「永き時を在り」

『あの、大蛇さま…………いえ、なんでもございません……ですから、なんでもございません……過ぎた望みでございますれば……』






 見事、といっそ言うべきだろうか。

 辿り着いた頃には、一護の家だけが綺麗に焼け落ちていた。

 周囲の家への延焼はまったくない。そのような技術でもあるのか、それとも何かの術を使ったのか。

 ともあれ、ただ一軒だけが焼け落ち、燃えるもののなくなったからか、火は消えている。

 あたりは静かなものだ。消防車の音も救急車の音もない。

 それどころか、人の姿すらない。周りの家には明かりすら点いていない。

 ここまで真っ直ぐに辿り着けたわけではない。刺客をことごとく返り討ちにしながら来たのだ。

 それなのに、誰一人として顔を出す者すらない。

「『月の封界』……そのような神器を荒水波は所持しております」

 氷雨が静かに告げる。

 夜空を見上げれば、やや欠けた月。

「人は夜には眠るもの……月の光を用いて広域にかける眠りの呪縛……」

「邪魔されんように……?」

 一護は黒焦げた四つの人型を眺めながら、呟くように言った。

 四人もまた眠り、そのままで死に至ったのだろう。

「力至らず……」

「いや、ええよ」

 項垂れる氷雨に、一護は至極あっさりとかぶりを振った。

 心構えなら先ほど済ませた。ここに来たのは、確かめたかったからに過ぎない。

 悲しくないのかといえば、そんなことはない。だが、これで心残りもなくなったとも思う。

 あまりにも突然の岐路。

 あまりにも突然に迫られた選択。

 しかしそんなものだろうとすら一護は思う。そも、重要な選択は青天の霹靂のようにやってくるものだと。

 一護は氷雨に向き直った。

 口を開こうとして、ひとつのことに気付いてそれは後回しにされた。

 月光に照らされた氷雨の姿は清浄に美しい。血に染まっていたはずの衣と右手にも、既に何の汚れもなかった。

 一護の視線に気付いたのであろう氷雨は、微笑んだ。

「真に大蛇さまの巫女であるわたくしは、常に己が存在を清浄でおくことができる……いえ、それでは語弊がございますね。在るべき姿へと、還るのですわ」

「……っちゅうことはもしかして……」

 汚れなどすぐに消えてしまうというのであれば、自分がぬぐったのはまったく意味が無かったのではないかと、一護は困ったようにこめかみを掻いた。

 だが、氷雨はゆるやかに、頬に右手を当てた。ほんのりと、朱が散っている。

「いいえ、とても……とても嬉しゅうございました……」

 一護を見上げる緋のまなざしは、いつにも増して強い艶を秘めている。

「あのようなことをしていただくのは畏れ多いはずですのに、嬉しくて…………わたくし、どうしましょう……」

「いや、どうしましょう言われても……」

 清楚だからこそぞくりとするほどさらに蠱惑的に映るその表情に、一護は己の鼓動を抑えるのが精一杯だった。

 それ以上は何も考えられない。

 しかし氷雨の方が、静かに双眸を閉じた。

「……いえ、過ぎた望みでございますね……」

 その言葉は一護の耳には届かない。

 そして思考を取り戻すほどの時間は過ぎた。

 一護は大きく息をつき、もう一度だけ焼け落ちた家を見た。心の中だけで別れを告げ、また氷雨を振り返る。

「……行こか、氷雨さん」

 それは、答えだった。

 氷雨の提案に対して、まだ口にしていなかったこと。

「よろしいのですか……?」

 慮るように一護を覗き込む氷雨の声はどこか儚げに響く。

「本当に、一緒にいらしてくださるのですか……?」

「ああ。まあ、早よここを離れとかんとまずそうでもあるし」

 一護が殊更に明るく答えた、そのときだった。

「なんでよ!」

 第三の声がした。

 一護のよく知った声。

 だが、まさかこんな時間、こんな状況で聞くとは思っていなかったために、誰なのか気付くのは少し遅れた。

 振り返り、姿を確認してからようやく悟り、それでもなお戸惑う。

「……二ノ宮さん……?」

 今まで姿を隠していたのか、四つ角のこちらの隅に夕実が立っている。こちらを見る顔に浮かんでいるのは、恐怖だろうか。

 一護は氷雨へと視線をやった。

 氷雨は夕実へと、やわらかな微笑みを向けた。

「近くの刺客は皆屠りましたけれど……まだ危険にございますれば、出歩かれるのはいかがなものかと存じます、二ノ宮夕実様……」

 だが、夕実は氷雨を見ていない。

「分かってるの、キューちゃん!? そいつ、人を殺したんだよ!?」

「……見とったんか」

 一護はそう返すしかなかった。

 事実は事実であり、そのものには他の入る余地はない。

 だが、夕実にとってその返答は不満極まりないものだった。

「なんで!? どうしてそんなに落ち着いてるの!? そんな恐ろしい娘と一緒にどこに行こうっていうの!?」

「……遠くまで」

 経緯はよく分からないが、夕実が自分の心配をしているらしいことだけは一護にも判った。

 その上でぼかす。多分、知らせない方がいい。

 氷雨が前に出る。

「ついていらしていることは存じておりました。けれど、大蛇さまのご友人ゆえに干渉せず、見逃して差し上げたのです」

 その口調は、やわらかに響きこそすれ、切れ味鋭いものだった。

 まなざしはやや細く、確かな敵を見るもの。

「お引き取りくださいませ。命を徒花と散らすこともございますまい」

「殺すっていうの、あたしも?」

 夕実も負けてはいなかった。小柄な身体に限界までの気迫を詰めて睨みつける。

 それを、氷雨は小首を傾げて受け流した。

 まなざしは細めたまま、嫣然と微笑む。

「そのようなつもりはございません……けれど、このような状況になった以上、大蛇さまに関わるのであれば遠からず貴女様は儚くなることになろうかと存じます」

「なによ、あたしだってあんたみたいな力を手に入れたんだからね! キューちゃんくらい守ってみせる!」

 夕実が手に小さな刃を取り出す。質素な懐刀だ。

 だが、氷雨は小さくかぶりを振った。

「確かにその刃の呼ぶ鬼は、人にとっては強うございましょう。荒水波も神器もその鬼の作る異界でやり過ごしたのでしょう。しかし、その程度で荒水波を凌ぐことなど、できはいたしません」

 夕実は応えず、視線を強めるのみだ。

 二人のやり取りに口を挟めずにいた一護だったが、自分が言わない限り夕実は決して退くことはないだろうと見て取った。

 だから、告げた。

「帰ってくれ、二ノ宮さん」

「え……」

 夕実は、何を言われたのか分からないとでもいう風な惚けた表情を見せた。

 それでもやがて理解できてしまう。

「嘘……」

 無意識にかぶりを振り、今度は噛み付く。

「どうして! キューちゃんが何かできるわけじゃないじゃない! ずっと守られてただけじゃないの!」

「いや、まあ……それはそうなんやけどさ……」

 一護は困って苦笑い。

 そういう問題ではないのだ、と。

「一番安全らしい場所に行くだけやからな」

「どうして安全だって分かるのよ!? そいつが言ってるだけでしょ!?」

「……二ノ宮さん……」

 一護は突き放すように、尋ねた。

「僕の口癖、何やったっけ?」

「口癖……」

 いつもの台詞。

 覚えるほどになってしまっていたそれを夕実は思い起こし、真円に見えるほどに目を見開いた。

「『なんとなく』……? 正気!!?」

「多分」

 一護は高揚とともに頷く。氷雨を信じたいと、自分でもよく分からぬ何かが言う。

 夕実は震える声で呟いた。

「なんで……? おかしいよ、それ……命が危ないんだよ……? 知り合ってまだ二週間の奴に、なんで命預けるの……?」

「まあ……誰がどれだけ強いとかどないしたら安全とか、さっぱり判れへんわけなんやけど……」

 一護はちらりと氷雨を見た。

 どのような思いでいるのか、氷雨もこちらを見つめている。

「強さと弱さは表裏一体、強さこそが弱さ、弱さこそが強さ……判断材料ないから、心に素直に訊いてみた結果っちゅうことで」

「言葉遊びしてる場合じゃないのよ!?」

 夕実には、もう何が何だか分からなかった。

 二年間つるんで来た自分より最近知り合ったばかりの危険な奴を選ぶことも、その選択にまったく恐れを感じている様子もないことも。

 まったく、訳が分からない。

 言葉にしようにも思考が凍ってそれ以上はできず、沈黙する。

 そして一護も、もはや何も喋ることは思いつかなかった。

「行こか、氷雨さん」

 きびすを返す。

 氷雨は微笑みとともに頷き、しかし言った。

「ほんの少しだけ、お待ちくださいまし……」

 一護が不思議そうに足を止めると、氷雨は最後に夕実へと声をかけた。

「二ノ宮夕実様……今生の別れにはいたしませんわ。いつか生きて大蛇さまにお会いしたいと仰るのであれば、今はお引き取りくださいませ……」

 そして一礼すると、一護に並ぶ。

 歩き始めた二人を、夕実は見てはいなかった。

 声は聞こえてはいた。

 だが、ただただ渦巻く疑問のうちに在り、その場に立ち尽くすのみだった。






「尖兵全滅、か……」

 静かな街を見下ろしつつ、連絡を受けた少年が呟く。

 180cm近い体躯は異様なほどに鍛え上げられているが、それでも未だ十代後半に入った程度の、あくまでも少年だ。

 荒水波とは、古より怪異を滅し続けてきた独立戦闘集団である。時の権力にも寄らず、血脈にも拠らず、独自に活動してきた。それゆえに時の政府と敵対することすらあったが、その実力をもって絶えることなく続いている。

 起源は古い。三貴子の一柱たる素戔鳴尊が人に創らせたのだとさえ言われている。

 真偽の程は定かではない。

 だが、荒水波の統括者は『スサノオ』と名乗る。

「……気に入らねえな、どうしてわざわざこんな中途半端なことをさせる? 一気に全戦力を投入しねえ?」

 第九十七代スサノオ、須藤竜也は不機嫌そうに後ろを振り返る。

 そこにいるのは、同い年ほどの少女だ。その年頃の娘としても小柄な身は、幾重にも飾られた巫女装束に包まれている。

 額で中分けにされた長い黒髪をなびかせ、彼女は竜也に並んだ。

「我が君の御託宣です。仕上げには未だ早い、と」

 一切の反論を許さぬ声を荒水波の統括者へと向ける。

「仮に屠るにしても、名のある山神をも凌駕した力を振るう<緋瞳の戦巫女>を相手に人の力などいくら投入したところで無意味。今は危機感さえ煽ればいい」

「そうかい」

 竜也は口許を歪めただけだった。

 竜也ですら、この極めて美しい少女と会ったことは一度しかない。ちょうど一年前にスサノオを継いだ、そのときだけだ。何者なのかの事実は知らない。

 知っていることはたった二つ。

 彼女の名と、姿すら滅多に現さぬ彼女こそがこの荒水波の真の主であるということ。

「で、本命はこのまま行かせておくとして、あの鬼使いのねーちゃんはどうすんだよ?」

 竜也は逆らわず、別の一つに話を変える。

 たかが十代、ではない。相応しいからこそ、当代のスサノオなのだ。

 将たるものは万能である必要などない。むしろひとつのことを除いては何もできなくても構わない。

 できないことを補ってくれる者を見出し、惹きつけ、用いることさえできればいいのだ。

 竜也にはその器がある。少女の意向を受けて今ここでは近付かせていないが、六人の手足がいる。

 もっとも、スサノオたるにはそれだけではならないのだが。

 竜也をスサノオに選んだ少女は強く告げた。

「並みの者では存在を捉えることもあたわぬでしょう。捨て置きなさい」

「へいへい」

 竜也はちゃきりと手にした剣を鳴らし、それでも肩をすくめるようにして頷いた。




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