2 不浄の海

「おーい、ラフちゃーん」


 恭司がそう呼びかけると、それが今は自分の名前だと大人な割り切りをしてくれているのか、元使い魔の始祖鳥はすぐにUターンして恭司の前に着地した。


「悪いけど、飛んでる鳥の後を追っかけてくのは疲れるからさ。このリュックの上に留まっててくれる?」


 それでは道案内にならないだろうと一つ目の鳥は突っこみたかったに違いないが、恭司の要求にはどんなに理不尽に思えても従うように命じられているのか、飛び上がって彼の背中のデイパックの上に留まった。


「おう、さすがに重いな」


 恭司は顔をしかめたが、肩に直接留まられたら、重いどころか爪で穴を開けられそうだ。だが、恭司が一言そう呟いた瞬間、急にデイパックが軽くなった。

 驚いて背後を振り返ると、猛禽類ほどの大きさがあった始祖鳥が、鳴き声どおりカラスくらいにまで縮小していた。


「体の大きさ変えられるのか。便利だな、ラフちゃん」


 返事のつもりか、〝ラフちゃん〟はカラスに似た鳴き声をまた上げた。


「ラフちゃんは、ここで道案内のバイトでもしてるのか?」


 問われても人語を話せない始祖鳥には答えようがない。それでも鳥なりに何とか返答したいと思ったのか、恭司の顔の前に右翼を広げると、そこについている指を器用に左右に振ってみせた。


「違うのか」


 思わず恭司は笑ってしまった。気まぐれに話しかけただけなのに健気である。自分のアパートがペット可だったら引き取りたい――もう主はいないそうだし――とさえ思った。

 しかし、この始祖鳥のエサは何なのだろう。もしあの〝黒い蟇蛙〟と同じだったら、恭司には入手不可能だ。いや、放し飼いにすれば自力で入手してくるかもしれないが、それでは飼っているとは言えないだろう。


「じゃあ、俺がこの奧に行きたいって言ったから、あいつにタダ働きさせられる羽目になったのか。……悪かったな。俺は単にあいつがうざかっただけなんだけど」


 さすがにこれには回答しにくかったらしく、始祖鳥は何の反応もしなかった。


「おっと、ラフちゃん、分かれ道だ。左と右、どっちが安全だ?」


 始祖鳥は迷わず左翼を上げて指でさした。


「左か。……途中に宝箱とかあったら面白いけどな。でも、ここにある宝箱の中身って、みんな呪いのアイテムっぽいよな」


 恭司は独りごちると、うざくない道案内の指示に素直に従った。

 その後も同じことを何度も繰り返し――分かれ道が五つ以上あったときもあった――恭司たちは岸辺の見えない深い割れ目の縁へとたどりついた。

 縁に近寄ってみると、灰色をしたロープほどの太さの糸が幾重にも交差して網の目を作っている。巨大すぎるが明らかに蜘蛛の巣だった。しかも、その巣はいくつもあり、それぞれ間隔を置いて深淵全体にはりめぐらされている。

 そのとき、恭司の背中にいる始祖鳥が誰かを呼ぶように鳴いた。と、巣のどこからか、蜘蛛にしては大きすぎるものが糸の上をすばやく渡ってこちらへとやってきた。

 それは人間ほどの大きさのある漆黒の蜘蛛だった。だが、その蜘蛛は人間のような顔を持っており、その狡猾そうな小さな目は丸く毛に縁どられていた。


「それが〝客〟か」


 事前に連絡を受けていたのか――もしかしたら、ツァトゥグアも受けていたのかもしれないが、どうでもよかったのだろう――〝人面蜘蛛〟は耳に突き刺さるような甲高い声で言った。驚いたことにツァトゥグアと同様、完璧な日本語で。


「どうも。初めまして」


 一応〝神様〟には違いないので恭司は会釈したが、ツァトゥグアに対するときよりは控えめにした。


「我の橋を渡りたいのか?」


 蜘蛛の神アトラク=ナクアは、にやにやしながら恭司を眺め回した。


「できれば」

「では勝手に渡るがいい。案内はその始祖鳥がするだろう。我は橋をつくるのに忙しい」


 働き者らしい神は――そこはツァトゥグアとは大いに違うらしい――口早にそう言い捨てると、また巣の上を走って消えてしまった。


「渡れと言われてもな……」


 吊り橋ならともかく、手すりもない蜘蛛の巣の上を渡れというのは、命綱なしで綱渡りしろというのも同然である。

 恭司の困惑を見てとったか、始祖鳥は舞い上がって体の大きさを元に戻すと、羽ばたきながら恭司の前に鋭い爪の生えた足を差し出した。


「つかまれって言うのか?」


 そう訊ねると、そうだと言うように始祖鳥が鳴く。


「ラフちゃんは親切だな」


 感心して恭司は始祖鳥の太い足首を右手でつかんだ。体温のある木の枝のような感触がした。恭司がしっかりつかんだのを確認してから、ゆっくりと深淵の上を飛びはじめる。

 アトラク=ナクアの糸は強靱だったが、糸と糸の間には底知れぬ闇が広がっていた。高所恐怖症ではないものの、立ち止まって真下を覗く気にはとうていなれなかった。

 何はともあれ、親切な始祖鳥のおかげで恭司は無事深淵を渡りきれた。我知らず安堵の溜め息を吐き出すと、始祖鳥は再びカラスサイズに戻り、恭司のデイパックの上に留まった。


「ラフちゃん、ありがとう。帰りはいいよ」


 始祖鳥は不思議そうに頭をかしげたが、それは恭司には見えなかった。


「ええと……〝蜘蛛〟の次に呪いをかけたのは誰だったっけかな……」


 そう呟く恭司の前には、灰白色かいはくしょくの岩でできた堅牢な階段があったが、その階段を少し上ったところでは、斑模様のある巨大な蛇がとぐろを巻いていた。

 恭司に気づいた蛇は威嚇しかけた。が、始祖鳥が長い首を伸ばして眼を飛ばすと、すごすごと階段の脇に退いていった。この始祖鳥に案内されたものは通せと主人に命じられているのか。それともこの始祖鳥が苦手なのか。恭司にはわからなかったが、とにかくこの案内役に再び感謝した。

 階段を上りきると、やはり灰白色の岩をくりぬいて造られたと思しき、やたらと柱の数の多い宮殿が現れた。先ほどの蛇のような〝門番〟はいなかったため、そのまま中へと侵入する。

 入り口を入ってすぐに広間があった。グロテスクな怪物の彫像が立ち並ぶ中を、煙と霧でできた顔のない何物かがあちこちで不安げに揺れ動いていたが、恭司たちに襲いかかってくるようなことはなかった。


「ラフちゃん。……どっちだ?」


 広間の出口でまた訊ねる。始祖鳥はやはり迷いなく行き先を指で示した。

 その指示どおり、迷路のような部屋部屋を通り抜けていく。と、ひときわ天井の高い一室へと至った。

 円形をした部屋の中央には、五本の高い円柱に支えられている椅子だけがあり、その椅子には闇に身を包んだ人影らしきものが座っていた。始祖鳥が恭司の来訪を知らせるように一声鳴く。その余韻が完全に消え去ってから、椅子の上のものはようやく口を開いた。


「この先には、もう進めぬ」


 日本語ではなかったが、意味だけはなぜか理解できた。声からして男には違いなさそうだったが、これが誰だったか、恭司はいまだに思い出せずにいた。ということは、先ほどのツァトゥグアやアトラク=ナクアよりもマイナーな存在なのだろう。

 しかし、ここで名前を問うのも失礼かと珍しく殊勝なことを考えた恭司は、ひとまず進めない理由を訊ねてみた。


「なぜ?」

「アブホースが狂った」


 皮肉なことに、その〝アブホース〟については少しばかり知っていた。

 宇宙の不浄すべての母にして父。いとわしい分裂をとこしえにおこなっている粘着質の湾。


「何でまた」


 ついそう言うと、恭司には名前のわからない存在はかすかに笑ったようだった。


「わからん。何か毒でも食らったかな。とにかく、奴は今、すべてを貪り食らいながら、分裂することなく地上をめざしている」

「……じゃあ、この先は……」

「そうだ。……奴に呑まれた」


 人影は今度は苦笑したようだ。


「アルケタイプも、我が盟友蛇人間も、あれに呑まれた。蛇人間は自分たちの科学力であれを封じこめると高をくくっていた。……知恵を誇るものは知恵に溺れる」


 この先にいたのは、蛇人間、アルケタイプ――とは何だったか覚えていないが――そしてアブホースだったかと思いながら、今いちばん知りたいことを訊ねる。


「ここは? 大丈夫なのか?」


 人影の苦笑がさらに深まった――ように恭司には思えた。


「ここもじき呑まれるだろう。我が使い魔どもに奴を食いつくさせようと試みたが、貪欲さでは奴のほうがはるかに上だったようだ」

「なら、早くここから逃げ出さないと」


 いざとなればいつでもあの蕃神を呼び出して逃げられる恭司は、彼にしては親身に言った。


「いや。……私はここから動けない」


 そう答える人影の声に、なぜか悲愴感はなかった。


「どうして動けない?」

「妖術師ハオン=ドルなるがゆえに。ハオン=ドルなれば、ここ以外に居場所はない」


 期せずして人影に自己紹介をしてもらえたが、その名前を聞いても恭司にはまったくぴんと来なかった。


「だが、たとえここが呑まれても、ここより先にはあの深淵がある。アトラク=ナクアがすべての巣を壊せば、奴に渡られることはないはずだが。……奴がアトラク=ナクアのような巣を作る知恵を持たなければ」

「希望的観測だな」

「ここから動けない私には、そう願うより他はない」


 ハオン=ドルは自嘲まじりの口調でそう言うと、足元にいる恭司を見下ろした――ように思えた。


「我が生涯最後の客人よ。元来た道を今すぐ引き返せ。おまえに知らせたことで、私の魔力は急速に衰えつつある」

「……俺はここには来ないほうがよかったのかな」

「いや、もう終わりたいと思っていた。おまえの訪問に感謝する」

「俺も常々終わりたいと思ってるんだけど」

「いつかはおまえも終われるだろう。だが、それはここではなく、今でもない」


 部屋の壁が不吉な軋みを上げた。そのとたん、始祖鳥は恭司のデイパックを鷲づかみならぬ始祖鳥づかみにして一気に巨大化した。


「ちょ、ラフちゃん! 走るから! 俺、自分で走るから!」

「おまえが自分の足で走るより、その始祖鳥に運んでもらったほうが早い」


 あわてている恭司を見て、ハオン=ドルは笑ったようだった。


「今した話をアトラク=ナクアに伝えてくれ。……何があっても奴に深淵を越えさせてはならない。ツァトゥグア様のところまで行かせてはならない……」


 ハオン=ドルがそう言いかけたとき、宮殿全体が音を立てて揺れ動いた。肩ごしに恭司が振り返ると、壁に大きく走った亀裂の隙間から灰色の塊が見えた。


「行け!」


 ハオン=ドルの絶叫を合図に、始祖鳥は円形の部屋を飛び出した。

 壁の崩れる音がした。だが、始祖鳥の飛ぶスピードがあまりにも速すぎて、まともに目を開けていられない。始祖鳥が行きと同じ道を飛んでいるのかもわからなかったが、恭司たちの後を追うように、次々と部屋が破壊されていっていることだけは確かだった。

 始祖鳥はあの広間をまっすぐに突っ切り、その勢いのまま宮殿の外へ出た。おそらく、そのまま深淵を飛び越えていくつもりだったのだろう。しかし、右足を引っ張られたような気がして、恭司が宙に浮いた自分の右足を見てみると、灰色の細い触手に巻きつかれていた。


「ラフちゃん! 俺のリュック、絶対に離すなよ!」


 近年にないほど声を張り上げて、恭司はデイパックの背負い紐から自分の両腕を引き抜いた。いきなり軽くなったので驚いたのだろう、始祖鳥が長い首を曲げて、落下していく恭司を見ていた。

 眼下は一面、灰色の海のようになっていた。その海のいたるところで、たえず何かが形をなしかけては崩れ、海の一部に戻っていく。だが、恭司の右足をつかんでいる触手だけは形を失うことはなく、それどころか、見る間に太さを増して彼の右足全体を呑みこもうとしている。

 生温かいそれを、なぜか恭司は不快には思わなかった。が、ふとハオン=ドルの最後の言葉を思い出し、捨て鉢になって叫んだ。


「ナイア! 助けたかったら助けやがれ!」

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