「忘れ得ぬ思い出を胸に」
『いつか大蛇さまのお役に立つことが……笑わないで下さいませ、わたくしは本気ですのに……』
震えが止まらない。
あれは何だろう?
鬼。
そう、鬼だ。
鬼としか呼べない。
そしてあの子は何なのだ?
鬼と話をして、鬼の血に手を濡らして、鬼を消してしまったあの子は何なのだ?
がたがたと震えながら思い出すのは、今は亡き祖母の昔語り。
『むかしむかし、ずぅっとむかし……』
寝物語に聞かされた話。
『二ノ宮のご先祖様は術をもって朝廷に仕える家で……』
のろのろと、だが身体が勝手に動く。
『ある日、帝の命を受けて鬼退治に行ったんだとさ』
家の納屋。
『鬼は強かったが、神の加護を受けたご先祖様は苦戦の果てにとうとう鬼を追い詰めた……が』
幼い頃、ここは遊び場だった。
『ご先祖様は優しいお人で、条件を出す代わりに命を助けてやったそうだよ』
そして、見つけた懐刀がある。
『条件というのは、もう悪さをしないことと、何かの時に力を貸すこと』
見つけたとき、こっぴどく叱られて二度と触らないようにといわれた。
『そしてその証として一本の懐刀を鬼からもらったという……』
怒られるのは嫌だから、あれ以来触ったことはない。
『それは今もこの二ノ宮家に伝わっている……』
嘘だと思っていた。
作り話だと思っていた。
いや、今でもそう思っている。
そうであって欲しいと。
だが手は止まらない。
怖い。
恐ろしい。
確かめなければ、曖昧なままでは、心が耐えられない。
人の恐怖は未知のものに対したときが最も強いという。
だから、偽りであれ真実であれ、知らなければ駄目だ。
憑かれたように納屋をひっくり返す。
埃が舞うのも気にならない。
ただ混雑しきったものの群れを次々と投げ捨ててゆく。
どれくらい経っただろう。
「これ……」
震える手の中に、古ぼけた懐刀がある。
夕実の動きはそこで止まった。
浅くなっていた血の眠りが、醒めた。
「まずいよ」
夜から声がする。
姿は見えない。
唐突なその声に、しかし氷雨はわずかにまなざしを細めただけだった。
研究室の外のベンチ。
今日も弁当を持ってやって来たのだ。
一護を待っている。
姿なき八重桜の声は構わず続ける。
「深月が『視』た。
「……それは、確かに思わしくございませんね……」
氷雨の吐息が、冷たい空気へと艶やかに溶ける。
「だから、まずいって言ってるじゃないか。連中の力なんて上を除けば雑魚しかいないけど……」
「……奸計と絶滅主義は、二千年前よりの伝統でございますからね」
苛立ったように声へと、氷雨は愁えげに頷いた。
何を為すのが最良であるのかなど、とうに承知している。
それを、替わりに八重桜が告げた。
「一刻も早くあたしらの本拠に連れて行かないと守りきれないよ? あんたの『大蛇さま』は奴らにとって最大の仇敵なんだ、有効だと判断したら街ひとつくらい壊滅させることも辞さない可能性だって……」
「然様、でございますね……」
氷雨のくちびるは、躊躇いがちの肯定を紡ぐ。
研究室のドアに、切なげな視線を送る。
泊り込みは昨夜でもう終わりのはずだ。一護も今日は家へと帰ることができる。
「大蛇さまには……このままの暮らしをなさって欲しかったのです……」
氷雨の呟きは、すでに過去形だ。
何を為すべきかは明白、主の幸せを思う心のみが未練を残す。
しかしそれも、生きていればこそのものだ。
「けれど、致し方ございませんね……」
帰り道。
氷雨の作ってきてくれた弁当も残さず平らげ、満足感とともに行く道のり。
そのはずなのに、氷雨の様子だけがおかしかった。いつも湛えている微笑みが、今日は少し違う。
「……どしたん、氷雨さん?」
ほんの少しだけ斜め後ろを着いて来る氷雨を振り返り、一護は問うた。
氷雨は、どこか泣き出してしまいそうにも見える表情で、一護を見上げる。
最近は二人のときは緋瞳を隠しておらず、そのまなざしが直接一護の心を射る。
「……大蛇さまには、嘘を申し上げたことになってしまいました……」
「……は?」
嘘とそれだけ言われてみても一護に何のことだかは分からず、眼を丸くするのみだ。
氷雨は小さくなるように目を伏せた。
「……危険な輩に、大蛇さまの存在を気付かれてしまったのです」
「危険、て……あの、鬼みたいな?」
一護はむしろ落ち着いた気分だった。
人ならば思い返せば誰しも恐怖に悶えるはずの記憶が、なぜか一向に怖くない。
元来もその傾向はあったのかもしれない。それでも何かが変わっているような気がする。
だが、一護の予想は否定された。
「いいえ、人ですわ。けれど、ときに見境がございませんので余程厄介なのです」
氷雨は迷うように、それでもその台詞すら艶やかに告げる。
その言葉が意味するものを、一護は漠然と感じ取った。
「……もしかして僕、危ない?」
「はい……かなり危のうございます」
「……なるほど」
最初に鬼を見たから感覚が薄れていたものの、当然ながら自分は刃物ひとつで死ぬわけなのだ。
と、気付いた。
「え? けど、嘘って?」
危ないのは最初からのはずだ。
嘘にはならない。
すると、氷雨は儚げに微笑んだ。
「できれば、わたくしたちの本拠においでいただきたいのです。あそこならばわたくしの集めた戦力がおりますし、皆わたくしと同じく、近年の武装など効きもいたしませんので……」
「行くって……え? どこなん?」
「淡路……お嫌でございましょうか……?」
「……奇遇ではあるけど」
氷雨の言葉を、一護は戸惑いをもって聞いた。確かに、そのまま暮らしていていいと言われた覚えはあるが、元々気にしてはいなかった。
だが、この街を出て行くと言われるのもしっくりこない。淡路島には昔暮らしていたので馴染みはあるが、それでもだ。
第一、家族はどうするのかとも思う。
現実感がない。
それでも、それは考えの根本が違うと、何かが警告した。
「お嫌でしたら、わたくしもここに残り、お護りいたします……ご安心くださいませ、大蛇さまには傷一つ負わせはいたしません」
一護の思いを読み取ったのであろう氷雨の透明な声。それが一護の心をそちらへと向けさせるが、一護は自らかぶりを振った。
氷雨の言葉は本気だろう。だがそれとともに、ならばなぜかつての言葉を翻してまでどこかへ連れてゆくという選択肢を付け加えたのか。
「もしかして、僕以外は……」
戦慄とともに推し量ったときだった。
するりと、氷雨が一護の手を引き、ぴたりとくっ付いた。
身に纏っているのはいつの間にか巫女装束となっている。
夜道。
周りを囲む五人の男。
「……出遅れたやもしれません……」
氷雨の呟きとともに、二人の周囲にからからと何かが落ちる。
それが、氷雨の纏う防護呪によって無条件に落とされた狙撃の銃弾であることになど、一護は気付く由もない。
それ以上に、そんな余裕はなかった。男たちすら目に入っていない。
「氷雨さん……?」
ぴたりとくっ付いているがために、鼻先に氷雨の艶やかな髪から直接いい薫りが漂ってくる。
視線の先にはほっそりとした首、華奢な肩。
巫女装束であるのにそれでもなお豊かだと分かる胸。
細い頤。
薄紅い、可憐なくちびる。
鋭く細められた緋のまなざしは危ういまでの艶すら秘め、敵を見据えている。
一気に心拍数が上がる。
いかに見慣れようと、これに魅せられるなというのは無理な相談だ。
「ち、ちょお……」
「離れないでくださいまし」
たまらなくなって離れようとすると、今度は掴んでいた腕を抱きこむようにさらに強く引き寄せられた。
「お願いでございます。どうか、お任せくださいませ。わたくしを信じ、どうか……」
懇願。
逃げようとしたのだと誤解をしているようではあるものの、その声は哀切すら帯びていた。
今度は照れることなどなかった。
周囲の状況を、一護はようやく漠然とながらも把握する。
「これ……」
「……参ります」
氷雨が宣言した。
「反し矢は避けられぬと申します……」
最初は、近くに落ちた銃弾だった。氷雨の呟きとともにふわりと浮かび、飛んできた方へと消え去る。
飛んで行ったのではない。
だが、それらは帰る。
氷雨だけは知っている。それは過たず、すべての狙撃手の頭を貫いた。
次は、周りの五人だった。
薄く輝きを放つ小太刀を手にした彼らは一斉に飛び掛ってきた。
否、それは一斉ではない。時も位置も僅かずつにずらし、補完し合い、死角を埋める。
それは必殺を期し、鍛え上げられた連携。
人の領域に在るものが相手であったならば、まさに必殺たりえただろう。
「まつろわぬものは、これに」
氷雨は改めての確認もせず、告げる。
それは、そのものはただの言葉でありながら力を与えられて崩滅の言葉となった。
掲げた右手に光が収束、万色の光芒となり、半球を形作って五人を押し返すように広がる。
現実には押し返しはしない。そんな時間はない。
触れた途端に五人は消失した。
何も、塵ひとつたりとも残りはしない。
一護はただその場に立ち尽くしていた。
戦いなど遠いものでしかなかった一護にも分かる。目に映るのは戦いですらなく、人知を超える圧倒的な力を氷雨が振るっただけ。
「氷雨さん……」
「いいえ、まだ隠れております。今しばし、ご辛抱くださいませ」
何を言っていいのかも分からず出た言葉に、氷雨はいつも通りの微笑みを含んだ声を返した。
一護には隠れているものなどまったく分からなかった。
分かるわけもないのだが、己が本当に神だというのならば何となく分かるということもあるのではないかと、漠然とそうしようとだけはしてみた。
結局、感じたのは冬の夜の冷たい風と、氷雨の薫りだけだ。
不意に氷雨がくるりと振り向いた。
それもまた氷雨が誘導したのか、一護の身体も意識もせずにそちらに向いた。
道。
静か過ぎるほどの道だ。何もいるようには見えない。
だが、氷雨の緋の虹彩が淡く輝くと、空が割れた。空が割れたとしか一護には見えなかった。
光景が二つに引き裂かれて茜色の光が見え、そこに影を作る人々が溢れ出して来た。
数など、一護には数えられない。少なくとも二十や三十ではあるまいと思えただけだ。
「神器『薄暮』……恐ろしいものを持ち出したものですね」
氷雨が呟く。
一護はその内容に何の恐れも抱かなかった。氷雨の声はいつも通りの笑みを含んだようなものだったから。
果たして、氷雨は向かい来る刺客の群れに呼びかけるが如く、微笑んだ。
「まとめて、消えてくださいましね……?」
絶対否定の緋の邪眼。
言葉通り、あれだけいた影は瞬時にことごとく消失した。
過程も順序もない。一瞬ですべてだ。
そのことに一護が驚いている暇はなかった。
氷雨はさらに少し向きをずらす。
ぐしゃりという、鈍い音。
ほんの少しだけ遅れてそちらを向いた一護の目に焼きついたのは、一人の男だった。
時の流れが限界まで引き伸ばされたような感覚がある。
気配もなくここまで近付いたのであろう男は、胸部がなかった。
その中心となる空間を氷雨の右手が貫いている。
どれほどの衝撃だったというのだろうか。すでに人に為しえるような領域など遥かに超えている。
男の血が飛び散る。
氷雨のたおやかな手を濡らし、白の袖を濡らし。
飛沫が点々と、すべらかな頬を染める。
胸で上下へと分かたれた男は、その場に転がる。
生きていようはずもない。
死体だ。
人が死んだのだと、一護は初めて思った。文面や画像、解剖実習では見慣れていた死というものがそこにはあった。
そればかりではない。死体が残ったのが初めてだというだけで、既に五十以上は死んだはずだ。
一護は氷雨を見た。
それだけの死をもたらした彼女は、いつも通りに微笑んでいた。
風が匂いを運んできた。
氷雨の華のような薫りと、鉄錆びた血の。
なぜだろう。
人の世における最大の禁忌よりも、ただただ見惚れた。
理屈も理由もなく、彼女の美しさに魅せられた。
鬼の使った呼び名を思い出す。
<緋瞳の戦巫女>。
仕える神のため、望んで戦い、惑わず屠り、自らを血に塗れさせることを厭いなどしない。
それがゆえの、戦巫女。
そうか、と思った。
自分が神で、彼女がその巫女だというのならば、失わせた命は自分のためなのだと。
そうしなければやられていたのだとも、正当防衛なのだとも、思わなかった。
ただ、この怖いくらいに綺麗な氷雨は、自分のためにその手を朱に塗れさせているのだとだけ思った。
「氷雨さん……」
「とりあえず、この場にあった敵はこれですべてにございましょう。お怪我はございませんか?」
氷雨は緋の瞳で男の死体を消してから振り向いて微笑み、そしてその微笑みを凍らせ、一護の初めて見る表情を浮かべた。
それは、後悔。
いまだ掴んだままであった一護の腕を放し、少しだけ離れて向き直り、綺麗な孤を描く眉尻を下げて、気弱な微笑みを浮かべた。
「申し訳、ございません……」
なぜ謝られたのか、一護には分からなかった。
それも、こんなに悲しそうな、むしろ怯えたようにすら見える表情で。
「氷雨さん……?」
「わたくしは……多くの妖の血と、多くの人の血と、少しの神の血に塗れております……申し遅れてしまいました……」
氷雨は畏れるように、恐れるように、緋のまなざしを伏せる。
「それでも、お傍に置いていただけますでしょうか……?」
何を今更、と一護は思う。
そんなことが問題になるものか、と。
だが氷雨は続ける。
「刺客のことならば、ご心配には及びません。陰ながらずっとお守りいたしますので、お気になさらず、お決めくださいませ……」
人間は死を忌避するのが常だ。死をもたらすものも忌避するのが常だ。
だからそれを思い、氷雨はこんなことを言うのだ。
一護はズボンのポケットからハンカチを取り出した。少し広げてみてやはり野暮ったいのが気になったが、他にないのだから仕方がない。
それを手に、俯いた氷雨の前に立つ。
「氷雨さん、顔上げてみて」
意図せずとも、優しい声が出てくれた。
氷雨はおずおずと顔を上げる。視線が合うと、不安で泣きそうな表情を見せる。
一護はそのすべらかな頬に散った血を拭き取った。
強くすると壊してしまいそうな気がして、やわらかく。
だから少し苦戦した。
「大蛇さま……?」
何もかも抜け去って無垢なまでに透明なまなざしを、氷雨は向けてくる。
一護は照れて目を伏せ、今度は氷雨の右手を取ってぬぐいながら言った。
「いや、さ……氷雨さん、すごい綺麗やし、まあ……」
氷雨はされるがまま、身を任せている。
右手は苦戦というよりも、すべて取り去るのは不可能だった。ある程度以上は強くこすらなければ取れそうにはなかった。
そこで中断し、再び視線を合わせる。
氷雨はそのままの透明な表情で一護の答えを待っている。
一護の答えなど、決まっていた。
「氷雨さん、僕を守ってくれたんやん」
いいに決まっているのだ。自分のために塗れた血ならば、一護自身のものでもある。
「むしろ傍におって欲しいよ。僕もなんか幸せな気分やし」
「大蛇さま……」
氷雨は少しだけ目を丸くしてから、ただただどこまでもあどけない笑顔を見せた。
「はい……はい、大蛇さま……!」
これでいいのだ、と一護は思う。素直な心がそう告げている。
あるいは死ぬはずだったのに一向に恐ろしくなかった理由。
恐怖など塗りつぶしてしまうほどに、心囚われているのだ。
極端であっても気にすることなどない。普通の人間の心の動きとは違おうがなんだろうが、問題などあるものか。
むしろ面白い。
命を狙われても何もできず、ただ守られるだけの自分が神だという。八岐大蛇だという。未だ本当に信じているわけでもないが、そのささやかな一端なのだとすれば、愉快なものだ。
悪くない。まったくもって悪くない。
これも自分だ。
と、心の中で呟いたときだった。
遥か遠くで爆発音が上がった。
二人ともが反応する。
朱く天を焦がすものが見える。
家の方角だ。
氷雨が、沈痛に呟いた。
「大蛇さま、あれはおそらく……」
自宅が狙われたのだ。
一護は少しだけ迷い、言った。
「確かめに、行けるかな……?」
この事態そのものは当たり前のこととして心は受け入れ、だから未練だと思う。
事実を確かめたい。
氷雨は頷いた。
行くことが一護にとって危険だなどということは充分に分かっている。あれは、罠なのだ。
それでも頷いた。
「わたくしが、すべてをかけてお護りいたします……」
「なら、行こう」
その言葉を告げた瞬間、一護の胸に冷たいものが走る。
命の危険など重々承知している。自ら死地に向かう決定を下したことへの、それはさすがに抑えきれない恐怖なのだろうか。
それでも、一護は高揚にも似た心地で呟いた。
「こう見えても……後悔はせん主義やから」
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