3 深淵
「無事か!?」
空中で恭司を抱き止めた〈這い寄る混沌〉は、吠えるように彼に訊ねた。
恭司の右足に張りついていた灰色の塊はいつのまにかきれいに剥がれ落ちており、二人の上空では、恭司の命令どおりデイパックを両足でつかんでいる始祖鳥が困ったように旋回している。
「無事だ、なんて言いたくもないな」
低くそう毒づけば、蕃神は目をそらせてぼそぼそと言った。
「だからついていこうと……」
「何だって?」
「……何でもない」
〈這い寄る混沌〉は肩をすくめると、深淵の向こう岸――ツァトゥグアのいる側まで、宙を歩いて移動した。
例の灰色の海はハオン=ドルの宮殿も大蛇もすっかり呑みこんでしまっていたが、その先の深淵を前にしてどうしたものかと考えあぐねているようだった。狂っていてもアトラク=ナクアの糸が自分の重さに耐えられるほど頑丈ではないと判断できたらしい。
〈這い寄る混沌〉の足が地面に着いたとき、恭司は当然のように下に下りようとしたが、蕃神はそれを反射的に止めようとした。
「何だよ?」
「いや、その……できればもっと早く呼んでほしかったと」
言い訳にならない言い訳をして、恭司を慎重に地面に下ろす。
「ラフちゃんに悪いから、適当なところであんたを呼ぶつもりではいたんだが。まさか、こんな状況で呼ぶことになるとは思わなかった。……ラフちゃん、こっちにおいで。着陸前に俺にリュックをパス」
心なしか始祖鳥はほっとしたように恭司に向かって飛んでくると、彼の手の中にデイパックを落とし、恭司たちとは少し離れた地点に舞い降りた。
「さすがに穴が開いたか」
デイパックを点検して恭司は呟いたが、どうせ高校時代から使っている安物だ。まったく気にも留めずに再び背中にしょった。
しかし、始祖鳥には自分を責めているように聞こえてしまったようだ。うなだれてしょんぼりしてしまった。
「ああ、ラフちゃん、気にするな。あの場合は仕方ない。おまえは案内役としてベストを尽くした」
あわてて恭司が慰めると、始祖鳥は少し自信を回復したらしく、長い首を上に持ち上げた。
「おまえを危険にさらしておいて、何が〝案内役としてベスト〟だ」
〈這い寄る混沌〉が嫌味たらしく言う。そんな蕃神に恭司は冷ややかな視線を投げつけた。
「そもそも、ここに俺を連れてきたあんたに、ラフちゃんを責められる資格は一ミクロンもない」
「一ミクロン未満か!」
「ナノでもいいぞ」
すげなく答えてから、深淵の対岸に目を凝らす。
ここからだと距離がありすぎて、今どういう状態になっているのかもわからない。ハオン=ドルにはアトラク=ナクアに伝えるように言われたが、あの神とは親しくないし、これから親しくなるつもりもない。消去法により、恭司は隣にいる蕃神を間に介することにした。
「ナイア、ハオさんからアトラク=ナクアに伝言頼まれた。ここにかかってるアトラク=ナクアの〝橋〟を全部壊してくれとさ。……あれに渡られないように」
〝ナイア〟と呼ばれて〈這い寄る混沌〉は一瞬嬉しげな顔をしたが、すぐに不可解そうに眉をひそめる。
「アトラク=ナクアは覚えられるのに、なぜハオン=ドルは覚えられない?」
「申し訳ないが、そこがメジャーとマイナーの差だな」
悪びれず恭司は言った。
「あんた、アブホースが狂ったこと、知ってたのか?」
「アブホースはメジャーなのか。……いや、知らなかった。知っていたら、おまえをあの先に行かせてはいない」
「ということは、ツァーさんも知らないのか」
「ツァトゥグアくらい覚えられるだろう。アブホースよりもメジャーなはずだぞ」
「覚えてるけど言いづらいんだよ。……ハオさんは、何があってもアブホースに深淵を越えさせちゃならねえ、ツァーさんのところまで行かせちゃならねえって言ってたぜ」
「ハオン=ドルは絶対そのようには言っていなかっただろう。……まあ、〝橋〟を破壊するだけなら、アトラク=ナクアにさせずとも、我にもできるがな」
「どうやって?」
純粋な興味から訊ねると、〈這い寄る混沌〉は無造作に自分の足元を指さした。と、深淵の縁にしっかりと接着されていたアトラク=ナクアの灰色の糸が、その縁ごと音を立てて深淵に落下していく。
それを皮切りに、アトラク=ナクアの〝橋〟の端を破壊する見えない力は左右へと広がっていき、蜘蛛の神の努力の結晶を容赦なく無に帰していった。
どこか遠くで甲高い悲鳴が上がった。その悲鳴の主の想像はついたが一応待ってみると、深淵の縁にそって黒い巨体が走り寄ってきた。
「使者殿!」
ただでさえ高い声が動転のあまりさらに高くなっていた。ここまでくると音響兵器だ。恭司は自分の両耳に指で栓をした。
「いったい何事ですか!? 私めの橋が! 橋が!」
「ハオン=ドルの遺言だ」
恭司とは耳の構造も違うのか、〈這い寄る混沌〉は泰然と答える。
「アブホースが狂って、地下から這い上ってきた。ハオン=ドルは奴に呑まれる前に、せめて深淵を渡られぬよう、おまえに〝橋〟をすべて壊せと伝えてくれと言い残したそうだ。だが、壊すだけなら我にもできる。こういうことは一刻も早く対処したほうがよかろう」
「アブホースが狂った?」
〈這い寄る混沌〉だけでなく、アトラク=ナクアもそのことを知らなかったようだ。
「いったい、どうしてまた?」
「さあ。それは我にもわからぬが。とにかく、おまえはもうここに〝橋〟はかけるな。たった一つでも〝橋〟があれば、奴は試行錯誤して、そこを渡ろうとするだろう」
「しかし、ここに橋をかけるのが、私めの永遠の仕事です!」
突然にして失職してしまった蜘蛛の神は悲痛な声を上げた。
「こうなっては仕方あるまい。場所替えしろ。ここ以外にも〝橋〟をかけられる地はいくらでもあるだろう」
そっけなく答えると、〈這い寄る混沌〉は深淵に背を向けた。
茫然自失状態のアトラク=ナクアに同情しつつも、恭司は蕃神に話しかける。
「ハオさんは、アブホースが自分で〝橋〟をつくっちまうんじゃないかって心配してたけどな」
「まあ、その可能性もなくはないだろうが……」
〈這い寄る混沌〉は皮肉めいた笑みを浮かべて、〝橋〟の消えた深淵をわずかに振り返った。
「奴はそれより、この深淵を埋めつくそうと考えるのではないかな」
「埋めつくす?」
「この深淵の中にも、奴が食えるものはある。ただし、こちら側に渡れるほど膨れ上がるには、途方もない歳月が必要となるだろうが」
「もし、そのときが来たらどうするんだ?」
「そのときはそのときだ」
〈這い寄る混沌〉は簡単にそう言い放つと、いきなり恭司の左手を握った。
「では、恭司。もう帰ってもいいな?」
「え? ツァーさんに事情説明とか挨拶とかしてかなくていいのか?」
「いい。どうせまた寝ているし、事情説明ならそこの〝蜘蛛〟がするだろう」
「じゃあ、ラフちゃんに別れの挨拶を」
「もっとしなくていい」
蕃神は不愉快そうな顔をしたが、恭司はかまわず始祖鳥のほうに右手を伸ばす。
「ラフちゃん、案内ありがとな。おまえは案内役としていい仕事をした。自信を持て」
「まだ言うか!」
〈這い寄る混沌〉は強引に恭司を抱き寄せてその場から消え去った。
始祖鳥ラフトンティスは、一つしかない目で、二人が消えた後をしばらく見つめていた。が、体を反転させると、ツァトゥグアの洞窟がある方向へ飛び立とうとした。
「待て!」
はっと我に返った蜘蛛の神が元使い魔を呼び止める。
「我をツァトゥグア様のところまで案内しろ!」
舌打ちこそしなかったものの、ラフトンティスは明らかに不快そうにアトラク=ナクアを見やり、ついてこられるものならついてきやがれとでも言うように、空中高く舞い上がった。
「ツァトゥグア様! ツァトゥグア様!」
久方ぶりに古なじみの鋭い声を耳にして、巨大な黒い蟇蛙はまどろみから目を覚ました。
「……アトラク=ナクアか。おまえが深淵を離れるとは、いったい何があった?」
「は、はい……」
よほど急いで走ってきたのか、蜘蛛の神は激しく息を切らせている。
その後方では、ラフトンティスがそしらぬ顔でそっぽを向いていた。
「実は、アブホースが……」
〈這い寄る混沌〉に言われたことをそのままアトラク=ナクアが伝えると、ツァトゥグアは数秒の沈黙の後、ぼそりと言った。
「〝大掃除〟で出たゴミを食わせたりするからだ」
「は?」
「いや、何でもない。……そうだな。あやつの言うとおりだ。おまえはこれから別の場所で巣をつくるしかあるまい」
「しかし、いきなり別の場所と言われましても……」
「それなら、あの深淵に通じる洞窟すべてに巣を張れ」
「洞窟に……ですか?」
「そうだ。いつの日か、アブホースがあの深淵を渡ってこちら側へ来たときのために、奴に破られぬような強固な巣を何重にもつくれ」
「承知いたしました。……しかし、もし万が一、破られたときには……?」
不安げな蜘蛛の神の問いに、ツァトゥグアはあっさり答えた。
「そのときはそのときだ。……暇つぶしに、我が相手をしてやろう」
***
闇に慣れた目に戸外の光は眩しすぎた。
恭司が顔をしかめると、〈這い寄る混沌〉が心配げに「大丈夫か?」と声をかけてきた。
「大丈夫。すぐに慣れる」
無愛想にそう答えながら、恭司は片目で周囲を見渡した。
すぐそばには古びたベンチがあり、木々の向こうには薄汚れた校舎の壁も見える。
「ここ……さっきのとこか?」
「ああ、そうだ。時間もな」
思わせぶりに笑われて恭司は怪訝に思ったが、はっと気づいて自分の腕時計に目をやった。
「これなら、サボれない講義とやらにも間に合うだろう?」
蕃神が得意げに恭司の耳許に囁く。
「今後はおまえの都合に合わせる。……本当に悪かった」
そう言い残して、〈這い寄る混沌〉は消えた。
(……悪化したな)
恭司の都合というより、機嫌を気にするというところが特に。
でもまあ、ありがたいことは確かだ。恭司は軽く嘆息してから、校舎に向かって走り出そうとした。
「沼田」
だしぬけだった。無視することもできたが、その声の主を知っていたから、足を止めてしまった。
「久しぶりだな」
火野克彦はそう言って笑った。
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