第4章 炎魔消失《えんましょうしつ》

1 開門

「あれは、誰だ?」


 数日ぶりに会った火野は、ことさらにゆっくりと訊ねてきた。

 その両手は黒い革ジャンのポケットに突っこまれていたため、例の右手がどうなっているのか、恭司にはわからなかった。


「誰だって……誰が?」


 そうとぼけると、火野はまるでその答えを予想していたかのように苦笑いした。


「今さらごまかすなよ。俺、最初から見てたんだ。……あの黒ずくめの、でかい外人は誰だ?」

「ああ、あれか。……何でもないよ」

「何でもないことはないだろ。どういう知り合いだ?」

「どういう知り合いって言われてもな……」


 本気で恭司は困った。まさか正直に〝あれは〈這い寄る混沌〉と呼ばれる化け物で、ある夜、突然自分のアパートに押しかけてきた〟と答えるわけにもいくまい。

 だが、すぐにうまい言い訳を考えるのが面倒になってきてしまった恭司は、どうせなら思いきりいいかげんなことを言ってやろうと無責任なことを考えた。


「実は……あれは変質者なんだ」


 わざと声を潜めてそう言うと、火野はあっけにとられたように恭司を見つめ返した。


「変質者?」

「ああ。俺に一目惚れしたって言って、最近ずっと付きまとわれてるんだ。俺は嫌だって言ってるんだけど」

「そうか」


 意外なことに、火野は恭司の質の悪い冗談――しかし、限りなく真実に近い冗談――を否定しなかった。


「いつかそんなことになるんじゃないかって心配してたけど、ほんとにそうなったわけだ……」

「……火野?」

「少し、話をしないか?」


 火野は自分のそばのベンチを顎で指した。


「一回くらい欠席しても、何とかなるだろ?」


 そう言いながら、恭司より先にベンチに腰を下ろす。火野の両手は相変わらずポケットに入れられたままだ。


「……いい天気だな」


 雲一つない青い空を見上げて、今さらのように火野は言った。


「こういうのを小春日和っていうんだろうな。――どうした? 座れよ」


 火野に促されて、恭司はようやく彼の右隣に座り、デイパックを自分の右横に置いた。


「なあ、沼田」


 空を見上げた格好のまま、火野は話しつづける。


「あの変質者は、おまえに何をしてやると言った?」


 恭司は少し考えてから答えた。


「俺の望むことなら、何でもしてやると言ったな」

「おまえは、何を望んだ?」

「安楽死」


 弾かれたように火野が笑う。そんな彼を一瞥はしたが、恭司の表情は特に変わらなかった。


「そうか。まったくおまえらしい。でも、あいつはさぞかし驚いただろうな?」

「ああ。信じられないって顔してた」

「だろうな。でも、結局は叶えてやるって言ったんだ?」

「言った」

「そうして、おまえにその指輪を渡した?」


 恭司はしげしげと火野を見た。火野のサングラスは空を映したままだ。


「いや。それは本来、指輪の形はしていない。最初は鍵か本の形をしていたはずだ。しかし、左の薬指ってなあ……心底同情するよ」

「火野……おまえ、本当に〝火野克彦〟か?」


 火野はようやく空を見るのをやめて、恭司に向き直った。


「ああ。入学式のとき、おまえに会場はどこだって訊いた〝火野克彦〟だよ」

「じゃあ、そうなのか」

「そう。だ。でも、俺は最後まで、おまえの前では〝火野克彦〟でいるつもりだった。おまえに何かしようと思って声をかけたわけじゃない。それだけは信じてくれ」

「わかった。それは信じる。でも、どうなんだ?」


 わずかだが、火野は肩を震わせ、恭司から顔をそらした。


「あれから……おまえと別れてから……俺はその指輪を外す方法をずっと調べてた」


 火野のサングラスは、今度は落ち葉の散らばった地面のほうを向いていた。


「結局、わかったのは、外すのは不可能だってことだけだった。もし、おまえが本当にあれから逃れたいと思ってるなら……」


 火野は一瞬ためらった後、自分のすぐ横にある、恭司の左手に目を落とした。


「その指を……いや、その左手を、指輪ごと切り落とすしかない」


 恭司は自分の左手を眺めた。恭司は右利きだ。左手がなくても、箸やペンは使えるが。


「兄貴が泣くなあ……」

「また兄貴か。本当にブラコンだな」


 つかのま、呆れたように火野は笑った。

 作家志望だが、生活のために会社員をしている恭司の兄は、難産の末に生まれた恭司を異常なまでに可愛がっている。三十を過ぎても結婚する気がまるでないのは、恭司から離れたくないからだと本気で周囲に言われているくらいだ。そして、この兄とも両親ともなぜか顔がまったく似ていない恭司は、実は養子じゃないかともよく言われる。

 そんな兄を疎ましく思うときもないではないのだが、それでも両親以上に自分の面倒を見、大学の学費も全部出してくれている兄は、絶対に悲しませたくない唯一の存在だった。


「俺だって、おまえにそんなことはしたくない。だから、ずっと迷ってた。でも、おまえがそれを持っている限り、あいつはどの時空からでもおまえを探し出せるんだ。……どうする? 今のおまえなら、俺の話がデタラメじゃないってわかるだろ?」

「ああ、わかるよ。でも……」

「兄貴を泣かせたくないんだろ? ――実を言うと、腕のいい医者と出来のいい義手に当てがあるんだ。もちろん、元どおりとはいかないが、おまえの兄貴には義手だとわからないはずだ。金も全部俺が出すよ。おまえに辛い思いは絶対にさせないから……」

「なあ。一つ訊きたいんだけど」


 自分の左手を撫でながら、恭司は火野を遮った。


「もし、おまえの言うとおり、この左手を切り落としたら……この手はいったい、どこに行くんだ?」


 火野は軽く口を開けたまま凍りついた。それを横目で見ながら、恭司はさらに言葉を連ねる。


「そういやおまえ、この指輪をえらく欲しがってたよな。俺はこんなもん、どうだっていいんだけど、この左手はけっこう気に入ってるんだ。ところで、おまえの右手。あれからどうなった?」


 火野は苦く笑った。かなわないなとでもいうように。少しずれはじめてきたサングラスを、ポケットから出した左の人差指で押し上げる。


「いいなあ、沼田。やっぱりおまえ、最高だよ。さすが、会場がわからなきゃ行かなきゃいいって答えた男だ。なら言うが、俺だってほんとはそんな指輪なんかどうだっていい。そんなもののために、おまえに傷一つだってつけたくはない。でもな。俺のがそれを欲しいと言う。それがあれば何もかもが手に入ると言う。俺もやっと自由になれると思ったんだ。でも、重大なことを忘れてた。それは今は指輪の形をしてるが、本来は〝鍵〟なんだ。どんな〈門〉でもこじ開けちまう。〈門〉にその気はなくてもな……」


 熱に浮かされたように話しながら、火野はついにポケットから右手を出した。

 何もなかった。

 ただ、革ジャンの袖口が垂れ下がっているばかり。


燃やされたんで、切り捨てちまった」


 何でもないことのように火野は言い、袖口を引き上げて恭司に見せた。

 ちょうど手首から先がなくなっており、その切断面は炭のように黒くなっている。何か外科的な処置をしなくてはいけないのではないかと恭司は思ったが、火野は平然とした様子でまた袖口を元のように戻した。


「おまえこそ、その出来のいい義手が必要なんじゃないのか?」


 嫌味もこめて言うと、さすがに火野はばつが悪そうに笑った。


「確かにな。でも、俺じゃつけても、すぐにまた燃えちまう……」


 革ジャンの上から右手首を握りしめて呟く。


「沼田……ほんとに俺はおまえを苦しめるつもりはなかったんだ……そんなつもりでおまえに声をかけたんじゃない……でも、どうしても最後におまえに会いたくて……だから――」


 火野は自分の右手からゆっくりと手を離すと、恭司が自分の膝の上に置いていた左手を強引につかんだ。


「……逃ゲロ」


 それが〝火野克彦〟であったものが最後に発した、矛盾に満ちた一言だった。

 いや、もしかしたら、その一言だけが恭司の知る〝火野克彦〟の言葉だったのかもしれない。

 火野の左手が、恭司の左の薬指――あの銀の指輪に触れた瞬間に、火野の体中から炎が噴き出し、恭司に襲いかかってきた。


「ナイア!」


 恭司がそう叫んだとき、火野の顔からサングラスがずり落ちた。今まで一度も見たことがなかった火野の目には、眼球のかわりに炎がはめこまれていた。


「恭司?」


 十分ほど前に立ち去ったばかりの黒い影が再びそこに出現したのは、恭司がその名を呼んでからわずか一秒足らずのことだった。

 だが、その間に恭司は炎に呑みこまれ、火野であったものの中へと引きずりこまれてしまっていた。〈這い寄る混沌〉の前にあったのは、恭司の黒いデイパックと、ベンチに座ったままの姿勢で燃えている黒こげの人間の死体だけだった。


「頼むから、もっと前に呼んでくれ、恭司」


 蕃神は小さな声でぼやくと、指を一つ鳴らしてその場から消えた。

 ベンチの上のデイパックと焼死体と共に。

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