役者

深夜太陽男【シンヤラーメン】

第1話

     ○


 目が覚めれば見知らぬ天井が見えた。ここはどこだろうとあたりを見回す。看護士だろうか、声をかけてみる。彼女は誰かの名前を呼ぶ。数回連呼されてそれが自分名前であると認識する。

「佐藤シンジさん」

「それが僕の名前ですか?」

「こりゃ困ったな。記憶喪失だ」

 目の前の初老であろう医者は全然困っていないように事務的対応をした。

 自分は車との衝突事故を起こしたらしい。頭を強く打ち付けそれまでの記憶を思い出せない状態になってしまった。車の運転者は死亡してしまった。保険金が降りるのでしばらく生活には困らない。

 これらのことを医者は淡々と述べ、まあ肉体的にも損傷はないみたいだしゆっくり思い出しましょうと診断を打ち切った。

 自分がいるベッドのサイドテーブルには事故当時自分が所持していた私物がいくつか置かれていた。携帯電話、仕事の書類、手帳、文庫本、それらを入れていたカバン。携帯電話には自分の個人情報が入力されていた。名前、電話番号、住所、メールアドレス、誕生日、職場。その他いくつかの連絡先から家族構成と人間関係についてなんとなく把握できた。その他の私物からはあまり情報が得られず、文庫本の内容がSF小説だったのでそういう趣味をひとつ持ち合わせていたのであろうことくらいしか推測できなかった。

 次の日には会社の上司と同僚と名乗る人物が見舞いにきた。どうやら自分はとあるプロジェクトの主要な立ち位置で企画構想は全部自分の頭の中にあるらしい。しかし思い出せない。仕事の書類を見てもメモばかりでプロジェクトに関する直接的なつながりは見えなかった。会社にとって命運をかけたプロジェクトらしく、今すぐにでも再始動しなければまずいということを力説されたが自分は力になれそうにもないことにひどく絶望するだけであった。

 そこに医者がやってきた。ショック療法でそれまで通りの暮らしに飛び込めば何か思い出すかもしれないと無責任にしか思えない発言をしてきた。自分は狼狽したが上司も同僚も乗り気になり私はあっという間に退院させられ会社のデスクに配置させられていた。


     ○


 会社の人間たちから自分は以前どういう性格でどのように仕事をこなしてきたかを教えられた。それは優秀な人間像で自分がそんな風に働いていただなんて全く想像ができなかった。事実、その日から仕事を与えられたが記憶が全くない私は新人以下のスピードでミスも連発してしまった。周りからの期待の目が徐々に冷ややかに変わっていくのを肌で感じ、胃が締め付けられるような鈍痛を出し始めた。

 重苦しい疲労感を抱えて一人暮らしのアパートに帰宅した。恋人も訪ねてくる友人も少ないのかあまり片付いていない様子だ。今日の反省をするために書類を取り出し目を通した。書斎の机には過去に自分がこなした企画の書類もいくつか乱雑にまとめられており、ページの余白には一例のケースにおける対処法や失敗からの要点整理と解決策などがメモされていた。今日自分がうまくいかなかった案件に活用できそうなものばかりで感心した。

 それから日数を重ねるにつれ仕事でのミスは減りスピードも少しずつだが速くなっていった。そして一ヶ月後には今までどおりの仕事量と結果を出せるようになった。それでも事故以前に構想していたであろうプロジェクトは思い出せなかった。

 自分自身をもっと知る必要がある。私はインターネットの履歴からどんな分野に興味を持っていたのかを調べ尽くした。財布のレシートからよく行く店に実際に出向いて行動範囲も確認した。一つ思い出せばそれが木の枝のように連鎖していき全てにつながると医者は言っていた。なんでもいい、私は藁をも掴む思いだった。

 ある日、昼休みを上司と社内食堂で過ごしていた。仕事に不満はないがやはり新プロジェクトについてはピリピリとした雰囲気を醸し出していた。そういえばお前はよく親子丼にマヨネーズをかけて食べていたと言われ、試してみることにした。卵を使っている食品に卵からできた食材をかけるのは理解しがたいが自分の嗜好なのだ、仕方ない。

 口にした瞬間、脳内に電流が走ったような感覚があった。味が不味かったからではなく、なぜかその瞬間に事故以前のメモと自分の企画傾向がつながりそれが結果として新プロジェクトの構想と頭の中でまとめられていった。画期的だが確実な方法に自分でも驚いた。

「プロジェクト、再始動できそうです」

 上司は箸を止め、すぐにどこかへ電話をかけた。私も今思考していることを忘れないように机上のナプキンに要点を殴り書きした。

 企画会議にはあっさりと通り予算も組まれ、すぐにチームが結成されて動き始めた。まともに休日が取れない日々が続いたが悪くない忙しさであった。そしてプロジェクトは大々的な成功を収めて私は昇進と昇給を与えられた。


     ○


 仕事も落ち着き少し長めの休日をもらえることになった。せっかくなので実家に顔を出してみることにした。病院に見舞いにこない家族なので疎遠かもう縁を切られたのかもしれないが、あくまで推測なのでそれらを確認するためでもある。過去の自分にも興味があった。そう、仕事はうまくいくようになったが私はまだ全然自分のことを思い出せていなかった。

 電車に二時間ほど揺られバスを乗り継いだところに私の実家はあった。父親も母親もすんなりと私を迎え入れてくれた。会話は少なく、お互いの近況を話してから沈黙が続いた。母親の料理を食べていたら好き嫌いなく食べていたことに驚かれた。過去の自分は偏食で母親を悩ませていたらしい。親子丼にマヨネーズをかけるくらいだ。記憶喪失もあるかもしれないが誰だって大人になれば嫌いな食べ物は減るだろう。

 片付けをしていたらそれもまた驚かれた。確かに記憶を失って初めて帰った自宅アパートは綺麗とは言えない状態であった。大人になったのねと母親は困ったように微笑んだ。

 読みかけのSF小説を読んでいたら父親に似合わないと言われた。以前の自分はフィクションに興味などなかったみたいだ。

 かつて自分が学生時代過ごした部屋で寝る準備をした。卒業文集、卒業アルバム、集めていたロックバンドのCDや流行っていた玩具。こんなにも自分の情報が溢れているのに、まるで他人の部屋にしか思えなかった。就寝した後、かすかに聞こえる母親の押し殺したような泣き声で目を覚ました。

 翌朝、父親に連れられて散歩をした。この人とどんな会話をしていいのか全くわからなかった。自分はどこでよく遊んでいたのか、友達はどんな子がいたのかを聞いてみたがぶっきらぼうに答えられるだけであった。

 気づけば墓地に着いていた。自分の祖先の墓参りでもするのだろう。

「この墓に本物のシンジは眠っている。いくら見た目そっくりでもお前は偽物だよ」

 記憶喪失で変わってしまった自分に嫌味をぶつけているのだろうか。

「シンジは事故で即死だったが、医者はスワンプマンだがテセウスの船だかよくわからんことを言って、とにかくシンジを生き返らせると言った。シンジの会社の連中はそれに喜んだが俺も母ちゃんも釈然としなかった。実際お前はシンジじゃなくてただの代用品だったわけだ。もう二度と目の前に現れないでくれ」

 それから私は実家を後にしてすぐに病院に向かった。頭の中は混乱しつつも、自分がいつまでも自分のことを思い出せないことと自分が自分ではない感覚に納得ができてしまった。

「私は誰だ」

 率直なことを医者に訪ねた。

「そうですか。ご両親に会ってしまったんですね。お気の毒にあの方たちはこの療法に最後まで理解してくれなかった」

「質問に答えろ」

「いいでしょう。本当のあなたは役者です。昔は劇団に所属し舞台や映像に出演して生計をなんとかしていたみたいですが仕事に恵まれずお金がなかった。演技には自信があったみたいで転職は考えず役者一本で頑張っていたのですがいかんせん生きるためにはお金が必要。売れるものは全部売ったみたいですね。なくなっても支障のない臓器から自分の名前、記憶まで。名前や記憶まで買い取る業者がいるもんだから世の中まだまだ捨てたもんじゃないですね。記憶を売却する際に私はあなたにある仕事を提案してみました。その演技力を生かして死んだ人間の代わりに生きてみないかと。外見は私が手術でいくらでもどうにかできますしね。あなたは最後まで役者にこだわりましてね、この仕事は大成功しました。世の中にはまだ死んでは困る人がいっぱいいましてね、その一時的な代行者をあなたはやり遂げてきました。これでもう二十回目でしたっけ?」

「私は佐藤シンジにしかできないプロジェクトをやったんだぞ」

「役作りって言うんですか? 人物像と台本から考察し役になりきって演技をするってあなたは以前言っていましたよ。時々自分自身の自我が邪魔になるくらいだって。記憶のない状態なら純粋に役を演じられたでしょう。私はそれあんまりよく思いませんけどね。視野の狭い役者って共演者に嫌われそうじゃないですか」

 氷が融解するかのような感覚が胸の中で広がった。私は自分を思い出したが、それは何も残っていなかった。

「私は誰だ」

「あなたはこのまま佐藤シンジとしても生きれます。会社での仕事は大成功だったみたいですね。あなたはこのまま優遇され安定した生活が約束されます」

 それはそれでいいかもしれない。仕事はやりがいがあり達成感と充実感が与えられる。何より金に困らないのは素晴らしいことだ。しかしずっと他人であり続ける違和感と佐藤シンジの父親のあの言葉をがフラッシュバックし吐き気がした。

「もう一つはこれまでのように代行者を続けることです。もちろんまた記憶をリセットして最初からやり直しなんですが。私としましては成功を続けている仕事なのであなたにはぜひこちらを選んで欲しいのですが、まあ強制はできませんね。さてどうしますか?」

「決まってます。私は役者です」

 誰かになることでしか私は生きられない。

「やはりあなたはそういうと思っていました。次の仕事はある殺人事件の犯人で、これが自殺してしまったらしいんですが共犯者がいる可能性が……、ってこの記憶も消去しちゃうんで意味ないですね。つい毎回説明しちゃうんですよ」

 そう言って医者は私に契約書に署名をさせようとしたが私には名前がない。私は役名でしか生きられないのだから。

「いつもそのSF小説の主人公が飼っている猫の名前を書いてましたよ。その文庫本だけがあなたがあなたである証拠です。いつも目が覚めたときに近くに置いておけと言われているのでね」

 この小説から本当の自分を想像してみたが、諦めた。意味がないことだ。この小説の主人公は罠にはめられ人生はどん底、しかしいくつもの時間を行き来しやがて成功の道を掴み失ったものを取り戻すのだが自分はそんな夏へと続く扉は開けられそうになかった。私はピートと署名欄に書いた。さて、次に眠りから覚めたら誰に会うのだろう。

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