2 魔王

 〝夜護洲古書〟は、変わらずそこにあった。

 ただ、以前は開けっ放しになっていた入り口の扉が今は閉ざされ、店の周りには空虚な闇しかないことを除けば。

 〈這い寄る混沌〉は性急に扉を開けた。店内は変わっていなかった。整然と並ぶ古書の背表紙。店主はおらず、客も見当たらない。蕃神はかすかに顔をしかめたが、奥へ向かって歩き出した。

 迷いはなかった。間違えるはずがなかった。だが。

 奥まった書棚の一角に、それはあった。


「……馬鹿な」


 呆然と、〈這い寄る混沌〉は呟いた。

 その視線の先にあったのは、金の五芒星の箔押しのある黒い背表紙。

 蕃神は戸惑いながらも、その本を書棚から引き出した。やはり黒い表紙にも金の五芒星がある。

 と、本は〈這い寄る混沌〉の手を離れて空中高くに浮き上がった。つられて見上げると、本は本にあるまじき振る舞いをした。

 しゃべったのだ。


『伝言だ。遺言でもいいけど』


 本は恭司の声で楽しげに告げた。


『一回飛んで、そこでまたこれを飛ばしたんだ。そうしたら、おまえはもう俺を見つけ出せない。おまえのルールに従えば、そうなるだろ? おまえにはあえて言わなかったけど』


 黒い本を見つめたまま、蕃神は動かなかった。


「恭司……」


 唇だけは、そう動いた。


『さよならだけが人生だ。約束どおり本は返すぜ。ちゃんとあの男に渡せよ』


 それきり。

 本は沈黙した。


「……恭司……」


 震えながら――そう、震えていた――〈這い寄る混沌〉は本に手を伸ばし、自分の懐深くに抱えこんだ。まるでそれが恭司自身であるかのように。


「どうして……恭司……恭…司……キョ…ジ……」


 呟くはしから、それまで完全な人型をとっていた蕃神は崩れていき、闇に埋もれていく。

 もう、その姿も意識も保つ必要がなかった。

 恭司がいない。恭司を見失った。恭司に……拒まれた。


(何ガ魔王ダ……何ガ支配者ダ……本当ニ欲シイタッタ一ツヲ手ニ入レラレヌノカ……)


 それは他者への怒りであり、自己への嘲りであった。


(〝我〟ハモウ動カヌ……何モ見ヌ……何モ聞カヌ……ソノママイツマデモ餓エテ齧リツヅケテイレバイイ……)

(ソレハ困ル)

(困ル)

(ル)

(知リタイ)

(知リタイ知リタイ)

(……リタイ)

(…………)

(シカトシカト)

(ドウスル?)

(スル?)

(探ス探ス……作ル?)

(探セ探セ探セ)

(呼ベ呼ベ呼ベ)


 闇の玉座から発せられた勅命に、何かが応え、身動ぎした。


 ――門の鑰にして門の守護者。ただちにあれを探し出し、ここへ導け。……おまえも、あれを気に入っているだろう?


 ***


 眼前に広がっていたのは、地平線まで続く草原だった。その上を、清涼な風が吹き渡る。

 緑は好きだった。澄みきった青い空も。流れる白い雲も。

 だから、それらに不満はなかったのだが、ここがどこで、どうして自分がいるのかは、恭司には皆目わからなかった。


(たぶん、これは夢だな)


 簡単にそう片づけて、それなら少し歩き回ってみようと一歩踏み出そうとしたとき。

 誰かに呼び止められたような気がして、恭司は足を止めた。


(誰だ?)


 だが、振り返ってみても誰もいない。気のせいかとも思ったが、夢の中で〝気のせい〟というのも妙な話だ。しょせんは自分の意識の中でのことだろうに。

 苦笑いして前に向き直った彼は、しかし、何かを感じて空を見上げた。

 気のせいではなかった。

 空を突き破って、あの白い触手が蠢いていた。


 ――見ツケタゾ。〝沼田恭司〟。


 それは音声ではなかったが、頭の中に直接響いた。


 ――我ラガ王ガ呼ンデイル。来タレ。来タレ。来タレ。


(しゃべれたのか、エロオヤジ)


 恭司がそう思ったとき、足元が傾いた。

 反射的に下を向くと、やわらかな青草は闇に蝕まれていた。


 ――心配ない。、おまえの精神を害することはない。


 それもまた音声によるものではなかったが、〝エロオヤジ〟とは別の存在であることはなぜか恭司にもわかった。

 闇は瞬く間に疫病のように緑や空を食んでいき、ついには世界すべてを呑みこんだ。

 闇だった。小さな星の光一つない、圧倒的な闇。

 だが、そこで巨大な何かがたゆたっているのを恭司は感じていた。


 ――初めまして、と言うべきか。我はすでにおまえを知っているが。


 不可視のそれは、おどけたように恭司に挨拶した。


(待てよ。何であんたとまともに会話できるんだ?)


 恭司は思わずそう返した。


(〝白痴の魔王〟であるあんたと?)


 ――〝使者〟が役目を放棄したからだ。その間だけ、我の意識は一つに統合される。もっとも、今回のようなケースはこれが初めてだが。


(役目を放棄。……人間風に言うと、辞職した?)


 ――いや、〝死んだ〟と言ったほうが近いな。おまえに会った、あの〝使者〟は滅した。


(……でも、必要とあれば、あんたは何度でも、何人でも作り出せるんだろ? いっそずっとそのままでいればいいのに。何でわざわざ白痴になるんだ?)


 窮極の混沌の中心から、時空のすべてを支配する〝盲目にして痴愚の神〟。

 〈這い寄る混沌〉を使者とする、ラヴクラフトの〝神話〟の真の主神アザトースは、さも当然のことのように答えた。


 ――つまらないだろう。……最初から、わかるなんて。


(そりゃそうだ)


 恭司は感慨深くうなずく。


(そりゃつまらない。狂ったほうが楽だ。魔王様。あんたにとっては正気と狂気、どちらが夢だ?)


 ――どちらも夢だ。だが、夢見ることをやめたいと思ったことはない。おまえはどうだ? 沼田恭司。


(正直……俺にはどこからどこまでが夢なのかわからない。あんたに訊けば、全部わかるんだろうが……あえて訊きたくないな)


 ――それがよい。もともと夢も現実も大差はない。どこであれ、おまえはそこにある。


(慰めありがとう。でも、もう俺に完璧な〝終わり〟をくれないか。あんたなら、俺の気持ちはよくわかるはずだろ?)


 ――わかる。だが、我にはまだ見残した夢がある。虚無より生まれ、虚無に還る者よ。今しばし、に付き合え。


(付き合えって……)


 そう言いかけた恭司の手の下で、ふと硬い感触がした。

 平らで革のような。どこかで何度も触れたような。

 恭司は顔をしかめながら、嫌々自分の手の下にある物を見た。


 ――今一度、それをおまえに渡す。だが、今度はどこへ飛ばしても、すぐにおまえのところへ戻ってくる。不満だろうが、今はそれを手放さぬがよいぞ。に呑まれたくなければな。


「裏切り者……」


 恭司が声に出して罵ったとき、凪いだ闇の海が小波を立てはじめた。


 ――何を言う。おまえが望んだのではないか。作り出せると。さらばだ。虚無の王。またまみえる日を楽しみにしている……


 海はしだいに荒さを増し、恭司は苦々しく思いながらも、手の下にある平らで黒くて硬い物――魔道書『死霊秘法』を拾い上げようとした。


「呼んだな。〝私〟を」


 闇の渦の下から伸ばされた浅黒い大きな手が、恭司の右手をしっかりとつかんでいた。聞こえないはずの声は歓喜に満ちあふれている。


「呼んじゃいないが……滅ぼそうとは思ってなかった」


 ふてくされてそう答える恭司を、波間から姿を現したものは両腕で強く抱きしめた。


「恭司恭司恭司恭司恭司……」

「寿限無かよ」


 呆れた恭司の体が急に浮き上がった。あわてて本をつかみ直す。持ちにくいなと思った瞬間、本はもう鍵の形に変わっていた。

 改めて気づく。今、自分が相手の肩に担ぎ上げられていることに。


「何だよ、これは」

「もう触れぬほうがよい」


 元の人型を取り戻した〈這い寄る混沌〉は、恭司を担いだまま宙に浮いていた。


「鍵がなければ、目にしただけでも気が狂う。今のおまえには、あれは渦としか認識できないだろうが」

「自分の主にあれはないだろ、あれは」


 狂える魔王の肩をつい持つと、蕃神はかすかに首をかしげた。


「主? あれが?」


 蕃神は笑っているようだった。


「違うのか?」

「違うな」

「そりゃ失敬。じゃあ、誰に仕えてるんだ?」

「おまえだ」

「……何だって?」

「おまえだ。沼田恭司。おまえだけが私の主。私の〝神〟だ」

「何言って……」


 しかし、〈這い寄る混沌〉はもう何も答えず、恭司を担ぎ上げたまま、どこかへ向かって歩き出した。

 ほんの数歩で狂気の渦が遠くなる。同時に、どこからかフルートに似た不快な調べと、人を苛つかせる太鼓の連打が聞こえてきた。

 あれは魔王を慰めるものだというが、とてもそのようには思えない。むしろ狂った状態を維持するためのものではないか。

 銀の鍵を握りしめながら、恭司はそんなことを思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る