第5話 離松

 ワタシの兄、恭は日本で一番頭の良い人です。思い通りにならないのは天候ぐらいのものです。恭は龍之介君のことをすべて見透かしていました。その八方美人を見抜いていました。どうしてそうなるのか理由もわかっていました。

 龍之介君がはじめて人前に出した文章は、中学校の頃に書いた木曾義仲論です。彼は野人のようなものにあこがれを抱いていました。古典の中で強盗だの強姦だのをする、それでいてどこか神聖さを帯びた愚者達に興味を持っていました。そんな人物らとは正反対の大人に囲まれて育った龍之介君は、家格に振り回され、神経をすり減らし続けて一生を過ごすのだろうなというのを、ワタシと恭には手に取るようにわかりました。


 龍之介君と恭は、八月五日から、汽船で運河を下って古浦海岸に出たり、稲佐の浜に出てひたすら泳いだり、更にその先の波根でも海に飛び込んだり、そのフレッシュネスな今までの体験を語り合っていました。ワタシは和尚から借りた襦袢のせいで体にまとわりついた悪臭がなかなか取れないので、石けんで体をこすって何度も井戸水をかぶりました。

「芥君はね、出雲大社に行く途中、何を佳いなと言ったと思う?」

 恭からワタシへの突然の問いかけでした。ワタシは困惑しながら、ふと、かぶった井戸水がもう乾いていたことに気がつきました。山のタブノキ、椎の木、ポプラの木、宍道湖のいぐさ、蒲、かいつぶりであり、家の前の濠にある水草であり椿であり、鈍い色の水面であり泳ぐ亀の背であり、真山の高山じみた様子……。

「芥君はそれに、感心しちゃったと言っていた。ヒントを言えば、芥君は、日本海は寂しいなと言っていた。雄大な海とは正反対なもので、最も素朴なものだ。わかるかな」

「はぁ」ワタシはお手上げでした。

「芥君が反応したのはね、農家の薄く黄ばんだ灰色の壁さ」

 話に加わっていなかった龍之介君が「よせ」とはにかみました。

「芥君が更に好きなのは土の肌があらわになった山さ。あれはセザンヌだってさ。芥君はね、醜いものを見てしまう優しさがあるんだな。そして、そんな変わったところをわざわざ褒めるんだ。芥君には私のことも……憎く、醜く書いてほしいと思うのだが、それはできないだろうなぁ。彼は人を傷つけずに好かれたいために、そういうものを褒めたりするのだから。それか、芸事に通じた人の多い家庭に居るから、渋いところを選んでいるのか……芥君、それを言われるのは嫌だろう」

 龍之介君は「セザンヌは君が言ったんじゃないか」とそっぽを向いて黙ったままでした。ワタシは夕暮れに黒々とそびえる松江城を眺めていました。

 眺めるだけでした。


 龍之介君はそのまま独り言をはじめました。木造の橋の風情がやがて鉄橋に変わってしまうこと、小屋にうち捨てられた青銅の鏡を溶かして銅像を建てるため使われることに、龍之介君は怒っていました。恭はあごをさすったり、頬を引っ張ったりするなどしていました。笑みを悟られないようにしているのだとワタシは思いました。

 恭はワタシに「老年やひょっとこから読むに……江戸を溶かして自分の銅像を建てているように見える。明かりの側に老人が一人座っているなんて、メーテルリンクそのものだし、ひょっとこもわかりやすい仮面劇だね」恭は少し深く息を吸うと、ワタシが言葉を発する前に、「明日になれば、ほこりと泥の東京へ帰るんだな」と龍之介君に話しかけました。


「ここは僕の生まれ故郷に似てる。旅に出る気分だよ」

 龍之介君は西堀川を見下ろしていました。

「長い旅になりそうだね」恭がそう言うと、

「ああ、長い旅になるかもしれない」

 龍之介君と肩がぶつかるぐらい近くに恭が並びました。

 肩を避けるように龍之介君はしゃがみました。城と、夏と、二人の帝大生。望月写真館のあの一枚と違い、もう学生ではないような背中。

 龍之介君は翌二十一日朝、予定通り離松しました。

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