第4話 聖書

 ワタシは温泉よりも、第一回全国中等学校の野球大会の結果が気になっていました。今日で第二次予選が終わります。この二人を見ていて、ワタシは将来について考え、インテリゲンチャになるより野球をして楽しもうと思いました。いずれヨーロッパの……イギリスかもしれませんが、どこかの国と大きな戦争をするに違いない。知識は何の意味もなくなり、戦争にだって今度は勝つかどうかもわからないぞと思っていました。


 この前、龍之介君が昼間くつろいでいる時、母と姉が信仰について質問しに「お花畑の家」に訪ねて来ました。母や姉は恭以上に聖書をよく読んでいました。帝大の、それも英文学を学ぶ青年が、聖書についてどう思っているのか。恭も議論に加わったりして、部屋がとても狭く感じられました。龍之介君がどんなことを言うか気になったので、ワタシは部屋の隅で逆立ちの練習をしながら話を聞いていました。


「やはりキリストは人間だとしか思えないですね。むしろ聖書を読んで思うのは、人間としてのキリストを信じたいということです。キリストが家族を捨て、父と呼ぶ神のみを信じて生きる。キリストのように神を信じることはとうてい無理ですが、すべてを捨てて神を信じたそのキリストの強さ……弱さ……それはとても興味深いですね。世間や故郷や不信心なものと戦うキリストの、最後のむなしさが素晴らしい」

 蕩々と語る龍之介君に母や姉は青ざめていました。「芥川さん、天国に行けませんよ」と母と姉は本気で心配をしていました。恭は涼しい顔のままでした。龍之介君は天井を見上げて「天国に行けない? 畢竟、僕は超越を信じられなかったユダと同じです」恭は、もうそれ以上何も言うなという顔で「東郷坂教会でもそうだったけれど、芥君は頭で全部考えようとしていないかい。人生全部」龍之介君は横目で恭を捉えながら「君もそうだろう。ただ違うのは、僕はとても縁起の悪い時に生まれてね。教会に捨てられたんだ。捨て子さ。キリストには感謝してるさ。ただ神とは思わないね」と、手持ちぶさたなのかマッチ箱を取って二、三度振ってから、じっとラベルを見つめていました。ワタシはむしろ龍之介君が、母や姉に気をつかって反論をしているように思えました。恭があえて議論に参加しなかったはずです。話も、新しい発見や盛り上がりはありませんでした。


 ワタシと龍之介君と恭の三人は足を掻きながら、小走りで山道を下りていました。結局温泉には行かず麓の寺で草履と下着を乾かして、ついでにご馳走になりました。食後、本堂で龍之介君は仏像の顔を写生していました。恭は境内で雨上がりの風に身を横たえていました。ワタシはあまりに暇なのでシャチホコ立ちの稽古をしていました。龍之介君は思い出したように「井川君、僕は枕元に君から貰った聖書を置いて、寝ているよ」如来像の微笑を見つめ続けながら言いました。「……それは枕代わりに使っているという意味かい?」恭に対する龍之介君の返事はありませんでした。

 日はずいぶんと傾いていました。お花畑の家に帰って、また汗が吹き出たので、井戸で水を頭からかぶりました。枝の間引かれた杏の木の下で、三人とも下帯一枚になって空色のあじさいを眺めていました。


 ふられた腹いせで遊んだ吉原で体を壊し、巨根を痛めて小便をするのもひいひい言っていた自称ライジングジェネレーションの龍之介君は、恭に松江に招かれ、大喜びだったようです。恭は、入念な準備を行いました。松江の駅に着いた龍之介君を宍道湖のほとりに呼び出し、夕陽をバックに小舟で出迎えようと計画していたのです。

 が、当日は暴風雨。

 恭は楽しそうに回顧していましたが、龍之介君から七月末に送られた和歌である「こちごちの こごしきやまゆ 雲出でて 驥雨するとき 出雲に入らむ」と書かれた手紙を握りしめ、笑顔はあきらかに引きつっていました。「芥君、さすが物語作家だ。天に利き過ぎたようだぜ」ロマンティックニュアンスを企んだ恭をここまで悔しそうな口調にさせる龍之介君にワタシは少しだけ嫉妬をしました。

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