「移ろい行く世にも」
『はい……このままがようございますか……?』
風が凪いでいる。
小春日和。冬の青空はどこかやわらかく、大気は冷たくとも控え目に寄り添う。
「今日はお早うございますのね」
午前の最後の講義が半分ほどで終わって外へと出てきた一護を、氷雨が満面の笑みで出迎えた。
「うん、先生が風邪引いとってな」
一護の顔がにへら、と緩む。
あれから一週間、氷雨は毎日のようにやって来てはこうやって会っている。
というより、外にいる間は常に傍にいる。朝は家から少し離れたところで待っているし、講義中は中庭のベンチに座っているし、帰りは大学での用が終わるまで夜まででも待っている。
ここまで来ると、薄気味悪くなるよりもむしろ申し訳なく思えてくるところだ。
だが、いつもいつも顔を合わせる度にこれほど嬉しそうにされると何を気にする必要があるのだろうかと思ってしまうのである。
「大蛇さま、今日は大蛇さまのお好きなものを作って参りましたの。召し上がっていただけますか?」
氷雨は優雅な動作でベンチの上に重箱を広げ、一護を見上げる。
これも、いつものことだ。豪勢な重箱入りの弁当を毎日振舞ってくれる。
しかもどうやら手作りらしい。さらに期待を外さず、美味い。
最初の日は、寝るまでにやけた顔が元に戻らなかった。
「うん、食べる」
差し出された朱塗りの箸を受け取り、重箱の中に伸ばす。
何と言うか、幸せでしようがない。
無論、かなりのやっかみを受ける破目にはなっている。講義室で出会う男は皆ことごとく鬱陶しい。今まで縁のなかった視線だけに、ことさらにきついものがある。
と、感じるのだろう、本来なら。一護も、普通ならそうであったはずだ。だが、気にもならない。
からかわれているのだと人は言う。
思えばつり合わないと自分でも理解している。
それでも疑う気が起きない。彼女は本気だと、自分でも解らない何かが断言する。
自分の願望なのかもしれないと認識はある。一護は、茫洋としているように見えて人並み程度には慎重だ。
それでも疑えない。
確かに、容姿も声も雰囲気も何もかも、人を惹きつけて止まなくはあるが、この感覚はそんなところとは異なる場所にある気がする。
だからこそ面白く思う。
ただ、極端なまでにしつこい一人にはさすがに腹が立ったので、思い切り自慢してやったら次の日から近寄らなくなった。余程の苦痛だったらしい。
「あ、そういえばさ」
ふと思い出したことがあり、一護は隣の氷雨を振り向いた。
氷雨は緋瞳を嫣然と細め、微笑みを返してくる。
「はい、なんでございましょう?」
その艶に、一護はどきりと心臓を跳ねさせ、後の言葉が続かなくなる。
すると氷雨はほんの少しだけ首を傾げた。
「どのようなことでもおっしゃってくださいまし」
「あ、うん……こう、神とかそういうとこの話……」
それは今まで訊かずにおいたことだ。
尋ねなかったことに大した理由はない。今までは氷雨の方が一護の話を聞きたがることが多かったので、後回しにしていただけである。
「日本神話やと、天御中主から始まってるけど……」
「事実、でございますか……」
氷雨は、わたくしもすべてを存じているわけではございませんけれど、と断ってから語り始めた。
神話に語られる別天神の実在は定かではない。イザナギ・イザナミの二神すらいないという。
ただ天の神と地の神と、それだけが在るのは確かだと。
地の神とは地の守、世界そのものより生じた神。地祇とは呼ばれるが、天を司る神も存在している。
一方、天の神は分からない。人の想念より生じた願望の神なのか、それとも彼らこそが異天の神なのか。
あとは時期のずれこそあれ、神話の流れを概ねにおいて踏襲している。
「……そのまま、というわけではございませんけれど。神話で神に列せられていても、実際には神に関わっただけの人間を伝承の上で神の系譜に加えただけということも少なくございません」
何を思い出してか、そう語る氷雨のまなざしはどこか厳しいものを湛えていた。
一護はそれ以上そこには触れず、少しだけ話をずらす。
「すると……他の神話とか、どうなん?」
「似たようなものでございます。ほぼ、天神は簒奪者にございますれば。同じ神である可能性すら、あるいは。いえ、おそらくは」
氷雨のまなざしは揺らがない。
だが、そう思われた直後、ふわりと微笑みを浮かべた。
「大蛇さまは最大の、真の意味での地の神にございます」
「う、うん……」
そう言われてみても、一護自身が自覚できるのは人としての自分であり、しっくりは来ない。
それでも一応頷く。
「あと、さ……」
よく味の染みた筍を頬張りながら、一護はさらに尋ねた。
「氷雨さんって、どこに住んでるん?」
朝と夕方、あるいは夜の時間からして、そう遠くない所なのではないかと一護は踏んでいるのだが、確かめようとしてそのまま忘れていたのだ。
「わたくしならば、西の方に寝泊りしておりますけれど……」
そこまで言って、氷雨はぽんと両手を打ち合わせた。
良いことを思いつきました、そう言わんばかりの屈託のない笑顔だ。
「そうです、一度いらしてくださいませ」
「氷雨さんの家に?」
一護は大いに動揺した。思わず早口になってしまう。
だが、氷雨はそのままの口調で続けた。
「いいえ、わたくしの家ではございませんの。むしろ大蛇さまの仮の宿ですわ」
「……僕の仮の宿……?」
一護は思い出した。
氷雨にとって自分は仕えるべき神なのだ。文字にして思い返すと限りなく胡散臭く思えてくるので、普段は忘れているのである。
神の仮の宿と言えば、神社だ。だが西に神社などあっただろうか。あのあたりにはほとんど出向かないので、よく分からない。
「……ええと、今日でええかな……?」
とりあえず、興味はある。氷雨も来て欲しいと言っている。
だが、明日から少々忙しいのだ。大急ぎで一気に片付けなければならない実験群があって、数日間は大学に泊り込むつもりでいる。
だからといって今日いきなりというのは性急だろうか。
そんなことも思ったのだが、氷雨はあっさりと快諾した。
「はい、それでは夕方にご案内いたします」
「ぬう……奴め、やりおるわ……」
談笑する二人を講義室から眺めながら、夕実は呟いた。
女には全然興味がなさそうな顔をしておきながら、ちゃっかりと捕まえてくるとは。そのうち誰か知り合いでも紹介してやらなければならないかと思っていたのだが、どうやら仕事が一つ減ってしまったようだ。
ちなみに、自分が相手になってやるつもりはさらさらない。
夕実は、異性間にも友情が成立する、という意見の支持者である。一護とは年中つるんでいるが、あくまでも親しい友人としてだ。
「しかし……そろそろ彼女をあたしにも紹介してもらわねばなるまいよ……」
彼女のことは覚えている。
先々週の雨の日、一護に会いに来たらしい娘だ。多分年下だろうとは思うがよくは分からない。
邪魔をしては悪いかと思ってしばらく近付かないでおいたのだが、一護の方から紹介してくれる気配はまったくなく、そろそろ痺れが切れてきた。
少なくとも一度は確かめておきたいことがあるのだ。
一護はいわゆる研究者肌、しかも極端な、である。自分の興味のあることに対してならば、鋭すぎるほどの閃きと冗談のような記憶力と滑稽なほどの集中力と呆れるほどの持続力を発揮するが、それ以外はさっぱりだ。
端的に言うと、世間知らずで世渡り下手。元来慎重な性質ではあるとはいえ、多分世間知らずの方が強い。今回の降って湧いたような展開、騙されたりしていないかどうかが心配だ。
「とりあえず昼御飯食べよ……」
食事中の人間を見ていると、空腹が増してくる。
とりあえず、紹介してもらうのは明日でもいいだろう。
夕実は立ち上がった。
途端に、くらりとくる。
浮かぶような感覚。
だが、無意識の領域で頭を振ると、それは消えた。
最近多い。
「むう……貧血気味かな……」
今日は学食でほうれん草のおひたしを食べようと思った。
「ほう……」
氷雨に連れられてやって来た一護は独り、うなった。
神社はかなりの大きさだった。祀る神は
「さすがに八岐大蛇は祀ってないか……」
それで八岐大蛇の仮の宿と呼ぶのもおかしい気もするが、構わない。
氷雨は、本当は必要ございませんけれど着替えて参りますのでしばらくお待ちくださいませ、とたおやかな微笑を残して社の中へ入ってしまっている。
一人きりで立っていると何やら落ち着かない。
一護はそこからさほど離れていない大木の傍に寄った。
何の木なのかはよく分からない。
不意に何かに呼ばれたような気がしてあたりを見回してみるが、少なくとも近くには誰もいない。
ふと、木に眼を留める。
この木かもしれないと思う。道祖神がいるなら、木にも神霊が宿っているのだろう。
木は、何を語っているのだろうか。
風にざわりと梢が揺れる。
また何かが聞こえたような気がしたそのとき。
「お待たせいたしました」
氷雨の、笑みを含んだような艶やかな声がした。
慌てて振り返る。
「やはり、こちらの方が落ち着きます」
白衣に朱袴、白足袋に雪駄という巫女装束で、氷雨は薄紅く染まった頬に軽く手を添えた。緋の瞳が、はにかむようなやや上目遣いの視線で見上げている。
それは、いつもの服装のときのようなお互いが引き立てあう美しさではなく、完全に一体となった玲瓏さだった。
生きていてよかった、と。感動というものはこういうものか、としみじみ思う。
かなり惚けていたようだ。
氷雨が小首を傾げた。
「大蛇さま……?」
「え、や、あの、巫女装束というやつは後ろで髪くくるとかそういうん、なかったっけ……?」
内心の動揺がまともに出て、自分でも何を言っているのか理解しないうちに一護はそんな言葉を口走る。
「はい、一般的にはそうでございますね」
氷雨は弾んですら聞こえる声で屈託なく答え、そしてその場でくるりと回ってみせる。
長く艶やかな緑なす黒髪が腰に絡みつきながら、ゆらりと揺れた。
「けれど、大蛇さまはこちらの方がお好きなのではございませんか……?」
わたくしは大蛇さまの巫女でございますから。
そう、艶やかさとあどけなさの同居する微笑みが告げている。
「うん……」
魅入られて、一護は頷くことしかできなかった。
氷雨は満足げに目を細めると、そのままやわらかに目を伏せた。
「大蛇さま、今日は泊まってゆかれますか……?」
「え!?」
一護はぴくりと身体を跳ねた。
まだ、見惚れていたのである。
あたふたと言葉を紡ぐ。
「ええと……ここ祭神が大山祇神とか書いてあるけど……」
「はい、確かにここは大山祇神のお社……」
問いに答えが返って来なくても、氷雨の口調には何の惑いもない。
「大蛇さまのお社はここより奥にございますわ。参りましょう……」
歩きながらご説明いたします、と氷雨は続けた。
その話によれば、大山祇神はよき協力者の一柱であり、日本中の社で領域を共有させてもらっているらしい。
代々の宮司たちとも話がついているそうだ。
「系譜が異なるとはいえ、大山祇神の領域は大蛇さまの領域内にございますので……」
それが協力の理由らしい。
「……ところで……協力って……?」
一護は気になっていたことを尋ねる。
狙われているらしいこととやはり関係があるのだろうか、と思う。
「概ねは……大蛇さまをお探しするのにご尽力いただきました。あとは、今回のように場所をお借りしておりますわ」
おっとりと氷雨は頬に手を当てる。
一分の隙もない姿勢で歩きながら、そこには気負いもない。
「それにいたしましても、誰よりも早くお会いすることができて、ようございました……」
しみじみと、噛み締めるような呟き。
ふと、一護は気付いた。
「見つけたって、どうやって見つけたん?」
確か、感じられると言っていたような気がするが。
「はい、復活なされたのは気配から判りましたので、深月様の天眼で範囲を狭め、あとは気配の濃淡からさらに狭めて参りました」
「気配っちゅうんはやっぱり感じにくいもんなん?」
とりあえず自分には判らない、と一護は思う。
氷雨はどこか誇らしげに答えた。
「大蛇さまの気配は世界に遍く広がっておりますので、場所を特定するのは難しゅうございましたけれど、もう、どれだけ遠くに離れておりましても、参じられますわ」
「どれだけ遠くにおってもって……」
それが比喩なのか事実そのままなのかはよく判らない。が、何となくではあるが事実の方のような気がした。
と、ふと横を見ると氷雨の姿がなかった。振り返れば、少し後ろで足を止めている。
「いいえ、いいえ……二度と遠くへなど……」
囁くような声は一護の耳には届かなかったが、何かに耐えるような表情は見えた。
「……氷雨さん……?」
一護は窺う。
氷雨ははっと我に返り、小走りに駆け寄ってきた。
「申し訳ございません、少し、ぼうっとしておりました……」
嘘というわけではない、ぎりぎりの線。
感じ取れたが、確証はないので一護はそのまま頷いた。
「そっか……」
触れるのが恐ろしい。
嫌われるのが恐ろしい。
他の人間相手なら気にならぬようなことが、気になって仕方がない。
「あ……泊まるんはやめとくよ……うちの家族に詮索されるん嫌やから……」
答えてなかったことをふと思い出し、今更に言ってみる。
氷雨は少し残念そうに眉を寄せながら小首を傾げた。
「然様でございますか……急なことでございましたし……また、仰ってくださいまし」
「あ、ああ……」
さすがに神社に泊まろうという気はこれから先にも起こらないだろうと思いながらも、一護はやはり頷くことしかできなかった。
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