「想いは途切れず」

『大蛇さま、お話をしてくださいませ……何か遠い昔のお話を……』






 夜。

 人は夜を克服したと思っている。

 それは誤りだ。人は夜の深さを忘れている。

 人の意識の届かぬ深い夜に小さな声が響く。

「鈴鹿のお姫さんは中立を貫いてくれるそうだよ」

 やや低めの女の声。

「それから、飛騨の五郎丸と富士樹海の天狐露姫は協力を惜しまないってさ」

「それは心強うございますね」

 夜の風に、氷雨の笑みを含んだような声が流れてゆく。

 氷雨は道路の端に佇んでいるだけだ。人も車も、何も通らない。

「露姫様のご協力をいただけるとは思ってもみませんでした」

「……嘘をつきな。あの高慢で知られる狐がかなり好意的だったよ。成算があったね……?」

 話し相手の姿もどこにも見えない。

 氷雨はくすりと笑った。

「五百年ほど前、露姫様の領域を侵そうとした龍神を屠って差し上げましたので……」

「五百年前にあの狐と喧嘩してた龍神ってぇと……劫葵かい……そうか、あれはあんたがやったのか……」

 感嘆とも呆れともつかないため息。

「露姫に恩を売るために、不肖とはいえ建御雷命の眷属に手を出したとはね……」

 龍は基本的には地祇だが、中には天津神に仕えることを選ぶものもある。

 劫葵はそんなうちの一柱だった。

「幸い、あの方の素行は悪うございましたので外聞が悪いのか、未だに報復はございませんわ」

 ころころと、無邪気に笑う。

 どこからともなく再度のため息が聞こえる。

「……まったく無茶をするよ……そんなに『大蛇さま』が大事かい?」

「当然です……比べるまでもございませんわ……」

 うっとりと、氷雨は頬に手をあてる。

「のろけ話を始めるのはやめとくれよ? あたしゃもうさすがに聞き飽きてんだから……」

 見えずの声に苦笑の色。

「もう、八重桜様は意地悪ですのね……」

 台詞とは裏腹に、氷雨の声は華やいでいる。

「ともあれ、ご苦労様でございました。これからは、大蛇さまの夜間の警護をお願いいたします」

「おや、自分でやらないのかい……?」

「四六時中お傍にいられないのは歯がゆうございますけれど、大蛇さまにも人としての生活と外聞がございますもの……」

 からかうような八重桜への答えは、本当に悔しそうだ。

「今までは毎日結界を張っておりましたが、やはり不安ですので……」

「分かった分かった、安心しな。妖ならどんな奴でも追い返してやるさ」

 声が気楽に言う。

「で、やばいのが来たらあんたに知らせりゃいいんだろ?」

「はい」

 緋の虹彩が妖しく輝く。

 見るものはない、真夜中の会話。






 二ノ宮夕実は暇人である。

 講義にはまめに出席しているが、時間の作り方がうまいからだ。

 かといって、その暇を持て余していたりはしない。友人は多い方であり、夕実自身も動き回るのが好きだ。だから、暇人なのに結局時間はない。

 それでもやはり、ぽっかりと空くこともあるのだ。

 今がそんな時だった。今夜カラオケに行こうと言っていた後輩は突然再レポートを食らって駄目になった。

 正真正銘の暇である。

 こんなときは社会性に欠ける友人をからかいに行くのが一番だ。

 というわけで、泊り込みで作業をしている一護に会うべく、夕実は夜の大学を訪れていた。

 大学には幾つもの研究室があるが、熱心さは様々だ。そのあたりは、いつから電気が点いているか、そしていつまで点いているかで分かることもある。長ければいいというわけでもないのだが。

 一護がいるのは、その中でも最も点灯時間の長いところだ。

「まったく……よくやるやね~」

 玄関に足を踏み入れながら夕実は呟く。

「別に院生じゃないってぇのに……ま、キューちゃんも好きなんだろうけどさぁ……」

 薄暗い廊下を目的地まで歩いてゆく。

 気兼ねする必要はあまりない。夕実も時々調達される方だからだ。

「……む?」

 と、目的地の前に佇む影に気付いた。

 ついさっきまではいなかったような気がするのだが、きっと気のせいだろう。

 人が唐突に湧いて出るはずがない。

「……って、おやぁ……?」

 少し近付くとよく見えた。

 知った顔だ。

「これは紹介してもらう手間が省けたかもね」

 向こうも気付いたらしく、前でやわらかに手を重ね合わせたままの姿勢で会釈した。

 すぐ隣まで行ってから、夕実は声をかけた。

「こんばんは」

「静かな夜でございますね」

 氷雨はたおやかに首を傾げ、笑みを含んだような声とともに微笑んだ。

 そこに潜んだえもいわれぬ艶に、夕実はぞくりとする。

「ええっと……キューちゃん……じゃなくて九鎧君に用なのかな?」

 いつもほど滑らかに口が動かない。

 落ち着かない。最近多い眩暈が不意にまた起こるが、耐える。

 そんな夕実に、氷雨は側のソファに置いてあった包みを優雅に示した。

「はい、お弁当を持って参りました」

「あ、なるほど……」

 一護は不精者である。三食を抜くことこそしないが、夕飯はおにぎり一個、など平気で実行するくらいには。

「ところで、夕実様はどのような御用ですの?」

「あたしは……」

 反射的に口を開いてから、夕実は思い留まった。

「……その前に、一つ訊いてもいい?」

「はい、承ります」

 氷雨はくすりと笑う。

 またぞくりと来るが、何とか普通の声に抑える。

「どうしてあたしの名前を知ってるの?」

 さっきの口調には全く惑いがなかった。

 一護から聞いていたとしても、断定できるなどおかしい。

 だが、氷雨は夕実の疑惑をさらりと流した。

「それは、調べさせていただきましたので……」

「調べた……って……」

 涼しい顔の氷雨と気圧された表情の夕実が向かい合う。

 ミラーシェードのせいもあるが、何を考えているのかが全く分からない。

 氷雨は軽く頭を下げた。

「申し訳ございません……近くにおられる方は気になるのですわ」

「あ、ああ……なるほどね……」

 それなら分かる。

 この一週間見ていた限りでは、可能な限り一護にべったりとくっついているくらいだから、近付く女性を気にしない方がおかしい。

 調べた方法にはあまり興味は湧かなかった。道行く男子学生にでも尋ねれば、たとえ知らなくても調べ上げてくれたことだろう。

 夕実は改めて、氷雨をしげしげと観察した。

 年下、それはおそらく間違いないだろう。

 そして高校生ほどでもない。

 ということは十八か十九あたりか。

 ずるいという思いさえ浮かびもしないほどに人を魅せてやまない容姿と、そこにある表情、仕種、声が醸し出す艶。

 女の自分ですら震えが来るのだ、耐えられる男はまずいまい。

「……それはそうと、あの男のどこが気に入ったわけ?」

 自分がここに来た理由を言うのがふと怖くなって、再び訊かれる前に夕実は話を逸らした。からかいに来た、などと言ったら何となく怒られそうな気がする。

 かなり苦し紛れの持って行き方だったのだが、効果は予想以上だった。

「どこが……でございますか」

 氷雨はほんのりと色づいた右の頬に手をあてた。

 どこか幼げなはにかみの見えるその仕種には、また別の魔性がある。

「そう。はっきり言って、別にいい男なわけじゃないと思うんだけど」

 夕実はまたもやや怯みながらも、距離を詰める。

 誤魔化すために振った話題ではあるが、気になっているのも確かなのだ。

「……そんなことはございませんわ」

 少しの沈黙の後、夢見るように、どこか恍惚めいた表情で氷雨が呟く。

 そして、やわらかに口許を結んだ。

 ミラーシェードの奥から覗き込まれているのを感じ、夕実は総毛だった。

 理由は分からない。

 だが、滲み出してきた汗は嘘をつかない。

「申し訳ございません……少々用事が出来てしまいましたので、わたくしが帰って参りますまでお弁当を見張っておいて下さいませんか?」

 氷雨は突然そんなことを言った。

「え!? あ……いいけど……」

 呪縛を解かれた夕実はようやくといった様子で頷く。

「御礼申し上げますわ……」

 氷雨は一礼すると、静々と歩き出した。

 向かう先は玄関だ。

 夕実には訝しく思うだけの気力は残っていなかった。

 身体のすべての力を使い果たしてしまったかのような疲労だけがある。

 ただ呆然と、小さくなってゆく後ろ姿を見送っていた。

 そして見えなくなり、さらにしばしの時が過ぎて、ようやく頭が働き始めた。

「……何だってのよ……」

 おかしい。

 歯車がずれている。

 一つ一つのことを考えたならば納得できないことはない現象も、これほど続けば間違いなくおかしい。

 どうして急に用事ができたことが判るのか。しかも、わざわざ作って届けに来た弁当を、人に預けなければならぬほどの用とくる。

 そして何よりも、自分は何故これほど疲れているのか。

「確かめに行かなきゃね……」

 弁当は持っていけばいい。ここで待っていろと言われたわけではない。

 夕実は自分にそう言い聞かせると、氷雨の後を追い始めた。






 静かな夜だ。

 世間の一切の喧騒から隔絶された、無音にすら近い夜。

 ここは人の住む世ではない。

 その裏にある、神霊の住まう世界。素質持つ人間以外には踏み入れることの出来ぬ領域。

 氷雨は異界の風に長い黒髪を流し、微笑んだ。

「明石様の御家来……いかな御用にございましょう?」

 氷雨の眼前にいるのは巨大な体躯を持つ鬼だ。背丈だけでも常人の倍はあるだろう。そしてその身に満ちる力は人とは比べものにならぬ。

 鬼は、巌が軋むかの如き声で唸った。

『我らが長は手を出すなと言うが……儂は看過することは出来ぬ』

 鬼は人に恐怖を与える。風貌、容姿ではなく、鬼という存在そのものが人にとっての恐怖なのだ。

 だが、氷雨は人に対するかのごとく微笑みを崩さない。

「……あえて最後の警告をさせていただきましょう……」

 優雅にミラーシェードを外す。

 それと同時に、服装が巫女装束へと変化する。

 緋瞳が艶やかに鬼を捉え、細められる。

「大蛇さまに仇なすというならば、死んでいただきます」

『……何故……今に満足できぬ……?』

 鬼は背を丸め、じりじりと近付いてくる。細心の注意と恐れと畏れを込め、僅かずつ。

『たとえ闇の奥に追いやられてはいても、静かに暮らしていれば無駄な死は起こらぬ。黄泉などない。死は終わり。魂はただ世界へと還るのみ』

 真っ当な人間にならば信じられなかっただろう。

 鬼の声に篭った響きは悲痛。血を吐くが如き音だ。

『そも儂らを隠れ里へと導き、そう言うたはぬしぞ? 儂らの荒ぶる鬼気を鎮めたお前が、何故? あれは嘘ではあるまい。偽りで我らを止められはせぬ』

「然様でございますね」

 密やかに穏やかに、氷雨は肯う。

「生こそが何にも勝るとは申しませんけれど、死に憑かれることもございますまい。流転する命、意思は儚くも尊いものにございましょう」

『その命を、今度は巻き込もうというのか。今更向こうから積極的に殺して回りはせぬなどと言うてくれるなよ? お前には多くの地祇と妖が手を貸そう。そやつらは決して見逃されぬ』

 低く、低く、鬼は憤る。その赫怒は牙を割り、炎となって漏れ出した。

『お前が殺すのだ。救い続けて来た命を、お前こそが死の前へと連れてゆこうというのだ!』

 矛盾を鬼は糾弾する。残酷を鬼は糾弾する。

 氷雨は微笑んだ。

「それが絶対に譲れぬということ。わたくしのすべては大蛇さまのために……ただそれだけのこと」

 何の気負いもなく、あくまでもやわらかな響きで言葉は紡がれる。

「大蛇さまをお守りする力は多いほどによろしゅうございますけれど……牙を剥きたいのであればそれもまた、よろしいかと」

 静かに、静かに、それでいてどこか熱を帯びて、鬼を圧倒する。

「たとえ独りであろうとも、世界のすべてを敵に回そうとも、わたくしは大蛇さまを護り抜きます」

 凛と鈴音の如き宣言。

 それは決意などという生易しいものではない。ふわりと佇む中に何よりも毅い刃を覗かせて氷雨は、<緋瞳の戦巫女>は其処に在った。

 鬼はいつしか進みを止め、むしろ後ずさっていた。

『……二千の星霜と聞いたぞ。未だ磨り減らぬとでもいうのか』

 数十年で人は摩耗する。長い時を生きる妖とて数百年、その中でも強い力を持つものであってさえも擦り切れてしまう何かはあるのだ。

『……いや、なにより……いかに<緋瞳の戦巫女>といえど世界を相手に戦えるつもりか!?』

 忸怩たる思いとともに鬼が叫ぶ。

 まさに時の流れのうちに自分たちが失ってしまっていた言葉は、千を越える歳を経た鬼の胸をざくりと抉っていた。

「わたくしは非力……でございますか」

 むしろ悪戯っぽい雰囲気を醸しながら問いつつ、氷雨は自ら頷く。

「仰る通りにございましょう。わたくしに三貴子を滅ぼせるような力はない、世界に比べてわたくしは矮小な存在でしかない……」

 鬼にとって不可解だった。

 己の非力をなぜ楽しそうに謳うことができるのか。

 何を思って絶望的な戦いを挑もうとすることができるのか。

 氷雨はそれを読んだかのように嫣然と笑った。

「けれど世界とはそんな小さなものが寄り集まって作られている……だから、わたくしの力が世界を変えてもいい。持てるすべてによって覆しましょう……いいえ、覆し返しましょう」

『……狂っている……』

 鬼が呻く。

『そんなことが本当にできるとでも思っているのか!?』

「当然ですわ。わたくしは、大蛇さまの巫女にございますれば」

 鬼の咆哮をさらりと流し、氷雨は優しく緋の双眸を細めた。

「まだお心は変わりませんか……?」

『それはこちらの台詞だ! お前を野放しにしては遠からず滅びの時が来る!』

 鬼はもう一度大地を踏みしめ、拳を氷雨に突き出した。地響き、そして大音声。

『覚悟せよ、<緋瞳の戦巫女>……お前が覆せるというならば、儂がお前を葬り去ることも不可能ではないということだ!!』

 拳が震えるのは、恐怖のためなどではない。圧縮されているのだ、力が。

 旧き鬼は今、遠い昔に忘れて来たものを取り戻していた。

「致し方ございませんね……」

 対して氷雨はくすりと笑い、無造作に一歩を踏み出した。

「それでは、死んでくださいましね?」

 拍子はなかった。

 二つの影が一瞬で一つになる。千年を生きた鬼の身体能力は人知を超えた速度で距離を無にしたのだ。

 振るわれるのは、かすめるだけで人を血袋と化す巨大な拳だ。それも力任せなどではない、闘争の果てに磨き上げられた武である。

 だが、拳の通り過ぎた場所に氷雨の姿はない。流れるように黒髪の舞う様が映ったかと思えば、逆に鬼の背から鮮血が噴き出した。

 そして、赤に塗れた白魚のような手。

 氷雨が鬼の腹を苦もなく貫いたのだ。

 だが、間髪入れず懐の氷雨に鬼の腕は巻き付こうとした。鬼の生命はこの程度で消えるようなものではない。

 しかしそれも成せなかった。

 今度は押されるようにして、鬼の身体が軽々と弾き飛ばされたのだ。

 鬼は空中で体勢を立て直し、地響きを立てて着地した。

『ぬう……』

 その腹からは血がだらだらと流れ出している。

 対して氷雨はやはり微笑みを浮かべたまま、右手を鬼の血に濡らしている。

 刹那の静寂。割り込むように一陣の風が吹いた。

『天の威、地の威、ただ無慈悲なる赤きもの……』

 次に動いたのも鬼だった。

 長き年月の果てに到達した、神の階梯にある力。人とは次元を異ならせる力を鬼は呪で呼び出す。

 意味としての炎。最も純粋な炎。より強くさえあれば因果そのものをすら焼き尽くす。

 一瞬にして氷雨が火柱に包まれた。

 それは人の力では決して破りえぬもの。破れぬはずのもの。

 それでも鬼は油断などしなかった。

 くすりと、炎の爆ぜる音の中に笑い声がした。

 途端に、すべてが幻であったかのように炎は掻き消え、鬼の全身から鮮血が噴き出した。

『ぬ……ぐ……』

 術を破られたことによる返しの風はこの旧き鬼をして苦痛に顔を歪めさせる。

 氷雨には欠片ほどの火傷もない。そのぬばたまの髪のひとすじすら焦げてはいない。

「力を奪われなさいました一言主様ほどにもございませんけれど、お強うございますね」

 静かに賞賛。

 あくまでも優しく、そして残酷に囁いた。

「あなたの思いは分かります……けれど、ここで滅んで下さいませ」

 緋瞳が淡く輝く。

 緋の邪眼。

 その威は絶対否定。

 抗う術を持ちながら、鬼は発動させたはずのその術ごと存在を消し去られた。






 そう遠くない場所に重箱が投げ捨てられていることに氷雨が気付いたのは、間もなくのことだった。

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