02 脱兎のごとく

「さてと」


 ベニヒとグリエを見送り小さく息を吐いた空は、それまで呆然としていた津島に向かい合う。


「先に晩飯にしようぜ! 身体の温まるあったか〜いやつな!!! 嫌いな食べ物はある???」


 首を横に振る津島に、ならよかったとやかましい笑顔を浮かべた彼はリビングのテーブルに皿を並べ始める。

 ほかほかと湯気を立てる食事に両手を合わせて一口食べてみれば存外美味しくて、思ったままに感想を言えば彼は照れたように笑った。


「料理がお好きなんですか?」

「割とね! 簡単なものしか作れないけど。君は??」

「えっ……うーん、読書が好きです。あとお散歩したり、寝たり……ですかね。今まで宓浦さん一人で、ここに住んでいたんですか?」

「うん。四日前、街の外の平原で倒れてるところをベニヒさんに拾ってもらってからな! でもグリエさんがよく面倒を見に来てくれたし、 近所の人も優しいから。そう苦しいものじゃなかったぜ!」

 そこで空は一度言葉を切り、すこし控えめに津島を窺い見た。

「なあ、そんな硬くなる必要ないとおもうんだけど。これから一緒に暮らすんだからタメで行こうぜ、タメで」

「あっ、ああ、すみません。まだすこし戸惑っていて、その……じゃあ、お言葉に甘えて……」

「全然硬いまんまじゃん!! なにをそんなに緊張してんの!!」


 けらけらと笑った空は、直後はっとして口に手を当てる。


「悪い!! 笑うのもあんまよくないよな! 親とか友達とかと離れるのは寂しいし、戸惑うものだもんな。ごめん、カズ」

「へっ……カズ? 」

「津島じゃ名字だからよそよそしいし、和音じゃ女の子を呼んでる気になっちゃうからカズ! あっ、やだ?」

「ううん……嫌じゃない。むしろありがとう。初めて呼ばれるあだ名だからびっくりしちゃって……」


 首を横に振りながら、津島は随分と他人事のように言うんだなあ。と内心で呟く。親や友達と離れている状況は彼も同じはずなのに、その喋り方ではまるで自分には関係ないと言っているようだった。

 しかし津島にとっても、親や友達などはどうでも良いことだった。今一番の問題は、自身の身体にあるのだから。


 何を隠そう、ここへ来る前の津島和音は正真正銘の女性だった。高校に入学して初めての夏休みを心のそこから喜ぶ、いたって普通の女子高生だったのだ。


 一年で一番長い最高の連休。まずは食材を買いに行き、たくさんのカレーを作ろうと心に決めていた。親がいないのは昼ごはんのときだけ。冷凍保存をすれば十日は食べるものに困らない。その間で宿題はすべて終わるだろう。指折り数えながら制服のスカートを揺らす足取りだって、軽かった。

 変わってしまったのは私服に着替え再び家を出た直後、焚き火の前で目を覚ましてからだ。いつの間に気を失ったのかすら思い出せないまま、ベニヒの問いかけに答えようとしたところで違和感を感じ喉を触るとつい数分前にはなかったなぞの出っ張りに触れた。それはいわゆるのど仏というもので。


 性転換なるものを初めて経験した。男になりたい、そちらの方が気楽だろう。と思ったことは何度もそれは数え切れないほどあったが、だからといって我が身に起こるとは予想もしていなかった。明らかに普通ではない状況だ。その上、聞いたこともない固有名詞がぺらぺらと吐き出される場所で知らない人とシェアハウスをすると宣告を受けて、落ち着いていられるかという話だ。否、無理である。家やお金が確保されているというのが唯一の救いだけれども。

 必死に頭を整理する、合間に飲んだ温かいスープはそんな心境を収めるように体に深く浸み込んだ。


「明日からは当番制で晩ごはん作ろうぜ!! 俺一人で作ったら、俺の好きな食べものに偏っちゃう」


 食材に関しては説明するからさ! と元気に付け加えられた言葉の通り、津島達が住んでいた場所とここでは食材の見た目が大きく違うようだった。礼をいうと「気にしなくていいよ」とパンを噛みながらの軽い言葉が返ってくる。


 食器を片付け、家の中の案内が終わった頃には街路灯の火も落ちる時間だ。

 酔っ払ったテンションでベニヒが購入を決め、そのまま倉庫として扱うようになった一軒家。屋根裏部屋有りの二階建てで、広さは二人で暮らすには少々広い程度の、日本にある一般的な一軒家とさほど変わりない。


「——そんでもって、ラスト! ここがカズのお部屋ね。本当はここの上にもう一つ屋根裏部屋があるんだけど、いっぱい荷物が置いてあって漁っちゃいけないと思たから入ってない! ……なあ、まだ顔硬いけど大丈夫? 俺に気遣いとかいらないから、男同士仲良くやろうぜ!! 不安なこととかあったら、話くらいなら聞けるかもしれないし。な!」


 二階の、空が使っているという部屋の廊下を挟んで向かい。パチンと付けられた照明は、電気によるものでも火によるものでもないようで、ほわほわと不思議に揺れ動いている。


 男同士。


 その言葉を聞いた瞬間、明るくなった部屋とは正反対に、心の中に黒い染みが広がっていくような心地がした。何故こんなことになってしまったのだろうか、と。

 なにも悪いことはしていないのに。それだけ、良いこともしてこなかったバチだろうか。

 自分にできることならなにをしたって構わないから、とにかく帰りたいと思った。今すぐ、今すぐに。




××××


 津島の心に沸いた黒い染みは、非常に早い段階で表面へ現れてしまった。就寝のあいさつを交わしたわずか数時間後に、壁の大穴という形で。

 悲鳴に似た叫び声とともに、静まり返った街を引き裂いたのは空気の破裂音だった。小道を挟んで向かいの家の明かりがつくのを、空は津島に宛てがった部屋から呆然と眺める。道に向かい合う壁に大穴により、風通しの良くなったその部屋に津島の姿はない。


 叫び声に飛び起きてあわてて部屋の扉を開けたが、そのときにはすでに姿を消していた。代わりというように忽然とできていた穴から飛び降りたのだろうと憶測を立てる。念のためベッドの下も覗いたが、丸まった小さな肌色の布が転がっているだけだった。二階から飛び降りれば足を挫いてしまいそうだが、と疑問に思う。

 追いかけるという選択肢は空にはなかった。ここへ来て四日、されど四日だ。灯りのない見知らぬ街をあてもなく動いたところでたかが知れている。ただただ呆然と、津島が使うことになったベッドに腰掛けてため息をついた。

 そんな中、階段を駆け上がる音が家に響いた。複数人ぶんのその足音は、揃えて空が居る部屋の前で止まる。


 足音の主は、音を聞きつけて駆けつけたベニヒとグリエ、そしてそ見知らぬ男性の三人だった。彼らは、空が説明をはじめるより先に状況を把握したらしい。

「ソラは家で待機だ。もしツシマカズネが帰ってきたらお茶でも入れてやれ。……大丈夫だ、そんな顔をするな。お前は悪くない」

 ベニヒは短くそう言い残し、二人の仲間を引き連れて外へと飛び出す。残された部屋で一人。空は何度目かのため息をついた。

「どうしてこんなことになっちゃったんだ?」


 もっと話を聞いていればこんなことにはならなかっただろうか。津島が感じていた不安は、どうにかなると考えて順応できた空のものとは比にならないくらい大きかったのかもしれない。まあ、今更どうこう考えてもどうにもならないし、人の気持ちなんてわかったものじゃないけれど。


 ぶつぶつと呟きながらキッチンに立ち、火にかけたヤカンが音を立て始めた頃。深夜の扉を誰かがノックした。


××××


 港町ブラウの外と内をつなぐ三つの門。そのなかの一つを出た先、小さな草原を挟んで広がる森の奥で小柄の男性——レヨン・セルパータが足を踏み出した。小さな光源を持つ彼の視線が向けられた比較的太い木の根元には、黒髪の子が小さく小さく屈みこんでいる。


 やっと見つけた。と、レヨンは汗をぬぐった。

 天が暗くなり視界も狭くなった状況で人の子を一人見つけ出すなんて不可能に近いと、半ば諦めていたというのに。よもや見つけることができたのは奇跡的だと言っていいだろう。

 広がる安堵を飲み込んで、彼はその黒髪に声をかけた。


「べニヒとグリエが人を拾っていたのは知っていた。グルーンがいつもの病気をこじらせて会いに行ったことも知っている。一人増えていることは知らなかったけれど。今回こうして捜索に駆り出されているのは……ベニヒたちの隣に住むと決めた俺が悪いんだろうね」


 探す場所を間違えていたら、朝になるまえに夜行性の魔物に食い殺されていた可能性だってあっただろう。なぜなら、うずくまる津島和音をまるで囲むようにして小型魔物の血肉が至る場所に散らかっていたのだ。まるで内部から破裂したように。

 そしてその血の匂いは大型の魔物も誘い出す。

 魔物の血で獲物を呼び寄せるのは、ベニヒたちが狩猟でよく使う手段でもあった。


「こんなに綺麗に散らかってる状態、俺ひさしぶりに見たよ。なかなかないもん。魔物は餌を肉の欠片も残さず食べ尽くすし。人が魔物の血を使う場合は面倒臭がって血だけをふりまくもんね」


 耳の下の長さで整えられた薄い金の髪が、灯りに照らされ薄く光る。表情筋の弱い顔はあくまで無表情だが、彼自身に感情がないわけではない。むしろ豊かな方である。

 周囲が突然明るくなったことを瞼越しに感知した津島が弱り切った顔を上げた。絡み合った目線にレヨンはわずかに口角を上げる。


「君がツシマカズネくんでしょ。初めまして。怪我はない?」


 優しい口調のその問いかけに、しかし津島は枯れた悲鳴をあげて木の根の上に尻餅をついた。


「こないで……! 嫌だ、こっち来ないで。来ないでください!! く……来るな!! 来るなっ!!!」

「どうして? 俺が知らない人だから?」


 目線の高さを合わせるレヨンに答えず、津島は再び耳をふさいで首を左右に振る。


「残念ながら叫んでも家には帰れないよ。帰るにはまず君の住んでいた場所へ戻る方法を探さなくちゃ。それを探してくれる仲間はいる。俺だって君と、もう一人の子が家へ帰れるよう手伝いをしたいと思っている。意外かもしれないけどベニヒは顔が広いし、いい助けになってくれると思うんだけど……」


 いつになく饒舌なレヨンの言葉が届いたのか、津島は震えを止めた。前髪に隠れて影になっている顔をそっと覗き込むと、充血した目を大きく見開いている。呆然としているようだった。動かなくなっちゃったと、レヨンがベニヒ達へ視線を送る。飛び散る血肉をまたぎベニヒ達が近寄る最中に、彼は勢いよく立ち上がり深々と頭を下げた。


「ごっ、ごごごめんなさい!! 自分、あの、突然のことで気が動転してしまって! あの……えっと、目の前で魔物が破裂するものだからとってもびっくりして、へ 変なこと言ってませんでしたか」

 我に返った彼に頭をあげる様子は見られない。そうして何度も謝った末に、ぐちゃぐちゃになった髪の毛や土のついた洋服をグリエに直されながら何度も言った言葉をもう一度ぽつりと言った。


「迷惑をかけて、ごめんなさい」

「大丈夫。こんなもの迷惑になんて部類されないよ、大切なときにお酒でべろべろになっちゃうベニヒに比べたらね。帰る方法が見つかるまではさ、この世界で生きて行こう。不安なのはわかる。全く知らない場所に来たんだもんね」


 まるで弟か妹か、はたまた子供かに言い聞かせるような言葉に、津島は、ごめんなさい。と言って最後にもう一度、深く頭を下げた。



××××


 外に直接つながる穴がある部屋では風邪をひいてしまうおそれがあるため、津島は残りの夜をリビングのソファーで明かした。

「そういえばカズ、足大丈夫??」

 青く澄んだ天には、あいからわず雲どころか太陽もない。賑やかに市場へ向かう人々の流れに沿って石畳みの道を歩く。

 ベニヒがリーダーをしているという狩猟ギルド【ぽぽーん】の拠点へと向かうためだ。空の手にはグリエからもらった街の地図が握られている。


「足? 靴ならもうすっかり乾いたよ。湖に浮いていたっていうのに、これがそんなに濡れてなくて……」

「そうじゃなくて!! 昨晩、二階の穴から飛び降りて外に行ったんだろ?? 挫いてないかって聞いてんの。見た感じ大丈夫そうだけど……」

「あ……ああ、うん。その件は本当に、ごめんなさい。お騒がせしてしまって……」


 しょんぼりとうつむく津島に、空は昨晩津島が帰ってきてから幾度と繰り返した言葉を再び口にした。


「だからぁ、俺は謝らせたいんじゃなくて、怪我をしてるか心配してるだけだってば!! もー。ただでさえ別世界に来ちゃうっていう常識とは離れたことが起きてるんだから、多少のバタバタは仕方ないだろ!! 一帰るまでは許しあっていこうぜ。俺もこの先なにしでかすかわかんないし!!」


 大通りから二つほど道を曲がった先の木造の一軒家。ステップを上がり扉を叩くと、内からベニヒが顔を出す。にじみ出た汗を収めるように風が吹き込む拠点の奥には、ソファーに腰掛けお菓子をつまむグリエとレヨンも見えた。

 ベニヒはにっこりと微笑み、酒瓶を持っていない方の手で二人を招き入れる。


「いらっしゃい、待っていたよ。ここは私たちギルドの活動拠点だ。仲間が誰かしらここにいることが多いから、困ったことがあったらここに来てくれるといい。二人のことはみんなにも話をしてあるからな」


 ギシと鳴る床を踏み、拠点へと足を踏み入れた二人は室内を見回す。デスクは五つ、わずかに床が低くなった場所に並んで三人座ることのできるソファーが二つ、テーブルを挟んで向かい合っている。奥のキッチンには酒瓶が置かれていたが、それは考えるまでもなく全てベニヒのものだろう。


「昨日、なにか依頼を取りに行くかと考えながらここでゴロゴロしていたら、グリエが一つの依頼を持ってきたんだ。報酬が良いって理由でな。一緒に向かったその依頼の先で、ツシマカズネ……お前を拾った。たまげたよ。人がいないはずの場所に、ぷかぷかお前が浮いているんだから」


 喋りながらグリエの隣に座ったベニヒは津島と空にも座るよう、うながす。


「さ、いつまでもそんなところに立っていないで、そこに座って。すこしだけお前らに話したいことと、聞きたいことがあるんだ」

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