「願うは一つ」
『あの子が加われば、もう離れ離れになることなく皆で仲良く暮らせるのですね……』
道なき道を行く。
山は地祇の領域、未だもって人を受け入れきらず、天神の光も届かない。
荒水波の手は、『月の封界』により夜でさえあれば人などものともせずに自在。そして昼であっても、後に強引に封鎖することを前提に襲撃をかけてくるという。乗り物を使うのは論外だ。
それゆえに、氷雨が選んだのは山を踏破する道だった。
紛うことなき冬、葉をつけるのは常緑樹のみ、冷たい空気と寒々しい光景を前から後ろへと流しながら二人は行く。
氷雨のすぐ後を行く一護は無言。頭と身体のすべてを進むことにだけ特化して力を振り絞る。
山を歩くとは、それだけで人には苦行になりうるものなのだ。
一護の眉間には深い皺。目は霞み、脚は膨れ上がったような感触と、震えるような自覚がある。
だからこそ、何も言わずに歩く。
意地ではある。
だがそれは、弱音を吐くなどという格好の悪いところを見せたくない、というばかりではない。むしろそれよりも大きいものがあるのだ。
「大蛇さま、お気をつけくださいませ。枯葉で滑りますゆえ……」
ふわりとした微笑みの中に艶をも乗せ、氷雨がその白魚のような手を差し出してくる。
氷雨は、正確には一護の先になっているわけではない。あるいは道を拓き、手を差し伸べ、横で支え、後ろで守る。
ずっと、いつもの微笑みを浮かべたまま、疲れた様子などその欠片さえ見せずにだ。
常に気にかけ続け、どうすれば一護が最も楽になるかということだけを考えて実行している。
申し訳なくて弱音など吐けようはずもない。
差し出された手をとり、一護は歩く。
が、腹が鳴った。
昨日の夜から歩き詰め、今はもう太陽が中天にある。
「申し訳ございません……今しばし、お待ちくださいませ……」
氷雨は本当に申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「いま少し行けば岩棚がございます。そこでお休みいただけますので……」
「ああ」
歯を食いしばるついでに応え、一護はさらなる一歩を続けた。
脚が熱い。
岩棚に腰掛け、青空を見上げてまず最初に思ったのはそれだった。
冷たい風が頬を撫でるが、寒さなど感じない。
「ふう……」
一護はそのまま空気に融けてゆきそうな心持ちで息を吐く。
一度止まってしまうと身体を動かす気力も湧かない。
その視界に、氷雨の微笑みが映った。
「このような物しか手に入れることはできませんでしたけれど、どうぞ、お召し上がりくださいませ……」
「え?」
その手にあるものを見て、一護は目を点にする。
ビニールに包まれた、おにぎり。よく知っているコンビニエンスストアの名前までついている。
こんなものを氷雨が持っている様子はなかったのだが。
一護の疑問を察したのだろう、氷雨は傍らに跪きながらゆったりとまなざしを細めた。
「八重桜様に持って来ていただきました」
「八重桜……?」
知らぬ名に、一護の疑問がさらにひとつ加わる。
氷雨は手際よくおにぎりを露出し、差し出しながら説明した。
「深月様同様、わたくしの集めた力でございます」
「ほう……」
何と答えてよいやらも分からず、一護はただ頷く。
そして、ふと気付く。
おにぎりはたった一つだけだ。
「氷雨さんの分は?」
分け合うのだろうか、と思っていると氷雨は嫣然と微笑んだ。
「わたくしは大蛇さまより常にお力をいただいておりますので、本当は食事を摂る必要はございませんの」
「ほんまに?」
そんな無茶な、と思って一護はその笑顔を正面から確かめる。自分に食べさせるためなら、そのくらいの嘘はつく気がする。
すると氷雨はくすりと小さく声を立てて笑った。
「御心配には及びません。大蛇さまをお護りするからには、本末転倒なことはいたしませんわ。わたくしにも必要なのであれば、八重桜様に持って来ていただいております。もっとも……」
少し申し訳なさそうな表情になる。
「そもそも大蛇さまの分が少のうございますね。栄養も偏りそうでございますし。次からはもう少しいろいろと……」
「あ、いや……あんまり、ええよ。その、八重桜さんいう人にも悪いし」
気後れした一護は軽く手を振ったが、氷雨はまた艶やかな笑顔に戻ってきっぱりと断言した。
「いいえ、大蛇さまのお食事の方が大切でございますれば」
その迷いのなさ、惑いのなさに、一護は改めて出会った頃の不思議な気持ちを思い出した。
本来ならば強く疑問を抱くところ、そして自分でも分からぬ漠然とした確信ゆえにそのまま受け入れていたこと。
それを今、口にしてみる。
「僕というか八岐大蛇というか……そんなに大事なもんなんかな? なんか、こんなにしてもろてさ……」
「わたくしは、大蛇さまの巫女でございますれば……」
氷雨は、どこか誇らしげな響きを秘めて答えた。
一護を見つめるどこまでも深く美しい双眸は、衒いのない喜びに震えている。
「再びお会いし、お側に仕えることのみを夢見て参りました。このように、これほど近くに大蛇さまがおられるなど……」
「けど、戦うんとか、怖ぁない?」
それも、訊いてみたかったことのひとつだ。ありきたりで詰まらなくも思ったが、口からは素直に出ていた。
氷雨は軽くかぶりを振った。
「慣れておりますわ。殺すことも殺されることも」
それは必ずしも否定というわけでもなかったが、一護は言い募ることはしなかった。
さらりと発せられた言葉に違和感を覚えたからだ。
「……殺されることも?」
仲間のことだろうか、と一護はすぐに自ら答えを想定してみたのだが、氷雨は嫣然とした微笑みで異なる解を告げた。
「わたしは三度ほど不覚をとり、死んだことがあるのですわ」
なんでもないことのように妙なことを言われ、一護は混乱した。
ここにいる氷雨は夢でも幻でもない、と思うのだが。
「ええと……」
「大蛇さまが世に在る限り、わたしに滅びはございません。大蛇さまと繋がったわたくしの魂は、幾度でも人の身体を得て現れるのです」
氷雨は上品に小首を傾げる。
むしろ嬉しげな響きで語られるその内容に、一護は目を丸くした。
だが、以前からの言動と一貫した言葉だとも思った。
確かに感じられる、と言ったことがある。
自分には間違えようがない、と言ったこともある。
もうどこにいても見つけ出せるようになった、とも言っていた。
その言葉の群れは、今の台詞に直接繋がっている。
「……巫女って、そういうもんなん?」
半ば圧倒され、一護は呟くように言う。疑問の形をとってはいるが、問うたつもりはなかった。
それでも答えは返って来た。
「仕える神の加護すべてを一身に受ける者は、そのようになるようでございます。とは言えど、そのような者は世のすべてを探しても十もいるものかどうか……」
氷雨は一度目を伏せてから、手にしたままのおにぎりを差し出した。
冷たい風が、氷雨の良い薫りを運んでくる。
「ともあれ、お召し上がりくださいまし」
「うん……」
一護は手を伸ばした。いろいろと考えることはあるのだが、空腹なのも確かで、拒否する理由はない。
だが、一護の手は空を切った。
何かを思い出したような表情で、氷雨が少しだけ下げたのだ。
もしかしてやはり氷雨も食事を摂る必要があるのだろうか、と一護が思ったときだった。
氷雨が一護を見つめ、どこか悪戯っぽく映る微笑みを浮かべた。
細められた緋瞳と品良く弧を描いた薄紅いくちびるが絶世の美貌に形作ったのは、背筋が震えるほどの艶。
「大蛇さま……」
右手に左手をそえ、おにぎりが口許まで差し出される。白衣の袖からわずかに顕わになった白い腕が、ただそれだけだというのに艶かしく見える。
一挙一動に滲み出る艶にも慣れて来てはいたものの、それでも今回は強烈だった。
何をされているのかは、暴れる心臓を必死で収めようとしている一護にも容易に推測できた。
「い、いや、自分で食べれるし……」
しどろもどろに言っておにぎりを受け取ろうとするが、そうすると氷雨は手を引いてしまう。
艶やかな微笑みもそのままに、穏やかながらもきっぱりと言ってのけた。
「嫌でございます」
「いや、て……」
駄目ではなく嫌と表現したのが少し意外で、一護は虚を衝かれた。
しかも氷雨が断ったのは初めてではなかろうか。
「さ、お召し上がりくださいませ……」
再び、おにぎりが口許に差し出された。
一護は観念した。
散々いろいろしてもらっておいて、ここであくまでも嫌がるのは悪い。
第一、なんとなく恥ずかしいだけで、他に見ている者もなく、内容そのものは正直に言うと嬉しい。
かぶりつく。
この季節、しかも外気にさらされていたわけだから固く冷たいおにぎりだ。
だがそんなことは、一護がおにぎりを口にしたときに浮かべた氷雨の表情を目の当たりにした瞬間、すべて吹き飛んだ。
嬉しそうな、本当に嬉しそうな、無邪気としか言いようのないあどけない笑顔。
無意識に咀嚼だけはしながら、心奪われる。
一護に見つめられていることに気付き、ようやく我に返った氷雨はそのすべらかな頬に朱を散らし、視線を落とした。
「申し訳ごさいません……はしたないことを……」
風が氷雨の艶やかな長い髪を流してから、氷雨は蚊の鳴くような声で続けた。
「けれど、御容赦くださいまし…………昔から、その……一度、して差し上げてみたかったのです……」
おずおずと上げたまなざしは、上目遣い。
「お許しくださいますでしょうか……?」
「許すも何も……」
一護は、目の前のこの年下に見える女性を抱きしめたくなった。
どうしてこれほど尽くそうとするのか。
どうしてあんな、幼子のような笑顔を浮かべて喜ぶのだろうか、と。
「……続き、食べさせて欲しい」
腕がぴくりと動いたが、抑え、一護は続ける。
抱きしめるなどしていいのかと、そんな思いに苛まれて。
氷雨はまたあどけない微笑みとともに今度は、いそいそと、という形容がしっくり来る仕種でおにぎりを差し出した。
「本当は、お弁当のときにして差し上げたかったのです。思いきれず、ここまで延びてしまいましたが……喜んでくださり、本当に、ようございました……」
敵へと滅びをもたらす緋瞳はただ一途に一護を見つめ。
悲しく響くほどに澄んだ声は華やいで。
「大蛇さま……わたくしは、大蛇さまを心よりお慕い申し上げております……」
氷雨は、そう告げた。
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