終章

十一時三十九分

 目を覚ますと、闇にのしかかられていた。しばらく宙を眺めてから、ようやくここが自分のアパートの中だということを思い出した恭司は、身を起こした。

 恭司はコタツで寝ていた。天板の上にはノートパソコンが置いてある。手探りでマウスを動かすと、ディスプレイはデスクトップを表示した。

 闇に慣れた目にはパソコンの光でも眩しく感じる。恭司は目を眇めながらハードディスク内をチェックして、予想どおりの結果に溜め息をついた。


(やっぱり、全部消えてやがる……)


 予想どおりでも少しは気が滅入る。しかし、なくなってしまったものをいつまでも惜しんでいられるほど恭司の根気は長くない。ディスプレイの光を頼りに立ち上がると、蛍光灯の紐を引っ張った。

 闇はたちまち消え去ったが、蛍光灯の白い光は強烈すぎた。思わず呻いて自分の両目を覆う。


(くそー、今何時だ?)


 細い指の隙間から、コタツの上に置いてあったアナログの目覚まし時計を睨みつける。

 十一時分。

 レースのカーテンだけが引かれた窓の外は暗いから、間違いなく夜のそれだろう。

 しばらく、恭司は目を覆ったまま立っていた。が、再びコタツの前に腰を下ろすと、パソコンのワープロソフトを起動させ、よどみなくキーを叩きはじめた……


 ***


 この出だしをもう何度繰り返しているかわからない。今では何も考えずに打てるほどだ。だが、毎回出だしを変えてみたところで、まったくの無駄に終わることもわかっている。だから、これを打っているのは「記録に残す」ためではない。俺の「記憶に残す」ためだ。

 俺も今までいろいろ試してはみた。磁気データだから残らないのかと思い、ノートに書いたり、手紙にしたり、それをいろいろなところに隠したり、しまいにはタイムカプセルなんてものにもしてみたり。

 しかし、いつもあの後には、ノートは白紙に戻っていて、書留にしたはずの手紙はいつになっても届かず(そもそも、書留を出した控えさえなくなっていた)、タイムカプセルに至っては、掘り返すどころか掘られた痕跡さえなかった。

 これは奴のミスなのか、それとも故意なのか。俺にはわからないが、記憶が残っていることは奴には言わなかったし、自分が覚えている限り、最初のときと同じことを言い、同じことをした。

 今のところ、経過は少しずつ違うが、結末はいつも同じだ。奴は初めて会ったあの夜から、またやり直そうとしている。今回はなぜか少し早く目が覚めてしまったが、誤差にもならない誤差だろう。いやはや、奴もあきらめが悪い。

 奴は否定するだろうが、しょせん俺はちっぽけなケシ粒のような存在だ。奴さえその気になれば、簡単に消されることもわかっている。

 だが、奴はそんなケシ粒に、ひざまずいてすがるのだ。力でねじふせればいいものを、無理強いは嫌だと柄にもないことを考えて、何度も何度も同じことを繰り返すのだ。

 滑稽だ。そして、同じくらい哀れだ。

 俺には人類を代表して奴と戦っている気などさらさらない。そんなことはどうだっていい。

 これは、俺の意地と美学。奴の思いどおりにされたくないという俺の意地と、あの滑稽で哀れな男を〈這い寄る混沌〉に戻すという俺の美学。それ以上でも以下でもない。

 ――そろそろ、奴がここに来そうだ。

 時刻は午後十一時四十八分。どうせいつかはきれいさっぱり消えるだろうが、一応この文章は保存しておく。折に触れて眺めれば、頭に残すこともできるだろう。

 おっと、今、鍵があいた。とうとう奴が来たようだ。はて、俺の第一声は何だっただろうか。何度も繰り返していても、度忘れすることはある。

 確かなことは一つだけ。

 これでまたしばらくは、退屈せずに済みそうだ。


  ―了―

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