「すべてを包んで白い雪に変わることを」

『皆、心よりお慕い申し上げておりますわ……無論、わたくしが一番そうであるに決まっておりますけれど……』






 十握剣は一護の目前で止まっていた。

 目の前に黒髪が広がり、十握剣はその中から突き出していた。

 いや、違う。

 十握剣を赤い液体が伝う。

 それが血であることを、一護は感づいた。

 遅いくらいだ。非現実感が認識を曖昧にする。

 剣は、身を投げ出した氷雨の胸を貫いていた。

 氷雨と竜也の視線が間近でぶつかる。

「……消えなさい……!」

 くちびるの端から、つうと血が伝う。

 緋の邪眼が淡く光を灯した。否定の威が竜也を侵す。

 だが、櫛名田の力がそこまでは許さない。

 竜也は大きく後ろに吹き飛ばされた。

 それと同時に十握剣が引き抜かれることとなり、氷雨の胸と背からどっと血があふれ出た。

 ゆらりと身がふらつく。

 それを支えたのは一護だった。

「氷雨さん!?」

 ようやく、声が出る。

「……お逃げくださいまし、大蛇さま……この二人はわたくしが仕留めますゆえ……」

 氷雨は振り向かなかった。

 緋の邪眼の力は間断なく敵二人に行使されている。

「わたくしは幾度でも甦ります……大蛇さまさえ御無事なら、わたくしに滅びはございません……」

 勇気付けるように、言う。だが、その声は既に儚かった。

 溢れ出る血が、生命の終わりを感じさせる。

 逃げるなら、まだできる。

 すべてを忘れて普通の暮らしに戻ることはできなくとも、逃げ隠れることはできるかもしれない。

 だが、とひとつの思いが身体を支配する。

 たとえ戻れるとしてすら、戻れない。

 戻るわけにはいかない。

 出会った時の、期待に満ちた彼女。

 知らぬと言われても気丈に微笑んだ彼女。

 微笑んだまま、敵を殺めた彼女。

 来るかどうかも分からない時をずっと、ずっと待ち続けていた彼女。

『わたくしは……そのために二千年を越える時を重ねてきたのです……』

 彼女と出会わなければ、命を狙われることもなかったのかもしれない。

 家族も死ななかっただろう。

 だが、これほど自分を想ってくれる人がいるだろうか。

 これほど純粋な人がいるだろうか。

 なんでもないことを、あんなに嬉しそうに、あどけなく笑うのだ。

 一護はそのまま氷雨を抱きしめた。

「……ごめん……できんよ……」

「……大蛇さま……?」

 言われた通り逃げるのが賢いのだろう。

 今までは氷雨が守ってくれたが、今度はそうはいかない。

 死ぬかと思うと背中の芯まで凍てつく。

 自分がここにいて何ができるわけでもない。足手まといになるだけだ。

 留まる意味など皆無にも近い。

 だが、氷雨を置いて逃げることはできなかった。

 どうせ見つけられるであろうという事実など考えの外。

 それは意地だ。

 きっと下らない、たったひとつを除けば意味のない、愚かな意地。

「僕、氷雨さん好きやから、逃げるなんてできん……」

「……大蛇……さま……」

 氷雨は息を呑んだ。

 だが、やがて笑みを含んだ声で囁いた。

「……また、何千年も待てとおっしゃるのですね。困った方です……」

 一護の腕にぽたりと温かい雫が落ちる。

 それは涙だった。

「……でも、そんなお言葉を戴けるなんて、思ってもみませんでした……わたくしは三国一の幸せ者ですわ……」






「胸ブチ抜かれてもまだ普通に喋ってやがる……聞きしに勝るバケモンだな、ありゃ……」

 竜也は十握剣を構えたままばねを溜めていた。

 全力で防御呪を行使し続けている櫛名田は言葉を返す余裕もない。

 一瞬でも気を抜いたならばその瞬間に滅ぼされてしまうことを知っているのだ。

 絶対否定の緋の邪眼。それはあらゆる論理と言葉遊びを無きものとしてしまう。たったひとつを除いて、対抗する術はない。

 不死を殺し、不滅を滅ぼし、在るものを消し、無いものを絶ち、仮にこの邪眼を封じることに特化した力があったとしても、それさえも無効化してしまう。

 それは大蛇の力の一端だ。最大の神霊は最大の荒御魂である。是非もなく、ただ在りただ圧倒する世界の猛威、人の賢しさなど歯牙にもかけぬ、言い知れぬ原初にして最果ての『おそろしいもの』こそがそれだ。否、それであるのかすら分からない。その欠片を行使しているのだ。

 己が主の意思を受け取る櫛名田はそのことを教わっていた。

 唯一可能なのは、耐えることだ。しかしそれも氷雨を上回る力を有する神霊か、あるいは極めて高位の神に仕える真正の巫女が借り受けた力を行使するか、このいずれかでしか耐え切れない。

 櫛名田は後者である。可憐なくちびるを引き結び、必死に忍ぶ。

「さて、どうしたもんかな……」

 一方で、呟きながらも竜也の表情に焦りはない。虎視眈々と機会を狙っている。

 そしてそのときは来た。

 <緋瞳の戦巫女>が目を閉じたのだ。

 それが何を意味するものであれ、迷いはしなかった。

 竜也は弾かれたように飛び出した。






 きっかけは、肌に触れた氷雨の涙だったのだろうか。

 それとも血だったのだろうか。

 定かではない。

 心が流れ込んでくる。

 記憶が流れ込んでくる。

 人の殻など、神の力の前では薄皮にも満たない。

 一護と氷雨の中の八岐大蛇の力を通して、想いが流れ込んでくる。
















 何をしに来た?

 その恐ろしい存在は問うた。

 あなたの贄となるために。

 少女は気丈に答えた。

 恐ろしい存在は沈黙した。

 何かを考えているようだった。

 やがて呆れたように言った。

 人など食ろうて何になる、帰れ。

 少女は戸惑った。

 少女は八人の姉妹の長女だった。

 少女は恐ろしい存在への贄に選ばれた。

 恐ろしい存在は蛇だった。

 恐ろしい存在は八つの頭を持っていた。

 恐ろしい存在は八つの尾を持っていた。

 恐ろしい存在の腹からは常にじくじくと血が染み出していた。

 恐ろしい存在は八つの山、八つの沢を覆うほどに大きかった。

 恐ろしい存在の災いを避けるために、少女は贄に選ばれた。

 恐ろしい存在の、少女の身体よりも大きなアカカガチの如き眼が少女を見た。

 どうした?

 少女は意を決して言った。

 帰れませぬ。

 贄としてやって来て、どうして今更帰れましょう。

 逃げ帰ってきたと思われるだけでございます。

 ならば、と恐ろしい存在は続けた。

 遠き場所へと行くがよい。

 否、と少女は首を振った。

 年端も行かぬ童女ひとり、いかにして生きてゆけましょう。

 それも然り、と他の山に在った頭までもが首肯した。

 ならば食われるか。

 食って食えぬわけでもない。

 少女は今更ながらに身を震わせた。

 食べられるのは恐ろしゅうございます。

 恐ろしい存在は笑った。

 それではどうするつもりなのだ。

 できますれば、と少女は頭を垂れた。

 お傍に住まわせて欲しゅうございます。

 大蛇さまの御身体には、食べて食べられなくはなさそうな苔が。

 獣たちも大蛇さまを恐れて近づいては来ますまい。

 恐ろしい存在は身体を動かし、八つの頭を集めた。

 賢しき娘よ。

 我を恐ろしいとは思わぬか。

 少女は目を伏せた。

 恐ろしゅうございます。

 なれど、ここ以外にわたしの場所はございません。

 沈黙。

 やがて恐ろしい存在は笑いを響かせた。

 愚かよな。

 されどそれこそがお前の強さよ。

 面白い。

 人を養うもまた一興か。




 不思議な生活。

 流れ行く生命の営みを目に見る生活。

 滅び行くものの末を耳に聞く生活。

 万物の神霊を肌に感じる生活。

 力強くも残酷で、単純にして精緻な世界。

 少女は恐ろしい存在とともにその世界を生きた。

 恐ろしい存在は命を奪い、命を与えた。

 身を動かすごとに木々をへし折った。

 下敷きになったものは死んだ。

 倒れた木は肥となった。

 死んだものは生きたものの腹を満たした。

 恐ろしい存在は、恐ろしい存在だった。

 少女は恐ろしい存在とともに在った。

 恐ろしい存在はこの世界の神霊の中にあって随一の存在だった。

 恐ろしい存在は少女と話をした。

 恐ろしい存在は気まぐれに恩恵を与えた。

 恐ろしい存在は、少女にとって恐ろしい存在ではなくなっていた。




 一年の時が過ぎ、二の姫が捧げられてきた。

 その翌年に三の姫、その翌年に四の姫。

 毎年一人ずつ捧げられ、全員が同じ暮らしをすることを選んだ。

 しとやかながらも情の強い一の姫。

 勝気ながらも芯は優しい二の姫。

 悪戯好きで明るい三の姫。

 無口ながらも清廉な四の姫。

 乱暴ではあっても素直な五の姫。

 気弱で繊細な六の姫。

 甘えん坊で無邪気な七の姫。

 そして一の姫が捧げられてより七年。

 最後の姫が捧げられるであろう日のことだった。

 少女はすでに娘と呼ばれる歳になっていた。




 娘は必死に走った。

 雨が降っている。

 氷すら混じった、冷たい雨だ。

 それすら気にならずに娘は走った。

 足元はぬかるんでいる。

 雨だけではない。

 赤い液体。

 血だ。

 山のようにそびえ立つ大蛇の、八つの首と尾から流れ出た夥しい血。

 娘は最も近い頭に駆けていた。

 ゆるりと、大蛇の朱の眼が開く。

『……なぜ来た……?』

 普段なら圧倒的に響く思念が弱々しい。

「大蛇さま!」

 娘は悲痛な声で大蛇の鱗にしがみついた。

「どうなさったというのですか!? いくら相手が高天原を追い出されたほどの荒神と言えど、大蛇さまの方がよほど……!」

『……そうなのだがな。謀られた……』

 大蛇の声は苦い。

『信じた我が愚かか……』

「いいえ、いいえ!」

 娘の頬を涙が伝う。

「大蛇さまは何も悪くないではありませぬか……」

 すべては愚かしい勘違いの所為なのだ。

 娘の悲しみを受け、大蛇は沈黙した。

 やがて言い聞かせるように再び思考を発する。

『悲しむことはない……力の大半を奪われても、それがゆえに我は滅びぬ。いつの日か、甦るときが来る……』

 娘ははっと顔を上げた。

 すがるものを見つけたまなざし。

「それならわたくしは……」

『お前たちは帰れ』

 娘の言わんことを察して、大蛇は遮った。

『千か二千か……人に待てる年月ではない。我がいなくなれば帰って責められることもあるまい……』

 冷たい雨が降っている。

 娘は、額を大蛇の鱗に押し当てた。

「……それでも、わたくしだけは待ちとうございます……」

 ぐっしょりと濡れた衣は重く、その端々から、娘の白いおとがいから、長い黒髪から、絶え間なく水が滴る。

『……相変わらず無茶を言う……』

 呆れたような大蛇の声はどこか笑みに彩られていた。

『が、待てると言うならば、手はある……』

「お願いいたします」

 娘の返事には迷いがない

 大蛇は一層弱くなった思念で続けた。

『今、我に残された力を、お前に授けよう……』

 雨が降っている。

『老いることもなく、欠けることもなく、お前は生き続ける……』

 冷たい雨が降っている。

『殺されることがあったならば、再び生れ落ち、生き続ける……』

 涙のように降りしきる。

『我と共にしか滅びることはできず、狂気がすぐ傍に忍び寄ろう……』

 雨は冷たく、冷たく降りしきる。

『それでもお前はそれを選ぶか?』

「お願いいたします」

 やはり娘の返事には迷いがない。

 うっすらと微笑みすら浮かべて見せた。

「わたくしはすでに狂っております……いまさら、何を恐れましょう……」

 美しい、とても美しい微笑みだ。

 大蛇は、最早試す気もなかった。

『……よかろう……』

 娘の身体が強い輝きに包まれた。

 世界そのものに宿った力。

 効果的に使われぬ、しかしそれゆえに果てしない大きさを持つ力。

 ほんの一欠けと言えど、最大の地祇の力は人の身には大きすぎるものだった。

 漏れる苦悶の声。

 だが娘は耐えた。

 輝きが消えたとき、娘の魂のうちに神の力があった。

 娘は世界の欠片となった。

 森羅万象の一部を娘が占めた。

『……これで、もうお前は人の生は送れぬ……』

 大蛇の眼が娘の眼を覗き込んだ。

 娘の虹彩は緋色に変わっていた。

 緋の邪眼が朱の蛇眼を映す。

『眼は我が力の一つ……我が力を受けた証……』

 大蛇の声はもはや消えようとしている。

「大蛇さま……」

 娘の頬を再び涙が濡らした。

 涙は熱い。冷たい雨とは、間違えようもない。

『……新しいお前に、名をやろう……』

 大蛇の声が娘の頭に囁く。

 雨が降っている。

 凍えそうなほど、凍りつきそうなほどに冷たい雨。

『……氷雨……』

「……氷雨……」

 繰り返す娘に、大蛇は昨日までの圧倒的な思念で頷いた。

『それが、我が唯一の、真なる巫女に与える名だ』

 それは、消える寸前の最後の輝き。

 娘は息を呑んだ。

 大蛇の力が世界へと融け込んで行く。

 力により顕現、構成されていた身体も消えてゆく。

 アカカガチの色の眼も、牙も、鱗も。

 肉も、骨も、大地に溜まった血さえも。

 すべて消えてゆく。

 今まで大蛇が存在していた空間をかき抱くように、娘は自らの肩を抱いた。

「……氷雨……」

 もう一度、己の新たな名を呟く。

 今、降り注ぐこの雨をとった名。

 大蛇がどんなつもりでこの名を選んだのかは分からない。

 だが、与えられたことそのものに意味がある。

「千の年でも万の年でも……いつまでもずっとお待ちいたします……」

 氷雨の声は、氷雨の中に吸い込まれていった。
















 もう待たせんよ。

 一護は呟く。

 神の生まれ変わりなのだと言われても困った。

 自分の中に何かを感じたりしたことはない。

 恐怖して何かが起こるわけでもなく、命の危険にさらされて何かが変わったりもしなかった。

 ひたむきに何かを貫こうとも得られるはずもなかったろう。

 それもそのはずだ。

 人と神は異なる。人の感じ方で神を感じるはずもない。

 虚仮の一念は、決して神への岩を徹すことはない。ただ人の岩を穿つだけだ。

 だが、今は違う。

 感じ方を思い出した。

 思い出しさえすれば、感じられた。

 人という仮面の下にある世界の力。

 あとはこの脆い仮面を砕けばそれでいい。

 迷いはない。

 壊す。

 氷雨さんを好きなままでおれるとええけどなあ。

 仮面の欠片が最後に残したのは、そんな思いだった。






 突き出した十握剣は止まっていた。

 無造作に動いた一護の左手が止めていた。

 驚愕とともに竜也は一護を見た。

 アカカガチの色に染まった眼球。

 無音の咆哮。

 己の存在を示す、すべてを圧壊させるほどに重い思念。

「……大蛇……さま?」

 氷雨は歓喜とともに朦朧とした意識から立ち直った。

『待たせた』

 低く、低く、とてつもなく重い大蛇の声とともに、氷雨の身体が圧倒的な力に包まれる。

 その力は氷雨を元として氷雨を再生する。

 傷はおろか、一切の衣の破れすらもなくして見せる。

『今は我が手の内に在るがいい』

「はい……」

 氷雨は童女の如き笑みを浮かべた。

 ここは氷雨自身が選んだ、自分の居場所。すべてが安らげるものだった。

 だが、竜也と櫛名田にとって、それはただ圧倒的な存在以外の何ものでもなかった。

 ただそこに在るだけだというのに、感覚が壊されてゆく。自分が何なのか、何が自分なのか、今ここにいるのは何なのか。すべてがあやふやになる。

 大蛇が左手を動かすと十握剣は砕け散り、崩壊の余波で弾き飛ばされた竜也は、転がった先にそのまま崩れ落ちた。

 だが、櫛名田は真正の巫女である。大蛇の威に呑まれきることなく大きく後ろに跳び、竜也を拾って凄まじい速度で離脱する。

「それじゃあね、お姉様?」

 その口許には、苦しげながらも笑み。

 大蛇は、追いはしなかった。

 自分に向けられた一つの力に気づいていたからだ。






 すべては計画通りだった。

 かつて一度だけ余儀なくされた戦略的後退を挽回するための策は今、大詰めを迎えようとしている。

 撃ち滅ぼすべき大いなるもの、三柱。

 ひとつは最大にしていと古き蛇。

 ひとつは天空の主にしていと猛き炎。

 最後は明星。変り種の忌々しき星神、天香香背男。前二者には及ばぬとても、武神二柱を軽々と退ける強大な存在。戦えば、総力をもってしても勝てるか否か。

 本来ならば正面からではなく計略にかけるはずだった。

 だが、先手を打たれたのだ。存在を賭してかの神霊と対峙し、ついに動かしたのは<緋瞳の戦巫女>。そして星神はこちらへ交換条件を持ちかけてきた。

 天香香背男が眠りにつくのと引き換えに、天津神は地に住まうものたちへの直接的な干渉を行わない。そのような条件を飲まざるを得なかった。

 だからこそ、荒水波が作られたのだ。千年後二千年後に怨敵を滅ぼすために。


 すべては櫛名田へと下した命の通り。

 倒しはしたものの滅ぼすことはできなかった八岐大蛇。それを今度こそ完全に滅ぼす。

 そのために一度復活させることを意図した。

 難しいことではない。いかに人として生きているように見えても、その奥は神霊なのだ。人か神か、どちらを選ぶかを迫れば、その深奥が神霊の見方を示す。

 異界を恐れるはずもない。なぜならばそこは大蛇の本来の住処。

 たくさんの死が与えられることを恐れるはずもない。そも世界は与えられる死に満ちている。大蛇はそれを体現している。

 親兄弟の死に憤ることもない。大蛇にはそのようなものがない。

 選択は、自覚なくとも確実に復活に近づけてゆく。

 そして最後の引き金によって再び「八岐大蛇」として顕現したところを、過剰な力を叩きつけることにより再生不能なほどに分解する。

 存在が巨大すぎる大蛇は星神の力の内に収まらない。地に住まうものへの、との約定を破るには至らない。

 使うべきは天神のすべての力。

 それを、最強の剣たる天叢雲剣を核として撃ち出す。

 一種の賭けとはなるが、力の量だけを鑑みた場合これに耐えられる存在は、ない。

 櫛名田に勅を下し。

 荒水波を使い。

 神気に中て。

 高天原から復活の時を待ち。

 その瞬間は今来た。






「氷雨さん」

『氷雨』

 一護の声と大蛇の思念が重なる。

 その双方ともが苦笑い。

「声にまとめようか……」

 不思議そうな顔の氷雨に呼びかける。

「よかったよ……私はお前を好きでいられた……」

 一護は大蛇。

 大蛇は一護。

 今ここにいるのは人たる大蛇。

 そして神である一護。

 仮面は全き仮面ではなく、二つの存在は根源において一つ。人の思考と感情と、神の知識と知覚を持つ存在。

 それが、今ここにいる存在。

 どちらでもあり、またどちらでもない自分に対する戸惑いが言葉を選ぶ。

 数えるのも無意味な希薄な時よりも、人の二十一年の方が強かったようではあるが。

 少なくとも、今この瞬間は。

「氷雨。時間がない。厄介なものが来る」

 想いを語りたいのを抑え、火急の用に思考を向ける。

「大蛇さま……?」

 氷雨の不安げな声。両手をそっと豊かな胸の前で重ねる。

「いや、いける……いけるはず。方策はある」

 大丈夫と言いながら、一護の声に不安が過ぎった。氷雨を抱く腕に力が籠もっている。

 苦笑い。

「……いけると思うても、怖いな。これが人なるものか」

 八岐大蛇に恐れるものはなかった。膨大な力は世界そのものに等しい。

 だが、それだけではない。

 世界に広がる精神は、己の何ものをも気にしなかった。

 生も死も、すべてはあるがままに。

 だが、人としての心が刻まれたとき、それは変わってしまったのだ。

 ふと、思う。自分を罠にかけるときの素戔鳴尊も、こんな気分だったのかもしれない。

「とりあえずお前はここから……」

「お断りいたします」

 何を言われようとしているのかを察して、氷雨はかぶりを振った。

「そんなに不安がっていては、失敗してしまわれます」

 細い声だ。

 聡い。僅かから、意味を見抜いている。

「大蛇さまが厄介と仰るからには、今度こそ滅びるやもしれぬのでございましょう……? わたくしは……滅ぶ瞬間に大蛇さまとともにいられないのは嫌です……」

 必死に感情を堪えようとしながら、成し切れない。

 一護の腕を強く握った。

「いいえ、いいえ、滅ぶなどとんでもありません……!」

 そのままの位置で氷雨はくるりと身体を返した。

 一護の顎に両手を添えて引き寄せ、爪先立ってそっとくちづける。

 ふわりと淡い、華の薫り。

 氷雨の匂い。

 どのくらいの長さだったのだろうか。

 氷雨は涙に濡れた緋瞳で、一護を見つめた。

「……どれほど強がってみたとしても、本当はわたくしが大蛇さまにして差し上げられることなどほとんどないのでしょう……それでもわたくしにできることはあります。分かることがあります……」

 二千年分の想い、そして二千年前から変わらぬ思い。

 そのすべてを込めて訴える。

「仰っておられたではございませんか。強さこそが弱さ、弱さこそが強さ、すべては表裏一体……」

 半ば呆然とした中で、一護は思い出した。

 確かに、自分で言った覚えがある。

「人は神と比べてあまりにも矮小です。でもわたくしは、だからこそ思うのです……」

 妻のように、娘のように。

 縋りつくように、抱きしめるように。

 大蛇の巫女は、氷雨は諭した。

「大蛇さまはきっと強くなられたのです……」

 惑いが生む、求める心の強さ、死を恐れながら生を捨てることのできるほどの愚かさ。

 人の弱さを得るということは、裏返しの強さをも得ることとなる。

 一護の脳裏を、人として生きた二十一年が走った。

 そうかもしれない。

 思う。

 しかし、やはりこの恐れが消えるわけではないのだ。

 氷雨は微笑んだ。

「……いえ、本当は構わないのです。わがままを言ってみただけです。わたくしは……氷雨は再び大蛇さまにお会いすることができました……」

 喜びの感情。

 純粋で、無垢な、何の衒いもない笑顔。

 自分は一体何をしているのだろう。儚い、人としての想いが叫ぶ。

 怖いくらいに綺麗な彼女を護りたいと思っているのではなかったか。

 悲しいほどに一途な彼女を幸せにしたいと思っているのではなかったか。

 今、自分には力がある。彼女を護って、そしてきっと幸せにもできる力が。

 うまくゆかないかもしれない、などと。

 お笑い種だ。成功させずにどうする。

「……すぐ行く。待っていろ」

 氷雨を一度軽く抱き、それを最後に彼女を遠くへと送る。

 これから叩き込まれる一撃は、正真正銘世界を消し飛ばせる威を持つ。その威はこの身に収束されて余波などほぼ皆無だろうが、氷雨が此処にいるとその無きに等しい余波だけでも彼女の身が消えてしまう。

「はい。お帰りを、お待ちいたしております……」

 一護が恐れを踏み潰したことを悟ってか、氷雨は素直に受け入れた。

 そしてその瞬間、自分に向かって力が撃ちだされたことを一護は感じた。






 勝機は先端に感じる懐かしい力。

 自分の力の大半を担う、天叢雲剣。

 自分を滅ぼすためには天叢雲剣も同時に滅ぼす必要がある。高天原は最強の武具よりも危険極まりない敵の排除をとったようだ。

 しかし、天叢雲剣は己の半身であるがゆえに一護はこの攻撃をかわすことができない。どこへ逃げようとも頭上に落ちてくる。

 そして天神の総力に今の自分は耐え切れないだろう。

 だが、それは現在の力でならば、だ。

 先端の天叢雲剣を先に取り込み直すことができれば、己の力は完全に回復し、逆にこの攻撃の威力は激減する。

 天叢雲剣と破滅をもたらす力が到達する時間の差はほんの一瞬だろう。

 剣に妙な仕掛けは施されていないようだ。朱の蛇眼は今や森羅のすべてを見通す。

 ふと、笑った。

 疑いの心は、明らかに人の心だ。

 力が近づき、一護は天空へと手を伸ばし。

 そして辺りは光に包まれた。

 震えるような感覚が全身に走る。

 己に奇跡はない。そのようなものではなく、当然のものとして結果を成す。

 応えなければならない。

 二千の年を耐え抜いたことに。

 変わらぬ思いを抱き続けたことに。

 そして一護は思う。

 絶対に、大事にしたい。






 天空よりの、一帯を覆い尽くすかのような光が地上を撃った。

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