第3話 ワタシ
ワタシ達三人は先日、尼子氏の城跡を目指して真山を登りました。
宍道湖を見下ろせる高さ二百五十メートルの頂上から、温泉の煙を眺めていました。
「帰りにまたひとっ風呂浴びようか」と龍之介君が話すのを聞きながら三人でスケッチをしていました。ワタシはズボン下だけで山を登ろうとしたのですが、麓の寺の住職が親切にも襦袢をくれました。それがとてつもなく臭いのです。ワタシはなかなか絵に集中できませんでした。
雲が重たく空を覆い、山の上なのに蒸し暑い空気のままでした。龍之介君も恭も、たくさんの汗で肌衣は薄墨が流れたようになっていました。
恭と違い、龍之介君はスケッチをさっさと描き終えて、スタスタと日本海側に歩いて行きました。
彼は「弥生!」と絶叫しました。
傷心旅行もだいぶ大詰めだなとワタシは思ったものでしたが、一分もたたないうちに「千代!」と芥川家の女中の名前を口にしたのです。
恭と二人で顔を見合わせました。
龍之介君が叫んだ弥生と千代という女性は二人ともとんでもなく美人らしいです。弥生さんは赤新聞に名前が載る不良でありながら、龍之介君と張り合える知性を持っているとか。千代さんは龍之介君より四つ下ですが、落ち着いた雰囲気で目鼻立ちがすっきりしているとのことです。二人とも一方通行の恋愛ではあったけれども、お互い愛し合っていたとは、龍之介談です。
ん? 一方通行だが愛し合っているとはいったいどういうことか? 理性と論理の塊である恭は理解しかねるようで、ほんの少しだけ突き出た自分の顎をさすっていました。すでに恒藤さんと婚約している恭は、龍之介君の振る舞いをきちんと理解できているのか疑問でした。
一通り叫び終えた直後、龍之介君は、山本喜誉司さんの姪っ子である塚本文子さんもいいねとニッコリ言うのでした。
「僕ぁ、才媛に弱いんだ……だから清浄で無邪気な愛が欲しいな」
「完、龍之介君は女でも男でも友情においても油断のならない男だから気をつけろ」
恭はワタシの耳元に口を寄せて囁きました。ワタシはぞっとしました。
そういえば恭が京都の帝大へ進学を決めた時、龍之介君から届いた手紙に、「三年間、一高にいたあいだに、一番愛していたのは君だと思う」と書いてあった話を思い出しました。
「なんだか大声だしてすっきりしちゃった」
龍之介君がワタシ達に近づいてきました。
「そろそろ温泉に行こうか」と恭が言うと「よし、決まり!」と龍之介君は頷きました。直後のこと、雨のわびしい音が、丹色の土をたたきました。
恭は龍之介君に、まったく先輩面しません。対等で、公正で、平等。ワタシが恭を尊敬するのはこういうところだけです。ですが、
三人で細い道を下りました。途中、道の両端が急勾配になっている場所があり、誰も後ろに下がったりせず三人で競争するように並んでいっぺんに道に突入しました。
ワタシは真ん中を譲らず、龍之介君と恭が道から崖へ滑り落ちかけて「おい、やめろ」と言いながらまだ二人とも走り続けるので、一高二番で卒業した二十三歳と一高首席卒業の二十六歳で、何をしているのかと呆れました。
ワタシの襦袢やズボン下は草花や虫ですっかり汚れてしまい、かゆくて脱ぎたくってしかたがありませんでした。恭や龍之介君も同じで、濃い緑の山道で、雨に濡れたワタシ達三人の足は揃って赤く腫れていました。
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