第3章


               ①


 ピィカディリー街に足を踏み入れた時点で、誰かが尾行してきたのは気がついていた。元より、誰かから恨みを買うのが多い仕事柄だ。自然と、気配を察知する能力が鋭敏化し、目で見なくとも〝視える〟のだ。もっとも、その相手が、己が雇った女中であるアンネとまでは分からなかった。ゆえに、裏切られたと感じたせいか、その心に暗い影が落ちる。

 ああ、こいつもまた俺を裏切るのかと。なら、深く考えなくてもいいだろう。

「手前、なんでここにいる?」

 この時、腰のホルスターから銃を抜かなかった自分を褒めてやりたい気分だった。なにせ、アンネはこの期に及んで口笛を吹いて誤魔化そうとしたのだから。ホープは一度、苛立ちや怒りを溜め息と一緒に肺の底から押し出して、冷静さを失わないように心掛ける。傍目から見れば、少女を脅しているようにも見えるが、そんな光景、貧困窟では珍しくもなんともない。どちらにせよ、こんな狭い路地裏に人は来ないだろうが。

 つまりは、ゆっくりと語り合うには絶好の場所だった。アンネの目が辺りに泳ぐも、助けてくれるものなどなにもない。ややあって、頬を引き攣らせるように笑った。無理矢理、誤魔化そうとしていた。

「い、いやー、ちょっと一ペニー劇場を探していましてね。シェイクスピアのリチャード三世ってすっごく面白い演目なんですよ。けど屋敷に大切な大切な財布を忘れてしまいまして困ってたんです。そしたら、ホープさんがいたのでこれ幸いとお金を借りようとして」

「シェイクスピアとリチャード三世は関係ないだろ。それと、俺がいた場所はソーホーでも高級な区域だ。安劇がある場所から少なくとも二百ヤードは離れているんだが、よく見付けられたな。随分と目が良いもんだ。……で、なにが目的なんだ?」

「娼館なんていやらしい! いーけないんだーいけないんだー。カルクラフトに言ってやろー」

「勉強不足だぜ馬鹿頭。ニューゲイト監獄の死刑執行人は娼館が大好物で、とくに売春が大好きな奴が多いんだぜ。それで、何が目的なんだ? ――そろそろ、俺も我慢の限界なんだが、この力が入っちまった右手の人差し指をどうしたら二人にとって有益だと思う?」

 わざとらしい動作でコートの上からレミントン・ニューモデルアーミーをぽんぽんと二回叩く。それでも、返答は無い。ホープは嘆息零し、眼光鋭く少女を睨みつける。

 アンネの目が泳ぐ。まるで、魚のように右へ左へ。顔には脂汗が浮かび、何かを隠しているのは明白だった。それも、かなりのトラブルを抱えている。そうでなければ、娼館まで尾行してこないだろうし、変な追手に襲われることも無ければ、ここまで逃げる必要もなかっただろう。

極力、仕事以外で暴力は使いたくない。だが、苛立ちが積っていき、ホープの口調は自然と荒くなってきた。

「理由を言え。どうして、こんなことをした?」

 だが、アンネは答えなかった。いや、答えられなかったのだ。――薄闇を切り裂くように、銃声が二人の足元を掠めたのだから。ホープは瞬時に振り返り、反射的に腰のホルスターからRNAを引き抜いた。心臓が戦場の速さを思い出し、身体の芯を、冷たい殺意が満たす。

 淀みなく撃鉄を起こし、黒曜の眼光が収斂され、余計な思考が全てこそげ落ちる。二秒とかからず敵を発見した。線の細い男が、建物の三階からこちらを見下ろすようにライフル銃を構えていたのだ。名はスペンサーライフル。アメリカで開発された最初期のレバーアクション(トリガーガードの代わりに引き金を覆うレバーを操作して排莢と装填をする方式の銃器)式の小銃だった。

 彼我の距離、三十ヤード。敵が忌ま忌ましそうに舌打ちし、撃鉄を半分起こした。続けて、レバーを縦に銃口側へ倒す、空薬莢が銃身後部の真上から排出され、レバーが元の位置に戻る。機関内部で、薬室に新たな弾薬が装填されただろう。

 撃鉄が完全に起こされる数瞬、ホープは既にRNAの引き金を絞っていた。撃鉄が倒れ、雷管が黒色火薬を点火させる。緋色と橙色のマズルフラッシュと硝煙の渦を貫くように、四十四口径の弾丸が射出する。ほぼ一直線に大気を裂き、吸い込まれるように敵の額を貫き、そのまま窓の向こう側に悲鳴も無く倒れた。

「あれは、お前の仲間か?」

「ち、ちち、違いますよっ!」

 顔を蒼白に変えたアンネがぶんぶんと首を横に振った。証拠は無いが、嘘には見えない。

 そもそも、ただホープを仕留めるだけなら、アンネ自身が拙い尾行をする理由などいらないのだから。適当な孤児に三ペンスでも渡して、あの男を追いかけろとでも命令すれば済む。

「……ともかく逃げるぞ。ついてこい」

 三十ヤードの距離を拳銃で凌駕するだけの腕前を持つホープだったが、撤退を選らんだ。

 敵が一人とは限らない。ここで大人しくしていれば、また弾丸が飛んでくる危険性があるだろう。スペンサーライフルは撃鉄を二段階に起こす動作のせいで、次弾を撃つのに手間がかかる方式だから彼のRNAが間に合ったものの、そんな幸運がまた訪れるとは限らない。

 そして、幸運が訪れなければ、待っているのは〝死〟だ。スペンサーライフルが扱う弾薬は〝56‐56 Spencer〟。大口径のリムファイア弾薬だ。当たれば牛の大腿骨だろうが容易に砕く。少しでも掠めれば肉裂け、致命傷に陥るだろう。

 誰が狙ったのか? ……思い当たる節が有り過ぎて絞れない。

「に、逃げるってどこへ」

「とにかく逃げるんだ。早く!」

 アンネの手を引き、ホープは駆け出す。だが、女中の困惑した瞳に、強き光が灯ったのだ。

「わ、私に、私に、良い考えがあります!!」

 この世で一番信用できない言葉のベスト三位だった。ちなみに、二位は裁判官の『平等に裁きます』で一位は牛乳屋の『うちは混ぜ物無しなのに他店より安い』である。ホープは訝しげに眉を潜めるも、アンネに続きを話せと顎で促がした。だが、何を言うよりも先に少女はこちらの手を引っ張ったのだ。躊躇する素振りを一斉見せずに路地裏を駆けて行く。とにかく客を呼び込めば儲かると違法建築が増加する売春地区の路地裏は狭く、深く、いりくねった迷路だ。だというのに、少女はするすると走る。一度も突き当たりに出てしまうようなロスをせず、首を振って道を探すような素振りなど無く、一度も足を止めない。まるで、この場所に訪れたのが一度や二度ではないかのように。無策でも、無謀でも無茶でもないようだ。

 だから、今は信じるしかなかった。


               ②


 酸素を求めて暴れる胸郭がようやく落ち着きを取り戻すだけの時間が経過した。ホープは見えぬ敵に対処するため、あの路地裏から一度も座らなかった。足を軽く屈伸させ、筋肉の感触を確かめる程度だった。思い出したようにコートのポケットに左手を伸ばして懐中時計を取り出す。すでに時刻は夜の六時を過ぎていた。このまま段々と暗くなり、文字通り闇討ちには打ってつけの時間帯になるだろう。そして、そんな動作と思考回路を回す行為を、彼は二十分の内に七度繰り返していた。

 右手には、RNAが握られっ放しだった。クラシカルな木製のグリップが汗を吸い、銃が手に張り付いているかのようだった。もしも無理に剥がそうとすれば、恐怖が戦意と勇気を道連れにするかのようで、撃鉄は起きたままだった。

 ドアをノックする音がした。三回軽く、一度強く、そして、二回リズム良く。一瞬だけ硬直した筋肉が、安堵で緩む。

「入れ」

 音も無くゆっくりとドアが開き、部屋に入ってきたのはアンネだった。彼女と、合図を決めていたのだ。

「用心深いんですね、ホープさんって」

ドアを閉め、アンネは薄く笑ったのだ。そこに微かな妖艶さがあったのを、ホープは気のせいだと判断してコートの襟元を左手一本で正す。

「ここならいいでしょう? うん。秘密話には持ってこいです」

 アンネから導かれた場所はソーホー地区内の売春窟だった。外面は一部屋一晩六ペンスの大型簡易宿泊施設で、このような建物が通りに乱立している。確かに、このような場所をいちいち探すとなれば重労働だろう。敵の規模はともかく、一晩は逃げきれるはずだ。

 窓の外にはガス灯が明りが広がり、夜の深さに比例するように喧騒が際立つ。

「暖炉もありますし、薪代込で一シリングになっちゃいますけど、……仕方ないですよね」

 部屋は狭いが、南京虫が沸いていない程度には清潔なベッドが一つとテーブル、薪がくべられ、轟々と燃える暖炉があった。壁にはオイルランプがぶら下がっていた。アンネが両手で抱くように持っていた紙袋から〝戦利品〟をテーブルに置いていく。

「いやー。コヴェント・ガーデンが近いと楽ですね。ここ等をちょっと歩くだけで、こんなになりました」

 今日の夕食にとアンネが紙袋から取り出したのは干しイチジクや胡桃、熟れたモモ。それと、潰れたバターロールに、封が切られていないレモネードとジン(アルコール飲料)が一瓶ずつ。どうやって手に入れたのかを聞くのも面倒だった。大方、盗みと取引だろう。安宿の店主は盗難品の売買も行っているのだから。

 アンネ・アンゼリカが前髪を手櫛で梳きながら細長い息を吐いた。その顔に張られた表情は諦めや覚悟、あるいは悲愴か。ホープはテーブルに置かれた干しイチジクに手を伸ばさず、拳銃をホルスターにしまい、パイプに火を着けた。紫煙をゆっくりと吸って、葉が赤く燃える。周りの喧騒が少しだけ遠くなったような気がした。だが、それは勘違いであり、事態はなにも好転していない。

 ホープは目の前の女中の言葉を待った。アンネが口を開いたのは、コルクをナイフの先端で器用に抜いたレモネードを浴びるように飲み干してからだった。ボートレースの賭けに負けた男だって、もうちょっとはゆっくり酒を飲むだろうに。

「一つ、先に言っておきますね。色々と隠していて、ごめんなさい。けれど、そうしないといけないわけがあったんです。あははは。前置きなんて要りませんよね。……だから、全部説明します。けれど、私が全部話し終えるまで、絶対に何も言わないでくださいね。質問は後でいくらでも答えますから。もちろん、〝答えられる範囲〟で、ですけど」

 ここで銃を持っているのはホープで、アンネはナイフをテーブルに置いてしまった。ベッドに腰掛けた丸腰の少女を、ドアの前に陣取った彼が〝撃つ〟のは容易い。だから、本当なら彼女に選択肢など無いのだ。それでも、数日とはいえ、自分の生活を懸命に支えてくれた女を傷付けたくはなかった。

「ブロードサイドみてえな話なら聞きたくないんだがな」

「ふふ。真実な分、有益だと思いますよ。お互いのためにも」

 アンネは微苦笑を零し、だんだんと少女の顔から表情が抜け落ち、能面に変わり、ぽつりぽつりと語り出したのだ。

 それは、彼女の告解だった。

「私、人を殺したんです」


               ◇


 アンネ・アンゼリカは要領の良い少女だった。いや、どちらかと言えば、狡賢い性格だったのかもしれない。雇い主の妻が目を光らせる場所は徹底的に掃除をし、逆にろくすっぽにされるような場所は手を抜く。使用人達の間で誰かの不満が語られようが、あくまで聞くだけで肯定はしない。それでも八方美人にならなかったのは、彼女が聞き上手だったからだ。むしろ、彼女に話せば気分が晴れると、使用人の間では人気だった。もっとも、どうしても譲れない主張は、はっきりと通すので、彼女を都合の良い道具扱いする者は誰もいなかった。

 マザーグースやそれらに連なる歌や詩、おもしろい話を暗記して、雇い主が上流階級を気取って屋敷に招待した親戚家族の幼い息子や娘の相手をする時に聞かせた。時には悪戯にわざとひっかかり、時には役者顔負けの寸劇を披露する。もしも、叱られて泣いている子供がいたら、こっそり御菓子をあげて宥める。そうして、子供達は『あの女中さんと遊びたい!』とせがむのだ。五月蠅い子供の世話をしてくれる女中は、どこでも評価されるのが世の常だった。

 小うるさい古参使用人には『私、両親に捨てられて。けど、一生懸命頑張っているんです』と泣き落とし、同期の若い女中とは『気晴らしにボートレースでも見に行かない? 安いレートで賭けやってるとこ知ってるよ』といかにも遊び慣れた女を演じる(九割素)。

 銀行を経営する雇い主の機嫌が悪いと察知すれば紅茶に淹れる砂糖を増やし、逆に機嫌が良いと分かれば『旦那様。お仕事はいかがですか?』と尋ねる。この雇い主が仕事から帰ってきて上機嫌なのは、決まって大きな契約を成功させた時だけだからだ。そして、傲慢な男ほど誰かに自慢したがるものだ。とくに、無知を演じる女中の〝私の雇い主はロンドン一凄い!〟という演技にはころっと騙されてくれる。

 だが、一方で〝要領の悪い人間〟とは必ず一人はいるものだ。もっとも、アンネとは半年遅れて雇われた少女メアリー・コルセルカの場合は単純に幼すぎただけかもしれないが。なにせ、まだ十歳にも満たないような肢体で、小柄な方であるアンネの胸元よりも低かった。アイルランド人らしく、元は救貧院で暮らしていたらしい。学校にもろくに通えず、自分の名前も書けないらしい。その反面、金色の髪には艶がありしなやかで、頬は薄い薔薇のようにピンク色。笑えば太陽のように明るい。まるで、神様が天使と人間の分別を間違ってしまったかのようだった。

 とにかく、メアリーは働くということが下手だった。しなくてもいい場所の掃除に時間をかけ、厨房ではほぼ毎日皿を割る。分からないのに分からないと言わないせいで、ただただ立ち尽くして数時間経過した。なんてこともあった。ロンドンでは貧困からくる生活の苦しさで、五歳から働く子供の当然のようにいる。だが、田舎から出て来たばかりの子供というのはどうしても〝都会の生活リズム〟を持ち合わせていない。恐らく、何かしらで働いた経験はなく、すぐに救貧院で暮らしていたのだろう。当然、大人はこぞって叱る。もしも、アンネがさり気なく庇っていなければ、雇い主の妻が頬を打つ回数が三倍以上に増えていただろう。

 コック、古参の女中、雇い主の妻が怒る三本柱。使用人は全員で八人から十人だった。大半は己の過去を想って同情するものの、とばっちりは御免だと助ける者はいなかった。アンネも、最初は見捨てるつもりだった。雇い主・アンダーソンの意向か何かは知らないが、似たような年頃の少女を何度も雇っているのだ。そして、何度も〝辞めている〟。

 アンネが知っているだけでも、ミゼリ、ミーナ、セーラ。その全員が二ヶ月以内に仕事場へ来なくなる。新参女中が解雇されるか逃亡するなど珍しくも無い。大方、見栄を張って多くの使用人を雇いたいものの、週給を捻出するだけの余裕が無く、都会の相場も知らないような若過ぎる女の子を薄給で騙しているのだろ。と、アンネは判断した。

 その日、話しかけたのは〝機嫌が良かったから〟。それだけだった。アンネは仕事終わりに屋敷を抜け出し、酒場に特攻した(若い使用人の間で息抜きをしようと暗黙の了解が定められていた)。いかさまトランプで一ポンドも儲け、景気づけとばかりにアーモンド入りのチョコレートを買って屋敷に帰った時だ。時刻はすでに朝の四時を過ぎていた。使用人の住居スペースである屋根裏部屋にこっそり戻り、仮眠を取ろうとして、厨房からオイルランプの光と共に、小さな嗚咽が聞こえるのに気が付いたのだ。

 この時、アンネは思った。『これ、絶対に面倒臭いことだ』と。だから、すぐに戻ろうとした。だが、階段に足が着く前に身体が勝手に回れ右をした。駄目だ私、あれは不味い。関わったらろくなことがない。見なかったフリをしたいのに、知らないフリをしたいのに、彼女は胸の奥で燻ぶる良心に逆らえず、厨房を覗いてしまった。案の定というか、そこには涙で顔を腫らしたメアリーがいた。こちらの足音に気が付いたのか、首をこちらへと曲げた。口からは引っ切り無しに嗚咽が零れていた。その潤んだ瞳はこちらに助けを求めているのに、しゃっくりを上げるだけで何も語ろうとしない。

 メアリーの前には立ち作業用のテーブルがあり、そこにはブリキのボウルに山盛りされた皮つきのジャガイモがあった。そして、泣いている少女の右手にはナイフが、左手にはジャガイモが握られていた。――癇癪持ちのコックが、ノーとは言えない彼女に朝食の下拵えを押し付けたのだろう。よくあることで、この無茶ぶりで辞めた新人は数知れず。ちなみに、アンネは上手い事クリアした。

「これ、皮を剥いてるつもりなの?」

 思わず、剥き終わっただろう別のボウルに三つだけ入っていたジャガイモを一つ取る。ナイフを持ったことさえ初めてで、見よう見真似で皮を剥こうとしたのだろうか。もっとも、ジャガイモはずいぶんとスマートになり、皮の方が食べ応えがありそうだった。こんな調子で剥いていたら、十個のジャガイモが一個分になるかどうか。

「そもそも、何か作る当てはあるの? レドンホールの焼き芋売りじゃないんだから、何かしら調理しないとコックが〝怒鳴る〟わよ」

 いつから作業しているのか、もしかしたら寝ていないのかもしれない。

 もっとも、その時間は土曜日の夜に遊ぶ呼売商人のシリング銀貨のように消費されただけだろうが。

 そして、何も言わないところから察するに、この子は何も考えていなかったのだろう。だったら最初から出来ませんと言えばいいものを。

「ふ、ふえええ」

 打たれる想像でもしたのか、メアリーの瞳からポロポロと大粒の涙が零れる。鼻からも汁が垂れてきて酷い有り様だった。コックの理不尽な命令を聞いていた使用人もいただろう。しかし、厨房のコックは暴君と同義だ。誰も、快く損を被りたくはないだろう。そして、こんな経験も〝通過儀式〟のようなもので、無視するのが前提だったりする。そして、それはアンネも例外ではないのだが、違うようだ。

「…………はあ、仕方ないなー」

 アンネは苦虫を噛み潰したような顔をして、観念したように深い溜め息を吐いたのだ。

「貸して、そのナイフ」

「え?」

「いいから。とっと貸して」

 メアリーが素直にナイフを渡した。ほろ酔い気分など、とうに掻き消えてしまったアンネがジャガイモを一つ取って薄い刃を当てる。すると、まるでステッキに巻かれたリボンでも解くようにするすると皮が剥けていくのだった。自分よりも小さな少女の目から涙が止まった。しゃっくりも、だんだんと小さくなった。

「皮を剥くコツはね、ナイフを動かすんじゃないの、野菜を動かすの。ナイフを持った右手は固定して、ジャガイモを少しずつ動かす。……って、今は私がやっておくけど、自分で覚えるんだよ。それと、あんたは竈に火を着けて。それぐらいなら、出来るだろう?」

「は、はい!」

 本来、上流階級の使用人なら、女中は掃除、料理、主人の補助など役職が細かく分別される。しかし、この家庭では女中は掃除と料理の両方をこなさないといけない。よって、アンネは両方のスキルを備えている。とくに、料理は得意でもあった。フランス語が読める能力が大いに役に立っていたのだ。

 残ったジャガイモ全ての皮を剥き、鍋に水を注いで竈へ置く。沸騰したらジャガイモを全て打ち込み、今度はパンを焼く。いつものようなバターロールではなく、横に長く焼いた。ちょうど、円筒形である。

 作るのは、フランスの古い時代から親しまれてきた料理である。

 ジャガイモが茹で上がると、それをボウルに戻し、メアリーに〝潰させる〟。集団が個に変わり、マッシュポテトに変身した。もう少女はしゃっくりを上げていない。

 続けて、アンネは牛乳とドリップ(肉を焼いた時に流れた汁、脂のこと)バター、塩、胡椒をマッシュポテトに混ぜた。さらに、刻んだパセリと茹で海老(昨日の夕食の残り)をぶっこんだ。

 ようやく、他の使用人が起きてきた。こちらと目が合うと、とてもばつが悪そうに視線をそらした。その内の一人に朝の紅茶を作らせた。

 とりあえず、二日酔いのコックには小声の低い声で『手前が田舎のママンに屋敷でちょろまかした食材を送ってる証拠の手紙は私が持ってんだぞ。忘れたのか?』と脅しておいた。初老の男は顔を二重の意味で蒼白に変えた。何か言っていたが、相手をする暇が無いので無視する。

「次、焼けたパンを輪切りにして、厚さはあんたの親指サイズね」

 要領が悪いタイプにも種類がある。自分が分からない仕事だと硬直するのと、とにかく駄目な奴だ。後者は見込みナシなものの、前者ならとりあえず分かりそうな仕事はこなせるのだ。ちょうど、今のメアリーのように。小さな身体ながらも、パンを切っていく。

 アンネは切られたパンの断面にバターを塗り、クッキーでも焼くように再び窯へ入れる。今度は二分も経たないうちに取り出す。良い具合に白い断面が薄っすらと焼き直された。

「ま、こんなもんでしょ。あと、皿に並べて持ってくよ。……あー、あんたは顔酷いから、私だけで行く。とりあえず、皿洗ってて」

 メアリーがぶんぶんと首を縦に振った。そして、食堂に朝食を運び、偉そうに座っているアンダーソンとその妻の前に食器やら料理を並べた。

「あら、アンネ。これはなに? 蒸かしたジャガイモのサラダかしら?」

「いいえ、奥様。こちらはブランダードという〝フランス〟の料理です。堅めに焼いたパンの上に塗って召し上がり下さい」

 この夫人、フランス料理と言っておけば〝どうとでもなる〟。夫のアンダーソンにいたっては、朝は仕事のことで胃よりも頭が〝いっぱい〟になっていた。朝食はつつがなく終わった。アンネはすぐに厨房へ戻った。皿を拭いていたメアリーの首根っこを引っ掴んで、使用人スペースである屋根裏部屋まで引き摺るように連れて来た。やはり、困惑している様子である。

「あんた、昼飯までここで寝てな。他の奴らには上手いこと言っておくからさ」

 屋根に合わせて斜めの天井、白のペンキが剥げた壁、床はぎしぎしと軋み、窓にはカーテン代わりにボロ布が張られてあった。そこに鉄のベッドが隙間なく並べられ、クローゼットは共同で使わないといけない。暖炉などという上等な物は無く、冷える夜は酒を飲まないとろくに眠れない。――これが、使用人の世界だ。代えはいくらでもきく〝労働者階級〟の住人だ。

 固い寝床と色あせた掛け布団を指差したアンネへ、メアリーは困惑した瞳で口籠る。

「け、けど……」

 要領が悪い人間が〝真面目〟なら、きっと、この世でもっとも苦労している人間だろう。

「けどじゃないの。そのフラフラの足で何が出来るの? ただでさえ私らは寝る時間少ないのに、あんたは〝早起き〟したわけじゃん? ぶっ倒れたら、誰が介抱するの? どうせ、賃金減らされるよ。……若い女中の間じゃ、効率的に〝さぼる〟同盟組んでるの。だから、寝ろ」

 その時だ。くるるるる、と小さな音が鳴った。メアリーが顔を赤くしたお腹を両手で押さえた。使用人の食事は雇い主よりも遅くだ。量はそれなりにあるのが唯一の救いだろうか(コックが横領していたのをアンネが元に戻しただけだが)。まだ、少女が食べているわけがない。このままでは空腹で寝るどころの話ではないだろう。もちろん、その点は抜かりない。アンネはエプロンのポケットから厨房で失敬してきたパンや茹でたジャガイモ、林檎を取り出す。そして、パキン、とチョコレートを半分渡したのだ。

 数々の食べ物を渡され、丸くなっていたメアリーの瞳が、茶色の菓子でとうとう大きく見開いた。それも当然だろう。菓子など、下層階級の人間はなかなか口にできない。一ペニーで小さな飴玉を買うよりは、ジャガイモを買った方が胃に溜まるからだ。

「ちょっと足りないと思うけど、これで我慢して頂戴。じゃ、私は下でご飯食べてくるから」

 踵を返した背中に、メアリーが慌てて声をかけた。

「ま、待って下さい!」

「……なに?」

「ど、どうして、そ、そんなに、よくしてくれるんですか?」

 こっちが昨晩に屋敷を抜けて酒を飲みに行ったのを知らないのか。それとも、本当に馬鹿なのだろうか。あるいは、その両方か。メアリーの困惑した瞳へ、アンネはやや嘆息し、微苦笑を零したのだ。

「私とあんたは〝同僚〟でしょうが。つーわけで、私がピンチになったら助けて貰うから、その時はよろしく」

 これ以上はさすがに飯を食い損ねるだろうから、アンネは駆け足で階段を下りて行った。若い女中はともかく、古参の使用人には上手い事、誤魔化しを考えないといけない。そこは一苦労だが、メアリーが疲労困憊で何か大きなミスをするよりもよっぽどマシだろう。十五時間休みなしで働かせてミスをされるより、休憩を挟んで十二時間仕事をきっちりこなす方がよっぽどマシだ。 

 そして、使用人用の古臭い階段を下りてしまったアンネは気付かない。メアリーがチョコレートを齧り、感極まって嗚咽してしまったことを。少女が初めて、〝安心〟して眠ったことを。その寝顔が子猫のように可愛いことを。


――この日が、二人の運命を大きく変えてしまった。


 それからというものだ。メアリーにすっかり懐かれてしまった。最初は、仕事のコツを聞いてくる程度だったのだが、寝る前の自由時間や日曜日の教会通いの日、買い物を命じられた時など、気が付けば隣にいた。突き離す理由も無く、小さな後輩を自由にさせていたら、いつのまにか自分が〝メアリーの教育係〟にされていた。正直に言えば、要領良く適当に生きるのをモットーとしている彼女にとって、それは足枷以外の何物でもない。

 さっさと突き離せば、楽に生きられただろう。酒場で酒を飲む時間さえ、あっただろう。

 なのに、この小さな後輩へ仕事を教え。暇があれば裁縫と簡単な読み書き、トランプを教えている自分がいるのだ。まるで、新しい人格が精神を奪おうとしているようで、妙に背中が痒くなった。

「アンネさーん。破れた雑巾、一人で縫えましたー」

「……うん。えらいえらい」

 メアリーが一人で仕事を出来るようになったら、アンネが頭を撫でる。それも恒例の光景となっていた。

「ねえ、アンネ。あんた、これからどうするの?」

「午後の仕事?」

「違うよ。この屋敷でずーっと働くってわけじゃないだろ。つまりは、別の仕事に興味はないかってこと」

 女中など、一番位の高い侍女でもない限り、長続きしない。それこそ、雑用女中なら三年働けば長い方だ。大抵は五年足らずで辞めてしまう。結婚か、転職か、田舎に逃げるか、あるいは乞食になるか。アンネも、あと一年ちょっとで辞めるつもりだ。どこかの酒場で店員でもするつもりである。もっとも、メアリーには想像がつかないらしい。『うーん』と小首を傾げて困ったようにおろおろするのだ。

 とりあえず、がしがしと頭を撫でておく。すぐに決める必要なないだろう。自分が居なくなった後が気掛かりだが、その時は、この子も成長しているだろうから。きっと、平気だろう。

「アンネさんは、いなくなっちゃうんですか?」

 その瞳が潤む。……アンネがもっとも苦手とするメアリーの〝行動〟である。とにかく、頭を撫でる手を止めないでおく。

「大丈夫、メアリーは心配かけるからな、当分は私が色々と教えてあげる」

「本当に?」

「ああ、本当よ」

 すると、メアリーは、ぱあっと笑顔を輝かせるのだ。ずるいと思う。こんな顔をされれば、辞めるなどとてもではないが言えない。これは本当に自意識過剰かもしれないが、自分はこの子に〝母性〟か〝姉妹愛〟でも求められているのかもしれない。元が救貧院生活ならば、その前はジャガイモ一つ買えない絶望を味わっていたはずなのだ。ならば、助けてくれる相手がいるというのは、それだけで幸福だろう。それは、この幼き少女の欲で、身勝手なのかもしれない。それでも、拒絶など出来ない。

 アンネはメアリーの頭を優しく撫でる。今、それだけで十分だった。


 ――だが、あの時、どうして自分はもっとメアリーに〝冷たく〟接しられなかったのだろうか?


 少しだけ、時は進む。メアリーが女中になって、四か月も経過しただろうか。アンネは、屋敷の二階の廊下を音も立てずに歩いていた。向かう先は、雇い主の寝室である。ただし、盗みを働くわけではない。

「メアリー、帰ってくるのが遅いけど、大丈夫かな?」

 幼き少女もすっかり仕事に慣れ、今日はアンダーソンが眠るだろうベッドをバンで温める仕事を任された。しかし、一時間以上も経過したのに、屋根裏部屋へ帰ってこないのだ。さすがに遅すぎるだろうと、アンネは様子を見にきた次第である。

 ドアの前に差し掛かり、木の板一枚の向こう側から聞こえた声に、アンネは眉根を顔の中央に寄せた。男性が喘ぐ、腐った声――この向こうにいるのは誰?

「メアリー!」

 咄嗟にドアを開け、少女は声を失った。

アンネが見たのは、ズボンをずり下げ、尻と性器を露出させた中年の男と、その男が跨っている〝何か〟だった。ああ、見てはいけない。駄目だ、見てはいけない。なのに、視線は外れてくれない。だんだんと目の焦点が合い、            メアリー?

 そこにいたのは、確かにメアリーだった。しかし、清潔の証しである女中服は剥ぎ取られ、生まれたての姿だった。いや、あれが〝生まれたて〟なわけがない。切れ味の悪いナイフで何十回も切られたような痕があったのだ。まるで、赤黒い糸ミミズが無数に這っているかのように。拍手でもするかのような音。殴られたような痣まであった。鉄錆びとすっぱい臭い。片方の目から眼球が零れ、その顔に生の色は無い。口はだらしなく開き、どうして? なにが? どうして? 少女の秘部が犯され、白濁の汚水が零れ、駄目だ、考えるな、きっと、褒められて、見るな、ほしかっただろうから、こっそり御菓子を嫌だ、買っていたのに、駄目だ。

 死体と化したメアリーを犯すアンダーソンの光景に、アンネは夕食に食べた物を全て、吐き出した。

「おおおおおげ!? ごほごほ! ぐえ、えええええ」

 びちゃびちゃとシチューの残骸が床の絨毯を汚し、その声にアンダーソンが首を曲げた。

 その瞳が一瞬、ぎょっと見開き、爛々と、恍惚に〝酔った〟。

「ひひ、いひひひひひっひひひっひひ! 片付けんでええぞ。あとで、全部わしが〝舐め取る〟からな」

 言葉の意味が理解出来なかった。アンダーソンが腰の動きを止めず、むしろ見られて興奮したのか動きを激しくした。

「こいつはなかなか締まりが良いぞ。死んでから一時間も経つのに、まだ温かい。ひひひひ、ひひひひひひひひひひ! やはり、新鮮な〝穴〟はこうでないといかん。この前は失敗だった。尻の穴を刺したせいで糞便が零れてとてもではないが食べる気にはなれなかった。その代わりに存分とイチモツを擦りつけて楽しんだものだが、やはり入れないと気持ち良くならん! みたまえ、この身体を。まるで、天使のようではないか!!」

 違う。違う、違う違う違う!! 

 あんなのが、天使では無い。

 あれが、メアリーなわけがない。

 現実を否定しようとするアンネへ、アンダーソンが喜々として言う。

「あの救貧院から買うのがいつもの楽しみだ! 次はどんな子供を買おうか! 楽しみだ! ああ、楽しみだ! さて、育ち過ぎた女中よ、いくら欲しい? 五十ポンドか? それとも百ポンドか? 皆が叫び上がって震えるものだが、金を積めば大人しいものだ! 金は良いぞ! なんでも買える! 新鮮な牛乳も、安全も、性欲の道具も買える! ひっひっひひひひひひひいひひひひひひひひひひひひひひひひ!!!」

 安宿の大部屋で乱交を始めた男達の目とよく似ていた。自分の男根に溜まった精液を一刻でも早く出さないと死んでしまうかのような性交の乱舞。性欲に支配され、そのまま歪み、壊れてしまった者達の末路だ。猿は一度、自慰を覚えたら餌を食べるのも止めて性器を弄るらしい。このアンダーソンという人間は、幼女性癖と死体性癖に魂までも犯した狂人だ。そして、狂っているからこそ、正しく事態を認識していなかったのだ。

 アンダーソンがこちらに構わずに腰を振り出す。アンネの目から光が消え、心が真っ黒に染まった。

 それは、〝怒り〟であり〝殺意〟だった。

 コイツは駄目ダ。ダカラ、早ク殺ソウ。


 ――救いの手を差し伸べる神の声は聞こえない。代わりに、女の口から殺意が吐き出される。言葉にならない声。それは、原始的な咆哮だった。


「あ、ああああああああああああああっ!!」

 アンネは近くのテーブルに置かれていた三角形の木材を一つ掴んだ。それは本来なら、数個を並べて、その上に人間を正座させて足に重石を置くことで拷問する道具だった。何人もの犠牲者の血を啜って赤黒く変色してしまったそれは、乾いているせいで石のように堅い。まるで、復讐を望む怨嗟の声が染み込み、彼女に手を貸すかのよう。アンダーソンはこちらに背を向けたままだった。いや、わずかに首が動こうとしていた。身体中が満足したように痙攣した。

 斧を大木に叩きつけるように、アンネは木材を振り上げ、一気に下ろす。

 鈍い音がした。フランスかぶれのコックが気取って牛の肩肉を肉叩きでたたく音を百倍にしたような音だった。アンダーソンの口から『ふがっ!』と空気が漏れた。そして、糸が切れた操り人形のように、その場に膝からくずおれた。アンネが木材に視線をやると、べったりと新鮮な血がへばり付いていた。男は大きく目を見開いたまま、二度と起き上がりはしなかった。今、彼女は人を殺した。金や生活のためではなく、怒りで人を殺した。

 木材が手から滑り落ちる。潮が引いて戻ってくるように、冷静さを微かに取り戻す。しかし、やはり潮が引くように消えてしまい、代わりに戻ってきたのは後悔ではなく、暗い歓喜だった。

 そして、アンネの思考が驚くほど冷淡に事態を分析していく。メアリーはどこの伝手で屋敷に来た? パーソンズ救貧院だった。その前の少女達、ミゼリ、ミーナ、セーラも同じ救貧院ではないか。半年を待たずに誰もが〝辞めていた〟。この男の犠牲になったのではないのか? この寝室を掃除するのは誰だ? 古参の使用人ではないか。死体の処理は誰がしている? 犯人は一体、何人だ? 今、自分は、何をすれば正解? ともかく、逃げないといけない。誰が味方か分からない以上、この屋敷にいる誰も頼れない。

「あなたは気が楽でいいですねー。あーあ、もっと苦しめてから殺すべきでした」

 物言わなくなった死人が恨めしく、アンネは床に落ちていた鉈の柄を掴んだ。牛の大腿骨も簡単に砕けるだろう肉厚の刃には、やはり血で汚れた錆が付着していた。もしも、この男が蘇っても、墓場から這い出てこられないように〝どうにかしよう〟と思った。

 だから、アンネは鉈を振るった。いきり立ったままの男根目掛けて刃を振り落とした。三十インチ以上の刃が半分、肉塊に埋まった。ゴリゴリと、坐骨や尾骨を削った。思ったよりも血が飛び散らなかった。きっと、服を着ているからだろう。代わりに、外気に晒されている部分へ鉈を落とせば、容赦なく血が四散した。三回、四回、七回、十回、二十回、途中から数えるのも面倒になって、振って、振り続けた。どれだけの時間が経過しただろうか。気が付けば、目の前にはかつて人間だった死体が、肉屋で見かけた子豚のように臓物を零していた。周囲には濃密な血の臭いがした。

 怒りや憎しみが振られた鉈と一緒に吐き出されたようにアンネは理性をようやく取り戻した。

 鉈を床に置き、アンネの喉から悲鳴が零れる。そして、部屋を飛び出した。自分が昼間に掃除したばかりの廊下を走り、走り、外へ飛び出す。

 アンネがホープに出会う、二時間も前の話だった。


               ③


「――で、私はちょいと服を盗んで着替え、酒場で〝イカサマ稼業〟に勤しんだってわけです。人間っておかしいですよね。人を殺した後でも、妙に冷静な部分があるんですから」

 話をする前に、アンネは途中で口を挟むなと言った。しかし、言われなくともホープは絶句したままだった。あの事件に隠された真実に、心がついていけなかった。猟奇的殺人がまったくの別角度から事態を急転させた。林檎を齧ったら実は生のジャガイモだった。これは、そんな真相だった。

 喉が乾いたのか、アンネがジンのコルクを開けた。だが、緊張で喉が上手く動かないのか、二、三口飲んだだけだった。ホープはたまらなく煙草が吸いたくなって、パイプの中の燃え滓を床に落とした。似たような灰で木製の板が斑に汚れていた。コートから象牙で作られた〝煙草入れ〟を取り出す。古い時代の銃使いが黒色火薬を銃身へ入れるように、彼は煙草を吸う準備を始めた。手が、微かに震えていた。脳の奥が軽く痺れ、皮膚感覚を薄皮一枚の〝恐怖〟が邪魔していた。

「……証拠はあるのか?」

 それは、お前が言った言葉を信じるための材料はあるのか? という意味だった。アヘン窟にいけば、自分はエリザベス女王をファックしてことがあると謳う輩がいくらでもいる。アンネの言葉を鵜呑みにするほど、ホープは愚かでは無い。女中は言葉に迷うようにジンが入った瓶を軽く揺らす。透明な液体にオイルランプの光が揺らぎ、微かな影を作った。

「私がアンダーソンの屋敷で働いていた証拠なら、屋敷で働いている使用人の名前、出身地、性格を思い付く範囲で言いましょう。子供が壊した花瓶を埋めた場所も知っていますし、コックの得意料理だって知っています。なんなら、息子さんがこっそり利用している売春窟の場所だって五つ知っています。それでも不満なら、今でも屋敷で働いている〝若い女中〟に私のことを聞いてください。この際、ぶっちゃけますけど、貴方がヤードの肩と会話しているの、こっそり聞いていたんですよ。そこに私の名前が無かったことは、どんな意味に繋がると思いますか? きっと、電柱に伸びている電線よりも明快ですよ」

「普通、夫が殺された日に女中がいなくなれば、真っ先にヤードへ言うだろうな。なのに、そんな話は無かったようだ。つまりは、アンダーソンの犯行を〝知っていた〟」

「その通り。だからこそ、メアリーを厳しく叱っていたのでしょう。あわよくば、逃げて欲しいと。まあ、見て見ぬふりをしていた時点で共犯ですけどね。古参の使用人も知っていた可能性があります。だからこそ、私は初めから〝いなかった〟ことにされている。マザーグースの歌にこんなのがあります。――お母さんが私を殺して、お父さんが私を食べたの。兄弟たちはテーブルの下にいて、私の骨を拾って床下に埋めたの。つまりは、そういうことですよ。どんなに不審な出来事だろうが、家の奴ら全員が隠し通せば、世の中は〝こともなし〟。妻も息子も使用人達も、みーんな、主人が怖くて口を噤んでいた。ああ、一つ誤算があったのだとしたら、私があの晩にあの光景を見てしまったことでしょうね」

 つまりは、メアリーを殺した夫の愚行を全て〝夫を殺した犯人〟に罪を被せるためか。

 あるいは、事件が迷宮入りになれば、自分は平和になれると縋ったのかもしれない。

「そして、アンダーソンの糞野郎に〝食われた〟だろう女中全員がメリル・ボーン教区にあるパーソンズ救貧院からの紹介です。もしも、疑いになるのでしたらどうか調べてください」

 救貧院は仕事の斡旋も行っている。しかし、中には手数料として給与を天引きする悪どい輩もいる。そして、都合の良い奴隷を排出するなど、良い商売になるだろう。ホープは怒りで腸が煮え繰り返りそうになりながらも、奥歯を強く噛んで耐えた。今、必要なのは理性が沸騰した怒りでは無い。冷静に物事を判断する人間としての知性だ。そして、クリアしなければいけない問題が多々ある。

「救貧院についてはヤードに調べさせよう。……だが、さっきの奴らはなんだ?」

 これには、アンネも言葉を詰まらせた。うーん、と首を傾げる。

「救貧院の輩が、口封じに?」

「その可能性が高いな。あるいは、……いや、なんでもない」

 商品を売った屋敷からアンネが逃げたのを調べたのか、それとも、アンダーソンの妻が口封じを依頼したのか、あるいはホープが事件を調べていることを察し、女中と纏めて処理をしようとしたのか。どちらにせよ、厄介事極まりない。

 今、ここにいるのが夢ではないと、暖炉の薪が大きく爆ぜた。この建物の部屋が半分以上埋まり、さらにその半分でも暖炉を使えば、夜空に上る黒煙は巨大な龍となっていただろう。燃える音が熱と一緒にじんわりと耳をくすぐった。

「それで、どうして俺を尾行したんだ? もしかして、俺がこういう〝商売〟なのを、知っていたのか? まさか、あの晩のことも演技だったわけじゃないだろう」

「いいえ。私とあなたが、あの晩に出会ったのは全くの偶然です。それと、今日尾行したのは、単純にあなたがどんな人間なのか知りたかっただけですよ。……それだけなんです」

「証拠はあるのか?」

「こればっかりは、信じて貰う他ありませんね」

 困ったようにアンネが肩を竦める。彼女が言った通り、偶然だったのだろう。確証が無いが、嘘には聞こえなかった。先程からひっきりなしにパイプを吸っていたせいか、喉が渇いた。ホープは女中からジンの瓶を受け取ってあおるようにして飲んだ。強い苦みが舌で躍り、空っぽになっていた胃には重かった。本当なら、この時間、家で夕食をとっているはずだった。ハンサム・キャブを使えば三十分とかからず帰れる日常の遠さに、つい泣きたくなる。

「色々と言いたいことは多い。けど、これだけは言わせてくれ。お前は、どうしたい?」

「私が望むのは復讐です」

 間髪入れぬ言葉だった。

「随分とはっきり言ったな」

「ええ。自分でも案外驚いています」

 アンネの瞳に映るのは硬質的な殺意だった。もしも、彼女の感情を物質して取り出すことが可能なら、テーブルに転がっている胡桃だろうが容易に砕く灼熱の鉄槌に変わるだろう。復讐の炎は魂を焦がす。無論、彼女自身の心を。そして、灼熱に当てられた物は性質を変化させてしまう。柔らかい筈の鉄が炎の中で鋼となって鍛えられるように。

「釘がないので 蹄鉄が打てねえ。蹄鉄が打てねえから 馬が走れない。馬が走れないから騎士が乗れない。騎士が乗れないのなら 戦にならない。戦にならないのなら国は滅びる。国が滅びたのは全部、蹄鉄を打つ釘がなかったせいだ。……切っ掛けこそ些細なものです。けれどそれは、大きな事態を生み出す。マッチの火が暖炉の炎を燃え上がらせるように。ああ、そうだ。無視は出来ないって言った方が正しいですかね。きっと私は、あの日のことを忘れられない。そして、悪夢となってしまったのでしょう。釘を失ってしまったから、私はきっと壊れてしまう。……ホープさん。あなたには、大切な人がいますか?」

「……今のところは、誰もいない」

 彼女にとって、メアリーの存在が釘となってしまった。何かを支えるための存在が消え、全てが連鎖的に崩壊していく。

 ホープはパイプの煙に舌を集中させた。大きな壁に紙を重ね過ぎて何が何だか分からなくなった広告のようだった事件に、一点、大きな穴が穿たれた。真実へと続く光明だ。だが、その穴の、向こうにあるのは確実な〝血と硝煙の臭い〟だった。

「俺に、お前の復讐を手伝えって言うのか?」

「いけませんか? 報酬の問題ですか?」

 すると、アンネが微笑んだ。優しさよりも、妖艶さが際立つ、それは娼婦の笑みだった。

「私〝そういう仕事〟をしていた時期もあるんです。場所が場所ですし、ちょうど良いですよね」

 少女が上着のボタンと二つ外した。胸元が微かに揺れ、外気に晒される。

 ホープの無言を何と勘違いしたのか、アンネがスカートをたくし上げようとした。

「――これならどうですか?」

「止めておく」

 間髪入れずにホープが断ると、アンネは『知っていました』と肩を竦め、自嘲気味に微苦笑したのだ。スカートから手を離し、干しイチジクを口の中に放り込む。咀嚼する間、彼はパイプの煙を吸い切った。煙が脳に染み込み、感情の一部を摩耗させる。そうでもしないと、この感情は無視出来なかった。

 アンネが干しイチジクを飲み込み、小さな欠伸をした。それが演技だったのか、なにかしらの意味があったのか、彼は知り得ない。

「……私じゃ、価値なんてないですかね。ああ、もう捨てていいですよ。今日までお疲れ様でした。それと、今日までの分のお給料が貰えれば嬉しいです」

 そんな言葉に、彼は、はっきりした口調で言い返す。

「従者に手を出す主は最低って相場が決まってる」

「えっ?」

 信じられないといった表情をこちらに向けるアンネ。きっと、彼女は、自分が捨てられると考えていたのだろう。それも当然かもしれない。今回の事件は、少女が関与し、そのせいで襲われた可能性があるのだから。しかし、ホープは女中を小馬鹿にするような笑みを浮かべ、はっきり言ってやったのだ。

「誰が捨てるか馬鹿野郎」 

 一度、助けたのだ。なら、最後まで面倒を見るのが男の義務だろう。元より、彼は金の為〝だけ〟で悪を撃つのではないのだ。全ては、自分のためだ。この胸に灯った怒りは、激情は、銃把の感触を待っていた。ぽかんと情けない顔付きになっているアンネの肩を、ホープは軽く叩いた。すると、女中ははっとして、目を瞬かせた。

 馬鹿みたいに明るい彼女が吐き出してくれた悲痛と義憤。これら全てがホープの背中を押した。戦う理由など、それだけで事足りた。

「もともと、これは俺の仕事なんだ。だったら、蹴りをつけるのが筋だろうさ」

 極限まで事態と境遇を噛み砕けば、ホープが仕事を完遂するのと、アンネの事情はなんら、〝関係ない〟のだ。だらこそ、彼はアンネを捨てはしない。短い間だったが、彼女と一緒にいる時間が心地良いと気がついてしまったからだ。

「一晩ここで過ごしたら、家に帰るぞ。そしたら、紅茶を淹れてくれ」

 考え事をしたい時は酒よりも紅茶の方が彼は好む。そして、美味しい紅茶を淹れてくれる女中が目の前にいる。アンネは下唇を噛み、肩を震わした。語った内容が内容だ。様々な苦悩に葛藤があっただろう。今日まで、ろくに眠れていなかったかもしれない。今、彼女が手にしたのは、安堵か、あるいは別の何かか。

「……それは、命令ですか?」 

「そうだな。主として、女中への命令だ」

「私、人を殺したんですよ。ヤードに教えなくていいんですか?」

「俺だって人を殺している。それに、お前が行動しなければ被害者は増えていただろう」

 法律で裁ける範疇を越えている。ならば、誰かが手を血で汚さなければならなかったのだ。必要悪、というには感情の暴走があった。それでも、ホープには少女をヤードに突き出すだけの権限も義務も、権利も、資格も無いのだ。真っ直ぐな正義を語れない彼は代わりのように半分悪の理論をよく使う。アンネに儀があったからこそ、今は正論の目蓋を閉じた。

「今は休むぞ。とにかく、飯にしよう。パンと胡桃はともかく、桃は皮を剥いてくれ」

「も、もう。仕方ないですねー。桃の皮も剥けないなんて、今までどうやって一人暮らししていたんですか? ……ほんと、あなたは変わっていますね」

 アンネがナイフを取り出し、ぽろっと床に滑り落としてしまう。薄く磨かれた刃が床の木目に刺さり、ぴんと立つ。女中がナイフを拾おうと右手を伸ばし、ベッドに横になって倒れてしまった。ホープは慌てて少女を覗きこむ。

「お、おい、どうしたんだよ急に」

「あははははは。ちょっと、疲れてみたいです」

 目蓋を閉じたままアンネが苦笑する。そして、寝息。

「……寝たのかよ、コイツ」

 自由すぎる女だとホープはついつい、呆れてしまう。ある意味で、トファニアよりも扱い辛い。語る相手がいなくなり、そろそろ座りたくなった。だが、アンネが眠るベッドに腰掛けるだけの勇気は無く、マナー違反でもテーブルに腰を下ろした。指でどけた胡桃が一つ、床に落ちて転がす。――タイミングを合わせたように、隣の部屋から嬌声が一段と高いリズムになって聞こえた。右隣か左隣かなど関係ない。左右上下、廊下の向こうからも男女の営みが雑多な音楽となっていた。ここは売春窟で、今は夜中だ。大人しい人間の方が無粋だと、皆が自由に躍っていた。

 そんな中で、一人、眠った女に手を出さず、眺めているだけの彼はひどく滑稽だったに違いない。ホープは暖炉の炎だけでは足りないと身体を温めるためにジンを飲んだ。生憎、肴になりそうな物はなく、これからどうしたものかとアンネの寝顔を眺めるのだった。


               ★


 神の声を聞き、貴族の娘でありながら看護の道を選んだ〝クリミアの天使〟フローレンス・ナイチンゲールのお陰で、病院の定義が良い意味で大きく変わった。というのも数十年前まで、病院とは〝医者のいる場所〟ではなく〝医者を呼べないような貧乏人が集まる場所〟だった。看護婦は知識も技術もなく、衛生状態も最悪で、病院へ行くなら刑務所に行った方がマシだとも評されていた。

 そんな中、彼女の行動によって、病院の環境は見違えるほど改善された。特に、三十六年前に起きたロシアとの領土戦争、通称〝クリミア戦争〟においては、その力を遺憾なく発揮し、数多くの兵士を救っている。十数年前にはナイチンゲール看護学校が設立された。過去と違い、確かな知識と良心を併せ持った天使達が育てられている。また、戦争で苦しむ人々を国に関係なく救う赤十字まで結成されている。

 ただし、まったく金に余裕がないものは病院に行けないのが現実だ。いくら病院の環境が変化しても、ロンドンの経済事情へは影響が少ない。慈善病院にも限りがある。まだまだ、貧乏人には厳しい世の中だ。

 ――もっとも、〝彼ら〟には病院も治療も必要なかっただろう。何故なら、〝今、殺される〟のだから。

「ぎゃあああああああああああああ、ああああああああ、ああああ、あああああああああああああああああ、ああああああああああああああ、あああああああああ、あああ!!!」

 一人の男が地面に転がる。その右腕は肘から先がごっそりと消えていた。肉が潰れ、砕けた骨が剥き出しになっている。心臓の動きに合わせて血が吹き出し、痙攣して数秒後に絶命してしまった。その顔は、この世全ての不幸を孕んだかのように歪んでいた。セヴンダイアルズ――ロンドン最悪の貧困窟の路地裏で、男が一人死んだ。地面に転がっていた腕に、さっそく犬が数匹群がり、美味そうに食い始める。死体が転がっているのが当然のような場所だ。野生の生き物は鼠も猫も犬も鳥も、人間の〝味〟をすっかり覚えている。

 この貧困窟で、大きな肉にかぶりつくのは、なんという〝贅沢〟だろうか。やがて、死体から食える部分が無くなれば、今度は人間が群がるだろう。衣服を剥ぎ取り、指輪や持ち物を盗み、全てを金に帰るだろう。

 死体が四つ、転がっていた。全員が、腕を切られるなり、喉を切り裂かれていた。

 ランプの明りはなく、ただ一人〝生きている〟人間は、月明りのか細い光に照らされ、なお暗い瞳で怨嗟の声を吐き出す。

「余計な手間をかかせおって。無駄に時間を消費してしまったわ」

 男と女の中間のような声だった。顔も中性的で、歳は二十代後半か。身長は高く、細身である。前髪含めて全ての髪を長くのばし、頭の後ろで一本に束ねている。薄い緑の瞳は細く、切れ長で、冷酷な鋭さを秘めていた。戦闘時のホープにも似ているが、彼はここまで残酷なほど、狂気で唇を歪めたりはしない。

 紺色のコートは長く、帽子は被っていない。そして、右手には斧が握られていた。肉厚の刃に血がべったりとこびり付いている。それに加え、微かに湯気が上っていた。鮮血と外気の温度差による生命の残滓だ。〝彼〟は、躊躇なく斧を地面に捨てる。血を斑に吸った固い土に刃が刺さり、倒れることはなかった。

「この分なら、近いうちに〝争い〟か。……ふむ。良い機会だと判断しようか」

 彼は死体を背にして踵を返した。物言わぬ死体の首が一つ、猫に齧られた。がじがじ、がじがじがじがじがじがじがじがじがじがじがじがじがじがじがじがじ――――。


               ④


 翌日、ホープとアンネはすぐにハンサム・キャブを利用して家に戻った。幸いにも、途中での襲撃は無く、家も荒らされた形跡はなかった。ただし、敵が諦めたというわけではないだろう。大方、チャンスを窺っているのかもしれない。

 アンネが紅茶を淹れる準備をしている間、コートを着たままのホープはオイルランプ片手に一階の隠し通路――いつもは厳重に鍵をかけている〝物置部屋〟の奥にある階段を下りた。そこには、狭い廊下が奥へと二十ヤードばかり続き、左右の壁には一枚ずつドアがあった。唯一の光源はオイルランプの柔らかい光だけだった。彼は、階段を背にした状態で右側のドアの鍵を開けた。ドアノブを回して、中へ入る。そこは、洗濯場でも、蒸留室でも、食品の貯蔵庫でも無かった。

 ひんやりと冷えた石床は縦横八ヤードずつか。天井は手を少し伸ばすだけで届くほど低い。そして、奥の壁に張り付くように木製のテーブルと椅子があった。テーブルの上には南京錠がかけられた木製の箱が置かれていた。ホープは埃がほとんどない椅子に座る。

 ホープはオイルランプをテーブルの隅に置き、腰のホルスターから一丁のパーカッション式の回転式拳銃・RNAを抜いた。彼女の銃身下に平行して寄り添うように備え付けてある棒――ローディング・レバーをわずかに下げ、心棒(弾倉の中心を通り、回転の芯となる棒)を外れるギリギリまでずらした。すると、弾倉が芯を失った状態になり、外すことができる。彼は、残り二発の弾丸が詰まった弾倉を静かにテーブルへ置いた。

 今度はテーブルの上に置いてあった木箱を開ける。中には掃除用の道具に、黒色火薬の入った象牙製の筒に、雷管、スペアの空弾倉等が綺麗に整理されて入っていた。ホープは、そこから毛虫に棒を刺したような道具を取り出す。銃口から奥へと挿入し、出し入れする。銃身内部に付着していた火薬滓が擦られ、剥離した。そこに布を巻いた棒を挿入すると、白い布がすぐに真っ黒になった。

 次に予備弾倉を一つ手に取り、弾倉の前穴から黒色火薬を適量注ぐ。その上からフェルトのパッチと鉛の弾丸を装填し、軽く押す。これを六発分繰り返し、弾倉をRNAに戻す。心棒も元の位置へ押し直した。

 補足するならば、弾丸の形状は椎の実に似ており、先が尖っている。

そして、ローディング・レバーを先ほどより強く押し下げると、梃子の原理で押し棒と呼ばれるパーツが連動し、弾丸と黒色火薬が回転弾倉の奥へ強く押し込まれた。ここへ、弾丸が穴から零れないようにと、飛び火防止用のグリースを塗る。

後は弾倉後部のニップル(小さい穴が開いた突起)に雷管を嵌め、これを弾倉を一発分ずつ回しながら六回繰り返してようやく完了だ。

 豪胆たつ淑女であるRNA――レミントン・ニューモデルアーミーは、従来のパーカッション式リボルバーに比べ、銃身をわざわざ外さなくとも心棒を前にずらすだけで弾倉の入れ替えが可能となり、連射速度が飛躍的に上昇している。八角形銃身(オクタゴン・バレル)も肉厚で、命中精度が良い。パーカッション式ではもっとも洗練された銃器なのだ。

 ただし、この銃は既に過去の遺物になりつつある。パーカッション式からさらに進化した次世代拳銃、金属薬莢式が開発されたのだ。これは名前の通り、金属薬莢を使用している。弾丸と黒色火薬、雷管を一セットにした〝弾薬〟を使用することで、連射性と銃のコンパクト化、多様化を実現したのだ。有名どころで言えば〝ピースメーカー〟の名で知られるコルト社のシングルアクションアーミーに〝ライトニング〟や〝サンダラー〟の仇名を持つM一八七七。ライバル会社のS&W社では、スコーフィールド。もっと掘り下げればレミントン社のM一八七五・アーミー・モデルが挙げられる。はたまた、フランスのレフォショーか。

ホープがRNAを使用しているのには、二つの理由がある。一つは、単純にRNAへ愛着が湧いているから。もう一つは、銃器の癖のためである。それがどんなに同じ素材、同じ製法で作られた道具でも、ほんの僅かな違いがある。例えば、射撃時のグリップを握る力、銃身の向き、黒色火薬の量。綿が凹むか凹まないか、髪の毛一本分だけ横にずらすかずらさないか、砂粒にも満たない火薬を足すか足さないか。

 長年使用しているからこそ、RNAは正しき力をホープに貸してくれる。新しいのを買うにしても、二週間はじっくりと練習したい。買うとしたら、小型な銃が良い。それでいて性能も高ければ言うこと無し。あれこれ銃の事を考えようとして、男は首を横に振った。今日の〝それどころ〟ではない。

 弾丸が込められた予備弾倉を五つ作り、コートの内側にあるフック状の留め具に装着する。戦闘時でも瞬時に再装填するためだ。念の為、弾丸や雷管が入った箱と、空の弾倉も裏ポケットに押し込めた。戦場の気配をすぐ真後ろに感じ、ホープはオイルランプを掴み、さっさと部屋から出た。鍵束は左手に持ったままだった。

一階へ戻ると、居間から紅茶の良い香りが漂ってきた。

 居間のドアを開けると、そこには、すっかり見慣れてしまった女中・アンネの姿があった。

「おお、ちょうどいいところに。今、準備が終わりましたよ」

 テーブルに並べられていたのは、紅茶とバタークッキーだった。

「お前、菓子も作れたんだな」

「そりゃあ、なんて言ったって私ですしね」

 自我自賛もここまでくると一種の清々しさを感じてしまうから不思議なものだ。ホープは椅子に座り、一日ぶりの紅茶を静かに啜る。自分で淹れる時とは大違いの味と香りに、背筋がくすぐったくなってきた。バタークッキーはまだほんのりと温かく、さっくりと心地良い口当たりでバターの風味がじんわりと舌にとけていく。このままティータイムを楽しんで、ゆっくりと眠りたかった。

 もっとも、そんなわけにはいかないので、隣で待機しているアンネに話しかける。

「これからケビンに会ってくる。お前は、家で大人しくしていろ。襲撃の可能性があるから、知らない奴が訪ねてきたら無視するんだ。地下室の鍵を渡すから、最悪そこへ逃げろ」

 だが、ホープが伸ばした手に握られていた鍵をアンネは受け取らなかった。少女の瞳には強き意志が宿っていた。一週間にも満たない短い間に、彼女の表情を沢山見た。だから、それら全てと微妙に似ても似つかなくて、彼は少しばかり焦った。目の前の少女のような眼光を、彼は知っている。それは、戦うことを決めた一人の人間としての力強さだ。

「私にも、何かお手伝いが出来ると思いますよ? むしろ、私の方が得意かもしれません」

「随分と言い切ったな。根拠があるなら、是非、聞かせて欲しいものだ」

「おや、分かりませんか? ホープさんも鈍いですねー」

 おどけた口調だった。いつもの感覚が戻ったのは喜ばしいことだが、昨晩はろくに眠れなかったホープにとっては苛立ちを募らせるだけだった。紅茶を啜ったまま、目線だけで早く話せと命令する。だが、彼は逆に思い知らされることになる。アンネの覚悟を彼はまだ計り損ねていたのだ。

「私も手伝います。そっちの方がてっとり早いですよね?」

「手伝うって、具体的に何をするんだ?」

「そりゃあ、色々と。情報収集なりなんでもしますよ」

 どうやって家に置いていこうか言葉を選んでいるホープよりも先に、アンネが夕食のメニューを説明するフランス人シェフよろしく言う。

「嘘をついているだろう使用人に、アンダーソンの妻、あるいは息子。それに、パーソンズ救貧院を私の〝目線〟で調べます。ヤードの動かすのだって限界があるでしょうし、あっちだって馬鹿ではないでしょう。子供だって、親に内緒でクッキーを食べれば、後でばれないように口元を拭います。……けれど、袖口が汚れた服を洗うのは女中です。この意味、分かりますよね? 仮に、あなたが蕪を齧っただけで土壌の質を把握するだけの能力があったとしても、その野菜を買った相手の顔までは〝見えない〟ように」

「確かに、ヤードの連中が来ても問題ないように隠蔽工作は万全だろうな。正直、俺だって猫の手も借りたいぐらいさ。それでも、なんだ。俺は、アンネを危険には晒したくない」

「あら。私って、そんなに大切にされちゃっていいんでしょうか? 女中なんて使い捨てでしょうに」

「他の馬鹿と一緒にしないでもらおうか。ともかく、俺はお前が」

 言いかけ、アンネが前かがみになってこちらに詰め寄った。顔の近さに、反射的に顎を引くホープ。けっして、胸が近くてびっくりしたからではない。女中の顔は、聞きわけの無い生徒を叱る教師のようでもあった。

「事態は一刻の猶予のないんです! 今、この瞬間にも、他の少女が犠牲になっているかもしれないんですよ? だったら、全力を尽くすのが筋ってものじゃないんですか? 私はね、これでもドルアリーレインではちょっとした〝英雄〟だったんですからね」

 ホープは怪訝そうに眉を潜めるも、確かに、使用人への聞き込みならヤードや彼よりもアンネの方が向いているかもしれない。それにだ。家に居ろと言っても、勝手に出て行くかもしれない。ならば、最初から手伝わせた方が賢明だろう。

「……無茶だけはするなよ」

「はい! まかせてくださいよ!!」

 賭け金の高いボートレースで儲けたように、アンネが破顔したのだった。


               ◇


 夏の日差しは強いものの、乾いた風が肌に涼しげで、それほど暑いと感じない。それが、ロンドンの〝夏〟だった。

「ふわー。うむむ、こっちは久し振りかなー。前は別の酒場だったし」

ロンドン最大の果実と野菜の卸売市場があるコヴェンド・ガーデンの東側に位置するドルリーレインの貧困区にアンネ・アンゼリカは訪れていた。徒歩で二十分以内にある高級商店街とは比べ物にならないぐらいに暗く、薄ら汚れた場所である。大気が霧のようにスモッグで汚れているのは日常茶飯事として、通りを歩く人々の質が大きく異なるのだ。階級はほぼ全員が労働者階級であり、御世辞にも品が良いとは言えない。

 ただし、下町特有の騒がしさだとか〝理解〟すれば、それほど悪い場所でもないのだ。コヴェンド・ガーデンで仕入れてきただろう野菜を売る八百屋の掛け声がしたかと思えば、古着屋が合いの手を入れるように声を張り上げる。籠に山ほどのオレンジを積んだアイルランド人の少女が道行く人々に一個半ペニーで商品を売ろうとしていた。他にも、靴屋が看板二枚で己の身体を挟んだ〝サンドウィッチ方法の歩く看板〟になっている。

 歩道には乞食の姿も少なからずあり、食べ物を恵んで貰おうと、相手の情に訴えるような弱々しい声で芝居を打っていた。その近くにある日用品店は堂々と店の正面を板張りの硝子にして、商品が歩道を歩く人々が見えるようにしていた。そして、板硝子の向こう側を、鼻を潰さんばかりに眺めているのは、みすぼらしい服を着ている男女の子供だった。ただし、これは羨望よりも『あそこからどうやって盗もうか』と考えている顔だった。もしも成功すれば、家賃と夕食を賄って余った金で〝一ペニー劇場〟でも見に行くだろう。

 扇情的な演目の多い安劇場よりも、アンネは賭けボクシングの方が好きだった。今ではめっきり、ストリートボクサーが数を減らしてしまったのは残念で仕方ない。

 とりあえず、腹いせに八百屋で買った真っ白な蕪を巡回しているヤードの後頭部に投げつけ、即行で逃げる。

 遠くで怒声と歓声が聞こえた。久し振りの高揚感に、頬が自然と釣り上がってしまう。

「いやー、やっぱり古巣は落ち着きますなー。あっはっはっはっは」

 ホープへ豪語した通りにアンネは元故郷で探索を開始していた。 

服装は〝安物仕立て屋(スプリンガー・アップ)〟で用意した古臭い紫色のワンピースと木綿のショールだった。みすぼらしい乞食というわけではなく、かといって豪華でもない。ちょうど、金が余った女中が背伸びをした程度の服装だった。もしも、こんな場所に貴族が着るようなドレス姿で歩けば、奇異の視線を雨霰と受けるだろう。魚が泳ぐ生簀に虎を投げ込まないように、場に解け込むのが重要となってくる。

 探偵の心得があるのではない。単純に、元地元住民の目線で考えた当然の結果でもあった。もっとも、当時は今よりもボロ服だったので、少し背伸びしているというのは若干の見栄が混ざっていた。さて、なにも彼女は見当無しにこんな場所に来たわけではない。目的は故アンダーソンの屋敷で仕事しているだろう元同僚に会うため。そして、救貧院の実体を解明するためだ。単純な二つの仕事。まずは、前者からだ。アンネは、表の比較的に大きな通りから、狭い小道へと進路を変える。

 すると、先程の喧騒が鳴りを潜め、だんだんと薄暗さを増していった。

移民が集住しているだけあって、端から端まで歩けばイングランド人、アイルランド人、ユダヤ人、オランダ人、デンマーク人、ドイツ、清、スウェーデン、フランス、イタリア、黒人、インド人にまで出くわす。日曜でもなく、こんな昼間に働きもせずにうろついているのは仕事に有りつけなかった人達であろう。工場や会社で勤務していなければ日雇いの仕事でも探さないと飯にはありつけない。そのせいか、ほとんどの人は瞳に暗い影を落としていた。ここで銅貨一枚でも落としたら狼のごとく乞食が群がってくるだろう。少し前までは自分も〝そちら側〟に入るかもしれなかったと思うと、なんとも複雑だった。

 貧困窟となった小道をするすると抜けていく。そして、辿りついた先にあったのは、簡素な木造三階建ての酒場(パブ)だった。正確に分類するなら、〝イン〟と呼ばれる酒場兼宿屋である。通常の酒や軽食を提供する店は〝エール・ショップ〟で、これより高級なのを〝タヴァーン〟と呼ぶ。アンネが選んだのは、一階で酒を、二階と三階に孤児や泥棒を住まわせる悪徳極める場所だった。頭の悪そうな女なら、瞬く間に男達の餌になるだろうが、ここは流儀に従えば一定の筋は通す。――そう、身をもって経験している。

 中へ入ると、カウンターの椅子に腰かけてパイプを吹かしている店主と目が合った。五十代ぐらいの男で、顎の髭が無造作に伸びている。ドアが開いた音に気が付き、こちらへと向けた胡乱げな瞳が僅かに見開いた。アンネはとびっきりに悪党らしい笑みを浮かべる。

「久しぶり〝早足のトマス〟元気だったー?」

「こりゃ驚いた。〝長腕のアンネ〟じゃねーか。もう死んだかと思ったよ」

 呼売商人や貧困窟の人間は渾名が好きで、こうして親しい人間同士だと渾名を呼び合うのが礼儀となっている。ちなみに、このトマスは若い頃は無銭飲食が得意で逃げる速さは風のようだと一部では評判だった。もっとも、今ではすっかり腹がでっぱり、歩くのも辛そうな体躯だ。アンネが屋敷に住まうよりも前は、ここで一日の半分を過ごしていた。言わば、古巣である。

「どっかの屋敷で女中になったんじゃなかったのか? こんな真っ昼間にサボりかい?」

 新顔には手厳しいトマスも、アンネと喋る口調は楽しげなものだった。ロンドンの貧困層は毎日、当たり前のように多くの者が死んでいる。昨日、酒の席を共にした親友が、翌朝にはデムズ河で浮かんでいることも珍しくない。互いの過去話に花を咲かせられる相手と言うのは、それだけで万金に値する。

「いやー、色々あってさー。まーた別のところで働いてんの。つーかトマス、また太ってない? ベーコン食べ過ぎ? それとも鰊の燻製?」

「がっはっはっはっ。最近はビリンズゲイトで魚ばかりさ。生牡蠣片手に酒を飲むのが乙ってね。お前こそ、随分と顔色が良いじゃねーか。昔は青白い死掛けの小娘だったのによ」

「あっはっはっはっは。そんな私にここの連中は何ポンドぶんどられたか」

「その度に俺は言ったもんさ。あいつの腕は十ヤードも伸びるってな」

 乱暴で下卑た言葉が、ある意味では二人の仲の証しでもあった。カウンターに肩肘をついたアンネは、奥へ続く店内の様子を眺める。そこは広い酒場であり、いくつものテーブルにみすぼらしい服を着た仕事なしの連中が集まっていた。下は十歳にも満たないような少年が煙草を吸い、中年男性の風格で酒を飲んでいる。中には、棺桶に片足を突っ込んでいそうな老人もいた。こちらは、声を張り上げてカードを楽しんでいる。ぎゅうぎゅうに押し込めば五十人は入れそうな場所に、二十人前後の男達がいたのだ。

 暖炉にはまだ火が入れられていないが、すでに汗が浮かぶ熱気が漂っていた。けっして、夏の暑さだけのせいではない。下品な活気で満ちていたのだ。アンネに気が付いた何人かは、こちらに手を振っていた。どうやら、知り合いは〝全滅〟していないらしい。軽く手を振り返すと、怒声が一つ、上の階から聞こえた。どうやら、喧嘩は恒例行事となっているらしい。こんなところも、まったく変わっていない。

「で、アンネよ。なにしに来たんだ? 酒なら、もうちょいと上等な場所で飲めるぐらいには稼いでんだろ?」

 いくら親しいといっても、トマスは己の仕事場がどれだけ女にとって危険なのか承知だろう。だからこそ、アンネが〝ただ遊びに来たのではない〟と察した様子である。とりあえず、アンネは素面だと怪しまれるからとビールを一杯注文した。

「俺も飲もう。ついでに奢ってやる」

「どうも。それでこそ英国紳士!」

 若い男の店員がすぐさまビールを二杯運んできた。素焼きの簡素なジョッキになみなみと注がれている。

 いつもの礼儀に従って、素焼きのジョッキを軽くぶつける。

「「乾杯」」

 アンネが一気にジョッキを傾け、喉を鳴らしてどんどんと飲んでいく。トマスが半分も飲んだ頃には、すっかりと空にしてしまった。

「お前さんは相変わらず底無しだな。飲み比べでぶっ倒れた連中を外に運ぶ仕事は、いつも俺だったんだぞ。まあ、それだけ飲めれば元気ってことだろ。……っで、何しに来たんだ? 最近はヤードの連中が五月蠅くてね。何かと突っ掛かってくるんだ。今日も一人、私服の警官が来てな『メアリー・ボーンの屋敷で起きた事件を調査しているから怪しい奴を知らないか?』だとよ。俺は呆れたように言ったさ『知らないね。俺は客の素性は聞かない主義なのさ。そうでなければ、こんな商売務まるか』ってね。馬鹿なヤードさ。怪しい奴ってならここにいる連中全員がそうさ。ついでに親切心でこう言ったよ。『私服の野郎が自分は警察ってばらしてんじゃねえよ。見えるか? 後ろの連中が今にも襲おうとしているぜ』ってな。そしたら、尻に火がついた狸みてえに逃げやがった」

「ここの連中が素直に身内を差し出すわけないっつーの。……まあ、ある意味で私もそうかもしれないけどさ」

 トマスが怪訝そうに眉を潜める。アンネが意地汚く二杯目のビール(別の男に奢らせた)を啜りつつ、親指で二階へ続く階段を指した。

「なんか、〝面白い〟話を知らない?」

「……偉く険しい顔だな。厄介事には、あんまり首を突っ込みたくねえんだけどな」

 彼も勇敢では無い。いや、正確に言えば、金にならないだろう話は聞きたくないのだろう。それは当然だと、アンネは頷き、胸元に挟んでいた革袋を取り出した。紐を解き、その中に入っていた〝それ〟をトマスの目の前、カウンターに置く。男が小さく息を飲み、鍋に蓋でもするようにその大きな手で〝それ〟を隠した。だが、欲望には逆らえなかったのか、ちらっと指の隙間から〝それ〟を見る。ややあって、声をぎりぎりまで小さくして言うのだ。

「これ、本物か?」

「ええ、本物よ。ツケは無いけど、あなたにあげる」

 アンネが持ってきたのは、問答無用天下無敵のポンド金貨十枚だった。こんな貧困窟で出してはいけない額だ。これだけあれば、この酒場の酒を全て飲み干し、上等な娼婦を上等なホテルに誘って三日三晩過ごしても御釣りが出る。トマスだって、いつも見ている硬貨は銅貨や銀貨ぐらいなものだろう。その驚き様は当然とも言えた。彼が少女を見る目が変わる。若干の畏怖が混ざっていたのだ。

 タダより安い物などない。無償で金貨をくれる人間など存在しない。上流貴族の施しさえ、それはノブリス・オブ・リージュ――高貴たる精神を満たすためだ。トマスの脳内には、これからどんな交換条件を出されるかぐるぐると困惑と金欲が渦を巻いているだろう。

アンネは、若干の同情を覚えた。ちなみに、この金はアンダーソンの部屋にあった財布から盗んだ金だ。ヤードが盗まれた形跡は無しと判断したのは、妻か事情を知る使用人が余計な荒波は立てたくないと嘘の証言をしたからかもしれない。あるいは、少女の盗みがあまりにも〝上手かった〟のか。

 トマスがビールを飲んだ。それは、口元の動揺を隠すためだろう。アンネは少しずつ黄金の酒を胃へ流し込み、ゆっくりと丁寧に説明する。

「難しいことを言っているんじゃないの。ただ、一つだけお願いがある。メイル・ボーンと、その一帯の〝薄汚れた場所〟で起こった変わった話を集めて欲しいの。なるべく沢山、かつ迅速にね。どう? お願いできるかしら? 嫌なら良いわよ、断って。けれど」

 一度言葉を切って、アンネはトマスの手に上から自分の手を重ねた。しかし、これはけっして色仕掛けでは無い。何故なら、男の顔は頬を引き攣らせていたのだから。

「その時は、この子たちは元の家に帰るけどね。……子供が、四人いたわよね? 自分のような苦労をさせたくないって、学校に通わせるのよね? 奥さん、財布の紐をしっかりと握っているのよね? ねえ、トマス。最後に娼婦を抱いたのはいつかしら? 上等なブランデーをクリスマス以外で飲んだのはいつかしら? ちょっとぐらい〝良い想い〟したって、神様は許してくれるんじゃないかしら?」 

 このインでの稼ぎは年間で二百から二百五十ポンドといった具合だろう。一見すると、十ポンドなどそれほど惜しくは無いように見えるが、この商売は長続きしない。そもそも、この店は法的に鑑みれば違法建築だ。もしも、正式にヤードの介入があれば、取り壊さないといけない。またアンネが言った通りに、彼の伴侶は恐妻家でもある。十ポンドを遊びに仕えるなど、まず有り得ない。

「……お前、たまにでかいトラブル持ってくる癖、まだ直ってなかったのかよ。〝ゴールド・スミスの違法書〟に〝ペニー銅貨の偽造屋〟、それと〝ヤードのタコ殴り計画〟だったか? 両手の指じゃ数え切れないぞ。まったく、その性格を直さないと、この先、生きていけないぞ」

「御忠告どうも。それで、返答は?」

「――了解。なるべくやってみるさ」

 契約完了の証しに固い握手を交わした、その時だった。

「おっと。ちょっと待って貰おうか、お嬢ちゃん」

 酒に酔ったうえに下賤な醜悪さが混ざった声に、アンネは面倒臭そうに振り返る。案の定、そこには面倒臭そうな男がいた。それも、三人。いつもはドックで働き、船の積荷下ろしの作業でもしているのだろう。腕が太く、海水で濡れて乾いたボロ同然のズボンが塩を吸って固くなっていた。こちらが無言で睨みつけると、真ん中の男が先に口を開いた。

「随分と御金持ちじゃねえか。恵まれねえ俺らにも別けてくれよ。げっへっへへ」

「なんなら、その身体だけでもいいから貸してくれや。ひっひひひっひっひっひ」

 アンネから見て左端の男だけは何も喋らない。いや、虚ろな瞳で何かブツブツと呟いている。大方、チャイナタウンの阿片窟で〝吸い過ぎた〟のだろう。阿片は吸うと意識がまどろみ、夢心地になれる。しかし、最終的には夢と現実の区別がつかなくなる地獄が待っている。強盗も阿片中毒者も、ここら一帯では少なからず存在する。そして、か弱い乙女(中身はともかく見た目)は、必ず標的にされるものだ。花も恥じらう少女が安宿の大部屋で大勢の男に襲われ、とうとう性欲に溺れた廃人になるのは、けっして〝珍しくない〟。

 先程の十ポンドは元々、アンネが貯金しようと使うのを我慢していた金であり、アンダーソンから盗んだのは、あれが全部だ。

 嫌悪を覚えたアンネは、ちらりとトマスを一瞥する。店の主はやれやれと首を振り、カウンターの奥に引っ込んだ。

 アンネを見捨てたのではない。自分の身が危ないから隠れたのだ。

「生憎と手前等と遊んでる暇ないの。とっとと家に帰ってオナニーでもしてな下衆野郎。それとも、お互いにお互いの尻で慰めあったら? ほら、機関車みたいに連結ごっこでもしてさぁ」

 わざと声を張り上げると、辺りから下品な喝采が聞こえた。下衆な男とは、相手を馬鹿にするくせに自分が馬鹿にいざされるのは我慢できない連中だった。顔を茹で海老のように〝真っ赤〟にして、こちらへと掴みかかってくる。 

 だが、アンネの右手が迅雷の速度で左腕の袖口から〝それ〟を引き抜き、男へ向ける。

 目の前に巨大な壁でも現れたかのように男が足を止めた。そのまま前に倒れそうになりながらも腕を振って後ろへと尻もちをつく。

「……聞こえなかったの? とっとと私の前から消え失せな」

 アンネの右手が握っていたのは、小さな拳銃だった。ホープのRNAと同じレミントン社製の〝レミントン・ダブルデリンジャー〟である。全長が五インチもなく、銃身が二本縦に並んでいる。回転式弾倉や、チューブ式弾倉ではなく、銃身兼薬室が二本あるのだ。

 小型で持ち運びが容易であり、なにより隠せる。本場アメリカの西部時代では、娼婦やギャンブラーが愛用した。まさか、女が銃を持っているとは思いもしなかったのだろう。男の顔がみるみる内に蒼白に変わった。

 愉快愉快と、アンネの頬は嘲りで釣り上がる。

「あの夜は、もう〝殺したくない〟から抜かなかったけどな、今は違う。四十一口径の威力、その軽そうな頭で試してみますか? きっと、ちょうどいいビールグラスになりますねー」

「わ、わかった。俺らが悪かった。ご、ごめんよ。おおお、おい、ずらかるぞ! 早く!」

 しかし、真ん中の男がそう慌てて言った時だ。左端の男が急に奇声を上げたのだ。

「き、きぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!」

 そのまま、他の男の制止を聞かずに、こちらへ襲い掛かってこようとする。口からはだらしなく涎が零れ、瞳に理性の色は無い。このまま抱きつかれれば、発情期の犬のように腰を振り出すだろう。

 あれが、貧困窟で生きた輩が行き着く果ての一つだ。夢の中に脳味噌を落っことした沈没者だ。そして、浮き上がるにはもう分水嶺は消えたのだ。ここが、男の終わりだった。

 アンネはデリンジャー撃たなかった。代わりに、深い溜め息を吐いた。

「これ、正当防衛ですから」


 一閃。アンネの右足が霞み、次の瞬間には男の鳩尾へ〝めり込んだ〟。


「天におられる私達の父よ。皆が聖とされますように。みくにが来ますように。御心が天に行われる通り、地にも行われますように。私達の日ごとの糧を今日もお与え下さい。私達の罪をお許し下さい。私達も人を許します。私達を誘惑に陥らせ得ず悪からお救い下さい。アーメン」   

世界最大宗教であるキリスト教は、祝日や隣人への感謝、懺悔、食事、誕生日などありとあらゆる局面において聖句を用いる。 

もっとも、こんな時に言われても神は困るだろうが。アンネの気分の問題だった。

「触ろうとするんじゃねえよ、糞野郎」 

 男の身体がギリシャ文字の〝Γ〟のように折れ、そのまま後ろへと大きな音を立てて倒れた。床に激突した後頭部が少しだけ浮き、また激突。そして、白目を剥いて口から泡を零し出した。ズボンの股間の部分から汚水が少しだけ染み出した。ぴくりとも動かず、意識を根こそぎ失っている様子だ。アンネは右足を床に戻し、スカート部分を軽く払う。なにも、彼女が貧困窟で身につけたのは盗みの技術だけではない。むしろ、銃器よりも足技の方が得意だ。もっとも、小技は得意では無くホープと出会った夜のように三人同時に襲われた時はさすがに逃げた。びっくりどっきりの一発技なのだ。それでも、この威力だ。

 胸骨のやや下、中央部を完璧な速度と角度、タイミングでハンマーとなった踵が襲ったのだ。相手の突進に合わせたカウンターでもあり、もしも、踵の位置が三インチも上だったら、胸骨を砕いて致命的なダメージを与えていただろう。せめてもの慈悲として感謝して欲しいぐらいだ。

 客の反応は様々だった。顔を青褪めさせて隅に逃げる者。アンネを知っている者からは拍手喝采。隙を見計らってビールを盗み飲む店員。そして、仲間を捨てて逃げる男二人の首根っこを引っ掴むトマス。

「じゃあねー」

 ひらひらと手を振って店を後にするアンネ。トマスは恨みがましい目で少女の背中を睨みつけるも、金を貰っているてまえか、無理に引きとめようとはしなかった。


               ⑤


 メイル・ボーンは高級住宅街の一角とされているが、それが全てではない。とくに、教会がある区画は救貧院が近く、生活がとうとう限界になった貧乏人が、いつも長い列を作っている。十数年前の寒波で船関係の仕事が停滞した時期など、半マイルには届くかというほど長い行列があちこちに出来たものだ。今日も今日とて、中流、上流階級の淑女様達が生活物資の配給や、パン、スープの〝炊き出し〟を行っていた。

 乞食の間には、どの場所でいつこういった〝幸運日〟が来るのか把握して食い繋いでいる者もいる。中には、わざと余分に貰って金銭に変える者もいるのだから、人間とはなんてたくましいのだろうかとやや呆れてしまう。

 ホープが少し離れて眺めているパーソンズ教会の敷地内の奥に〝パーソンズ救貧院〟が存在する。遠目からではっきりしないが、随分と立派な建物だった。あれなら、雨風が荒れる度に子供が熱で死ぬようなことはないだろう。救貧院もピンからキリだ。家畜の豚よりも惨めに生きないといけない場所もある。だからこそ、人々は極力、救貧院を避ける。

 だが、やはり家も家族も無い孤児はそうもいかない。その場所が幼い子の〝牧場〟となっていると考えるだけで、今すぐにでもRNAを抜いて助けに行きたい衝動に駆られる。しかし、それは駄目だ。もしも、表向きは完全に隠蔽しているのなら、捕まるのは銃を持っているホープの方だ。

 ケビンに、ホープの無実を裁判官に助言出来るような権力は無い。だからこそ、慎重にならないといけない。

 一先ず、周りの地形と万が一の場合の逃亡ルートを頭に叩き込む。街路は広く、隠れて逃げるのは骨が折れそうだ。とくに、昼間はどこにでも人の目がある。夜に襲撃するとして、子供達はどうする? ヤードと連携体制をとるべきだろう。ケビンには既に連絡を入れている。あちらでも、何かしらの行動を起こしているだろう――と、信じたい。

「ん?」

 足元に何か当たった感触がした。視線を落とすと、どうやらそれは子供が遊ぶ時に使うボールらしい。少しだけ転がって、ホープの前方四ヤード先に転がっていく。何気なく拾ってみた。化学繊維の革で作られているようで、彼の頭と同じぐらいの大きさだった。ヤードの頭に当てれば、目に星を飛ばして気絶するだろう。どこかで子供が遊んでいたのだろうかと、きょろきょろと辺りを見回すと、ちょうどこちらに近付いてくる子供と目が合った。

 五歳から七歳ぐらいの男の子が三人と、女の子が一人。どうやら、どこかの救貧院の子供らしく、まったく同じ白い服を着ていた。足元は泥で微かに汚れているものの、かなり上等な(救貧院として)服だった。

 自分でも目付きが怖いのは自覚している。しかし、目が合うなりびくっと肩を震わせられると、流石に傷付いた。あから、精一杯、笑顔を作ってみる。

「これ、お前らのか?」

 無言で頷かれた。ボールを持った手を子供達に伸ばすと、ドングリの背比べの中で、二インチばかり背の高い男の子が虎の口に手でも突っ込むように、ぶるぶると両手を伸ばした。ちなみに、ホープの笑顔は阿片を吸い過ぎて可笑しくなった輩と似たように引き攣っていた。

「あ、ありがと」

 だから、そんな虫の声のような御礼でも、嬉しかった。とにかく逃げようとホープが踵を返そうとした時だ。女の子が、やはり小さな声で言う。

「おじさんも、パンを貰いに来たの?」

「え、パン? ……ああ、給付金か」

 救貧院では、定期的に〝院外給付金〟を支給している場所がある。これは〝貧困者に現金、またはパンを配る制度〟である。国からの補助金が元になり、大きな救貧院程、多くの人にパンを渡す。最初は、救貧院に入居するのを躊躇う人々への配慮だったが、今ではほぼ恒例となっている。

 ホープは自分の服装を見た。そこらへんの熟練労働者風を装い、いつものよりはみすぼらしい服を着て、顔を少し汚している。コートは無く、銃は持っていない。代わりに、折り畳み式のナイフを三本、隠し持っている。どうやら、子供達には院外給付金を貰うのを躊躇ってうろうろしているように見えたらしい。

 そして、良い子供とは、恩を返したがるものだ。

「こっち、こっちだよ!」

 先程の恐怖はどうなったのか。子供達がこぞってホープの腕や服を引っ張り、救貧院がある方向に連れて行こうとする。――不味い、方向は完璧にパーソンズ救貧院だったのだ。変装しているとはいえ、ここまで接近するのは流石に危険過ぎる。しかし、子供に乱暴出来ない以上、無理矢理逃げることもかなわない。

(まあ、他の貧困者が集まってんなら、それほど目立たないだろ)

 しかし、この楽観はある意味で叶い、ある意味で叶わなかった。

 ホープがボールを拾った位置からは、高い木々や塀で建物の〝下〟が見えていなかったのだ。一個、曲がり角を抜け、その光景に男はぎょっと目を見開いた。

「押さないでー! 押さないでくださーい! 数は十分にありますからー」

「こちらで整理券を配布しますので、一人一枚まででお願いしまーす」

「そこ! 列を乱さないでください! ちゃんと並んでください!」

 紺色のローブを着たシスター七人と若い男性四人、善意で参加しただろう御婦人方五人を囲むように大きな人だかりが出来ていた。ぱっと見ただけでも三百人は軽く超えるだろう。枯れ枝のような肢体の老人に、頬がこけた年配の夫婦、ボロ布の服を着た数人の子供を引き連れた若い母親。おそらく、社会的に弱い立場、いや、最下層の人間の集まりだろう。狡賢くない人間で無い限り、ロンドンの市民には極力、救貧院の利用を拒む。救貧院を利用するということはつまり〝自分ではどうにもならないぐらい落ちぶれた〟ということに他ならないからだ。中には、救貧院で金を貰ったことを一生後悔する者もいる。

 そのせいだろうか。どこかの店舗で行った割引日の熱狂とは真逆の、お通夜のような静けさがあった。暗い空気が滞り、まるで、亡者の集まり。人間、働こうとすれば安い野菜の代表格であるオランダガラシを仕入れて一日に三ペンスの稼ぎは難しくない。塵を集めても、どうにか食い繋げるだろう。しかし、足の動かない老人や、子供の面倒を見ないといけない母親、縄張り争いに勝てないような弱い人間なら話は別だ。

 灰色の集団。それこそ、ロンドンに巣食う闇の一つだ。誰かが一人でもパンを貰えば、そこにぎらぎらとした眼光が数百の群れとなって殺到する。誰しもが、自分の分があるかどうかで不安を抱えているのだ。ふらふらとした足取りなのに、目だけは光っている。あれは、飢えた犬の群れだ。

 ホープの目に、パンを受け取った母親の姿が目に映った。すると、傍にいた小さな子供二人が我先にとパンを貪り出した。母親は、ほっと安堵し、それでも自分の分は無いのだと下唇を辛そうに噛んでいた。とてもではないが、足りはしない。だから、また頼らないといけなくなる。どれだけ惨めだろうか。どれだけの不幸だろうか。

 子供達に案内されたホープは無理矢理、足を止めた。そして、なんとか笑えた。

「ありがとな。けど、兄ちゃんは仕事あるから、ちゃんと家で飯を食べるよ」

「そうなの? どんな仕事しているの?」

「えーっと、だな。……工場で荷物整理かな」

 誠実な人間は嘘をつかないと牧師は言うが、今は嘘を吐いていいだろう。ホープは、家に帰ればアンネが作った料理を食べられる身分だ。水も無いのに貰ったばかりのパンを喉に押し込めるように貪っているあの集団の中でいったい、何人がここ半年以内で肉を食べたことがあるだろうか。ベーコンの一口でも食べたことがあるだろうか。

 ホープは同情〝する〟立場だ。しかし、行動には起こせない。彼とて、働かなければパンを買えない身分だ。そして、ヤードが彼に頼らないといけない事件が都合よく毎月あるわけではない。財布の中には、二ポンドと四シリング、十二ペンスばかり入っている。全てをパンに替えれば、あそこにいる人間全員に一個ずつ行き渡らせることが出来るだろう。しかし、それは出来ない。それはきっと、自分が〝可愛い〟からだ。自分を自分で自分が一番、優先してしまうからだ。

「おや、〝我が子ら〟よ、こんなところにいましたか。……おや、そこの人は?」 

 声のした方向へ首を曲げ、ホープは小さく息を飲んだ。そこには、少しばかり上等な牧師用の服を着た〝男か女か分からない中性的な顔立ちの人間〟が立っていた。子供達がホープから離れ、その男(牧師姿なので、女ではないだろうと判断した)へと集まる。

「セルベイ牧師!」

 そう女の子が言った。セルベイ牧師は、ほとんど閉じているのではないかというほど、目が細かった。ホープと目が合った。――だから、全部分かってしまった。

「皆さんは先に〝家〟に帰ってください。私は〝彼〟に用がありますので」

「牧師様は、この人と知り合いなの?」

「ええ、少しばかり〝親しい〟です」

 子供達が牧師に言われた通りに、パーソンズ救貧院がある方向へと市民の集団を迂回するように戻って行った。全員が、こちらに手を振った。ホープへか、それとも、セルベイ牧師にか。きっと、後者だろう。よほど慕われているのか、皆が笑顔だった。だからこそ、今、次の瞬間の空気を考えると、気が滅入った。

「さて」

 セルベイ牧師が間を区切るように一言呟いた。――一閃、彼の右手に柄の長い斧が握られていた。真横に振られ、ホープの首を斬り落そうとした。ホープは瞬時に身を屈め、刃を起こしたナイフを握って、腕を伸ばす。迅雷となった突きが牧師の心臓を抉ろうとして、虚空を貫き、横に移動したセルベイが胴を割ろうとする。肉と骨を断たれて内臓が零れ落ち、二本目のナイフが牧師の喉を抉った。――――有り得ただろう未来の断片に、二人は音も無く薄く笑った。

「悪いな。今日は様子見のつもりだったんだが、あの子らに連れられてな」

「いやー、私も驚きました。こんな早くに貴方が来るとは思ってもみなかったので」

 お互いに同意見だったらしい。五十ヤード先にある人混みとは違う意味で、ここに、灰色の空気が流れていた。ホープは両手を顔の高さまで上げた。今は、戦闘するつもりはないと意思表示したのだ。セルベイも似たような仕草をした。彼が纏っている牧師服は上着の前面がボタンで一直線に閉じられている。だから、その向こうに何があるのかは分からない。分からないからこそ、自分はナイフ数本しか持っていないのがたまらなく不安だった。

「昨日の晩に銃で撃ってきた奴らは、お前の仕業か?」

「ええ、そうです。軍人あがりの男を数人ばかり雇ったのですが、無駄だったようですね。残念です。あなたが強いと聞いていましたが、予想以上です。だから、今も不安なんですよ?」

「嘘つけ。お前も、俺と〝同類〟だろ?」

 お互いの口元には笑み、他の誰かが見れば、久し振りに会った友人同士の会話のような親しさを感じただろう。しかし、二人はけっして、知り合いではないし、友人同士ではない。お互いの距離は七ヤード。片手で握れる武器なら、半秒と経たずに相手を殺せる距離だ。それが、二人の距離だった。けっして埋まること無い隔絶した溝だった。パン一つを必死に懇願している人々がいる中で、目の前の人間を殺せるだけの距離を測っている自分達はなんと愚かなのだろうかと、ホープは喉奥に苦い物を感じた。口に溜まった唾と憤りを纏めて飲み込んだ。

 太陽が出ているのが恨めしい。もしも、夜なら、今すぐにでも行動に移せるのに。

 こんな我慢、ごめんこうむる。

「そういや、あの晩にどうして俺があそこにいるって分かったんだ?」

「ふふ。あなたじゃなくて、〝あの女中〟の方だったのですけどね。こちらも、情報網というものがございますので」

 ホープの家を知っていて、そこから出てくる女中を追ったのか。それとも、アンダーソンを殺したのがアンネと知っていて、屋敷を逃げた日から追っていたのか。どちらにせよ、殺されかけたのは事実なので、落とし前をつけないといけない。もっとも、今は溜め息一つ零して踵を返した。

「また来るよ」

「おや、そうですか」

 簡素な言葉の応酬。そして、背中を向けてしまえば、お互いの顔は見えない。――きっと、それで幸運だった。ホープは口元に手を当てた。鼻から下を隠すように、零れ掛けた狂気の感情を押し留めるように。

 それは、嵐の前兆だった。




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