1-4 絶望

 アリサは調子よく語りを続けた。ひと言ふた言ではなかったので、さすがに母親も聞き逃すことはなかった。が、いざ耳を澄ましても、母親の耳には娘の言葉が意味のよく分からない詭弁きべんのようにしか聞こえなかった。母親は先程より少しいら立った様子で言った。


「ふざけとらんで、はよ着替えてきね」


 しかし演技に打ち込むアリサは、母の忠告をまともとに受け止めることをしなかった。と言うのも、今やアリサの脳内は厄介やっかいなキャラクターを演じることでいっぱいになっていたのである。それは見方を変えれば、この時のアリサが、今日の寿司にまつわる自らの愚かな誤解を母に伝えるという当初の意図を忘れていたことをも意味していた。彼女の中で伝えるための手段が目的と化してしまっていたのである。


 アリサは深刻な表情でうなだれ、自分の頭をで回しながら、「疲れた、人生に」「でもこういう感じなんじゃろうなぁ、世の中って」「結局そうゆうことです」などと、いかにも扱いに困るような言葉を口からこぼし続けた。また合間合間に「あぁ」とか「はぁ」と大袈裟なため息を連続してはさみ込んでは、調理台の上の錦糸卵きんしたまごを素手でつまむなどしていた。


 母の側としても娘がふざけていることは理解していた。しかし度重たびかさなる邪魔に母親は段々鬱陶うっとうしさをつのらせていった。しばらくは無視するように努めていたものの、一向に邪魔がむ様子はなかったので、とうとう腹立ちをあらわにした。


「そんなにばら寿司嫌なん? 嫌なら、アリサのだけ他のにしようか?」


 アリサも母のいら立ちは感知していた。しかしこの時も彼女は真面目に受け止めることをしなかった。それどころか彼女はこれを自らの売り言葉に対する買い言葉であると判断し、母親を舞台に引き込むことに成功したと調子づいた。そしてそのまま例の厄介調で「そういう問題じゃないんよ~」「最早好き嫌いの段階えとるし~」と、なおも面倒な言葉を続けていった。


「何が嫌なんよ? 嫌って言ったって、もうご飯、全部酢飯にしたし。具だけけようか? アリサの分だけ?」

「そんなんしたら、寿司じゃなくてただの酢飯じゃろ」

「アリサがいらんってゆうから」

「いらんとはゆっとらんし」

「じゃあぐだぐだ文句ゆわんで。はよ、その服着替えてきね」

「まあでも高野豆腐と、かんぴょうは、いらんかなぁ。サワラとぉ、エビとぉ、アナゴ中心で。他になんかイケてる具材あった?」


 それからもしばらく、アリサは母の背後に立って冗漫じょうまんに喋り続けた。が、母親は言葉を返すことはもちろん、もう振り向くことすらしなかった。


 無言の母親の背中に向かい、調子よく喋りたてていたアリサも、流石に完全に無視される時間が続くうちに段々弱気になり、彼女の中からは演技熱も引けていった。そして入れ替わりに、アリサの意識は今自分が置かれている状況の方へと向かい始めた。母親のいら立ちと真摯しんしに向き合い出すのもこの時である。


 この母の怒りは本物であろうか、そうだとしたら一体どれくらいのものであろうか、そもそも母は何に対して怒っているんだなどと考えながら、アリサは意識を澄ませ、神経をとがらせ、自らを取り巻く現状を把握はあくしようと努めた。


 しかしこの行為は彼女の中に疑心暗鬼を呼び起こした。うたぐりり深くなったアリサには、母の包丁さばきがいつもより乱雑なものに映り、またそれが母の怒りの根拠に見えてくるのである。他にも鍋からもわもわ立ちのぼる湯気、蛇口から出た水がシンクを打つ音、布巾ふきんの赤茶色の汚れ、グリルの中で発生したボンッという破裂音など、極度に神経を尖らせるアリサには、そうしたもの全てが母の怒りを裏付ける証拠のように思われてならず、何かを見るにつけ、考えるにつけ、彼女の疑心暗鬼はみるみるとふくらんでいった。


 実際のところ、母が怒りを見せたのはほんの一瞬で、アリサの邪魔が引いた今、母の頭にあったのは、目の前のばら寿司の調理ただ一念だった。が、疑心暗鬼のとりこと化すアリサにとって、無言の母親の背中は、意思疎通いしそつうの思いをことごと遮断しゃだんする重厚で冷酷な壁のように映っていたのである。


 アリサは帰宅してからの自らの振る舞いを悔やんだ。なぜあんな行動を取ってしまったのかと反省しようともした。もっとも反省しようにも、自分がふざけたことを言ってしまったのはぼんやりと思い出せても、具体的にどの文言が母の怒りを呼んだのかとなると、適当に口から出まかせを吐き出していたのでいまいちピンとこなかった。これでは反省すらできないと、彼女は現状を悲嘆ひたんした。


 何とか行動で挽回ばんかいできないか考えたりもした。しかし料理を手伝うにしても自らにその技能はなく、無理に申し出ても邪魔になってしまうだけだと、この方策も直ぐに行き詰まり、彼女の悲嘆は一段と強まった。


 そうこうするうちに、アリサはとうとう疎外感すら抱き始め、愈々いよいよこの場への居づらさをも抑えられなくなっていった。逃げてはいけないと耐え忍ぼうともした。が、彼女の心は既に折れていた。


 アリサは黙ってリビングに戻ると、鞄を力なく拾い上げ、二階の自分の部屋へ、足音も立てず上がっていった。

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寿司戦争 アブライモヴィッチ @kawazakana

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