1-3 自虐

 アリサは現実にあらがおうとした。しかし目の前の寿司桶にしろ、桶の中の酢飯から漂ってくる甘酸っぱいにおいにしろ、いずれも彼女を現実から逃れさせてはくれなかった。むしろ現実の手先になって、彼女を現実の方へ連れ戻そうとするのである。


 こうなった以上観念するより他はないと、アリサは手にしていた鞄をリビングの床の上に乱雑にほうった。そして現実に向き合おうと、テーブルの上の寿司桶の方へ歩み寄り、嗅覚を研ぎ澄ませ、桶の内部に眠る酢飯が放つ香りをくんくん嗅いだ。それから桶のふちに付着していたごはん粒ひとつを、人差し指の先に載せ、自らの肉厚な唇の間につっとねじ込んだ。


 こうして次第に平静を取り戻していった彼女は、リビング内に流れ込んで来るこの魚の香ばしい香りは、きっと具材のアナゴを焼く香りに違いないとの予測を胸に、今度はキッチンへと足を向けた。そしてキッチンの調理台の上に並べられていた、色とりどりの寿司の具材を横目に見つつ、彼女は調理に勤しむ母の背中に向け声を上げた。


「寿司ってこっちぃ? これ、ばら寿司じゃが」


 これは実に非合理な言い掛かりであると言わねばなるまい。もっとも、そのことはアリサ自身も重々に承知していた。実際彼女は、決して憤怒や落胆を込めてこの言葉を放ったわけではなく、勝手に回転寿司を食べに行くものだと勘違いしていた自らの愚かな早とちりに対する、自虐を込めたジョークとして発したつもりだった。しかも彼女はちゃんとジョークだと受け取ってもらえるようにと、眉間に力いっぱいしわを寄せ、外国人のように大袈裟に肩をすくめるなどして、コミカルに見せるための演出すら加えてもいたのである。


 ただ母親は、ばら寿司の具材である高野豆腐の調理に集中していた。そのため娘の言葉に対し示し得たのは、素早く一瞥いちべつを送る程度の反応に過ぎない。この一瞥で娘の言動の仔細しさいを、さらにその行動の裏にある意図を看取するなど到底不可能なことで、母親の目には娘が制服のままごとを吹聴しているとしか映らなかったのである。


「はよ着替えてきね」


 母は調理を続けながら淡々と応じた。アリサとしても、母親のこうした淡白な応対が悪意から来るものではなく、単に忙しいからそうしただけのことに過ぎないのは十分に分かっていた。しかし、アリサにはこの対応がもの足りなかった。それどころか、これではせっかくの自分の自虐が無駄になる、このままではただでさえ愚かな自分が愈々いよいよアホの極みになりはしまいかとあせりすら抱いた。自分は愚かでいい、しかしその愚かしさには気づいて欲しい、そうして笑い話にでもしてくれれば、それで初めて救われると、アリサは自らの演技に熱を込め始めた。


「おかしい」

「はぁ? 何がおかしいんよ」

「これ、ばら寿司じゃろ」

「そうよ。見れば分かるじゃろ。今日おばあちゃんの誕生日」

「握りじゃねーが」

「握りなんてひと言もゆっとらんじゃろ?」

「詐欺じゃ。ウチ握りって思っとった」

「アリサが勝手に勘違いしただけ」

「学校の皆にもはなしたのに。ウチがアホみたいじゃ」

「アホは事実じゃけしゃーねーしょうがないが」


 母親は相変わらず調理に当たりながら対応を続けた。それでもアリサは自分の思惑に母親を誘導できそうだとの感触を得、ここを先途せんどと意を決し、話の速度を上げていった。自分はてっきり回転寿司を食べに行くものだと思っていた、今日そのためにどれだけの時間、労力を費やしたか分からない、しかしそれらは全て無駄になった、しかも単に時間を浪費しただけではない、今こうして精神的な苦痛まで受けている、そのせいで今後数日は陰鬱な日々を送らざるを得ないだろう、もしかするとこのことが自分の性格そのものを陰湿なものに変えてしまうかもしれない、まさかこんな爆弾を背負いながら生きていかなければいけなくなるなんて、今日を境に自分の未来は暗黒だなどと、極めて饒舌じょうぜつに、まことに独善的な自虐劇場を展開していった。

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