕は彼を捕まえようとする努力を止めた。努力して、彼を掴んだような気になったとしても、それはやはり捕まえた気になっただけの話であって掴んだという事実とは遠いものなのだろう。

「僕もたまには地面に足をついて歩きたいな」

 僕たちが高三になった春のある日に彼が言った。

「そんなこと思うんだな」

「自分の持ってないものを羨むのが生物でしょ?」

「そういうものか?」

「そうだよ。多分鳥だって、人間を見て歩けたら地上にいる餌が取りやすいのに、って考えてるに違いない」

「じゃあなんであいつらは飛んでるんだろう」

「さぁ。人間が嫌いなんじゃないの?」

「嫌いだから羨んでいるのか」

「羨んでるから嫌いなんだ」

 彼は言った。


 彼は高三の夏に、突然「学校を辞める」と言いだした。

 僕はそのことを聞いても別段驚きはしなかった。彼ならばそういった行動に出ても不自然ではなかったからだ。

 なんで? と一応を聞いておいたが、彼は表情一つ変えずに「なんとなくかな」と答えた。僕の予想した通りの回答だった。

 彼が学校を辞める前日に初めて僕たちが言葉を交わした河原に行った。川の水面はきらきらと太陽の光を反射している。去年とは違って、夏の日差しに容赦がない。河原の砂利を熱し、その熱が靴底を通ってじわりじわりと僕の足の裏に到達する。しかし、彼にはその熱は伝わらない。彼と地面の距離は絶対に縮まらない。それが「浮く」ということなのだ。

「なぁ」

 僕はポケットに手を突っ込む。

「どうしてお前は浮いているんだ?」

 僕は彼と出会ってから今まで聞けなかったことを初めて口にした。聞かなかったのか?聞けなかったのか? 僕もいろいろ自分を正当化しながらも、自分と違うものをどこかで避けていたのだろう。人間はいつだってそうだ。自分と違うものは見ないで、自分と同じものだけを探す。そうやって自分が意識をしていないところで自分というものを鋳型にはめ込んで、大量生産品となっていくのだ。でも、人間はそうやって生きていくことしかできないのである。そう思ったのは、ごく最近のことだ。そういうことに気がつくことが、気がついてしまうことが、「大人になる」ということなのか? いや、多分違うだろう。

「昔さ、引力と喧嘩したんだ」

 彼はゆっくりと口を開いた。

「喧嘩の理由は忘れちゃったなぁ。他愛もないことだったと思う。あいつのお菓子をつまみぐいしたのか、おもちゃを壊したのか、そんな些細なことだったんじゃないかなぁ。でも理由なんてどうでもいいんだよね。理由っていうのは、後から物事を説明するために必要なものだから」

 彼は絵本を読むように、柔らかい口調で話した。彼の声は水面を伝って対岸まで届きそうなくらい、澄んで、透き通っていた。

「殴り合いの喧嘩になったなぁ。その時の僕は喧嘩がなかなか強くてさ、引力をボコボコにしてやったんだ。んで、家に帰ろうとしたら引力が僕にこう言った。お前とは絶交だ、ってね。その瞬間から僕は少しだけ体が浮くようになってた」

 彼はきれいに後方宙返りをして見せた。

「でも、引力は可愛げがあって、僕を完全に手放さないんだ。あいつが完全に僕との縁を切ったら、宇宙まで飛んでいってしまうからね」

 それはそれで楽しいかもしれないけど、と彼は付け加えた。

 彼はやはり寂しげな表情だった。

「それとも」

 彼は言った。

「誰かが僕のことを地面に繋ぎとめてくれてるんじゃないかと思うんだ。例えば、君とか」

 彼は僕を指差した。

「君と話すようになってから不思議と浮いている高さが低くなったような気がしたんだ。ほんの少しだけど。引力が甘いってこともあるけど、君のおかげでもあるかもね」

 彼は僕に微笑みかけた。その笑顔には、寂しさが感じられなかった。

「僕は、何もしていない」

「何もしてない、か」

 彼は川に視線を戻す。

「何もしてないってことは、何かをしているときよりもいろんなことをしているんじゃないのかな。人って案外、夢中になってるときって何かをしているって意識にとらわれないんだよね」

「そういうものなのかな」

「そういうものなんだよ」

 僕も川の方に視線を向けた。水面は変わりなくきらきらと輝いている。南からは熱せられた風が吹く。そうだ、熱は地面から伝わるものだけじゃないんだ。僕は一人で納得した。

「風が強いな」

 彼は言った。

「でも、僕は飛ばされない」

 彼は、そう言った。

 その翌日、彼は学校を去った。別れの言葉は、なかった。


 あの日から何年が経ったのだろう。

 僕は今まで何をしてきたのだろうか、と考えるといろいろなことが頭に思い浮かぶ。彼の言葉の通りならば、僕は何もしてこなかったのかもしれない。壊れたびっくり箱のように、係数が0になったバネのような中身しかなかったように思えた。僕の全ては、あの頃に集約されていたのだ。今は、その貯金を切り崩している状態である。

 僕はこうして昔を思い出しながら、文章を綴っている。僕は文章を書くことを生業としていないが、文章を書くことが出来る。この文章は果たして真実なのだろうか、嘘なのだろうか、フィクションなのだろうか。今書いたことは全部僕が体験したことであるし、出来るだけ誇張も美化もなく書いたつもりだ。しかし、それは現在の僕という濁ったフィルターを通ったものでしかない。それは果たして真実なのだろうか? もしかしたら、全てが僕の今の僕のための嘘かもしれないし、昔の僕のための創作なのかもしれない。

 彼はこの質問を聞いたら「どっちでもいいんじゃないかな」とでも嘯くに違いない。

 そもそも、この文章を書こうと思ったきっかけは彼にあるのだ。

 つい先日、都心で彼を見たのだ。

 巨大なスクランブル交差点を歩いていると、人の壁の向こうに彼の姿が見えた。 

 僕はその姿を見て驚愕した。

 彼は地に足をつけて、二本の足で歩いていたのだ。

 彼はしっかりと地面を踏みしめて、一歩一歩確実に歩いていた。

 彼の表情はどこか喜びに満ちていた。

 僕は声を掛けようか一瞬考えた。しかし、今回は接触をはからず歩みを進めることにした。

 引力から見放されている彼は今、「意識的」に歩いているだろうか。

 それとも、「無意識のうち」に歩かされているのだろうか。

 僕は、出来れば後者であって欲しいと思った。

 それは、僕が今も求めているものであることは間違いないし、彼もどこかで求めていたものなのだろう。

 彼は今、歩かされているのだ。

 そうあってくれ、と僕は思った。彼のために、そして僕のために。

 この思いを残して置きたくて、僕はこの文章を書いた。

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見えない風船の糸 神楽坂 @izumi_kagurazaka

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