「時は過ぎ去れど」

『世は、これほどまでに広うございますのね……』






 研究というものは地道な作業の積み重ねだ。

 数多ある資料、結果から意味を見つけ出し、組み合わせ、完成させる。

 そして、閃きも要る。何をどう組み合わせるかもそうだが、そもそも意味を見つけ出す過程にも不可欠だ。本当に無意味にしか見えないものから意味を読み取ることは、才能か偶然かがなければできない。

 加えて、長い時間を費やして実験を行うことに耐えられる心も必要となる。

 一護は、この実験作業の部分が苦痛とならない性質だった。作業を頼まれる由縁である。

 もっとも、自分の関係するものならば気合に満ちて行えても、頼まれ仕事ではやる気が出るほどでもない。

 それでも慣れた手つきでピペットを扱い、作業を進めてゆく。細胞を容器から剥がして数え、そこから定められた細胞数となる液量を計算、今回必要となる数の容器に撒いて培養液を加え、あとはインキュベーターに入れておく。最初はいちいちやり方を確かめつつ行わなければならなかったが、もう記憶だけで完遂できる。

 そして無菌操作のためのクリーンベンチを閉めていたときだった。

 突然頭を小突かれ、一護は振り返った。

「こぉらキューちゃん、さっきから呼んでるのに」

「おや? 二ノ宮さん」

 相手の姿を確認し、一護は呟いた。どうも、何だかんだ言いながらも没頭していたようだ。

 なぜ彼女がそこにいるのかを考え、思い出して一人頷く。

「そういや、おったんやったっけ」

 彼女も別の作業に駆り出されたのである。

「コーヒー淹れてやったと言いに来てみれば……まったく」

「僕やし」

 一護は身もふたもない返事を返した。

 この会話も飽きるほど繰り返している。

 夕実は肩をすくめ、出口の方を促した。

「で、今回は何撒いてたわけ?」

「昔のとある女性の子宮頸癌細胞を元にしたやつ」

「ほう、エロめ」

「……分からんとは言わんけど……」

 無茶だ。

 さすがに一護も苦笑した。

 にんまりと夕実が顔を覗き込んでくる。

「何? キューちゃんてばむっつり?」

「……さてな」

 からかいに来るのは夕実の趣味のようなものなので、一護は気にしない。

 ただ、そういうときは相手をしないとどんどん鬱陶しくなっていくので、できるだけ何か言うことにしている。

 もちろん、喋った所為で墓穴を掘ることもあるのだが。

「すると直線的エロ?」

「……そっから離れてくれ」

「残念……」

 夕実は身体を真っ直ぐに戻した。今回はこれで終わりらしい。

 だが、替わりに別の話を振ってきた。

「……それにしてもさ……結構付き合い長いのに未だに『二ノ宮さん』はないんじゃない?」

 夕実と話をするようになったのは二年生になってからだ。まだ三年も過ぎていない。一護の感覚では短い気がするのだが、夕実にとっては充分長いらしい。

 一護はしばらく沈思黙考した後、言った。

「却下」

「おい」

 夕実が眉をひそめるが、一護は気にしない。

 何かを変えるのは好きではない。あるがままが心地好い。

「……ま、いっか」

 結局は夕実にとってもさほど意味のある提案ではなかったらしく、あっさりと引き下がった。

 そして話しかけることはやめない。

「そういえばさ」

「またかい」

「キューちゃんってこっちの言葉うつんないね」

「そやな」

 これまた一護にとっては特に広げようのない話題だった。

 確かにこちらへ引越して来てからなら九年が近いが、言葉遣いの根本は変化していない。変化していても不思議ではないのにと夕実が思うのは自然なことであるに違いないが、その一方で変わらずともおかしくはない。

「子供の頃ってどこに住んでたの? 大阪?」

「いや、大阪やのうて……」

 そのとき、白衣のポケットでタイマーが鳴った。

 普通は電気泳動などの終了時間を知らせるためにセットするのだが、今回は別件だ。

「五時、か……一応そろそろ先生に報告にいかないとね」

「やな」

 一護は大きく伸びをした。

 さすがに肩が凝っている気がする。

「さて、次は先生のお相手か……」

 呟いた。






 廊下の窓から見える外はもうすっかり暗くなっていた。

 ただでさえ日が暮れるのが早い上に、冷たい雨がしとしとと細い糸を連ねている。

 憂鬱だ。

「ううむ……やっぱりまだ止んでないか……」

 夕実が独りごちる隣で、一護は黙って鞄から折り畳み傘を取り出した。

「お、準備がいいですな」

「いつも入れとるし」

 会話を交わしながら、出入口へと向かう。

 教授の相手はそれほどせずに済んだ。何やら急な来客ということで、早々に放り出されたのである。

 勝手なものだ、と思うよりもただ幸運だと感じる。

「折角早く終わったんだから、どこか食べにでも行かない?」

「んーあー」

「『めんどくさい』?」

「その通り」

「謎な割りに分かり易い男め」

 他愛もないやり取りが人気のない廊下に響く。楽しくないことはない。

 薄暗い明りに照らされ、外へ出るまでの距離はさほどもない。間もなく玄関に到着した。

 雨がアスファルトを打つ音が聞こえる。

 見回した一護の目に、ふと人影がひとつ留まった。

 出入口のすぐ外、折り畳まれた傘を手に、雨の振り込まぬ庇の下で佇んでいる。見えるのは後ろ姿だけだったが、一度強烈な印象で刻まれた容姿はすぐに判った。

「あ、そうだ、傘に入れてよ?」

 夕実が言うが、その台詞を聞き流し、ほとんど反射的にそちらに向かう。

「おいこらちょっと待て」

 無視された形になる夕実が今度は抗議の声を上げるものの、一護にはそれも聞こえていなかった。

 何らかの意図があるわけではない。ただ衝き動かされるように身体が動いた。

 外には予想通りの姿があった。

 彼女がゆっくりとこちらを振り向く。

 そこで一護は我に返った。

 偶然彼女と再会したといっても、自分が見惚れていただけであって、彼女の方は自分を知らないはずだ。

 とんだ失敗に内心冷汗をかいたが、表面上は何事もなかったように顔をそむけ、そのまま歩き出そうとした。

 だが。

「お待ちくださいませ……」

 鈴を転がすような声が一護を呼び止めた。

 ここには自分と彼女と夕実しかいない。

 しかし夕実の声ではない。

 わざわざそんな消去法を使うほど、一護は動揺した。

 そして彼女を振り返って何か言おうとして、声を失う。

 彼女の表情。

 泣き出しそうなのを抑えるように引き結んだ薄紅いくちびるを、精一杯笑みの形にしている。

 目元が隠れていてすら切に心を引き裂かれるくらい、深い笑顔だった。

 じっと対峙したままで、幾許かの時が過ぎる。

「も、申し訳ございません……あまりに胸がいっぱいになったものですので……」

 彼女がようやくそう言った。

 一護は応えられない。判るのは、彼女が自分を知っているらしいということだ。

 彼女はゆっくりとサングラスを外した。

 その下から現れたのは、切れ長の目、緋の虹彩。

 ぞくりと、一護の背に寒気が走る。

 予想していたよりもさらに美人だったから、ではない。

 無論虹彩が緋色だったからでもない。

 表情、仕種、声に表れる艶が尋常ではなかった。

「わたくしです……氷雨ひさめです……」

 切なげに訴えかけるように絞り出された声は、彼女の名だろうか。

 だが、名前も姿も一護には覚えがなかった。

 戸惑うばかりだ。適当に合わせられるような才覚も素養もない。そして、そんなことは彼女のまなざしが許さない。

 一護はただ沈黙するしかなかった。

 彼女の期待に満ちたまなざしに、徐々に蔭りが生まれてゆく。

 それは間もなく不安に取って代わられた。

「……大蛇……さま……?」

「……あの、分かりません」

 一護はようやくそう告げた。

 彼女は緋の瞳を揺らめかせ、薄紅いくちびるを震わせた。

「そんな……確かに感じられるのにどうして……」

 意識せずにこぼれた囁きが、一護の胸を締めつける。

「教えてくれたら思い出せるかもしれませんけど……」

 胸に湧き上がるのは強烈な罪悪感。決まり悪そうに呼びかける。

 彼女は目を伏せた。

 ほんの数呼吸の時間。

 そして再び上げたとき、彼女は微笑んでいた。

「いえ……お分かりにならずともよいのです……再びお会いできただけで、嬉しゅうございますわ……」

 何故だろうか。

 その言葉が嘘であるわけではないことが、一護には判った。

 だが言葉のままでもないことも、判った。

 彼女は一護を見つめている。

 交わされる言葉はない。

 何を言っていいのか解らぬ一護と、ただ微笑んでいる彼女。

 それを解いたのは彼女の方だった。

「申し訳ございません、また、落ち着いてから参ります……」

「あ、はい……」

 一護は気圧されたように頷くだけだ。

 彼女は傘を開いて雨の中へと歩き出そうとして、ふと振り返る。

「雨は……お好きですか……?」

「……は? いや、苦手……ですかね……」

 唐突な内容に、一護の眼が点になる。

 だが彼女は嬉しそうに微笑み、一礼すると雨の中へと踏み出した。

 途中でサングラスをつけるのが判る。

「……雨……なあ……」

 一護は呟いた。

 もしかしたら彼女が求めるものに関係あるのかもしれないとは思うが、推測の域は出ない。

 と、そのときぽんぽんと肩を叩かれた。

「ううん……ゾクゾク来るほど綺麗な娘だったねえ……」

 夕実だ。

 にんまりとした、獲物を捕まえたような笑みを浮かべている。

「こんなところで修羅場見せてくれるなんて、何やったのよ、キューちゃん?」

「修羅場……」

 使いどころが少々違う気もする。

 だがそれはいい。

「判ってたら苦労せんのやけどな……」

 真面目な顔で独りごちる。

「おや、マジですな、九鎧一護クン」

 茶化す夕実を放っておいて一護は傘を差して雨の中に出た。

 頭がうまく働かない。

 何もかもが唐突で、判断材料がない。

 とりあえず家に帰ろうと思った。

 その後ろ姿を夕実が眺めている。

「あれま……正真正銘マジだねえ……」

 呆れ顔で呟き、雨音を思い出した。

 微妙に口許がひくつく。

「ってぇか、あたし傘ないっつってんですけど……?」






 冷たい雨はまだ止まない。




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