第2話 恭
あぐらをかいてワタシは母に「またしじみ汁ですか」と文句を言いました。
「完ちゃん、贅沢は言っちゃあいけないよ。僕ぁ、君の将来が心配だ。末っ子だから、甘えたに育っちゃったかなぁ」
龍之介君は艶やかな赤い唇に柔らかい笑みを浮かべました。
「
恭は、龍之介君を芥君と呼んでいました。ワタシが龍之介君と心の中で呼んでいるのは恭と違う呼び方をしたかったのも理由としてあります。
松江に来てしばらく経った頃、龍之介君は自分達の世代のことを「ライジングジェネレーション」であると胸を張って語りました。青白い痩身からは想像もつかない熱気がみなぎっていて、小説で世を変えてみせると意気込んでいました。ご大層なことだとワタシは思いました。
そういえば恭が借りたこの「お花畑の家」には、去年志賀直哉さんが百日間寝泊まりしていたそうです。龍之介君は、北原白秋さんや武者小路実篤さんや志賀直哉さんのような文学作品を書けるようになりたいと言っていましたが、ひょうきんで、ユーモアがあって、だけど常に気を配っていて、神経質なこの人に、あんな堂々とした作品を書けるのだろうかとワタシは疑問でした。
龍之介君はこの家に来てから、ほとんど本も読まず、松江城の、緑と白に濁った濠を眺めながら散歩したり、海山に遊んだり、もっぱらゴロゴロ過ごしていました。
時々、枕草子や金瓶梅といった日本や支那の古典、ウイリアム・ブレイクやチェスタトン、イェイツ、ベルクソンやオイケン、西田幾多郎といった難解な哲学の話を恭としていて、ワタシにはちんぷんかんぷんでした。が、当の龍之介君も哲学は苦手らしく、カントなんぞは何度挑戦しても三ページ目で放り出してしまい、すべて読み通し完璧に理解した恭とは大きな違いです。
ワタシが理解した龍之介君という存在(哲学の話になったので一寸用語を借りました)は、好色漢で、人を笑わせることばかり考えていて、知的放逸。「家」でよほど肩身の狭い思いをしていたのでしょう。その反動で、恭との会話の中でいつも「エゴまるだしの獣になってやる」と、龍之介君の伯母さんが聞いたら卒倒するようなことを言っています。
松江に到着してから、千代さん、弥生さんとの失恋や、吉原で遊んで童貞を卒業したことの後悔をひたすら恭に語り、その説明のために、純粋思惟や自由意志という単語が出てきて、一々恭に訂正されるのだから、ワタシはおかしくてたまりませんでした。
ただ一度だけ、龍之介君と恭の意見が鋭く交わった時がありました。
恭が「小説家に芥君はなるんだなぁ……でも学問の可能性を探るのもいいもんだよ。科学ではない文化としての……文化の中にある普遍的で一般的で経験を離れた妥当を目指すことで世の良心はどうあるべきか考える。そして自由な社会を……」と饒舌に語り始めたら「良心なんて趣味だよ。頭の良い貴族や富豪のね」と皮肉な笑みを浮かべながら龍之介君は煎茶を啜りました。
「井川君。例えば金儲けは悪いことかもしれない。だが、金儲けせずに生きていけるのはいまお金をたくさん持っている奴だけだ。普遍だの妥当だのもいいが、金を儲けなきゃいけない現実の中で埋もれた人を僕ぁ、創りたいんだ」
「矛盾だよ芥君。埋もれた人を発見する……ならわかるが、創るというのはどういうことだい」
「捏造だな。例えば僕の母が正常であったならばどうだったのか。それを語ることだ、はははは……」
「……」
「作りものめいてないか、僕自身が」
「……」
恭は天井を見上げたまま、ずっと黙っていました。
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