第6章 痴王残夢《ちおうざんむ》

1 夢現

「実を言うと、これ以上おまえらに付き合うのが面倒になってきた。俺には最初から〈旧支配者〉なんてどうでもよかったしな。ただ、こいつがどうにも外れなくて困ってた。でも、こうして指輪以外のものになってくれれば」


 恭司は黒い本から手を離した。タオルは落ちたが、本は落下せずに空中で消えた。


「ほら。僕にもできた」

「どこへ飛ばした?」


 〈這い寄る混沌〉が秀麗な顔を歪めて低く問う。おそらく今、彼が激しく呪っているのは、恭司の狡猾さではなく、恭司の要求を〝承認〟してしまった自分の迂闊さのほうだろう。


「さあ……どこかな。特に何も考えなかったけど。でも、おまえはすぐに探し出せるんだろ? どうして探しにいかない?」


 蕃神は恭司から目をそらせた。それを見て呆れたように恭司が笑う。


「本がないと〝俺〟を見つけられなくなるからか? 妙なルールだな。誰がそんなの作ったんだ?」

「恭司……」


 すがるように何事かを言いかける。が、恭司に睨まれ、すぐに口を閉じた。


「俺は常々不思議に思ってたんだよ、ナイアーラトテップ。〈旧支配者〉のほとんどが何らかの制約を受けてるのに、何でおまえだけは自由に動けるんだろうと。俺だったら、真っ先におまえを封じてやるのに」

「…………」

「結局、何のことはない。おまえだけが自由に動けるのは、おまえが最初に神話のルールを張本人だからだ。自分に不利なルールを認めるバカはいない。政治家が自分たちに都合のいい法律しか作らないように」

「…………」

「でも、ラヴクラフト師匠は、おまえに言わせりゃ、自分一人で神話を作らなかった。……まあ、もともと神話ってのはそうしたもんだが。矛盾や食い違いが出てくるのは必然だ。それでも、師匠が〝これは駄目、あれはよし〟って言ってくれれば、少しは整理できた。ところが、師匠はそれをしないまま――たぶん、あえてしなかったんだろうが――この世を去っちまった。さらに困ったことには、師匠の死後も、不肖の弟子どもによって勝手にルールは増えつづけた。……なあ、ナイア。確か、俺の役目は、おまえたちを自由に動けるようにすることだったよな?」


 それまで沈黙しつづけていた〈這い寄る混沌〉は、このときようやく口を開いた。


「そうだ」

「でも、おまえは最初からわかってたな。俺はもちろん、誰にもそんなことは不可能だって」


 蕃神は再び返す言葉を失った。薄く笑っている恭司をただひたすら見つめつづける。


「〝神〟というフィクションは、それを信じる人間がいなければ存在できない。だからこそおまえたちは、神話の布教者として、作家ラヴクラフトを必要とした。でも、おまえがどれだけ否定しようが、生き残るのは大多数の人間にそうあってほしいと望まれたものだけだ。おまえたちが自由に動けないなら、それがおまえたちを支持する人間たちの望みだ。奴らはおまえたちが実在していて、自由に動けないことを望んでいる。おまえたちにしてみれば生殺しだな。そして、それこそがおまえたちを縛るもの――ラヴクラフトが仕掛けた〝封印〟だ。――どうする? それとも、試してみるか? 誰か作家をつかまえて、ラヴクラフトの書いたことは全部嘘っぱちだって小説でも書かせてみる?」

「そんなことはすでに何度もやった」


 吐き出すように〈這い寄る混沌〉は言った。


「今さら試すつもりもない。それにもう……」

「そう。あの古本屋で、あの眼鏡の男を殺したときから、おまえの目的は変わってたな」


 にっこり笑い、蕃神の顔を覗きこむ。


「〈這い寄る混沌〉。〈大いなる使者〉。〈無貌の神〉。……おまえはいったい、何がしたい?」

「恭……」


 蕃神は恭司に手を伸ばしたが、それから逃れるように恭司は立ち上がった。


「最終的に、俺をどこに連れてくつもりだった?」

「恭司!」


 〈這い寄る混沌〉も立ち上がり、恭司を抱き寄せようとした。

 しかし、彼の長い腕は、恭司の細い体を捕らえることはできなかった。


「……馬鹿な」

「俺もびっくりだ。まさか、おまえにも有効だとは思わなかった」


 軽く目を見張った恭司の手の中には、再びあの『死霊秘法』があり。

 蕃神の両腕は、何者かに掻き消されたようになくなっていた。


「恭司……」

「恨むなら、この本を恨め。そして、これを俺に押しつけた、おまえ自身を恨め」


 それでも、多少は申し訳なさそうな顔をして恭司は本を叩いた。

 そんな恭司を見すえたまま、〈這い寄る混沌〉は両肩を揺すった。両腕がビデオを巻き戻したように出現する。その間、傷口からは一滴の血も落ちなかった。


「それを持っている限り、私はおまえがどこへ逃げても必ず見つけ出す」


 淡々と蕃神は宣言する。


「〈夢の国〉でも、〈窮極の門〉の彼方でも」

「俺を見つけ出したら……その後はどうする? 罰として殺してくれるか?」


 笑いながら恭司はもう一度本を叩いた。本は銀の鍵となり、恭司の左手の中に収まった。


「やっぱ本は重いわ。腕が疲れる」


 〈這い寄る混沌〉は一瞬ためらった。が。


「言ったはずだ。約束を果たさないうちは、何があっても死なせはしないと」

「絶対に果たすことのできない約束でもか? ほんとにひでえな。だから嫌だって言ったんだよ」

「おまえがいらない命なら、私にくれてもいいだろう」


 切なげに眉根を寄せて蕃神は乞う。


「カダスの城に来い。おまえが嫌う面倒はいっさいかけさせない。あそこなら、他の奴らの手下どもも手出しできぬ」

「何だおまえ、知ってたのか。性格悪いな」

「おまえほどではない」

「ごもっとも。でも、俺はおまえほど悪趣味じゃない」


 恭司はにやりと笑うと、〈這い寄る混沌〉に銀の鍵を突き出した。


「なあ、ナイアルラトホテップ。夢でも永劫に続けば現実になるんなら、一瞬の現実は夢みたいなものだと思わないか? 生まれてすぐに死んだ赤ん坊にとっては、羊水の中と空気の中と、どっちのほうが現実だ?」

「恭司!」


 蕃神が恭司に手を伸ばした、その瞬間にはもう恭司は消えていた。

 最初から、誰もそこには存在していなかったかのように。


 ***


 自分がまったく行ったことのない場所への移動は難しいと〈這い寄る混沌〉は言っていた。

 それは恭司も自分で試してよく知っていた。実は未知の場所に移動できたことは一度としてない。

 もっかのところ、いちばん移動しやすい場所は自分のアパートだった。が、今回はそこがスタート地点なのだから、どこか別の場所を選択しなければならない。しかし、そのときふと恭司は思いついた。


 ――鍵を使えば時空間を移動できる。ならば、時間だけを移動することもできるのではないか?


 わずか五分後の自分の部屋の中に、幸い、蕃神はもういなかった。だが、いつ見つけられるかわからない。一刻の猶予もならなかった。


「カエサルのものはカエサルに。古本屋のものは古本屋に」


 恭司が呪文のようにそう呟いたとき、彼の手の中からあの銀の鍵は消えていた。


「やれやれ。これでやっと眠れる」


 恭司は大きく背伸びすると、いそいそとコタツに潜りこみかけた。が、それを邪魔するかのように呼び鈴が鳴った。


「……留守だよ」


 聞こえないように小さな声で答えてみたが、訪問者はいっこうにあきらめず、今度はドアを叩き出す。


「すいません、下の階の者なんですが、天井から水漏れしてるんですよ……」


 恭司は溜め息をついてから、立ち上がってドアの前へ行った。

 返事をする前にドアについている魚眼レンズから外を窺うと、魚顔の若い男が瞬きをしない目でじっとこちらを見つめていた。一応隠れているつもりらしいが、その両脇には何人か立っている。


(へえ。下には深きものどもが住んでたんだ。知らなかったな)


 他人事のように感心しながら、恭司は苦笑いした。

 さて、どうするか。

 おそらく、恭司がこのドアを開けた瞬間に、彼らは力ずくで中へ侵入してくるだろう。いや、このまま居留守を使っていても、強引に押し入ってくるかもしれない。

 今までは、あの指輪――銀の鍵があったから、恭司は自分の身を守ることができた。呼べば今でもあれは戻ってくるだろう。だが、すぐにあの蕃神もやってくる。


「沼田さん。……いるんでしょ?」


 恭司が考えている間にも、魚男のドアを叩く音はいよいよ激しくなってきている。彼らの目当てはもちろん銀の鍵だろう。では、その鍵を自ら放棄した大学生を彼らはどう扱うのだろうか。そうか、わかった、邪魔したなと帰ってくれればいいが、たぶん、それでは済まないだろうということは恭司にもわかる。


(是非もなし)


 心中でそう呟いてから、声に出してはこう答える。


「はいはい。今開けます」


 魚男はようやくドアを叩くのをやめた。恐ろしい力だ。ドアが少しへこみだしている。


 ――もしも、これから先、おまえが何か嫌な目にあいそうになったら……


 かつて、恭司があの道場主に悪戯されそうになったと知ったとき、恭司の兄は泣きながら彼に言った。


 ――この呪文を唱えろ。そうすれば、絶対逃げられる。


 皮肉なものだ。あまりに恭司を愛した兄は、その愛ゆえに不用意にも彼にそれを教えてしまった。


 ――これは〝夢〟だ。すべて〝夢〟なんだ。


 恭司はドアのチェーンを外し、解錠した。

 目を閉じて、静かにドアノブを回す。

 再び目を開けたとき、そこには魚男とその仲間が立っているはずだ。恭司が否定しただけで消えるはずがない。

 ここが本当に現実であるならば。

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