第6話 みにくさも忘れて

 九月、京都帝国大学の寄宿舎に龍之介君から礼状が届いたそうです。お花畑の家を片付けて内中原の実家に戻った際、恭はワタシに、「大へんお世話になって有難かった。感謝を表すような語を使うと安っぽくなっていけないからやめるが、ほんとうに有難かった」と龍之介君から手紙をもらったことを伝えてくれました。


 二年前の夏に、龍之介君が恭によこした「一高生活の記憶はすべて消滅しても、君と一緒にいた事を忘却することは決してないだろうと思ふ」とか「君は自分が君を尊敬していることは知っているだろうと思う。けれども自分が如何に君を愛しているかは知らないかもしれないと思ふ」という内容の手紙以来の返報でした。


「文学者らしくないこの感想!」

 恭は子供のように手をたたいて笑っていました。

 ワタシは龍之介君が松江に来たのは、放蕩した反省から、キリストの教えに生きる決心をしたのだろうと思っていました。今年の三月に、恭宛てに龍之介君から届いた手紙には、「周囲は醜い 自己も醜い そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい 一切を神の仕業とすれば神の仕業は悪むべき嘲弄だ……そして最後に神に対する復讐は自己の生存を失う事だと思ふ事がある 僕はどうすればいいのだかわからない」と書かれていました。

 神はワタシ達の心の隅々まで見破っている……神に身も心も委ねるために、東京の自然とは違う、生命力溢れるこの地を訪れたと思っていました。

 エゴイズムではない愛に、あれほど懊悩していて、聖書をくり返し通読しているのにも関わらず、龍之介君は離れていってしまいました。



 あの夏、お花畑の家で、朝昼晩とワタシ達はしじみ汁をいただきました。龍之介君は藤岡蔵六さんに、本を読まない日々を手紙で伝えていました。恭は一羽のカワセミ……小さな椰子の実に淡い毛の生えたようなそれが、あっという間に小魚をくわえて枝に戻る翡翠のカワセミに龍之介君を重ねていました。龍之介君はそれを聞いてまんざらでもない顔をしていました。

 砂遊びしてピラミッドやスフィンクスを作ったり、(恭のスフィンクスは途中で首がもげました)五右衛門風呂に挑戦したりして、龍之介君が大きなイチモツを防御しながら入る様……恭は逐一思い出話を全部ワタシに聞かせました。ワタシはそんな恭が不気味でした。恭は実に楽しそうに話すのですが、どこか懺悔めいていました。

 美保関、玉造、床几山。どんな風に二人は旅行記を書くのだろう。ワタシはあまり興味がありませんでした。いえ、興味がないように努めました。どうせ美しい文ができあがるだけだ、と。

「普通の人になってみたらどうだろう。歴史家や教師とか……小説家なんかじゃなくて、もっと簡単な人生を……」

 ワタシは何度か心の中でそう呟きました。恭もたぶんわかっています。龍之介君自身はすっかりよみがえった気でいますが、ワタシはまったく何も治っていない部分があると思っています。

 謀叛もせず、危険思想も語らず、家族に迷惑をかけないよう、生き延びてしまっている龍之介君の中の「このまま松江に住んでしまって、暮らしたい」と漏らした所です。その選択肢を恭は選ばせることができませんでした。


 常福寺の境内で、龍之介君と恭が描き溜めた絵を見せ合いながら、

「君はスケッチが下手だなぁ。犬も牛も猫も皆同じだ」と龍之介君が苦笑したら、「でも、この芥君は似てると思う」

 砂がうっすらと付着したページでした。

「うーん、君、稲佐の浜でこんなに僕のことを見てくれていたのかい」

 やっと龍之介君は恭に鋭い表情を浮かべたそうですが、それでも帰ってしまいました。旅立つという言葉を残しながら。

 龍之介君からの礼状には、ワタシのことも書かれていました。

 ――皆様によろしく 殊に敬愛する完ちゃんによろしく云ってくれ給へ

 恭は龍之介君の礼状に添えられた詩をワタシに朗読してくれました。

 ――こんどこそよい子をうまうと 牝鶏のやうに私は胸をそらせて 部屋の中をあるきまわる 今まで生んだ子のみにくさも忘れて

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