3 閉門

 胸騒ぎを覚えてやしろを覗くと、決して消えることのない神火しんかの前に白い和服姿の女がいた。

 背筋をまっすぐに伸ばし、端然と正座している。だが、やはりその両眼は和服には不似合いなサングラスに覆われていた。


「克彦……」


 女は驚いたようだったが、すぐに寂しげに笑った。


「ごめんなさい。せめて、おまえが成人するまではと思っていたけれど……」


 女が何をしようとしているのか、克彦にはわかった。しかし、彼にはそれを止めることはできなかった。――女はもう耐えられないのだ。


「ごめんなさい……」


 覚悟を決めたように、女は襟元からあるものを取り出した。

 ――白鞘しらさや懐刀かいとう

 女は鞘をとって床に投げ捨てると、その刃を自分の細い首にあてがった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 何度も何度もそう謝りながら、それでも女は自分の手を止めなかった。

 その瞬間、女の首から溢れ出たのは、鮮血ではなく、炎。

 悲鳴ひとつ上げることなく、正座した格好のまま、人形のように燃え落ちていった。

 それを眺めながら、克彦は女を恨んだ。

 謝るなら、俺を産んだことを謝れ、と。




 克彦の母が自殺したと知っても、その実父である祖父は驚かなかった。


「あれはとりわけ血が濃かったからな。他の者より強くのだろう」


 祖父の妻――つまり克彦の祖母は、祖父の従妹だった。その祖母も、克彦が生まれるずっと以前に母と同様自殺したという。

 克彦の父は病死だったが、防火設備の整った自宅の一室で、息を引き取った瞬間に炎が噴き上がって炭になった。おかげで火野一族は火葬場いらずだ。


「馬鹿馬鹿しいとおまえも思っているだろうな」


 母のように濃いサングラスをかけている祖父が苦笑いしながら言った。もうじき、自分もこれをかけなくてはならなくなるのだろう。この山村において、それは一族の象徴でもあった。

 サングラスがなかった時代には、いったいどうやってごまかしていたのか。それとも、ごまかせなかったから、近親婚を繰り返すしかなかったのだろうか。


「確かに馬鹿馬鹿しい。先祖は何を考えて、と契約など結んだのか。火など道具を使えば簡単に起こせるのに」


 昔――文字で記録も残せなかったほど遠い昔。

 火野の祖先は、どういう方法でかはわからないが、あの存在と契約を結んだ。

 その結果、火野一族は発火能力を得たが、その代償として、体内に〈門〉をすえつけられることになった。

 彼らが生まれてから死ぬまでの間、〈門〉はまず開かれない。だが、それは生涯平穏なままであるということを意味しない。

 叩かれつづけるのだ。〈門〉の内側から。ひっきりなしに。


 ――ココヲ開ケロ。ココカラ出セ。ココカラ解放シロ。


 開けられるものなら、すぐに開け放ってしまいたい。しかし、それは彼らの意志ではどうにもならないものだった。唯一、彼らが死んだときだけ〈門〉はわずかに開かれるが、彼らの体を燃やすだけで再び閉じられてしまう。

 彼らの苦痛と恐怖を終わらせるためには、〈門〉を完全に開け放てる〈鍵〉が必要だったが、それを入手するのは不可能に近かった。


「克彦。おまえは高校を卒業したらここを出ろ。そして、二度と戻ってくるな。契約を解除することも〈鍵〉を手に入れることもできないなら、少しでもこの忌まわしい血を薄めるしかない」


 ――自分と同じ思いをさせるかもしれないのに、それでもまだ子供を作りたいのか。

 苦渋に満ちた祖父の顔を見て、克彦は冷ややかに思った。

 だが、今この瞬間に自殺できない自分も同類だ。

 克彦は祖父を批判することなく、ただ黙ってうなずいた。




 大学入試が終わった頃、克彦にもサングラスが必要になりはじめた。

 タイミングとしては幸いだった。カラーコンタクトレンズでは隠しきれないときもあるのだ。

 こんな自分が大学を卒業したところで、いったい何になれるというのか。

 新入生でごった返す人込みをやさぐれた気分で歩いていると、ふとその後ろ姿が目についた。

 体つきや男物の黒いスーツからすると男なのだろう。しかし、その髪は首の後ろでゆるく一つに結ばれている。

 このご時世でも、こんな場所での男の長髪というのはかなり目を引く。さらに栗色で、しかも綺麗だ。

 どんな顔をしているのか、何となく気になった。

 これで不細工だったら殴るぞと理不尽なことを考えつつ、克彦は足を速めてその男の顔を覗きこもうとした。


「やめとけよ」


 すぐ近くで、そんな若い男の声がした。

 あわててそちらに目をやると、見知らぬ〝美人〟が笑っていた。


「やめとけよ。あんなのに声かけたら、ろくなことにならないぞ」


 克彦と同じ大学生なのだろう。だが、周りとは違い、シャツにジーンズという普段着姿だった。艶やかな栗色の髪は肩を隠すほど長く、綺麗な顔の右半分を覆っている。


「誰だ?」


 とっさにそう訊ね返していた。

 こんな人間、一度でも会ったら忘れられない。きっと、自分はどこまでも追いかけてしまうだろう。これが〝男〟だとわかっていても。


「ここにはいるはずのない人間だ」


 〝美人〟はそう言って、克彦の左肩に左手を置き、すぐに離した。

 ただそれだけのことだったが、〝美人〟の手が触れた瞬間、克彦は金縛りにあったかのように動けなくなった。

 消えたのだ。

 〈門〉を叩くものが。

 はっと我に返ったときには、もうどこにもあの〝美人〟の姿はなく、顔を見ようと思っていたあの新入生もすでに人込みに紛れてしまっていた。

 理由はわからないが、とにかく今まで彼を苦しめつづけてきたものが忽然と消え失せたのだ。本来なら奇声を上げて喜んでもいいくらいだった。

 しかし、そのとき克彦の胸に去来したのは、それと引き換えに自分は何かを失ったのだという圧倒的な喪失感だった。

 それが具体的に何なのかはわからない。だが、克彦は何かを得る機会を失った。そして、その機会はもう永遠に訪れない――

 克彦はサングラスを外して胸ポケットに入れた。〈門〉がなくなった以上、もうこの目――時に炎がくすぶっているのが見える目――をサングラスで隠す必要もない。

 しかし、そうしてサングラスを外してから、克彦は視界が歪んでいることに気づき、すぐにその原因を知った。

 泣いていたのだ。

 歓喜でもない。安堵でもない。自分でもわからない失われたものに対する、それは哀惜の涙だった。


 ***


「言っておくが、ここでこんなことをしても、おまえの知るあの男は生き返らないぞ」


 恭司が戻ると、街路樹の近くで待っていた〈這い寄る混沌〉はいかにもつまらなそうにそう言った。


「ああ、わかってる。これはただの自己満足だ」


 うんざりして、銀の指輪のはまった左手を振る。


「でも、とりあえず、ここの火野は助かるだろ?」

「助かる?」

「あの火の玉の親分に苦しめられなくて済むだろ?」

「それはそうだが。でも」


 蕃神は恭司の左手をつかむと、そっと自分の口元に引き寄せた。


「私は……おまえに会えないのは嫌だな」


 誰もおまえの意見は訊いていない。恭司は心の中で毒づいて、〈這い寄る混沌〉の手を振り払い、人の流れとは逆方向に歩き出した。

 その後ろ姿をしばらく見送ってから、蕃神は苦笑をこぼし、ゆっくりと後を追いかける。

 〈這い寄る混沌〉があわてる必要はまったくなかった。

 恭司がどこにいても、必ず見つけ出せる。

 恭司の指に、あの指輪がはまっている限り。

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