終章
土曜日。それは、週給を貰い、ロンドンの市民が一週間でもっとも〝騒ぐ〟日である。
ホープは、居間のソファに座っていた。ストーブの薪は轟々と燃え、夜だというのに寒くない。むしろ、冷えた酒が欲しいくらいだった。壁にかけられたオイルランプの光をぼーっと眺めていると、テーブルに〝それら〟がどんどん置かれていく。酒瓶と、肴であった。すでに五人前は突破しているだろうか。湯気を昇らせる茹で海老のタルタルソース和えが置かれたと同時に、彼はとうとう口を開いた。
「お前、さすがに作り過ぎだろう」
「えー、そうですか? これぐらいあっても良いと思いますけど」
返事をしたのは、女中服姿の少女、アンネである。シチューが入れられた陶器製の鍋をテーブルの中央に配置し直し、うーんと首を捻る。ホープとしては、焼き立てのローストビーフのグレービーソースかけだけでも十分に満足だった。どうも、この女中は料理と酒に関しては手加減を知らない様子である。
「せっかくの〝ホープさん。完治おめでとうの会〟なんですから、もっと楽しみましょうよ」
セルベイと決着をつけて、三週間が経過した。九月に入り、ロンドンはますます寒くなっている。ホープが腹部と太股に負った傷は、日常生活に支障をきたさないレベルまで回復した。その御祝いをしようと、アンネが提案したのだ。こんな気恥ずかしいことをする日が来るなど、想像もしていなかっただけに、無下には断れなかったのだ。だが、目の前の光景はさすがにどうかと思う。こんなに作って、余ったら勿体無いだろうに。すると、そんな思考を読み取ったかのように、少女がニマニマと意地の悪い笑みを浮かべて言ったのだ。
「そうそう、トファニアさんとケビンさん、それと、ジョージさんとトマスにも招待状を渡していますので、そろそろ訪れる頃だろ思いますよ?」
「え? はああああああっ!? お前、なに考えてんだよ!」
無視出来ない言葉に、ホープは動揺を隠せない。アンネはきょとんと首を傾げ、事態の意味が分かっていない様子だった。むしろ、次の料理を準備する方が重要と考えている様子である。
「お前な、もしかして、今日の夕食が俺の完治祝いだって言ったんじゃないだろうな?」
「ええ、ばっちり言いました」
「あのな、それだと俺が『俺の傷が治ったから皆で御祝いしようぜ』って考えた恥ずかしい野郎になってるじゃねえか! ……絶対、あいつら笑ってるに決まってる。ああ、どうすりゃいいんだ? お前、招待状ってどうやって渡したんだ? 本人に直接渡したのか?」
「大丈夫ですよ。全員、笑っていませんでしたよ。ケビンさんとジョージさんは『ぶほっ!』て吹き出して、トファニアさんは私に顔を背けて肩を小刻みに震わしていましたけど」
それを笑っていると言わずに、なんと言うのだろうか。頭痛を覚えたホープは、パイプに火を着けようとして、外したコルクの蓋を再び火口に戻す。最近は、ずっと煙草に逃げているような気がする。これではいけないと、パイプをポケットに戻した。すると、アンネが皿やらグラスやらを準備しつつ、こちらを見ないように言ったのだ。
「あいつらは、もう、いないんですね」
「……あいつらって? アンダーソンの屋敷にいた連中か?」
アンネの沈黙を、ホープは肯定を解釈した。亡くなったアンダーソンの妻や、その息子、使用人は全て、田舎街へ引っ越したらしい。彼ら、彼女らが、メアリーが売られた真実を知っているかどうかは分からない。だから、誰も追求はしない。この事件はもう、終わったのだ。
「……私は、貴方の傍にいてもいいんですね?」
ただの言葉ではないことなど、少女の横顔を見れば簡単に分かる。アンネも不安なのだ。今、自分がここにいるのが、正しいのかと。あの事件で、多くの人間の歯車が崩れた。ヤードの上層部はかなり〝苦労〟したらしい。ケビンが零した愚痴が、耳の奥に詰まって出てきてくれないのだ。
結局、事件はアンダーソンがメアリーを猟奇的に殺害し、彼の過去を知る〝誰か〟から復讐されたとして話は締めくくられた。セルベイ牧師は失踪扱いされ、それに伴う救貧院の管理は、トファニアの口伝てで、別の上流貴族に頼んだ。こうなると、ホープが行ったのは殺人だけだ。汚れ仕事の多さに、彼は鼻を鳴らすように嘆息した。あの事件の真相を知るアンネは、こう思っているのかもしれない。自分はここにいるべきなのか? それとも、他に何かしなければいけないことがあるのではないかと。
だから、ホープは、はっきりと言ったのだ。
「ああ、もちろん」
「嘘、偽りはありませんか?」
「当然だ」
彼女を独りにはさせられない。それが、あの晩に、彼が背負った運命の一つだ。助けるのなら、最後まで助ける。もしも、アンネが不安がっているのなら、安心させる。そうやって、毎日が続いていくのだ。
アンネが手元から視線を外し、こちらを見た。
……惚れたわけではない。それでも、何故だろう。どこか、胸の奥がざわついた。
「なら、私はそれで満足です」
淡く、アンネは微笑む。まるで、公園の隅に健気にも力強く咲いた菫の花のように。ホープは妙に足元が痒くなったから、足を組み変え、結局、パイプに火を着けたのだ。ゆっくりと紫煙を舌で転がし、静かに煙を吐き出す。少しずつ摩耗していく思考のなかで、彼女の言葉が何度か繰り返される。自分は、この女中が自慢できるだけの主人になれるだろう。いや、この女と一緒に人生を歩む覚悟はあるのだろうか。
それは一体、〝どんな意味〟でか。それは、今のところ分からない。
――彼の思考を遮るように、ノッカーが叩かれる音がした。
「あ、どうやら着いたようですね。私、出迎えてきます」
そう言うや早く、アンネは廊下へ出てしまった。一人になったホープはソファから立ち上がって窓の外を見た。真後ろのストーブから煌めく緋色の炎が微かに反射し、その向こう側にロンドンの街並みが広がっている。今も、どこかで事件が発生しているのかもしれない。誰かが不幸になり、誰かが助けを求めているのかもしれない。
どんな悪をも倒そうと決めた過去の自分に、今、自分は胸を張れるだろうか?
「……ともかく、今は〝こっち〟か」
自分の完治祝いに集まった友人達からどんなふうに茶化されるかを想像し、上手い言い訳を考えようと、ホープは再びソファに座り直したのだ。
そうして、ゆっくりとパイプを吸う。
細く長く吐いた紫煙が揺れながら上昇し、広がって、すぐに大気へと溶けたのだった。
ヴィクトリア朝のロンドンで銃使いはどのように生きれば正解か? 砂夜 @asutota-sigure
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