06 疲れと垢を流す術

 視界がぼんやりしている。ここはどこなんだろう。

 すこしずつはっきりとしてきた目で辺りを見渡すと、どうやら今、自分の顔は相当高い場所にあるらしい。いくつもの山が連なる、遠くを海に囲まれたいわゆる孤島。そのなかでも一番高い山と同じ高さに目線がある。

 視線を下ろすと木の頂点が見える。そのすぐそばにはひどく濁った湖が。雲の代わりにゆったりと天に流れるのは鳥の群れ。やさしく頬を撫でる風は暖かくて、思わず目を細めてしまう。


 ふと、視界が少しずつ暗くなっていくのを感じた。

 なにごとかと思い目をこすろうとするも思うように腕が上がらず暗転は加速し、視界全体が真っ暗になったところで、自分が目をつむっていることに気がつく。


「ん?」


 目を開けた。

 のそりと津島は枕にしていた腕から顔を起こして辺りを見渡す。視界に映るのは、照明が落とされて暗くなった見慣れぬリビングルームだった。朝になろうとしている時間帯のようで、窓からは青い光が差し込んでいる。

 さっきまで見ていた景色は夢だったのだろうか。それにしてはとてもリアリティがあった気がする。と考えた所で思う。


 いま、自分が見ていたのはどんな夢だったか、と。


 寝起きのため随分と遅く動く思考をもどかしく感じつつ、上半身を伸ばす。

 リビングのテーブルに伏して寝てしまっていたらしい。ぱさりと音をたてて、背中から薄い毛布が床に落ちた。小さくはたきイスの背もたれにかけなおす小さな動作で、肩や肘の関節がばきばきと鳴る。

「夕食前に寝ちゃったんだ。やらかしたな……あれ」

 立ち上がった津島の視界に、今度は黒猫が映った。開けたままにした窓の縁に座り、ゆったりと尻尾を揺らすそれは、透き通った茶色の瞳をまっすぐ津島に向けている。

 しばらく目線を合わせても逃げるそぶりを一切見せないので、おそるおそる一歩近づく。膝の関節がパキリと悲鳴を上げた。

「いつから居たの……? 」

 小声で喋りかけつつ、もう一歩。黒猫は大きくあくびをして、小さく鳴いた。そこで津島ははじめて特異な部分に気がつき声を上げる。

「わあ、初めて見た……。猫又っていうんだっけ」

 穏やかに揺れ動く尻尾が、根元から二本に別れているのだ。艶やかで珍しいその猫にさわりたい衝動が津島の中を駆け抜ける。しかしその瞬間に猫は意味ありげな視線のみをのこして外に飛び降りてしまった。

「……行っちゃった」


 窓枠から明るくなりつつある外へ身を乗り出して外を見ても、猫の姿はどこにも見当たらない。不思議な雰囲気を持つ猫だった。


 市場で働く人の遠くからの音以外はなにもない静かな空気。しかし猫のことだけ考えていることはできないようで、お腹がぎゅうと音を立てた。自身の汗臭さがわずかに気になる。

 とりあえず自室に戻り、昨日買った服に袖を通す。そして今更ながら自身の大きく変化した身体へ驚きを感じつつ、もともと着ていた服が女の子らしいものでなくてよかったと胸を撫で下ろした。

 部屋を出ると、丁度起きた空とはちあう。あくびをかみ殺したような表情に思わず笑うと、空も小さく口角を上げた。

「カズ。おはよう。昨日飯食べずに寝はじめたから放っておいたけど、ちゃんと部屋戻れたんだな」

 寝起きだからか普段より静かな反応に津島は首を横へ振る。

「今さっきリビングで起きたんだ。 ……毛布、ありがとう」

「いえいえ。お腹すいてるだろ! 昨日朝ご飯しか食べてないし」

「実を言うと大分減った……かな。でも今は先にお風呂に入りたい。どこにあるの?」

「お風呂かー。外にあるから、案内するよ! 着替えは……あれっ、それ昨日買った新しい服? 似合ってるじゃん!」

「そう? ど、どどうもありがとう」

 おもわぬ言葉に吃る津島に、空は笑みを深くする。

「どーいたしまして。じゃあちょっと、支度とかしてくるから待ってて! 手ぶらでいいから!!」


 元々ボリュームのあるくせ毛なおかげで寝癖が目立たない髪を押さえつけ、部屋へUターンする空の背中を見送った津島は、言葉に従ってリビングへ降りる。

 脳裏に浮かぶ、先ほどの猫。黒色の綺麗な目と、特徴的な二股の尻尾。なんの根拠もないけれどまた会えるような気がして、津島は口角をゆるりと上げた。


×××


 空の案内で家をでてから十分程度歩いた場所にあった風呂場は、コンビニエンスストアの屋根を高くした程度の大きさの石製の建物だった。

 コンビニエンスストアといえば、つい最近近所に新しくできた一軒を思い出す。それまで近くに24時間営業の店がなかったから、いつか使えたらと思っていたものだ。使う前に、ここに来てしまったが。

 周りのパステルカラーな建物とくらべると、そこだけ落ち込んだように色彩が低い。木でできた扉を押して中に入ると、カウンターに座っていた一人の老婆が柔らかい笑顔で二人を迎えた。


「やあ、来た来た。君が新しい子かあ。いらっしゃい、今日は誰もいないから、足伸ばし放題よ」

「おはようございます! もうカズの噂立ってるんですか??」

 老婆は顔を津島へ向けて、くりっとした目を細める。

「そうねえ、家にでかい穴あけた大物だって、建築馬鹿二人が騒いでいたからねぇ」

 建築馬鹿という言葉に、壁を直してくれた老夫婦が津島の脳裏をよぎる。さっと顔を青くさせる津島のことなどおかまいなしに、空は笑い声をあげた。

「立派な大穴だったんですよ!! こーんな!!」

「それ、あの子も同じことを言っていたよ。直しがいがあったーってねえ。さあさあカズネちゃんそんなところに立っていないで、こちらへおいで。ソラちゃん、一人じゃなくなってよかったなあ」

 老婆は表情を崩さず、小さなバケツのようなものを二つカウンターの上にのせた。空はそれらを受け取り、片方を津島の方へ差し出す。

「へへへ、本当にそれですよ!!! 俺もう寂しくて、寂しくて! 仲間できて助かりました!」

 空のその言葉に津島は思わず顔をあげた。この人はそんなこと思っていたのか、と。この世界のことを話すときもどこかあっけらかんとしていて、寂しさの欠片も感じさせなかったのに。なんだ、不安なのは自分だけではなかったのか。

 ふと空と目があう。よほど間抜けな顔をしていたのか、空は津島の顔を見てはニッと歯を出して笑い、ポケットから小銭を出した。

「はい、まいどありがとう」

 続いて津島が急いで小銭を出そうとするも、老婆は要らないというように首を横に振る。空が二人分支払ってくれたのだ。頭を下げ空のあとに続いて店の奥へと入り込む。

「あの、空。お金……」

「ああ、大丈夫大丈夫!! あれ実はベニヒさん達への借金! 元々バイトも俺個人の行動で、本来なら生活につかうお金は全部ベニヒさん達が出してくれるって話だったから少しくらい甘えてもいーでしょ!! 気にすんな!!」

「そうだけど……」

「でも、あんまし借金膨らませすぎると申し訳ないから、さっさと日本に戻らなくちゃだな!! あ、脱ぐのは上着だけでいいから!! この世界は、服を着たまま風呂に入るんだよ」


 店の奥は、驚くほどシンプルなものだった。銭湯のようにロッカーや体重計、積み重ねられた籠……というものを想像していたが、そんなものは一切無い。覗き込めば自分の顔が見えるような、綺麗に磨かれた石でできた床の部屋の奥に、灰色の膜が張った厚さのある門が置かれているだけだった。移転門に比べると高さは低いし装飾も少ない。三メートル程度の門だ。遠くから見たらコンクリートの壁に見えないことも無い。

 津島が横を見ると、すでに空は上着を脱いで先ほど受け取った小さなバケツの中に放り込んでいるところだった。

「……えっと、お風呂はどこに」

「上着脱いだらこの中入る!! くぐるんじゃなくて、埋まる感じでね!! ここでのお風呂はこれなんだよ!! すげーぞ」

「えっ、ちょっ……そのまま!?」

 靴を揃えて脱いだ空は、津島の言葉に応えることなくその視界から消えた。

 湯気もないあまりにそっけない風呂場。冷たい床を歩いて門へ近寄り、おそるおそる膜に触っては微妙にある弾力へ少しだけ目を見開く。チューブ型の液体紙粘土に、もしくは固まりかけのボンドに手をつっこんでいるような感覚だった。

 中の様子が見えないので少し怖さを覚えながらも、ゆっくりゆっくり手から肘まで、そして肘から肩まで。そこで膜の中からいきなり勢い良く手が伸びてきた。


 もう…もどかしいな!!


 という声が聞こえたような気がしたと思えば、伸びてきた手は津島の胸ぐらをがしりと掴み、勢い良く膜の中に引きずり込んだ。


 思わず目をつむり、息を止める。反射でとったその行動へとっさに空が笑いを噛み殺す声が聞こえた。さらさらとなにかが流れてゆくような肌ざわりにそっと目を開くと、そこはまるで薄暗い箱の中のようだった。箱の広さは門の大きさ、厚みと一緒で、さきほど見た門の中に居るんだと改めて実感をする。番頭の老婆の言葉どおり、他に人は居ないようだった。

 入ってきた方を見ると、膜の外の様子が半分透けて見える。

 一つに結んだ自身の黒髪が視界の端に映り、そこではじめて前の世界より自分髪の毛が伸びていることに気がついた。性別が男になったのなら普通短くなるべきではないのだろうか。と思いつつ空を見ると、彼は彼でいたずらが成功したときの子供のような表情をしていた。それに答えるようにムッと唇をとがらせると、空は笑いをかみ殺しながら口を開く。


「息とめなくても大丈夫だよ」

「えっ…………あ。本当だ」

「この世界ではお風呂に気持ちよさとかは求めないみたいで、少し浸かったらすぐ出て行っちゃうんだよ!! ほら、水みたいに何かが流れてるだろ? これが、身体の表面についた悪い物質とかをぜーんぶ剥がして攫って行ってくれるんだってさ」

 そう言って空は小さく伸びをした。感覚としては水の中なのにもかかわらず視界は全く揺れず、身体が浮くこともなく、呼吸もできる。非常に変な感じだった。落ち着かない。

「すっっごいダメなタイプの商法にひっかかってる気分なんだけど……。でも不思議な感覚。水の中に居るのにそうでないみたいし、暖かいから気持ちいい」

 そして津島は目を閉じて小さい溜め息をつく。空がふとなにかを思い出したかのように声を出した

「あのさ!! さっきの、寂しいとかああいうの気にしなくていいから!! ちょっと話あわせただけで」

「へ? ……あー、さっきのカウンターのおばあちゃんとの話? 空は寂しいとか感じなさそうなイメージだったから聞いたときちょっと驚いたけど、やっぱりあわせただけなんだね」

「俺、そういうイメージ持たれてんの?」

「そういうっていっても悪いイメージじゃないよ。優しくて親切……すごい元気で、ハイテンションだから寂しさなんて吹き飛ばしちゃいそうなイメージかな」


 出会って数日目にも関わらずこんなことを言って。と恥ずかしくなった津島に、空はやかましい笑顔を浮かべた


「そう言われたら照れちゃうな!! でも仲間ができたのが嬉しいのは本当だから。早くがんばって元のとこに戻ろうぜ!!」

「そうだね、早く帰って暖かいお湯のお風呂に浸かりたい」


 空の言葉と満面の笑みに答えてから、津島は胸にちりと罪悪感を感じた。自分は今、彼に、本来は女であるということを隠しているのだ。そもそもどうして最初に言わなかったのか覚えていないけれど、そう、言うタイミングが掴めなかったのだ。

 今のうちに言っておいた方がいいんじゃないだろうかと、意を決して空を見る。


「空。少し、改まったお話があるんだけど……」

「ん、何?」


 少し真面目な声のトーンで言ってみる。本当のことを話そう。……でもここで私実は女なんですって言ったら空はどう思うだろうかと考えると、躊躇った。


 『なんで今までお前自分が男だと言われて否定しなかったんだよ!!』

 『嘘つきとは暮らしたくない』

 『飯は自分で作れよ。言っておくけど嘘つきに出す材料なんてねーからな』


 次々と頭に響く悪い想像に体が震える。ただタイミングが見つからなかっただけとはいえ嘘をついていたことには変わりないのだ。ここで事実をいえば、相手も怒るだろう。接点がなくなるまで……つまり、元の世界に戻るまでこのままでいておいた方が平和に片付くかもしれない。

 そう考え込んでしまった津島の顔を、空が覗き込んだ。


「どうした?? 大丈夫か?」

「あっ……だ、大丈夫。ごめん」

「いや!平気ならいいんだけど!! そのさっきの、改まったお話って何?」


 真面目な話をするトーンは読み取ってくれたようだ。後半の声のトーンが、とても落ち着いたものだった。いつもこれで話すことはできないのだろうかと考えかけて、首を横に振る。今考えるべきはそうでない。


 言ってしまうべきか否か。だ。


「じ…実は、自分……」

 津島は言葉を切っておそるおそる空の顔を伺い、息を飲んだ。そこには、いつものうるさい笑顔があったからだ。

「いいよ、カズ。言いにくいことだったら無理して言わなくていい」

「いっ、いや。言いにくいなんてこと……いや、言いにくいけど……」

「わざわざ言おうとしたってことはなんかしら大切なことなんだろ?? じゃあカズが気軽に言えるくらいの関係になるまで待つって!! 俺らまだ会ってちょっとだし、修学旅行の夜の暴露大会はもうちょっと先、先! それよりも先に元の世界にもどっちゃうかもだけどな」

「うん……ありがとう。そうする」

「じゃあそろそろ上がって朝ご飯にしようぜ。俺は腹が減った!!」


 仲がよくなればさらに言い難くなるだろうという想像はついていたが、勇気がでない彼女は、空の優しさに甘えてしまった。そしてその場の空気を変えるように言った空へ続いて風呂を出た津島は、身につけているものが一切水気を帯びていないことに目を丸める。

 そう、この世界の風呂は触れても濡れることはない。それの本質は水でなく、あくまで水の質に近いだけの魔力の塊であるからだ。


「いつも夜に来るともっと沢山の人が居るんだよ。そこで話すと一気に友達増えるから、明日は夜来ようぜ!」

「と、友達……。じゃあ、ちゃんと起きてなくちゃだね……! 同年代の人とかも居るの?」

「いるいる!! そういえばカズ、こっち来てからまともにベッドで寝てないんじゃない? 今晩はしっかり休めよな!!」


笑う空に津島は、性別を騙していることへの罪悪感を振り払うように大きな声で宣言した


「うん、今日は絶対ベッドで寝るよ!!すごく気持ち良さそうだし、絶対に!」

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紙上史 @Tussa_jute

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