The Woman In The Elevator(Series)

箱津瑞幸

Moment(Vol.1)

川向こうから涼気が吹いてくる。今の時期ではまだ少し、肌寒いほどに。この街の夜と同じように絶え間なく、よどみなく流れている。濃い夜気に紛れずに、むせるような草木の匂いが鼻につく。

見えなくとも確かに春は過ぎ行き、夏が来ようとしている。

明かりの灯るエントランスへ身体を引きずるように滑り込み、肩を落として自動ドアが開くのを待った。疲れ切った身体は、それでもここかしこに熱の余韻を残す。急激に眠気が襲ってきていた。

褥が待ち遠しい。それももう、あと少しだ。倒れ込むように、今はただ眠りたかった。

耳慣れた音がして、ドアはいつものように開いてくれた。ボタンを押すと、エレベーターはやがて上昇を始める。何ひとつ変わることなく。

それが機械のありがたさであり、俺の日常だった。

——はずだった。

閉じかけたドアが不意に開く。

ぼんやりしていた俺は気づかなかった。霞がかった意識が持ち上がったのは、視界に影が差してからようやくのことだった。

そこで初めて、誰かが乗るために外からボタンを押したのだと気づく。見るからに目つきの悪い顔だろうと知りつつも、不機嫌さは隠せない。

仕方なく、顔を上げる。エレベーターの中と外で、かっちりと目が合った。

「……すみません」

ひどく細い声が鼓膜を震わせた。瞬間、短く喉が鳴った。ひゅっと息を飲んだ音が、やけに大きく聞こえる。

影は、いかにもすまなそうな顔をして頭を軽く下げた。

乗ってきたのは、同じマンションの住人。顔を合わせれば会釈くらいはする仲だ。靴の音を控えめに響かせながら、箱の中に身体を収める。


何も言わないのに、ただ視線を交わしただけなのに、強い圧力が心臓にかかった。


けれど、そんな俺の反応には一切気づくことなく、彼女は進み出て、静かにボタンを押した。閉ざされたドアの前に立ち、静止する。点灯したオレンジ色が示すのは、十一階。

俺の部屋の、すぐ下の階。

エレベーターが上昇を始める。機械の動作は日常だった。彼女の行動も日常だった。

俺の感情だけが、この狭い箱の中でひとり、取り残されていた。

息づかいまで聞こえてきそうな、窒息しそうな空気が満ちる。疲労のせいだと思いたい、酒が残っているせいだと思いたい。

——強いめまいがした。


(To be continued)

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The Woman In The Elevator(Series) 箱津瑞幸 @misaki_baco2

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