第4章
①
鉄とガラスの立派なアーケードがあり、店がところ狭しと並んでいる。どこへ視線を向けても、大勢の人々で賑わっていた。馬車も数多く往来し、中には蒸気機関を持つ三輪の自動車まで窺えた。広い通りは、熱狂に近い活気の良さに包まれ、経済不況の中とは到底思えない。ちょうど、土曜日の夜中なのだ。つまりは、給料日の夜だ。ロンドンが一番、活気づく時間帯なのだ。ガス灯の明りが周囲を彩り、まるで、お祭り騒ぎだったのだ。
元々はパブが連なる場所だったせいか、日用品店よりは軽食店、酒場が多く、道の反対側にあるパブでは仕事の合間を縫ってビールを飲んでいるスーツ姿の男性達がいた。肴にしているのは揚げたタラだろうか。素手で摘まみ、口に放り込んでいる。思わず味を想像してしまい、ホープは生唾を飲んでしまった。時間的には、そろそろ夕食である。お腹も減っていた。
「いやー、こっちに来るのって滅多にないんですよねー。いっぱい食べますよー。今日はじゃんじゃんバリバリ食べちゃいますよー!」
ホープの隣を歩くアンネは首を左右に振っては目を食欲で輝かせていた。この女中、わざわざ昼飯も抜かしてきた徹底ぶりだった。
「お前なー。暴食は神が定めた大罪の一つなんだぞ?」
「ええー。そういうホープさんは腹がはち切れそうなほど食べてベッドに横になる苦悩と歓喜が表裏一体になった感覚を知らないんですか?」
「……食事でいちいち人間の限界に挑戦しなくていいだろうに」
もっとも、アンネが元貧困窟出身なら、それも頷ける。貧乏とはつまり、ろくに食事がとれないことだからだ。
飲食物を扱う屋台の種類は豊富の一言に尽きる。まず、飲み物は珈琲か紅茶、今の時期なら珍しいものでカカオ豆を炒って煮出したココア。暑い日だったら冷えたレモネードや牛乳に、アイスティーなど。アルコール系なら、ジンにビール、ワイン、ミント水、過去に流行った物ならシラバブ(牛乳にワイン、砂糖、香辛料を加えた飲み物)などがある。
固形物なら、オレンジ、リンゴ、ナッツ、梨、ブドウ、ウナギのゼリー寄せ、フィッシュ&チップスに魚のフライ、パンケーキ、ハムサンド、ウナギの燻製サンド、ミートパイと数限りない。ロンドン中を数えれば、百を超える品を露店だけで食せるだろう。
庶民が街頭で毎日の食事を済ますのも珍しくない。朝はコーヒー・スタンドで温かい飯を食べ、昼食はビリンズゲイト等の魚市場で売られている新鮮な貝。夕食には熱々のスープと蒸されたジャガイモを食べる。たまのデザートで、果物や菓子も楽しめる。
仕事が連日続き、明日は日曜日だという今日の夜。ホープは今日ばかりは財布の紐を緩めるつもりだ。どこかのフランス料理店を選ぼうとしたのだが、アンネが『私、気取った場所嫌いなんです』と断ったので、ここを選んだのだ。おそらく、アンネがもっとも仕事に貢献してくれたのだから。
「とりあえず、ビールでも飲みましょうよー」
「そうだな。フィッシュ&チップスもついでに買ってこい。いや、好きなもん、いくらでも買ってこい」
ケチケチせずに渡したのは五シリングだった。アンネが露骨に目を輝かせる。
「あいあいさー!」
周囲は露店が多く、テーブルの貸し出しもしていた。あわよくば、近くの自店を利用して貰えると踏んでだろう。もっとも、ホープが探した頃にはどこも満席状態で、なんとか見付けたと思ったら、路地裏にぽつんとあった屋台式飲み屋(珈琲ストールのアルコール版。土曜日の夜には欠かせない店)の椅子とテーブルだった。ただで使うと、場所取りに失敗して表通りから外れてしまった厳めしい〝おっさん〟に睨まれるだろうから、エール一杯とウナギのゼリー寄せを一皿買った。二つで二ペンスだった。
テーブルも椅子も小さいが、座れないことは無い。そして、丁度良いタイミングでアンネが帰ってきた。その光景を見て、ホープはぎょっと目を見開いた。アンネは蓋の無い箱を両手で抱えていたのだ。底は浅く、ちょうどアイルランド人が林檎でも売る際に使いそうな木箱である。その中に、料理と酒がこれでもかというほど、ぎゅうぎゅうに詰め込まれていたのだ。フィッシュ&チップにハムサンド、生ガキに、塩焼きの牛肉の串。こっちの丸いのは茹でたてのプティングだ。大きなジョッキに入ったビールに、ジン、ブランデーまである。デザート用なのか、オレンジと梨もあった。二人どころか、その三倍でも十分に楽しめる量だろう。
「……お前、いくらなんでも買い過ぎだろ」
金を沢山使ったことに呆れているのではないし、非難するつもりはない。ただ、まだ宴会は始まっていないのに、最初から飛ばし過ぎていることには一言注意する。もっとも、アンネにはこちらの真意がはっきりと伝わらなかったようだ。
「まあまあ、心配しなくても全部食べますよ。おっちゃん、お酒の貯蔵は十分か!」
「よっしゃ、任せろ!」
テーブルを借りた屋台のおやじが元気に返答した。どうやら、この娘は誰とでも仲良く出来る素質を持っているらしい。羨ましいといえば羨ましい才能に、ホープはつい苦笑してしまう。
「うっひょう! これだけ揃うとあっ晴れですね~。……ふっふっふ、今日は飲んで食べて騒ぎますよ~!!」
「破目を外し過ぎるなよ」
「あっはっはっはっは。ホープさんは娼館で〝嵌めてくる側〟ですもんねー」
この女中、どうやらすでに酔っ払っている様子である。ホープは嘆息し、とりあえずジンの入ったジョッキを手に取ったのだ。
「……とりあえず、乾杯するぞ」
アンネが、エールがなみなみと注がれたジョッキを掴む。そして、軽くぶつけあった。
「「乾杯」」
ヤードのケビンや、質屋のジョージと酒を飲む時と全く同じ光景なのに、どうしてこうも〝調子がおかしく感じる〟のだろうか。ホープは一気にジンを飲み干す。舌に痺れる苦みとコクに、自然とゲップが出た。ロンドンでは飲み水の衛生状態が良いとは言えず、水よりも酒を好んで飲む市民が大半だ。それに伴い、子供の頃から酒に慣れた者も多い。彼が酒には塩辛い料理が合うと知ったのは、七歳の頃だった。
ウナギの出汁が染みたドロドロのゼリーを啜り、塩胡椒のアクセントを楽しむ。メインの具は骨入りなので、ゴリゴリと噛み砕きつつ嚥下する。口の中が脂っぽくなれば、今度はブランデーで流し込んだ。胃の隅へ溜まっていく感じがたまらない。気軽に一杯にやるには、良い組み合わせだ。一方、アンネの方はハムサンドを瞬く間に平らげ、生ガキを水のようの飲み込み、フィッシュ&チップスを半分ほど食べたのちに屋台のおやじから受け取ったエールを一気に飲み干した。
「お、あの姉ちゃん良い飲みっぷりだ」
「こっちにも屋台あるぞ、行ってみようぜ」
土曜日の夜は誰だって財布が緩む。くわえ、美人が豪快に酒を飲んでいれば注目されないわけがない。人が自然と集まり、ホープのテーブルにも何人か集まってきた。他人を詮索するのも、されるのも嫌いなロンドン市民。だが、庶民の間、それも酒の席では関係ない。そもそも、数十年前までは酒場とは己の立場関係なく、貴族も平民も一緒になって楽しめる場所だった。ならば、一人一人が一緒に乾杯していてもおかしくはない。
まるで、それ自体が祭りの合図のように、こぞって乾杯する。爛々と人々が夜を楽しむ。
庶民、いや、中には貧困層として、明日を生きるのも難しい人々もいるだろう。しかし、こうも考えられる。明日死ぬかもしれないのなら、もっと今を楽しむ。悲観的ではなく、楽観的に酒を飲む。だからこそ、ロンドンという街はスモッグに包まれていても、輝いているのだ。
ここにあるは、希望で、光だ。だから、ホープの目は自然と細くなった。
「ホープさん。次、なに飲みますか? とりあえずエール持ってきましたよ!」
「……お前は元気だな」
大抵は家で静かに飲む。独りだから、騒ぐなど以ての外だ。もしも、アンネがいなければ、自分はここに来ただろうか? いや、どうせ一人で酒を飲むだろう。ケビンやジョージとの酒とは違う。なら、この少女と飲む酒の味はなんだ? 自嘲が零れた、その時だ。目の前にぐいっと腕が伸びてきた。こちらへと、エールの入ったジョッキを渡したのは、ほかならぬ彼女だった。
「ホープさん。なにか、難しいこと考えていませんか?」
「別に、そうでもないよ」
「だったら飲みますよー。ほら、かんぱーい!」
隣に座られ、肩と肩が触れ合う。もしも、家の主人とその女中だと周りからばれたら、どれだけ茶化されるだろうか。主従関係とは、そういうものだ。こいつ、口を滑らしてないだろうなとホープは冷や冷やしつつも、エールを受け取り、もう何回目かも忘れた乾杯をする。最初の勢いはどこにいったのか、辛気臭く酒を少し啜ると、どつんとアンネが肘で軽く脇腹を小突いてきた。そして、にっこりと笑うのだ。
「楽しく飲みましょうね、楽しく」
こんな場所では、アンネの言葉こそ正論だった。
だから、ホープは微苦笑零して降参する。
「わかった、わかったよ」
「じゃあ、私と競争しましょう。この一杯、どっちが早く飲めるか」
なんでそうなるんだ? と、ホープが首を傾げた時にはもう遅い。辺りから、どっと歓声が湧き上がる。『やれ、兄ちゃん! 女に負けんな!』『いいや、あの子も相当飲むぞ!』
『俺は男の方に半ペニー賭けるぜ』『じゃあ、私は女の方に一ペンス!』『胴元は俺がやろう。なんたって、俺の屋台の酒だからな』。賭け事大好きなロンドン市民。こぞって煽り、自分も飲み比べに参加するぞとエールを注文する者まで現れた。
あっと言う間にホープとアンネを含め、総勢十五人の飲み比べ会場が出来あがりつつなった。ここで止めれば、場は白けるだろう。そして、そんな光景を彼は望まない。だから、帽子を脱ぎ、テーブルに置いた。
「一杯じゃ文句を言う奴がいるだろう。三杯の早飲みにしようぜ」
椅子から立ち上がったホープが啖呵を切った。それが、人々の熱狂をさらに加速させる。右手にはエールが注がれたジョッキ、そして右隣にはアンネがいる。こちらも同じようにジョッキを持っていた。
「ふっふっふー。じゃー、いきますよー。よーーーーい、ドン!」
待ったなしとばかりに酒を飲み出す、一同。負けじとホープも酒を飲む。テーブルにはどんどんエールが注がれたジョッキが置かれ、誰よりも速くアンネが二杯目に手を伸ばした。だが、半秒遅れて彼もジョッキへ手を伸ばす。
目と目が合い、それは一秒。すぐに傾けたジョッキで見えなくなる。だが、ちらっと横目で見たアンネの顔は、これ以上とないぐらいに、真剣で〝楽しそう〟だったのだ。
②
ただし、酒を飲めば必ず〝後始末〟が付きものだ。家で飲めば、食堂や居間を片付けないといけない。そして、外で飲めば、きちんと家に帰らないといけない。
すっかり酔っ払って足取りが覚束なくなったアンネに肩を貸しているのは呆れ顔のホープだった。似たような酒飲みが多く、ハンサム・キャブを捕まえられなかったのだ。イーストエンド付近からウェストエンドの横断。徒歩なら三十分。いや、酔っ払いの足取りなら、その倍はかかってもおかしくないだろう。
ホープも大いに飲んだが、彼は仕事上、己を見失わない程度の飲酒と決めている。だが、アンネの方は言うと、飲んで食べて飲んで、飲んでの繰り返しだった。気絶していないだけでも上等だろう。
「うっひゃっはっやっは! かんぱーい! かんぱ~い」
「お前、夢の中でまで酒飲んでじゃねえぞ……」
この女中、酒を飲む時はこちらが〝雇い主〟であることを忘れているのではないだろうか? こんな酒臭い女の身体に触ったところで、とくに感想も無く、ひたすらに面倒なだけだった。
帰路は半ばまで着いただろうか。ホープの左手側にはデムズ河の黒い流れが見えた。街明りが微かに落ち、静かに揺らめいている。遠くの湾岸には船が何台も停泊していて、明日の早朝からすぐにでも仕事が始めるのだろう。通り過ぎてしまったシティ区では、銀行の役員が為替と国債でにらめっこでもしているかのように四苦八苦しているに違いない。そんな人々も、今日は痛飲したのだろうか。こんなふうに倒れてしまった者を支えているのだろうか。アンネは足をよたよたと動かし、瞳は閉じかかっている。こんなに情けないのに、いざ仕事となれば完璧にこなすせいか、怒るに怒れなかった。
「御主人様~。今日が〝二回目〟の土曜日ですねー」
支えていた肩が腕から零れそうになり、ホープが足を止めて支え直すと、アンネが舌足らずな口調で声をかけてきた。その瞳が微かに開き、こちらをじーっと見ている。なんとなく、彼女の濡れた唇に視線がいき、彼は慌てて首をデムズ河の方向へ曲げた。「ああ、そうだな」
「私達が売春宿で夜を過ごしてから、十日くらい経ちましたね~」
距離がゼロになった少女の声が、耳をくすぐった。
「その言い方は誤解を生むから止めてくれ」
「……事件、どうなったんですか?」
酒で鈍くなった思考に一閃、鋭さが走った。ホープは再び歩き出し、いつものと変わらない口調を作る。
「順調に情報は集まってるから、もうちょっとだな」
「もうちょっとって、どれくらいですか?」
「もうちょっとはもうちょっとだ」
犯人はすでに分かっている。しかし、証拠が無ければ逮捕は難しい。そして、必ず戦闘になると分かっている以上、用心に越したことはない。確かに、子供達の命は心配だし、今も焦燥感に駆られている。それでも、負けて殺されて、神様が都合よく生き返らせてくれるわけではない。だからこそ、耐えないといけない。ホープはけっして、無敵ではない。銃やナイフがなければ、そこら辺のチンピラに三人以上で囲まれて終わりだ。正義を通すには、人間という生き物はあまりにも脆過ぎる。
「お前には感謝しているよ、本当に」
「えっへっへっへ。じゃあ、お給料を上げてくださーい」
「……まあ、考えてもいいかな」
すると、急にアンネが声を大きくした。まるで、大きな博打に勝ったような喜びようだったのだ。
「本当ですか!? 絶対ですよ! 約束ですからね! 嘘付いたらデムズ河に落っことしてウナギの丸飲みですよ丸飲み! ホープさんったら、もしかして、私がおさいぇでよっふえると思って、いうっちゃだけなんじゃー。わたしだっていろいろとおきゅうひょうの考えがありますにょでそういあったしょうざんはやめてくれると」
言葉の後半から呂律がきちんと回っていなかった。それでも何か言おうと、口をむぐむぐさせている。まるで、生まれたての赤子のようでもあったから、なんとなく笑ってしまう。
「嘘じゃないよ。これは約束だ」
今回は事件を解決するために助力もしてくれた。その報酬を抜きにしても、週給を二シリングばかり上げようかと考えている。ただ、アンネの酔いが変な方向に回ってしまったのか、小刻みに、ちょうど痙攣でもするかのように肩を震わせ始めたのだ。まさか、吐くんじゃないだろうな、と思わず動揺していると、少女はぼそっと言った。本当に小さい声で、まるで、他の誰にも聞かせないかのように。
「すっごく、嬉しいです。私、貴方に会えて幸運でした」
トファニアに『あんたは面白い男だから気に入った』と言われたことがあるホープでも、会えて幸運だったと言われたことなど毛頭ない。そのせいか、どんな顔をしていいのか分からなくなって、とりあえず、口元を引き締めた。そうしないと、泣きそうだったから。
多分、それは〝嬉しさ〟であり、罪悪感だったのだろう。自分が、誰かに愛されてはいけないと、――まてまて、アンネが俺を愛しているとかそういう話ではなかっただろう。何をうぬぼれているんだ俺は!? と、ホープはぶんぶんと首を横に振った。きっと酒だ。最後に飲んだエールのアルコールが変な方向に回ったのかもしれない。
「……そう言ってもらえると、こっちも嬉しいよ」
ふらりふらりと、ややぎこちない足取りで、それでもしっかりと家まで進む。一歩一歩、確実に近くなっている。
「なあ、アンネ。……アンネ?」
声が返ってこない。どうやら、すっかり眠ってしまったらしい。それでいて、足は動いているのだから大したものだ。
女中が酔い潰れたのをいいことに、男は身勝手に語り出す。
「ごめんな。俺、死ぬかもしれない」
病気ではない。ただ、今日、彼は死ぬかもしれないのだ。だから、アンネに謝る。もっとも、面と向かって謝るだけの度胸はなかった。酒の力も借りてこの様か、とホープは喉奥から込み上がってきた苦い唾を飲み込んだのだ。彼は探偵業であり、人殺しも生業としている。だが、彼はアーサー王のように、どんな傷をも癒す聖剣の鞘は持っていない。あるのは、月の女神の名を模したRNAとナイフ、そして、この身そのものだ。敵がどんなに強くとも、弱くとも、弾丸一発でも〝良い所〟に当たれば死ぬのは彼も同じだ。別に死ぬのは怖くない。ただ、自分が死んだ後、この少女はどうするのだろうか。それだけが気掛かりだった。
「トファニアに、俺に〝もしものこと〟があったら、お前を他の屋敷で雇って貰えるように口聞きしてくれるってさ。……『あんた。自分の不始末の面倒を私に見させるうえに、他の女の面倒まで見させるなんて、随分と偉くなったねー』って嫌味言われたよ」
だが、トファニアは去る間際に言った。『死んだら、私は悲しむよ』と。だから、『そう簡単にくたばるか』と言い返したのだ。
「……お前は良い女だから、どこに行っても平気だよ」
勝手に話を進めて、勝手に話を終わらせたホープは、アンネの肩を支え直し、あとは無言のまま歩くのだった。
③
ロンドンの夜は夏でも冬のように冷える。アルコールで火照った身体に夜風が心地よく流れ、熱が引く余韻を楽しむ。だが、ホープの目はすでに笑っていない。その瞳は磨き上げられた刃のように鋭く、硬質的な戦意を孕んでいた。仕事、それも戦闘用の黒いコートを纏い、男は一人、ソーホー地区の北東にある通りを歩いていた。ここら一帯はガス灯から白熱灯に交換されているせいか、ガス特有の臭いが無かった。代わりに、ガス灯の明りに慣れた目には電球の光はやや眩しく、自分がこれから、あの世にでも行くような錯覚を受けてしまう。
時刻は深夜の一時。本来、明日は教会へ祈りを捧げるべき日曜日なのだから、大抵の人間はとうに就寝している。しかし、ロンドン一、いや、〝世界最大の風俗区画〟であるソーホーという繁華街はまだ、眠らない。通りの背の高い店からは明りが零れ、今頃、娼婦が高い金で買われているのだろう。今、トファニアは何をしているのだろうかと、ふと考える。誰かと酒を飲んでいるのだろうか。それとも、もう眠っているのだろうか。
「しっかし、俺は〝独りか〟。……当然と言えば、当然だけどな」
先程、アンネは家に置いてきたばかりだ。今頃、ベッドで大きなイビキをかいていることだろう。そんな姿を想像し、つい鼻を鳴らして笑ってしまう。
武器は十二分に揃えている。そして、情報も。と、その時だ。前方に、人影が一つだけあった。濃紺のコートに、黒のシルクハット。そして、腰のベルトに差しているのは木製の警棒。あの出っ張っている腹は間違いなく、ケビンのものだった。
「よお。こんなところで何をしてんだ?」
ケビンに声をかけられ、ホープは露骨に顔を顰めたのだった。
「仕事に決まってんだろ、邪魔しにきたのか?」
すると、ケビンは首を横に振った肩を竦めたのだ。
「邪魔はしないよ。まあ、事態の処理だけはさせてくれよ。上に取り合って、何人か配備させてある。……けど、本当に行くのか? お前、下手したら死ぬぞ。なあ、考え直さないか? これだけ情報が集まってんなら、無理に戦わなくても」
言葉の後半から臆病風に打たれたケビンを見て、ホープは無言のままパイプに火をつけた。本当なら、こんな時に紫煙を吸うべきではない。それでも、ついつい、手が伸びてしまったのだ。彼もまた、緊張していないわけがない。むしろ、胸の奥では弱い自分が今すぐ逃げろと騒いでいるのだ。
押し留めているのは理性であり、静かな怒りだ。そして、怒りだからこそ、燃えるのを途中で止めるなど出来はしない。義憤が背中を押している。果たさなければいけない戦いに、焦燥感という炎まで飛び火した。なら、〝戦わないといけない〟。暗き夜道において相対する二人の間に絶対的な壁があった。三ヤードの距離を縮める術は無い。
「ところで、アンネの見張りはちゃんと働いているんだろうな?」
「そこは信じてくれよ。これでも、俺の目で優秀な部下を選んだんだ。何かあれば、すぐにここへ駆けつけるように言っている」
アンネが一人で寝ている屋敷へ敵が襲撃する危険性がある。だから、ホープはケビンに女中を頼んだのだ。
そうか、と軽い口ぶりのホープへ、ケビンは下品な笑みを浮かべた。ちょうど、街角の中古本屋で、いかがわしい本を発見したかのように。
「お前がそんなにあの女中を心配するなんてな。惚れたか?」
「けっ。阿呆らしい。そんなんじゃねえよ」
苦虫を噛み潰したような顔になるホープだった。
そして、会話の時間は終わりだ。
「……死ぬのよ」
「俺、そんなに死にそうな人間か?」
「ああ、死ぬだろうさ。それも、簡単に死ぬだろうな」
憎まれ口というわけではない。まったくの事実だ。
「じゃあ、行ってこい」
無言でホープは手を振り、ケビンに背を向けたのだ。そうして、目的地に着く。そこは、とある娼館だった。五年前に建てられたばかりの〝マリー・ブルー〟である。《ローズマリー》と比べても勝るとも劣らない店構えで、これだけ上等な娼館なら、上層中流階級(アッパー・ミドル)以下は御断りだろう。まさに、選ばれた者だけに許された場所だ。店を囲うように鉄柵が巡り、門の前には大柄な男が二人、守衛となっている。正面から馬鹿正直に入ろうとしても、門前払いされるだろう。鉄柵の高さは少なくとも二ヤード二十フィートを超え、とてもではないが、登れるような高さではない。加え、先端が槍のように鋭くなっていて、手や紐をかけられる場所も無い。ここまでくると、まるで要塞のようだった。――それも、無理は無いだろう。上手く〝偽装〟しているようだが、内部ではどれだけの腐敗が充満しているのか分かったものではない。
見れば分かる。ただの娼館が、あんな空気を孕んでいるものか。どれだけの淀みか、店全体が一個の強大な獣のように、ホープの目には〝歪んで〟見えた。今回の事件はもともと、屋敷での殺人だった。こんな大物を引いてしまうと、なんとも複雑だった。
朝までに帰れば、アンネにも怪しまれないだろう。だから、これは時間の勝負だった。
「よお」
門前払いと決まっているのに、ホープは堂々と門の前に立つ。当然のように、門番の大男二人が立ちはだかる。こちらよりも二回り以上筋肉が膨らみ、まるで森の王である熊のようだった。相対した二人と一人の間で、夜の冷気を吹き荒ぶだけの殺意が交錯する。
門番は何も語らない。怪訝と悪意が滲みでる顔のまま、目の前の男など、どうとでも出来ると、こちらを侮っていたのだ。概ね、その評価は間違っていない。――ホープが、ここへ手ぶらで訪れたのなら。ただ、一応、聞いておこうと思った。反応云々では、酌量の余地があるかもしれないからだ。
「お前ら、ここで」
一区切り、風が吹く。
それは、鉄錆びの臭いを帯びた〝死の気配〟だった。
「ここで、〝人間のオークション〟があるのを、知ってるか?」
大男の反応は単純明快だった。一瞬、驚愕で両目を見開き、腰のベルトにぶら下げていた短剣のように大きな棍棒を引き抜いたのだ。木製の棒を銅合金で強化した剣呑極まりない武器だ。頭に当たれば頭蓋骨が陥没し、脳に致命的な損傷を与えるだろう。彼我の距離、八ヤード。あれだけの体躯なら、一歩で縮められる。
だが、その数瞬を、月の女神が凌駕した。コートの内側から引き抜かれたRNAがホープの右手によって、腰付近で固定され、瞬時に発砲される。クイックドロウと呼ばれる、元は西部開拓時代を生きた米国人の技だ。達人なら、瞬き一つの間に三度も発砲可能だという。残念ながら、彼は達人ではない。だから、〝二発〟が限界だった。Ⅴの字を横に描くように四十四口径大型鉛弾が飛来し、大男の片足、膝頭を破壊する。足の神経と重要機構が集中しているここを撃たれて、立てるわけもなく、ごろりと船場で大きな荷物がクレーンから外れたように大男達が地面を転がった。激痛の悲鳴が喉奥から発せられるよりも速く、再び、煌めきが走った。ただし、それは銃声を纏うマズルフラッシュではない。
ホープの左手に抜かれた、折り畳み式のナイフだった。まるで、ダーツのように投擲。
大男の喉元に、深々とナイフが突き立った。鋭く、薄く、磨かれた刃だ。骨に先端が当たって、ようやく停止し、七インチの刃が深々と埋め込まれた。血が逆流したのか、口から咳き込んだ息を一緒に血が霧となって噴出した。そのまま大きく痙攣し、動かなくなるまで数秒。両方の服を漁ると、門の鍵を発見した。それも三つ、なんと慎重な警備だろうか。
「……恨むなら、俺じゃなくて、こんなことをしないと生きられなくなった手前の運命を恨みな」
門を開けると、小さな階段があり、そこから庭へ下りる。もしも、昼間なら、綺麗な薔薇の花が楽しめただろう。あの背の大きな木々の下で昼寝をしたら、さぞかし気持ち良いだろう。建物の扉へと続く一本道の長さは約二十から二十三ヤード。中央には、噴水まであった。暗い水の流れが、あの世への誘いのようにも聞こえてくる。幸いにも、銃声は聞こえなかったようだ。弾速が音速にやや届かないRNAでは、発砲地点から少し離れただけでも銃声がかなり低減される。
だが、敵も馬鹿ではないらしい。ホープは、手頃な木の影に隠れた。すると、鋭い炸裂音と共に弾丸が石畳の床を砕いたのだ。ライフルの弾丸の音だった。薄闇の向こう側に、敵が潜伏している。どうやら、セルベイの方も、こちらへの対策を立てているらしい。だが、それぐらい、こちらも〝予測している〟。ゆえに、彼が銃把を握るRNAに迷いは感染しなかったのだ。月明りを一切反射させない酸化被膜の黒闇が、今、吠える。
絞られる引き金、落ちる撃鉄、雷管が叩かれて発射薬が燃焼。急速膨張したガスに押され、椎の実型の弾丸が銃口を駆け抜ける。螺旋軌道を描く弾丸が大気を貫き、吸い込まれるようにして数十ヤード先の木の裏に隠れていた敵を撃った。
銃器は集団の武器だ。軍隊として群れるための武器だ。隠密行動に優れた敵を相手にする訓練を積んでいる者は極めて少ない。
そして、例外的にホープは、常に一人で戦場に立ってきた。
「いたぞ、こっちだ!」
「なんとしても仕留めろ!」
殺気立つ敵の気配に、ホープは暗い笑みを浮かべ、薄く笑った。敵が善人ではないと、はっきりすれば、手加減の必要など無くなるからだ。場所を変え、今度は生垣の裏で身を屈めた。これだけの暗さなら、少し動いただけでも標的を見失いやすい。まるで、目隠し鬼のようだ。――手の鳴る方に、音が聞こえる方向に銃口を向ける。負ければ死。ここは戦場であり、遊びは無い。
「お前ら、少しばかり俺を舐めすぎだろ」
そうして、今宵、ここは地獄と化した。
◇
一方、場所は切り替わる。
「うっふっふっふっふ~。この私を除け者にしようなんて、そうはいきませんからねー」
アンネがドルアリーレインを一人で歩いていた。軽い足取りで、とてもではないが、酒で酔っ払って一人で帰られなくなった女には見えない。それも、そのはず。今日の帰路は全て、演技だったのだから。まんまとひっかかって、こちらを甲斐甲斐しく奉仕するホープの姿を思い出し、少女はにやにやと笑った。
「いやー、ホープさんも馬鹿ですねー。私が、あの程度の酒で酔うわけないじゃなですかー」
この少女、酒飲みならトファニアとも良い勝負をするほどの酒豪である。そこらの男を十人酔い潰させたところで、ケロリとしているのだアンネは。
アンネは数日前から薄々、ホープが何かを隠しているのだと勘付いた。そして今日、それは確信に変わった。酒飲みの帰り道、彼が呟いた言葉を全て、少女は聞いていたのだ。
「まったく、私は貴方の仕事を手伝うって決めたんですからね。最後まで手伝わせるのが筋ってものでしょうが」
一人、除け者にされたことへ憤慨し、アンネはホープの言葉を思い出して頬を緩ませたのだった。
「私が良い女かー。御世辞でも嬉しいなー。いやいや、寝てる人間に御世辞なんていらないでしょう。つまり、あの人は本当に私を〝良い女〟と思っているわけで。参っちゃうなー。寝込みとか襲われたらどうしよう? 酔った勢いで男女の関係にとかって、あははははっはははははは」
一しきり笑って、その顔には隠しきれない影が浮かんだのだ。
「私は、全然、良い女じゃないですよ。生きるためにって大義名分で色々と危ないこともやってましたし。そりゃあ、殺しとかはしませんでしたけど、盗みとか日常茶飯事でしたしね。本当、私みたいな〝ろくでなし〟が生きて、メアリーみたいな子が殺されるなんて、世の中、間違ってますよ」
幼き日々では、それが当たり前だった。しかし、真っ当な生活をするようになってからは、やはり負い目がある。だからこそ、ホープの仕事を手伝いたかった。救われぬ子供達を守りたかった。……その想いは確かに立派だった。
それでも、正しい行いがいつも正しい結果をもたらすとは限らない。アンネは二つ、ミスを犯した。それは、パーソンズ救貧院へ〝直接〟行こうとしたこと。ホープは確かに子供達を助けようとしていたが、今夜はオークションの会場を潰すだけに留めようとした。致命的な情報の相違だった。もとい、アンネの勘違いだった。
そして、もう一つ。アンネも〝襲われる〟側だったのを忘れてしまったのだ。
「こんな夜更けに女の子は一人で散歩するなんて、危ないですよ?」
前方に人影が一つあった。ぞくり、とアンネの背筋に寒気が駆け抜ける。まるで、氷のナイフで脊髄を抉られたかのように。
こうして、アンネは今夜、魔人と出会う。
④
建物内はごく普通の屋敷だった。もしも、真実を知らなければゆっくりと内部を散歩したいぐらいに。しかし、ホープは今、銃撃戦の真っ最中だった。彼が廊下の曲がり角に身を屈めて隠れると、壁へと数発の弾丸が激突、白い石の欠片が粉塵を纏って辺りに飛び散った。干上がりそうになる喉奥。唾を飲み込み、RNAの弾倉を交換する。撃鉄を起こし、銃把を構え直し、再び撃てるようになって八秒。まだ、命は続いている。
セルベイはどこまで予測していたのだろうか。客が逃げるような悲鳴はまったく聞こえない。代わりに、ホープを殺そうとする軍人上がりの敵ばかりはぞろぞろと顔を出すのだ。
どうやら、あちらも総力戦らしい。単純な構図だけに、彼は加速する心臓のリズムに身を任せたのだ。
銃撃戦において、もっとも必要なのはリズムを読み取ることだ。無限に弾丸が撃てる銃器など存在しない。敵がどれだけ多くとも、必ず、〝隙〟が生まれる。弾薬が切れた時、装填に手間取った時、銃把を握る手に汗が滲み、ズボンで拭った時。数多の要因が合わさり、重なって生まれる死角を突く。ホープは弾丸が目の前、十インチ手前の床を抉ったとほぼ同時に腕だけを伸ばしてRNAの引き金を絞った。発射される弾丸の軌道は顔を引っ込めたせいで、見えないが、遠くで、悲鳴が一つ聞こえた。どうやら、上手く当たってくれたらしい。四十四口径なら、掠めただけでも肉を抉るだろう。広い室内、それでも、外と比べたら絶望的に狭い室内では、小銃の利点が著しく低下する。
「……何人倒した? 多分、十人は超えたと思うんだけどな」
硝煙と鉄錆びの臭いが一秒ごとに濃密になっていく。こんな場所で冷静に戦っている自分はなんて馬鹿野郎だと、ホープはつい呆れてしまう。
ここにいるのは悪人だ。人を金で買う奴らの集まりだ。アンネが言ったように、メアリーもこうして売られたのだろう。ならば、その悲しき歯車を彼が壊さないといけない。完膚なきまで、存続が不可能なまでに。だからこそ、彼は銃把を握っているのだから。
敵の怒号が、ホープの鼓膜を劈く。
「畜生! 殺せ! 殺せえええええええ!!」
「逃がすんじゃねえぞ! 切り刻んで豚の餌にしろ!」
「こっちが数で勝ってんだ! 必ず仕留めろ! 容赦するな!」
だが、叫ぼうとした敵の一人が、喉元を弾丸が貫かれて絶命したのだ。
「お前、もうちょいと本気になれよ。じゃないと、全員〝ハーメルンの笛吹き〟だ」
甘い音色ではなく、銃声と人々の絶叫が奏でる惨劇の終わり、そこには誰が立っているのだろうか?
ホープは、一度後ろに下がった。内部は場所によっては小さな迷路となっている。どこかに地下室があるかもしれない。敵がどれだけ潜んでいるか分からない以上は、一か所に留まるのは愚策だった。
そして、その判断は正解だった。前方の右手側のドアが開いた。現れたのは、スペンサーライフルを握った敵が四名。距離にして七ヤード。ホープは瞬時に左手にナイフを握った。RNAが、ほぼ反射で発砲される。一秒。敵の一人が左胸を撃たれ、その場に膝からくずおれる。二秒。こちらへと銃口を向けた敵の腕をナイフで浅く裂いた。この距離では、狙う必要がある銃よりも、振れば切れるナイフの方が断然早い。銃を取り零した敵へさらに発砲、これで二人、三秒。ホープの瞠目することとなる。
敵の一人がライフルを構えた。射線上に、仲間であろう男が一人いるのに。ホープは慌てて身を屈めた。RNAよりも数段甲高い銃声が頭上を走った。四秒、五秒。背後から後頭部を貫かれ、口から弾丸を発射した男がぐらりと横から倒れた。
「お前、それは卑怯だろ」
「阿呆。戦いに卑怯も糞もあるか」
六秒。正論に、ホープは笑うしかなかった。敵の男は小銃ではフリと悟ったのか、腰のホルスターからサーベルのように円弧を描く短剣を抜いた。獅子のような黄金の荒髪を靡かせ、敵が狂乱な笑みで口元を歪めた。
「標的一人を嬲り殺しにする〝つまんねえ〟仕事かと思えば、なかなか骨のある奴じゃねえか。これなら、ちょっとは楽しめそうだ!!」
しっかりと腰がすわった剣撃が地面と平行した軌道を描いて襲ってくる。刃に切れ味が無くとも、この速度なら、当たれば確実に骨は折れるだろう。動けなくなったところを襲われれば、待っているのは死だ。大きく後ろに跳んでホープはかわし、RNAをホルスターに戻した。代わりに、背中側へと回した腰のホルスターから刃渡り十二インチ強の短刀を引き抜いた。東洋、それも日本の〝かたな〟のように刃は細く、円弧であり、その刃紋は雪降る夜の細波のごとく流麗であり、寒気を覚えるほど、恐ろしい。
サーベルが毒蛇のように、あるいは荒鷲のようにホープを襲う。敵も己も剣一本に命を預けている。少しでも判断を誤れば、肉が裂かれ、鮮血が飛ぶ。ここにあるのは、死の押し付け合い、ひりつく焦燥と恐怖の争奪戦。奪うのは無論、相手の生命だ。
拳銃と違い、剣は直接、手に敵を殺す感触が絡みついてくる。その差は歴然としていた。
精神力の消耗が桁違いに早い。ホープが日頃、銃器を使っているのは戦場の始まりから終わりまで、精神を維持するためでもある。
「どうした小僧! さっきまでの威勢はどうした!!」
この敵、銃器よりも剣の方が得意としているらしい。サーベルの動きが尋常ではなく早い。ホープの短刀と刃が合わさる度に、火花が飛び散り、死の演武を橙色に彩った。ずしりと、手首に負荷がかかり、たまらく後退する。しかし、敵は読んでいたとばかりに、こちらの歩幅分、前に詰め、上段から刃を振り下ろしたのだ。
獅子髪の男が全体重を乗せた一撃。本来なら、頭部を頭蓋骨ごと両断される必殺。
しかし、今度は敵が瞠目することとなる。
「……悪いな。こっちは是が非でも子供達を助けないといけないんだ!」
右手で柄を握り、刀身へ左手を添える。生死の境界線が曖昧になり、言葉にはならない絶叫が肺の底から吐き出される。身体は灼熱の義憤に動かされ、なおもホープは一歩、前に踏み込んだ。体格で勝る敵を、今、圧倒する。驚愕に見開かれる大男の目を、赤銅髪の男が睨みつける。その瞳の奥に滾る怒りを見せつけるように。
「この世界は、もっと、優しくなるべきなんだ」
一ペニー劇場でも見れないような青臭い台詞こそ、ホープが戦う理由でもある。
弱き者が虐げられるなんて、間違っている。それが、子供なら尚更だ。
なら、〝どうにかしないといけない〟大人がいないなんて、嘘だろう?
口から吐き出されたのは、絶叫。死に物狂いの一振りがついに、交錯するだけだった敵の一撃を〝弾いた〟。上半身が仰け反り、大きくバランスを崩した敵との距離は八ヤード。
短刀の一歩一振りで凌駕する距離だ。だが、敵へ近付くのを嫌ったホープは後退すると同時に右手でRNAの銃把を握った。撃鉄へ指をかけ、ホルスターから完全に出た頃には銃口はすでに合わさり、撃鉄が完全に起きている。
そして、銃声。音が余韻を引くよりも速く、二度目の発砲。一発目に寄り添うように、左胸に着弾する。ちょうど、サーベルを両手で構え直した敵が、鬼の形相のまま、前のめりに倒れ、絶命した。
「俺の、勝ちだな」
荒くなった呼吸を整えようと、壁に背中を預けてホープが深呼吸を繰り返す。短刀をホルスターに戻し、RNAのローディング・レバーを少し下げて心棒をずらし、空になった回転式弾倉を外す。新しい弾倉と交換し、息が少しずつマシになってきた。だが、まだ戦いは終わっていない。
「ったく、勘弁してくれ」
ここにはいない神に愚痴を零し、ホープは再び走り出したのだ。
◇
そこはドルアリーレインでも〝人気の無い〟場所だった。元は、多くの借家が連なる通りだったのだが、ヤードによる〝住居施設の取り締まり〟により、人間が住むには危険と判断された借家が三十年前近くに、一斉放棄された。取り壊すこともなく、亡霊しか住んでいないような無人の通りが生まれ落ちたのだ。
アンネが連れて行かれたのは、大きな〝元貸宿〟だった。一階は大きな広場のようになっていて、五十人近くが押し込めるだろう。かつても、そうやって一晩一ペニーで利用されていたのだろう。もっとも、今ここにいるのは少女とセルベイだけだ。窓と開いたドアから差し込む月明りが唯一の光源である。
斧を両手に構えた男から逃げる気にはなれず、アンネは黙ってついて来たが、ついに限界だった。
「こんな人気の無いところに連れて来て。私を犯すつもりですかー?」
すると、セルベイがやや呆れたように首を横に振った。
「そういう趣味はありませんので」
強姦する気がないのか、それとも単純にこちらが趣味ではなかったのか。もしも後者なら、顔面をぶん殴ってやるとアンネは唸る。まるで、獰猛な猟犬のようだった。
その心にくすぶっていた義憤が、今、燃え上がった。
「あなたはどうして、子供達を糞野郎なんかに売ったんですか?」
激怒の炎が漏れるアンネの瞳に睨みつけられても、セルベイは飄々とした態度を崩しはしなかった。むしろ、自分にそんな怒りや疑問をぶつけられるのが心底理解出来ないといったふうに首を傾げたのだ。
「それはもちろん、生きるためですよ」
「生きる、ため?」
この時、アンネはセルベイを〝悪党〟だと思っていた。そして、悪党とは、何かしら目的があるものだ。しかし、そこに齟齬があった。目の前の男は、まるで酒場で愚痴でも零すように語り出したのだ。
「農民だって、豚や牛を育てて肉屋に売るでしょう。それと、同じです。売るのが人間になったからといって否定されるなど、おかしいじゃないですか。捨てられた子供が何十、何百ポンドの価値になる。私は儲かるし、買った客は喜ぶ。これの、どこがいけないんですか?」
――そんなことのためにメアリーは犠牲になったのか?
目の前の男は、悪党ではなかった。罪悪感を持たぬ〝糞野郎〟だった。盗みの自慢をする餓鬼の方がまだ利口だ。このセルベイという男は、人間として根本的なものが破綻している。きっと、救貧院でホープが見たという笑顔は本物なのだ。しかし、それは農夫がまるまると太った豚を見て、『よく育ったなー』と喜ぶ時の心と同じなのだ。真っ黒なのではない、むしろ透明な、だからこそ、濁った異端。
「ふざけるなっ!!」
萎えた足に力がこもる。アンネは、メアリーの頑張りを知っている。笑顔を知っている。彼女が夢見た世界を知っている。あの少女はけっして、あんな死に方をしてはいけない子だった。もっと、幸せになる世界があった。こんな男の金儲けのために殺されたと思うと、魂が焼かれるように怒りが全身に纏わりついた。自然と、右手にデリンジャーが抜かれる。
だが、銃口を向けられて、なお、セルベイは揺るがない。
「――理解出来ん。汝一人で、我に勝てるとでも?」
口調が変わる。いや、雰囲気そのものが変化した。冷えるロンドンの夜において、なおも凍えた不幸を孕んだ瞳に睨みつけられ、アンネは、恐怖を振り払うように叫んだ。
「そんなの、やってみないと分からないでしょうが!」
デリンジャーの引き金を絞る。四十一口径の反動は短銃身だと、腕に鋭い痛みを生じさせる。アンネの両腕が頭上よりも少し高い位置まで〝跳ね上がった〟。彼我の距離、十四ヤード。弾丸はやや横に曲がりながらもセルベイの腹部へと迫り、甲高い音が一つ。斧で弾丸が弾かれたと理解したのは、男の足元へ小粒の鉛が着弾したからだった。
現実を否定するように二発目を撃つも、同じように弾かれてしまう。弾丸を防ぐ人間に初めて出会ったアンネは顔面を蒼白に変えた。
「女を嬲るような趣味は無い。一重に、首をはねよう。痛みなく死ねるゆえに、それは天国と変わらん」
敵わないと、アンネは悟った。たとえ、何百、何千と戦っても、自分ではセルベイには勝てないと。
ここで、自分が殺されるのだろうか。メアリーの仇一つ取れずに、殺されるのだろうか。
死への恐怖よりも悔しさを覚えた。あの子のために、何一つ出来なかった自分が恨めしかった。
そして、ふと、彼のことが、ホープのことが気になった。あの人は、自分が死んだら、悲しんでくれるのだろうか。それとも、さっさとと別の女中を探すのだろうか。いやいや、そんな薄情な人じゃないでしょう。一緒にお酒だって飲んだし、食事も紅茶も美味しいって言ってくれるし。
(そういえば、私が死んだら、誰が朝の紅茶を淹れるんでしょうか。……ごめんなさい、ホープさん。私、駄目な女中ですよね。一方的に復讐を頼んで、こんな様で。次に雇う女中は、もっと立派な方を選んでくださいね)
目の前に、今、斧が降り――――奇妙に冷静で――――――――――肩に触れ合った優しさを思い出し、
――運命を切り裂く銃声が一発。
アンネの脳天を砕こうとした斧が弾かれるように軌道を変えた。ちょうど、セルベイの左腕付近を刃で覆うように。彼が腕を交差するように防御しなければ、飛来した弾丸が腕越しに心臓を抉っていただろう。何が何だか分からずに呆けるアンネの耳に、懐かしい声が届いたのだ。
「悪いが、そんな女よりも俺と躍ってくれよ」
惨劇の舞台に、足音が一つ。暗闇に落ちるはずだった少女の運命を切り裂き、新たな道を開くように、男が〝間に合った〟のだ。セルベイが両腕をだらりと下げ、唇と頬を引き攣らせるように笑みを浮かべた。
「来たか」
どれだけ走ったのだろう。肩で息をして、こんなにも寒いというのに汗で前髪を額にはりつけ、帽子も捨てて、彼は、ホープは、アンネの危機を覆した。その右手にRNAを構え、セルベイを睨みつける。
「上等じゃねえか」
⑤
数十分前。屋敷から出てきたホープへ、血相を変えたケビンが駆け寄ってきた。曰く、家から出たアンネがドルアリーレインで男に攫われたと。彼は、制止を振り切って駆け出した。
当てなどなかった。それでも、走った。そうせずにいられなかった。
そして、間に合った。神など信じていないが、それでも奇跡だと思った。
その光景に、怒りよりも先に、困惑よりも先に、ホープは安堵を覚えた。目の前には、まだ生きている少女がいる。命を失わずに済んだ。だから、離れ離れにはならない。胸郭が暴れて息もろくに出来ないのに、自然と頬が緩んでしまった。それは、歓喜だった。
「御主人様!」
涙目になったアンネの歓喜に、ホープはつい意地悪する。
「……お前、なんでこんなところにいるんだ?」
「えーっと、色々アリマシテ」
口調がやや固くなっていた。どうやら、色々とこちらの情報がばれていたらしい。まあ、それはこの際だから、置いておこう。今は、あの男を〝どうにかしないといけない〟のだから。
「やはり、汝は間に合ったか」
出会った時とは口調も格好も変わっているセルベイ牧師に、ホープは軽く肩を竦めた。
「随分とカッコ良くなったじゃねえか。それが、本当のお前かい?」
すると、セルベイは酷い冗談を聞いたばかりに苦く笑った。いや、嘲ったのだ。
「嘘も本当も無い。用途によって、使い分けているだけのこと。それは、汝とて、同じなはずだ。そうだろう? ホープ。……いや、ホープ・R・K・エンフィールド。今は途絶えた騎士の一族、エンフィールド家、最後の生き残りよ」
久し振りに聞いた己のフルネームに、ホープは目を細めた。いつもは忘れている名前で、今更言われたところで、実はぴんとこない。だから、アンネが息を飲んで仰天している姿がなんとなく面白かった。セルベイは、両手に構えた斧の柄を軽く握り直し、ゆらりと上半身を揺らす。
「汝を倒せば、随分と仕事がし易くなるだろうな」
それが、彼をここに呼んだ理由だろう。アンネを尾行していたヤードが無傷で帰ってきたのが、良い証拠だ。
だが、大人しく殺される程、ホープは馬鹿では無い。
「止めておけ。俺は今、滅茶苦茶、気分が悪い」
子供達が食い物にされた恨み、そして、
「お前、アンネを傷付けたな?」
少女の腫れた頬に激怒を覚える。アンネは生きている。だが、無事では無い。静かに燃えていた怒りの炎が今、烈火へと昇華する。身体に蓄積された疲弊さえも燃え上がらせるような憤怒が今、ホープの身を包み、心胆を強制的に奮い立たせる。
「女中だと調べていたが、よもや〝恋仲〟だったか?」
「それは違う。趣味じゃねえ」
即答だった。アンネが何か憤慨しているようだが、この際、無視しておく。代わりに、迅雷の速度で右手が霞み、腰のホルスターからRNAを引き抜いたのだ。
敵の呼吸に合わせた、完全な不意討ちだ。そこら辺のゴロツキなら、まず一撃で殺せる技である。――なのに、当然のように声が返ってきたのだ。
「ほう、早いな。これは驚きだ」
だが、その口調に感心はあれど、驚愕は無い。珍しいミュージカルでも見たような、その程度の感想だった。ホープはさり気なくアンネとセルベイの距離を広げるように銃口の向きを微妙に変える。
「なら、こいつでどうだ?」
腰に右腕を当てるように銃を固定し、左手を撃鉄に〝叩きつける〟。音がほぼ繋がり、連なり、弾丸が三発、立て続けに放たれる。クイックドロウにも似た、ファニングと呼ばれる西部で生まれた曲芸撃ちの一つだ。弾丸を高速で撃ち出す、必殺の一柱である破壊の化身だ。セルベイの左胸に迫り、甲高い金属音と火花が石楠花の花弁と散った。その技に、彼は声を失った。あの敵は、あろうことか、斧の刃で弾丸を弾いたのだ。少しでも角度を間違えれば、刃の表面を〝滑った〟弾丸が四肢を掠めるだろう。なのに、こちらの放った弾丸の軌道を完璧に見切った状態で弾くのだ。これを、神技と言わず、なんと言おうか。
「お前なあ、そいつはいくらなんでも反則だろ」
「銃器は嫌いでな。次は、こちらの〝本気〟を見せよう」
躊躇無くセルベイがこちらへ疾走する。弾丸をただ当てるだけでは無効だと、ホープはRNAをホルスターに戻し、短刀を引き抜いた。ともかく、あの厄介な斧のどちらかを破壊するしかない。どうにかしてアドバンテージを作り、RNAで仕留める。シンプルにして、最良とも言える選択だった。敵が、ただの達人で無ければ。
斧の一振りは爆発的な加速により、まるで質量を持った魔風だった。真上から振り下ろされた斧の一撃を、十字を描くように短刀が横薙ぎに防ぐ。だが、手首に襲い掛かった衝撃に、ホープは歯噛みし、顔をしかめる。まるで、巨大な岩を殴ったかのような衝撃だった。こんな一撃、何度も防げるものではない。三度も受ければ、手首が壊れてしまうだろう。本来、これだけの一撃なら、どうしても隙が生じる。なのに、セルベイは二本の斧を使い、身体全身を独楽のように回して攻撃するのだ。
回避と攻撃、攻撃と防御をほぼ同時に行う絶技に、ホープの頬に冷たい汗が流れた。この男、やはり強い。
「お前、これだけ強いなら、他にいくらでも〝生き方〟があっただろう。なんで、子供を売るような真似をしたんだ?」
「なに、簡単なこと。その方が、金になるからだ」
もっともな言い分だった。ホープはこの事件で百ポンド以上の金を手に入れた。しかし、命の危険は〝相当〟で、いつ死ぬか分かったものではない。なら、子供を育てるだけで年間に一千ポンド以上も稼げるのなら、儲かるのは断然に後者だ。力ある者が必ず、勇者や魔王になるわけではない。悪党として、ひどく〝合理的〟だったから、力に訴えている身としては、負けた気分になった。
「残念だが、お前の企みはここで終わりだよ」
短刀を右手に一本に構え直し、ホープは深く、細く息を吐いた。吸う空気はあまりにも冷たく、なのに胸の奥には溶岩のような灼熱の怒りが湧き上げているのだ。目の前の悪人を生かしておくわけにはいかない。もしも逃がせば、かならず誰かが犠牲になる。それも、幼き子供が。もしかすると、アンネのように誰かを助けようと奮闘した者がいたかもしれない。そして、無惨にも殺された者がいたかもしれない。
腕と刃が一直線に伸びた槍のような一撃をホープが放ち、瞬時に身を反転させるように横へ回避する。半秒前までいた地面に斧が振り下ろされ、刃が深々と突き刺さった。しかし、残ったもう一本の斧がこちらを追跡するように伸びる。辛くもかわすが、ここまで死角がないと笑うしかない。
「雄々しき騎士よ。残念だが、汝では我に勝てん」
「なにか根拠があるんだったら、聞かせて欲しいね」
短刀を振るい、踏み込みと同時に横薙ぎへ払う。相手の胴を断たんと走る刃へ、セルベイが斧を合わせた。澄んだ地金の音に衝撃が重なるように腕が痺れ、ホープはついに、短刀を落とした。もしも、冷静な判断が〝可能〟だったら、一撃の重さで勝る相手に大振りの攻撃などしなかっただろう。なのに、致命的な判断ミスをしてしまった。右手を左手で押さえて歯噛みするホープへ、さらに二振りの斧が迫る。
後退してやり過ごそうとするものの、足が鉛のように重かった。いや、違う。体中の動きが緩慢になっていたのだ。それは、感情論ではどうにもならなくなった疲労だった。先の戦闘、そして、ここまで走ってきたこと。全ての要因が合わさった先に待つのは、体力と精神力の消耗だった。たいして、セルベイはどうだ? あの男はまったく疲れていないのではないのか。二人の実力に、それほど大きな差はなかった、しかし、コンディションの差が、今、致命的な悪手となってしまう。
コートの上から右足の太股を浅く裂かれ、ホープの動きが鈍る。そこへ、内臓殺しの一撃が迫り、咄嗟に地面へ転がった。だが、間に合わなかった。数インチ、肉を裂かれる。飛び散る鮮血に、アンネが悲鳴を上げた。
「ホープさん!!」
身体中を固い地面に擦り、ホープはなんとか片膝で立つ。頭がひどく鈍い。上手く、思考の歯車が回ってくれない。込み上げてきた吐き気に、気が狂いそうになる。激痛が身体中を鎖のように縛って、歯を食い縛ってなんとか立ち上がる。その間、攻撃はなかった。少しだけ離れた位置で、セルベイが斧を胸の前で交差するように立っている。
「……とどめを刺さねえのか?」
殺せるはずだった。侮っているのだろうか。すると、セルベイが口調を元に戻し、紅茶でも誘うように言ったのだ。
「取引をしましょう。私と、一緒に来ませんか?」
「なに言ってんだこの阿呆は」
訝しむホープへ、セルベイが淡々と語り出すのだ。
「ここで殺すには惜しい。あなたには、私の〝仕事〟に協力して欲しいのです。たまにくる〝塵〟を掃除するだけの簡単な仕事ですよ。報酬は、年で五百ポンドなんてどうでしょうか? 今の生活よりも、よほど幸福だと思いますよ? これだけあれば、上等な酒も女も、なんだって手に入る。そこの女よりも優秀な女中だって雇えるでしょう。悪くない提案だと思うのですが。死ぬよりも、良い夢を見たいでしょう?」
急に始まった勧誘に、ホープはさりげなく右手を下げた。ちょうど、ホルスターの真横になるように。
もしも、あの男についていけば、確かに今よりも儲けられるかもしれない。上等な酒を飲み、上等な女をいくらでも抱けるかもしれない。ホープは、首だけを少しだけ後ろに曲げた。そこには、地面に腰を下ろしたままのアンネがいた。じっと、こちらを見ていた。瞳には涙が流れていた。ここにいて、意識を保っているだけでも奇跡だろう。――彼の勝利を信じて祈ってくれる人がいる。逃げ出さないで待ってくれる女がいる。言葉にすればたったそれだけのことなのに。萎えた足にしっかりと力が注がれるだけには嬉しかった。
そして、相手を嘲弄する笑みを浮かべて言ったのだ。
「そんな話に俺が乗ると思うか? 俺はな、手前なんかじゃ相手にもされない最高の女を知っている。……それにだ。最高の酒っていうのは、金貨を積んで手に入れるものじゃない。お前、安いビール片手にテーブルを囲む〝温かさ〟を知ってるか?」
金が全てではない。大切なのは、出会いだ。そうでなければ、ホープはトファニアという女を知らずに生きただろう。仲間がいなければ、どうやって乾杯すればいいというのか。
アンネと飲む酒は格別だ。それはきっと、彼女の〝魅力〟なのだ。ゆえに、今の生活を手放すなど、無理な話だ。
一度、温もりを知ってしまえば、冷たさに耐えられるものではない。
「そうか。なら、死ね」
セルベイが瞳を暗く輝かせ、ホープへ迫る。だが、この戦場で、セルベイは初めて、瞠目することとなる。
銃声が一つ。それは正しく、ホープの命を救った。
弾丸が、ホープの真後ろから飛来した。セルベイは斧を振るって弾丸を弾き、その発射点を睨みつけた。デリンジャーの銃口から硝煙が上る向こう側で、アンネが不敵な笑みを浮かべていたのだ。少女は二本の足で立ち上がっていた。
「女だって油断すると、痛い目にあいますよ?」
その言葉に、セルベイ以上に反応したのはホープだった。胸の奥から込み上げてきたのは、恥ずかしさと悔しさだった。アンネは逃げることも出来たはずだった。むしろ、彼女には逃げて欲しかった。なのに、この少女は逃げるどころか、敵へ立ち向かった。己の主人は殺される寸前だったのに、それを助けた。いった、どれだけの勇気だっただろうか。どれだけの恐怖を振り切ったのだろうか。
アンネの勇気に比べ、自分はどうだ? この体たらくで、立派な主になどになれるのか?
萎えた足に力を込める。RNAに残っている弾丸が三発だっただろうか。一秒ごとに傷が痛み、熱とも電流とも区別がつかない苦しみが身体を襲う。だが、アンネの前で、弱い所など見せられないとホープは立ち上がった。それは、男の意地だった。
「ホープさん。私、貴方と死ぬから怖くありません。そういう運命なら、喜んで受け入れます」
前向きなのか後ろ向きなのか分からないアンネの言葉に、ホープは歌うように言った。
「風が東へ吹くときは人にも動物にもいいことがない。風が北へ吹くときは腕利きの漁師も漁をしない。風が南へ吹くときは魚でさえ餌を逃してしまう。風が西へ吹くときは誰にとっても万々歳。運命っていうのは風みたいなもんだ。背中を押してくれるときもあるが、前から吹けば目に砂埃が入るだろうさ。……けどな、俺達はなんだ? 人間だろうが。風が邪魔なら、足を踏ん張れ、腕を使え、頭を使え。自分に都合の悪い事を全部、運命って言葉〝なんか〟で一括りにするんじゃねえよ」
マザーグースの歌だ。そのせいか、アンネが『そういうの、私が言う側でしょうが』と苦笑した。そして、二人は敵を向き合う。二対一が卑怯などとは思わない。ここは戦場で、アンネはホープを信じた。相対的に、セルベイが一人から〝独り〟になっただけのこと。斧を両手に持った魔人は、大袈裟に肩を竦めて、腰を軽く落とした。
「では、汝ら二人、同じように首をはねて殺そうか」
客観的に見れば、あきらかにこちらが不利だ。傷付いた身体、そして戦闘経験皆無だろうアンネ。なのに、何故だろう。負ける気がしない。
「ホープさん。なにか手はありますか?」
「あると言えばある。けど、五秒時間が欲しい」
戦いを熟知した兵士同士の作戦会議ではない。ただ、ホープが事実を述べただけだった。それでも、アンネから返ってきた言葉は最高だった。
「じゃあ、合図をください。私が、あいつの時間を止めます」
理屈も根拠も無い。むしろ、素人の女中の言葉だ。肯定する方が〝馬鹿げている〟。だが、少なくとも彼にとっては信じるに値した。それだけの熱が、アンネの瞳にはあった。ホープは、地面に落ちていた短刀を拾い、犬歯を見せるように笑う。
「信じるぞ」
「任せてください!」
アンネの声と共に地面を蹴った。同時に、セルベイもこちらに肉薄する。一秒、二秒。血塗りの斧と白刃が交錯する。腕に響く衝撃は筋肉を軋ませ、骨をも揺らす。二度、三度と受けるも、やはり届かない。敵の目は、こちらを憐れんでいるようにも見えた。それはそうだろう。戦場で、女の助けを求めたのだから。しかし、忘れてはいけない。このロンドンという国を統治しているのは女王だ。この国の女は、強者が揃っている。
七秒。真上から振り下ろし、横薙ぎの斧を防いだ反動を利用して後方に大きく下がる。ホープは、ここに全てを賭けた。
「今だ!」
アンネがデリンジャーを使うことも考慮して、射線を開ける。セルベイが構わずに踏み込んできた。四十一口径の弾丸だろうが、弾くのは容易いと考慮したのだろう。その判断は正解だった。この少女が〝腕の立つ、強者〟だったのなら。
少女の指が引き金に掛けられ、炸裂音。橙色のマズルフラッシュに〝黒煙〟が混ざる。まるで、ランプから煙の精霊が現れたかのように、魔神の拳が振るわれた。射線を読み、斧を構えていたセルベイの上半身が朦々とした煙に飲み込まれる。アンネが左手の中指を立てて、舌を出した。
「甘いんだよ糞野郎。貧困生まれを舐めんじゃねえ!」
デリンジャーに使用される弾薬とは、一般的に真鍮の薬莢に鉛の弾丸が詰まった物だ。ただし、理屈で言えば、薬莢に入りさえすれば大抵の〝物〟が撃てる。例えば、調理器具に使う炭を砕いて熱に弱い樹脂で固めたような物体でも。短銃身ゆえに、拡散しやすく、銃への負荷も無い。弾丸を湯水のように使える兵士なら、まず思い付かない。狩りを貴族の遊びだと評している輩でも無理だろう。ホープのように、なまじ実力がある者では考えもしないだろう。
小細工上等。生きるためにはどんな手段をも使う、ロンドン路地裏貧困銃術。
だが、煙が内側から四散するように〝切れた〟。セルベイが振るった斧が煙を纏わりつかせながら、視界を文字通り切り開いたのだ。男の顔に、憤怒が浮かんだのをアンネは見て、――五秒が経ち、運命を決めた。
「上等だ、アンネ」
短刀を捨て、ホープはRNAを抜いていた。銃把を保持した右腕を腰に当てるように固定し、銃口はセルベイに向けられていた。必要だった五秒とは、すなわち、精神の強化と固定。必ず当てる覚悟が欲しかった。脳が最大限に加速する。射撃に余計な情報はいらないと、音は遠く、匂いは消え、世界から色さえ失われる。痛みも遮断され、縁から燃える紙のように視界が狭まり、左腕が撃鉄へ叩きつけられる。
――魔狼の咆哮となった弾丸が闇夜を切り裂く。
セルベイの口から血の塊が吐き出された。その腹部に、深々と弾丸が埋め込まれていたのだ。あの一瞬、彼は弾倉に残っていた三発全てを一点へ撃った。弾かんと斧が動いたものの、二発の弾丸で無理矢理、軌道をこじ開けられ、一発の弾丸が届いた。万全のセルベイなら容易く対処しただろうが、アンネの一撃が敵の困惑を生み出した。元より、弾丸を弾きなど荒技に等しい。船の先端を少し蹴るだけで進路を失うように。少しの〝運命〟が全てを覆した。
ホープにとっても、いつもなら、もっと簡単に使えた技だった。傷を負った彼の〝足りない集中力〟を、アンネが命を賭けて稼いだ。しかし、セルベイは独りだった。そこに、決定的な勝敗を別けた要因があった。
斧を取り零しそうになるセルベイへ、ホープは弾倉を交換したRNAを向ける。
彼我の距離は十ヤード。もはや、銃の間合いだった。そして、もうセルベイは弾丸を弾く技が使えない。
撃鉄が落とされる刹那、二人の目が合った。
沈黙の間に言葉はなかった。
そして、今日最後の弾丸が放たれたのだ。
⑥
「そう、か。私の、負け、ですか」
仰向けに倒れたセルベイが薄闇の空を見上げて言う。その声に覇気は無く、いつ死んでもおかしくはなかった。それでも、彼は、微笑しながら語り出す。ホープは止めをささなかった。左胸に埋め込まれた弾丸が一発二発増えたところで、何も変わりはしないからだ。
胸を赤黒く染めたセルベイへ、歩み寄ったのは、一人の少女だった。
「罪を悔やむ気にはなれましたか?」
アンネがセルベイを見下ろした。しかし、男は困ったように片頬を吊りあげた。
「それは無理です。私は最初から、自分の行いを罪と認識していないのですから」
初めから無い物は無い。だから、彼は悪党になれず、狂人のままだった。アンネは苦々しく顔を歪め、それでも、怒りに任せてデリンジャーを撃つような真似はしなかった。まるで、この敵が息絶えるまでの時間が、失われた子供達の命への黙祷となるように。
ホープが、これから逝く男へ何も言う気になれないでいると、セルベイの方から声をかけたのだ。
「……子供達は、どうなりますか?」
表向き、セルベイは優しい牧師なのだろう。子供達の懐きようを見れば分かる。もしも彼がいなくなれば、酷いショックを受けるだろう。しかし、ホープだって殺人の能しかないロクデナシではない。
「他の救貧院で養うように〝頼んである〟。お前は。病気があったことにして、実家がある田舎町へ戻ったって〝設定〟だ」
子供達の心を守るためには、この男を犯罪者に出来はしない。人身売買には、多くの人間が関わっている。それこそ、中には高位の貴族もいただろう。下手に事を大きくすれば、それは政治問題になり、ホープの弾丸は届かない。だからこそ、事態を最小限に留めるにはこれしかない。
「そう、ですか……」
セルベイは小さく嘆息し、目蓋を閉じた。そして、
「よかった」
この場ではもっとも相応しくない言葉を呟き、静かに、息を引き取ったのだった。
「この人、子供を売るのは豚を育てるのと同じだって言ってましたよ。つまりは、〝そういうこと〟なんですね……」
アンネがやりきれない顔のまま、死体から顔を背けた。
ホープは、なんとなく、セルベイが言った言葉の意味を理解した。風邪を引いた農夫は、自分の身体が動かない間、誰が豚や野菜の世話をするのか心配になるだろう。もしも、子供達が手伝ってくれたら喜ぶだろう。つまりは、〝そういうことだった〟のだ。
自分勝手で、狂っていて、それでも真っ直ぐだった。ホープはRNAをホルスターにしまい、苦く顔をしかめた。
死体となったセルベイの顔には安堵があり、とてもではないが、〝悪党〟には見えなかったのだ。
⑦
「終わったな……」
地面に大の字になってぶっ倒れたホープが言った。アンネが遅れて、その場に膝からがっくりとくずおれた。緊張が解けてしまったのだろう。身体中が震えている。まるで、極寒の世界に身を落としたかのように。十数ヤード先に倒れているセルベイ牧師は当然ながら、なにも語らない。あそこにあるのは、ただの死体に過ぎない。
「ねえ、ホープさん」
「なんだ?」
アンネがベッドで横にでもなるように体勢を崩し、こちらの右隣へ寝そべった。
ちょうど、寄り添うように。
「きっと、メアリーが死んだのは私のせいなんです。私が、あの子に優しくせずに冷たく接していたら、あの子は屋敷から逃げていたかもしれない。なのに、私があの子を屋敷に繋いでしまった。だから、私が殺したようなものなんです」
暴論だろうか。それとも、有り得た未来か。ホープはアンネの顔を見ずに、目蓋を閉じた。
「そうだったかもしれないな。けど、逃げていれば、逃げていたらで、別の不幸があったはずだ。無知の小さい子供が生きていける程、ロンドンは甘くない。……それに、お前はあの子を助けたかったんだろう? なら、その気持ちを否定しちゃいけないよ」
言うだから簡単で、自分でもいい加減だと思う。
それでも、メアリーのために奮闘したアンネの姿は、否定してはいけない。
ホープが目蓋を開けると、アンネが困ったように苦笑していたのだ。
そして、気恥ずかしそうに話題を逸らす。
「騎士の家系って、なんですか?」
直球過ぎる言葉に、ホープは隠すのも馬鹿らしくなってつい言ってしまう。だが、この時の彼はまだ知らない。本当は馬鹿らしくなったのではなく、少女を〝信頼〟したから言ったことに。
「俺は〝没落貴族〟ってことさ。親父が軍人だったが、クリミア戦争で足を悪くして、戦えなくなった。国からの税金も酷くなって、とうとう事業がたち回らなくなった。そうして、過去の栄光にすがって酒に溺れて、遅くに生まれた俺へ、呪詛のように言うのさ。騎士の誇りだ、軍人の正義だってな」
それが、当時のホープには〝おかしい〟と感じた。正義を行使するには、握り拳一つあればいい。貴族の肩書きなどいらない。この世界には、あまりにも悪が溢れている。それも、本当の意味で正義を欲している場所に、光は届いていない。
「……それで、ついに屋敷を手放すことになって、イギリスの田舎町で慎ましく暮らそうってなった時に、俺は家を捨てた。まあ、家出したんだよ。どうせ、長男じゃなかったし、次男坊が一人いなくなっても、困らなかっただろうよ」
それから、銃を手に入れ、自分なりに正義を探してきた。途中、ケビンに出会い、ジョージに出会い、トファニアと出会い、アンネと出会った。そうして、彼の人生は上手い事、回っている。
「俺は、もうちょいと気軽な〝正義の味方〟になりたかった。国と国の戦いじゃなくて、それこそ、小さい子供のために戦えるような男になりたかった。けど、人殺しは覚えないといけないし、金も稼がないといけない。色々と苦労しているよ」
すると、アンネがやや呆れたように言った。
「あなたって、いつもこんなことをしているんですか?」
「いつもじゃないよ。けれど、珍しいことでもない」
「じゃあ、あなたってきっと、馬鹿なんですね」
身も蓋も無い発言に、ホープは苦笑するしかなかった。まったくもって、その通りだったからだ。命を賭けて戦うのは英雄の所業だ。けれど、彼はそんな大層な男ではない。金を貰うのが前提だし、なにより、そこまで正義に徹するなど出来はしない。
彼の戦いを称えてくれる人はいない。彼は、悪竜を倒す騎士ではない。
それでも、
「……ありがとうございます。私の復讐を叶えてくれて」
感謝の言葉がかけられるぐらいには、この世界は、地獄じゃない。
「このままだと、朝になっちゃうな。その前に、帰らないとな」
「そうですね。朝は、紅茶が飲みたいですね」
「淹れてくれるか?」
「もちろん。だって、私は貴方の女中ですから」
そういえば、戦場で敵では無い誰かの声を聞くのは、これが初めてかもしれない。それが女中なら、なおさらだ。アンネがおもむろに立ち上がり、こちらに手を伸ばす。ホープは素直に手を握り、激痛に顔をしかめながらもなんとか両足で立てた。
「肩、貸してあげましょう」
「どうも。これじゃあ、いつもと逆だな」
「ふふ、そうですね」
アンネから肩を支えて貰うと、少女がどれだけ華奢なのか、はっきりと感じ取れた。そして、温もりと柔らかさも同じ。つい、甘えたくなる心を誤魔化すように、ホープは上を向いた。空は薄い瑠璃色に変わり、あと一時間もしないうちに太陽が昇るだろう。
闇の世界が遠く。だが、それは終わりでは無い。こんな夜が、何度となく、これからも続くだろう。ホープが決めたのは、そういう道だ。
だから、家に帰ったら、美味しい紅茶を淹れてもらおう。砂糖を多めに入れて、新鮮なミルクも足そう。少しだけ温くなった紅茶をゆっくり飲んで、そうだ御菓子も食べたい。
さっきまで殺し合いをしていたというのに、もう別のことを考えている自分がおかしくて、ホープは思わず笑ってしまう。すると、アンネもつられるように笑ったのだ。
戦場を後にしたというのに、二人は暫くの間、笑い合う。まるで、お互いの生を感じるかのように。
遠くで汽笛が鳴った。長く長く、されど、甲高く、そして力強く。ロンドンを横断する蒸気機関車が、今日も街を走るために雄々しく、咆哮を上げていたのだ。
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