3 門の鑰

 次に跳んだ先も、やはり足場のない闇だった。

 必然的に、恭司はまた〈這い寄る混沌〉の手を振り払うことができず、〈這い寄る混沌〉はどう考えても必要以上にしっかりと恭司の体を抱きかかえているのだった。

 それについて何か言ってやりたい気はしたが、〈門〉を開ける前のことを考えると、言ったところでこの蕃神が素直に手を離してくれるとは思えない。恭司は自分の足で立てる場所へ移動するまでは、その件については考えないことにした。


「今度はどこだ?」


 〈這い寄る混沌〉は見ずにぼそりと訊ねる。


「〈門〉の別の局面だ」


 先ほどの〈導くもの〉のことなどもう忘れてしまったのか、〈這い寄る混沌〉は気を悪くしたふうもなく恭司の左手を取ると、その薬指にはまっている銀の指輪を何もない空間へと掲げた。

 今は指輪の形をしている銀の鍵が再び鈍い光を放ち出した。光っていても何の熱も感じない。それを見ながら、自分が使うことができない指輪ならいっそ最初からこの蕃神がはめていればいいのにと、恭司は心の中で文句を言った。

 さて、今度はあの〈門〉のように〝開かれた〟という印象は起こらなかった。しいて言えば〝引き裂かれた〟。

 闇の一角に、布に滲んだ汚れのように薄明はくめいが広がったかと思うと、そこから虹色に光る巨大な球体の集まりがこぼれ落ちるように姿を現した。

 それはまるでバルーンの山のようで妙に戯画的だった。だが、それは無機物ではなかった。たえまなく万華鏡のように色を変えながら、こちらに向かって動いていた。


を呼ぶ名は数多いが、そのどれもが正しく、同時に正しくない」


 例の銀の指輪に触れながら、〈這い寄る混沌〉は恭司に囁いた。


「だから、我はここではの名をあえて語らないが……おそらく、おまえはもうわかっているだろう?」


 〈這い寄る混沌〉の言うとおり、すでにいくらかの予備知識のある恭司は、この球体の集積物の正体が何であるかは見当がついていた。確かに、は〈門〉の別の局面であると言えよう。『ダニッチの怪』の中でラヴクラフトは書いている。

 ――ヨグ=ソトース門なれば。ヨグ=ソトース門のかぎにして守護者なり。

 しかし、〈導くもの〉のときは放射された〝意志〟を頭の中で言葉に変換することができたのだが、この存在から何らかの〝意志〟を読みとることは、恭司にはどうしてもできなかった。もっとも、それは向こうに恭司と話をするつもりがまったくないせいなのかもしれなかったが。


「通訳頼む」


 隣の〈這い寄る混沌〉にそっけなく言うと、蕃神は露骨に表情をゆるませた。どんなことでも恭司に頼られると嬉しいらしい。今度、買い出しを頼んだら喜んで行ってくれるかもしれない。もちろん、金も全部蕃神もちで。


「わかった。何を伝える?」

「そうだな……シュブ=ニグラスは、本当にあんたの奥さんなのかどうか……」


 恭司がそう言いかけたとき、〈這い寄る混沌〉の表情が変わった。これは訊いてはまずいことだったのかと怪訝に思ったとき、蕃神は恭司ではなく、虹色に輝く球体の集積物のほうを向いた。恭司にはわからなかったが、ヨグ=ソトースが何か言ったらしい。それも〈這い寄る混沌〉には信じがたいことを。


「違う」


 恭司に気を遣ってか、日本語で、だが強い口調で蕃神は言った。


「そんなことのために連れてきたわけでは……」


 いったい御大は何と言っているのか。恭司が通訳にそう問い質そうとしたとき、何かぬめっとするものが右手に触れた。とっさに手を上げようとしたが動かなかった。すでに恭司の腕はそのぬめぬめとするものに絡めとられていたのだ。

 それは白くて太い捻れたロープに似ていた。ただし、そのロープは生き物のように生温かく、何かゼリー状のものに包まれていて、生ゴミのような凄まじい悪臭を放っていた。つい先ほどまで何の臭いもしなかったのに。

 しかも、ロープはそれ一本だけではなかった。何本も何本もうねくりながら恭司の体を舐めるように巻きついてきて、さらに厭わしいことには、恭司の服の隙間から強引に中へ入りこもうとした。通常入ってはならないところまで。


「何だよ、これ!」


 必死で引き剥がそうとしてみるが、力が強い上にぬるぬるしているので滑ってしまう。せいぜい、口の中にまで入ってこようとするのを顔をそらせて逃げることしかできなかった。


「恭司!」


 これほどあせった〈這い寄る混沌〉の声を、恭司はこのとき初めて聞いた。恭司を抱き寄せると、濡れたこよりのようにロープの束を引きちぎり、その場から離れた。


「……――……!」


 もう日本語を使う余裕もなかったのか、あるいは恭司に知られてはまずいことを言ったのか、〈這い寄る混沌〉は恭司にはわからない奇妙な響きの言葉を、黄緑色の液体を撒き散らしながらのたうつ眼下の白いロープの群れへと吐き捨てた。

 今やあの虹色の球体の集積物はどこにもなかった。かわりに白い巨大ミミズの固まりのようなものが闇の中で蠢いていた。一目見ただけで生理的な嫌悪がこみ上げてくる。思わず顔をそむけると、〈這い寄る混沌〉は心得たように恭司を抱きかかえて跳んだ。

 そういえば、〈旧支配者〉は悪臭がすると『ダニッチの怪』に書いてあった。しかし、必要以上に恭司に触りたがるこの蕃神は、最初から清潔な服の匂いしかしなかった。

 ということは、〈這い寄る混沌〉は〈旧支配者〉ではないのか。それとも、今は人間の姿に化けているからしないだけなのか。恭司にはわからなかったが、この蕃神の存在をこれほどありがたいと思ったのはこれが初めてで、願わくは、これが最後であってほしかった。


「気持ちわりい……」


 自分の足が床らしきものに触れたとき、恭司は思いきり顔をしかめながら、ぬるぬるとする胸のあたりを服で拭った。


「何だよ、あれは? 人間なら男でもいいのか?」


 どうやったのかは知らないが――いや、今はもう何となく想像はつくが――『ダニッチの怪』でヨグ=ソトースは人間の女との間に双子の兄弟をもうけているのだ。


「正確に言えば、人間でなくともよい」


 連れていったのは自分のくせに、〈這い寄る混沌〉は恭司以上に不快そうだった。


「すまなかった。二度とおまえにあのような思いはさせない。我が名にかけて誓う」

「ああ、ぜひそうしてくれ」


 いいかげんにそう答えてから、恭司は改めて周りを見回した。


「ところでここ……俺の部屋……だよな?」


 すぐそばの流し台にも、壁の汚れや傷にも見覚えがある。


「ああ。そうだ……」


 そう答えてから、〈這い寄る混沌〉は自分が土足であることに気づいたらしく、恭司に指摘される前にあわてて靴を脱いで玄関に並べ出した。


「ああ、畜生。ひどい目にあった。シャワー浴びなきゃ駄目だな」


 とにかく、一刻も早くこの臭くてベトベトする体をどうにかしたかった。恭司はその場で服を脱ぎ捨てようとしたが。


「……いつまでそこにいるんだよ?」


 自分を見下ろしている蕃神を、恭司は胡散くさそうに睨んだ。


「もう用は済んだんだろ? 帰れば?」

「え……まあ、それはそうだが……」


 〈這い寄る混沌〉は曖昧に言葉を濁す。どうしてもまだ帰りたくないのだ。その理由を推測するのはたやすかったが、それは恭司にとって愉快なことではなかった。


「これ以上、何の用があるんだよ?」


 恭司の低い声に、蕃神は怯えたように退いた。


「その……本当にすまないことをしたと……」

「そう思ってるんなら、さっさと帰れよ」

「別に、我がしたわけでは……」

「でも、連れていったのはあんただろ」


 もはや〈這い寄る混沌〉に言い逃れの余地はなかった。


「――悪かった。また来る」


 口早にそう言った直後、蕃神は恭司の前から消えた。恭司はしばらく経ってから玄関を見やった。


(あいつ、靴忘れてったよ……)


 だがまあ、〈這い寄る混沌〉なら靴の一足くらいどうにかするだろう。恭司はようやく安心して溜め息をつくと、汚れた服を脱いではゴミ袋の中へと突っこんでいった。

 自分の気のせいではないかと何度も思った。そんなことがあるはずがないとも思ったし、自意識過剰すぎるのではないかとも思った。

 しかし、たぶんもう間違いない。

 あの蕃神は、恭司に対して、好意どころか、それ以上のものを抱いている。

 まだ力ずくでどうにかしようと思われていない分だけ、恭司は救われているのかもしれない。だが、それは裏を返せば、体だけが欲しいわけではないということ。恭司に嫌われたくない。恭司にも自分を好きになってほしい。


(何て面倒な)


 恭司は眉をひそめて風呂場の扉を開いた。ただでさえ面倒は大嫌いなのに、よりにもよってあんな化け物に好かれるとは!

 おそらく、あの蕃神が恭司を訪ねてきたのは、恭司があの本を――今はこの指にはまっている銀の指輪を――持っていたからではない。恭司を訪ねるために、あの蕃神自身が押しつけた。

 きっとあの本は、あの夢の中の古本屋で会った、あの眼鏡の男が持つはずものだったのだ。それをあの蕃神が自分の都合で捻じ曲げた。たぶん、あの眼鏡の男もあのとき殺されている。

 頭から大量の湯を浴びながら恭司は考えていた。

 ――どうすれば、あの蕃神から逃げられる?



 確実にいつもの倍以上はボディソープと時間を使って、ようやく風呂場の外へ出た恭司は、何とはなしに玄関を見て動きを止めてしまった。

 玄関にあったはずの〈這い寄る混沌〉の靴が、いつのまにかなくなっている。


(今度来たとき、何て言ってやろう?)


 頭に被ったタオルの下で恭司は一人笑った。

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