第9話(終):白猫の行方

 警察から色々と事情を聞かれるも、あのプレハブを抜け出た後のことはよく憶えていない。思い出そうとしたところ再び倒れたために医者の判断で聴取はしないこととなったが、それでも警察は僕が福生さんの自殺未遂に何らかの関与をしていると疑っているようだった。

 三が日が過ぎ去っても福生さんは未だに意識が戻っておらず、今も病院のベッドの上で横になっているらしい。らしい、というのも僕は家から出ないようにと医者から釘を刺されてしまい、福生さんのお見舞いにも行っていないのだ。

 命に別条はないということは武蔵野さんを伝って聞いたので一安心だが、このまま目覚めず、目覚めても後遺症が残る可能性があるらしい。具体的にどんな後遺症が残るかは聞いていないが、猫をも殺す薬物による後遺症とは恐ろしいものなのだろう。多分。


 外出が許可されたのは冬休み最終日であった。貴重な休みを全て無駄にしたわけだが、それについては嘆くこともなく福生さんが眠る病院へと向かった。武蔵野さんや立川さんに声を掛けなかった理由は自分でもよく判らない。ただ、自分ひとりで行かねばならぬと、そんな得体の知れない義務感があった。




 バスに揺られること一時間。あの村に比べればずっと都会的な町のど真ん中にその病院はあった。白塗りコンクリートの、絵にかいたような総合病院はまるで墓標のようでもあり、あまり良い印象は抱けない。両親の死にも関係しているからかもしれない。僕にとっての病院のイメージは、治療ではなく死そのものではないだろうか。

 病人怪我人だらけのくせにどこか賑やかなエントランスを抜けて、事前に聞いていた病室のある階までエレベーターで上がって行く。よく油が差してあるのか、静かに動作するエレベーターから降りてナースステーションまで向かい、見舞いの受付を済ませた。その時、ナースステーションの看護師の何人かがこちらに聴こえないように(聴こえたのだが)「あの子のカレシかしら」と小声で話していた。白衣を着込んでいても中身は人間であるということだ。

 清潔感と仄暗さが同居している廊下を進んで行く。靴音さえどこまでも響きそうなほど静かで、患者の呼吸さえ聴こえてきそうであった。冬だというのに室内は暖かく、静けさと相まってまるで何かの体内のようだと思った。

 やがて、その部屋はあった。数人が押し込められる大部屋ではなく、一人用の個室。ぴったり閉ざされたその扉を小さくノックすると、中から返事が返ってきた。まさか誰かいるとは思わなかったので驚きながら戸を開くと、そこには眩いばかりの白髪が横たわっていた。白いベッドの上に、白い髪と肌が横たわっている。ややあって、その隣に四十歳後半かというくらいの女性が座っていることに意識が向いた。初対面のはずであるのにどこかで見たことがあるような顔をしているのは、きっと福生さんの親族だからだろう。

「あなた、美空のお友達?」

 美空って誰だ、と一瞬だけ悩んだが、すぐに福生さんの名前だということを思い出した。普段から姓で呼んでいると名前を忘れてしまうことはよくある。よくあるはずだ。

「はい。青梅一也っていいます」

 さて、自己紹介したはいいが、ここからどうすればいいのか。見舞いには来たものの福生さんは眠ったままである。よく考えれば寝ている人間の見舞いを親族以外に許可するとは思えないので、それが許可された時点で親族の誰かがいるということは想定するべきであった。

「私が誰か訊かないの?」

 女性はそう言って僕の目を覗きこむ。やはり福生さんに似ている目だった。

「福生さんの親戚の方、だとは思いますけど」

「半分正解。血縁的にはこの子の伯母に当たるんだけど、大昔に勘当されちゃってるの」

 あの伯父(叔父?)に比べてまともそうな感触である。福生さんの親戚は皆冷たい人間ばかりだと思っていたが、こうした良心も残っているようだ。いや、しかし、それはどうだろう。もし本当に彼女が良い人間であるなら、福生さんがこうなっているはずはないのではないだろうか。

 椅子を勧められ、僕はそれにゆっくりと腰を下ろした。音を立てたら罰金でも取られるのではないかというほど病室は静かで、可動式の棚に置かれた卓上時計の安っぽい秒針が進む音までしっかりと耳の奥へ届く。その沈黙を破るかどうか悩んでいる内に、女性の方が先に口を開いた。

「……私は、兄さんに預けるのは反対だった」

「福生さんと住んでるおじさんですか」

「そう。でも、私には関係ない話だってお母さん……美空の祖母に言われてね」

 再びの沈黙。僕は一つだけ聞きたいことがあった。それは福生さんの口から聞くべきだと思っていたが、きっとその口から真実が語られることはないだろう。それに、その答え次第では、僕はすぐにでもこの病室を去ることになる。

「……福生さんのご両親が亡くなったのは、なぜですか?」

 その質問に対する答えは、なかなか返ってこなかった。福生さんが殺したのか、それとも別の原因か。ただそれだけのことなので、迷っているのはそもそも答えるかどうかだろう。ややあって、沈黙の重さにも慣れてきたころ、彼女は重そうに口を開いた。

「この子が言ったの? 両親のこと」

 僕は一度首を縦に振り、傾いでから横にも振った。

「学校では――――学校の外でも、噂になってます。福生さんが自分の両親を殺した、と」

「それは違うわ」

 即答だった。僕はほっと安堵の息を吐き、しかしその否定には何か別の強い意志が籠っているように思えた。

「それは、違うの。でも……この子は、それを否定しないのね」

 小さく頷いて見せると、彼女は深く息を吐いて肩を窄めた。重い荷物を全部床に置いたような、そんな表情で。

「それなら、小学校でクラスメイトが事故死した話は?」

「それも殺したと聞いてます」

「事故よ。むしろ、殺されそうになったのはこの子の方。この髪のせいでいじめられてたらしくてね、それでいて気が強いでしょ? ある日我慢の限界がきて取っ組み合いの喧嘩になって、窓から落とされそうになった時に相手の方が落ちたの。それ以上詳しい状況までは知らないけど、落ちた子は首の骨が折れて即死。頭から落ちそうになったその子の足をこの子が一度掴んだらしいけど」

 放してしまった。力尽きたのか、それとも心が負けたのか。先日の砂防ダムでのことを思い出す。今度は、と彼女は言った。これがその一度目だったのだろう。

「それで大きな騒ぎになって、死んだ子の親と仲が良かった家は全員で逆恨みして、この子の家に嫌がらせをして、最後には……」

 彼女はそこで言葉を止め、口元に手をやった。呼吸を整え、目を瞑り、

「最後には、一家心中しようとした。包丁で首を切って。でも、この子は首じゃなくて脇腹だった。実の娘の首を切ることは、できなかったのかもね」

「それで、助かった」

 そう、と短く呟くように言った。

「その後ね、母――――この子の祖母はね、この子に言ったの。お前のせいで息子が死んだ。お前が殺したんだ、って」

 僕はなんて言えばいいのか判らず、ただ黙って話を聴いていた。死んだように眠る福生さんの表情はどこか穏やかで、このまま寝たきりの方が幸せなのではないかとさえ思ってしまう。しかし、だからこそ、僕は湧き上がる疑問を押さえられなかった。

「無理矢理にでもあなたが福生さんを連れていくことはできなかったんですか?」

 彼女は床を見つめたまま顔をこちらへは向けない。ただ床の一点を、何もない一点を見つめている。

「……もう、私の家庭があったから。この子のことは気掛かりだったけど、私の家族にも人生がある」

「だったら、何も言うことなんかできない。あなたは誰のことも悪く言えないじゃないか。そこまで解ってたのに何もしなかったら、悪いとまでは思わないけど、でも誰のことをも責める権利はない」

「そうね、そうよ。だから、ここにいるだけ。声も掛けないし、花もない。兄が家で飲んだくれてるから、代わりに来ただけ。それだけだもの」

 意識が遠のきそうになって、僕は逃げ出すように病室を出て行った。廊下の手摺を伝ってエレベーターに転がり込むと、ドアを閉め、階を指定せずにそのまま座り込む。体の芯まで凍りつきそうなほどに寒気がする。壁や天井が迫ってくるような錯覚。壁の隙間から血液が染み出るような幻覚。忘れていたはずの、『あの日』に嗅いだ血とガソリンの臭いが喉の奥にこびりついている。誰もいない伽藍堂の家。誰もいない。もう二度と、そこにはいない。

 僕は膝を抱え震えながら、身の内から湧きおこる久々の感情――――何かを失っていく恐怖に絶叫した。




■  ■




 気付けば僕も病院のベッドの上だった。個室ではなく大部屋の、窓際のベッド。窓の向こうには山が見えるが、別段綺麗という風景ではない。その味気ない風景に緩やかに失望し、それから携帯電話のカレンダーを見て小さく声を漏らした。

「三日も経ってる……」

 表示された日付は、僕がここに来た日からさらに三日経っていた。通りで強烈な空腹感があるわけだ。

 相変わらず直前のことはよく憶えていなかった。しかし、自分の胸の奥に『何か』を取り戻していることははっきりと自覚できていた。

「あら、起きたの」

 部屋に入ってくるなりそう言ったのは立川さんであった。手には空の花瓶があり、それを棚の上に置くとパイプ椅子を引き寄せて座る。僕はぎしぎしと痛む体を起こし、とりあえず挨拶なんぞをしてみた。

「やぁ、立川さん。今日も元気そうだね」

「なにそれ。あなたは全然元気そうじゃないけど。ま、入院してるんだから当然か」

「例に漏れずなんでここにいるかよく解ってないんだけど。なんかエレベーター乗ったとこまでしか憶えてない」

「なら全部憶えてるわよ。エレベーターで倒れてたんだって。京子ちゃんから聞いた話だと、いつものとは違うらしいわよ」

 道理で気分が悪いわけである。三日も眠り続けたことがなかったのでこれが普通の失神かどうかは判別がつかないが、普段のそれとは違うというのは確かなようだ。

「ああ、京子ちゃんならトイレよ。もうすぐ戻ってくるんじゃない?」

 そう言ったそばから京子ちゃんは部屋に入ってきて、僕の顔を見ては泣きそうになりながら駆け寄り飛び乗るように抱き付いた。いくら女の子とはいえ人間一人分の重量が助走を付けて飛んでくるとなるとさすがにダメージが大きく、そのまま形成外科にもお世話になるところであった。

「カズにぃ……よかった……もう目覚めなかったらどうしようって……」

「大げさだなぁ、京子ちゃんは」

「いや、さすがに今回は駄目かもって思った」

 言葉の割には気軽そうにそう言ったのは武蔵野さんである。今着いたばかりといった様子で、立川さんと京子ちゃんにも挨拶をして隣の空きベッドの上に腰を下ろした。

「昨日まで自分がどんな顔で寝てたか知ってる? 誰かに首絞められてるみたいな顔してたよ」

「立川さんなら喜びそうだなぁ」

 抗議どころか立川さんは強く頷いた。もはや取り繕う必要もないということか。

「それはそうと、福生さんは? あっちは目は覚めたの?」

 そう訊くと、三人は顔を見合わせてから無言の会議が始まり、ややあって立川さんが代表として口を開いた。

「まだよ。それこそ二度と起きないかもしれないって」

「あっちはすごく安らかな顔で寝てるよ。白雪姫かと思っちゃった」

 白雪姫は継母の毒リンゴで命を落としかけたが、福生さんは自ら生み出した『福生スペシャル』で彼岸と此岸の境目で眠っている。小人の僕は、どういう気持ちで自ら眠った彼女に寄り添えばいいのだろうか。




 念のためにもう一日入院するということになり、立川さんと武蔵野さんは早々に帰り、京子ちゃんは様子を見に来た伯父に連れられていった。一人になった僕はテレビカードを買ってぼんやりと病室のテレビを見つめていたが、福生さんのことが気になってテレビの内容は頭に入らなかった。

 スリッパを引っ掛けて夕方の病院の中を彷徨い歩く。一般外来の診察時間が過ぎれば、病院とはなんと静かなものか。売店は患者向けに開かれているが、それさえもどこか心寂しい。切れかけた蛍光灯がやかましく点滅をしていて、僕にはそこへ近寄ることもできなかった。

 僕の足は福生さんのところへ向かうのを避けていた。彼女の伯母がいるかも知れないから、というのはもちろん。福生さんがまだ眠ったままという現実に向き合った時、僕はどうしていればいいのか判らないのだ。

 しかし病院も歩き尽くし、いよいよ福生さんの病室前までやってきた。閉ざされた扉には鍵はなく、扉は軽く横に開く。福生さんの伯母はいない。ベッドの上には福生さんが横になっていて、腕には点滴が繋がれていた。その管の中を、ブドウ糖を含んだ生理食塩水が眠くなりそうなほどゆっくりとした間隔で、一滴一滴落ちて行く。その水滴に睡眠薬でも入っているのではないかというほどに福生さんの寝顔は穏やかで、目覚める兆しはなかった。

「……福生さん、あれは自分で飲むために作っていたんだね」

 囁くように語りかけるが、その真っ白な髪が揺れることさえない。ただ横たわっているだけ。限りなく死に近い生。

 その顔を覗き込んでいると、吸い込まれそうになる。綺麗な肌は普段よりもより白く、あらゆる穢れを吸い寄せてしまいそうな危うさがあった。人の命までも奪ってしまうかのような、恐ろしいまでの白さ。触れることさえ躊躇う美、福生美空。

 福生さんが目覚めないのは、彼女にとってこの世には未練が何もないからだろうか。ずっとこの世界から逃げ出したくて、その夢が叶いつつあるからだろうか。もしそうだとするなら、僕にそれを止める権利はない。福生さんの命は福生さんのもので、僕のものではない。ただ、もしそれ以外の選択肢があったのにこの道を選んでしまったのなら、僕はどうか彼女にもう一度選択をしてほしかった。

「福生さんは楽しくなかった? ほんの半年の間だったけどさ、僕は福生さんと、みんなといて楽しかったよ。マゾとむっつりと猫殺しとイカレ男と比較的まともな従妹の五人でさ、結構楽しかったでしょ?」

 少しだけ――――福生さんの瞼が動いた気がした。何かの見間違いかもしれないが、ほんのわずかに、芝生の上を小さなバッタが跳ねて草が揺れるくらいわずかに動いた気がしたのだ。

「もしかして」

 僕はそう口にして、しかし次の言葉は飲み込んだ。黙って部屋を出て、売店で梅干し入りのおにぎりを買い、部屋に戻って僕はそのおにぎりを真っ二つにした。中から取り出した梅干しを指でつまみ、とても酸っぱそうなそれを、眠っている福生さんの唇に一息に押し込んでみた。

 目蓋と、口元が動いた気がする。しかし、僕はあえてそれに気付かないふりをして「気のせいか」なんてわざとらしく言ってみた。

「起きてるような気がしたんだけどな……気のせいかな……そうだ、立川さんにあのジョロキアソースとかいうめっちゃ辛いのを持ってきてもらおう! きっと自分のいろんなとこに塗って楽しむために持ってるはず! じゃぁ、早速電話して」

「ちょっと、青梅くん。あなたいい加減にしなさいよ」

 飛び起きた福生さんは、僕の手から携帯電話を奪い取って口に入っていた梅干しを手の上に吐き出した。よほど酸っぱかったのだろう、口を尖らせよだれを袖で拭き、何度も口の中をもごもごと動かしていた。

「いつから起きてたの、福生さん」

「……昨日の夜中。点滴に書いてあった日付が進んでたから寝たきりになってたのに気付いたわ」

「なんで眠ったフリしてたの」

 その質問に、福生さんは俯いて黙ってしまった。僕は問い詰めるようなことはせず、ただただ安堵に深い溜息をひとつ吐いた。

「福生さん、僕もみんなもすごく心配したんだけど」

「そう」

「なんか言うことあるんじゃないの?」

 福生さんは視線をこちらに向け、なんとも申し訳なさそうな顔をしてこう言った。

「お腹すいたわ……」




■  ■




 医者が心配するほどの後遺症はないようであったが、福生さんはもうしばらく入院生活を満喫することとなった。というのも、福生さんの伯父はこの一件によって福生さんへの虐待が判明し、児童相談所やら警察やらあらゆる組織へ書類がぐるぐると回っているらしいのだ。そのごたごたが解消されるまで――――とはさすがにいかないが、少なくとも今後の生活をどうするか決まるまでは病院にいた方が都合がよいということであった。

「決してテストが嫌だとか、そんなんじゃないのよ?」

 そう言った福生さんの顔はどこか活き活きとしており、見舞いの品であるメロンを一切れ口に放りこんだ。僕は来る学年末テストの勉強をここでしようと思っていたのだが、どうやら福生さんはテストが終わるまで入院する気でいるらしい。

「学年末テストはともかく、高校入試どうすんの。進学しない気?」

 同じく福生さんに勉強を教えるというつもりでやってきた立川さんがそう訊くと、福生さんは自信ありといった顔をして胸を張った。

「なにも進学だけが全てではないわ」

「あ、中卒で終わる気満々だ」

「心の傷が癒えないから高校は無理。就職もね。ザンネン」

「ホントにそう思ってる?」

 僕の問いに福生さんは答えない。しかし、僕も福生さんのそれがどこまで冗談なのかは判らなかった。本当は、本当に福生さんは進学できないほど心の底から傷ついていているのかも知れない。それがどれほどのものかは判らないが、少なくともそれは僕らが判断できるものではないのだ。

「まー、福生さんはいいよ。美人だからすぐ結婚して主婦になればいいし」

 地元高校のパンフレットを読み比べながらそう言った武蔵野さんは手にしていたパンフレットを福生さんの膝の上に放って突っ伏した。どうやら寝不足のようであるが、恐らくは進路のことで親と話し合っていたのだろう。

「あー、都心の高校行きたかったなぁ……私の一人暮らしプランが……」

「歩が一人暮らしぃ? 家事とかできるの?」

「それくらいやりますとも。ま、反対されたんでそれもまた夢に終わったけど」

「それが賢明ね。アパートなんかじゃ犬とヤってたら通報されるし」

「ん、んなこと誰がするかいっ」

 一瞬の躊躇いを感じたのは気のせいということにしておこう。生物部唯一の良心たる僕が身内の恥ずかしい性癖について心の奥へしまっていると、話題の矛先が突然こちらへと向いた。

「青梅、あんたはどうすんのよ」

「何が」

「今の話の流れでいったら進路に決まってんでしょ。どうすんの。こっちの高校受けるの?」

「あー、東京戻るよ。いつまでも伯父さんに迷惑かけらんないし」

 えっ、と驚いた声を出したのは武蔵野さんであった。そんなにこの土地が気に入ったように思っていたのだろうか。たしかに気に入ってはいるが、未来永劫骨を埋めるというほどではない。それに、僕ももう大丈夫であることを証明しなければならないのだ。他でもない自分に。

「そっか……青梅くんは東京戻っちゃうのか」

「うん。伯父さんが口座に親の遺産を丸々放りこんでくれるって話だから、それを切り崩しながらアルバイトもして一人暮らしかな。伯父さんはずっといてもいいって言ってくれたけど」

「まぁ、あのままだと京子ちゃんが我慢の限界きそうだしねぇ、色々と」

 それも問題の一つなのである。日に日に京子ちゃんのアタックは強くなっており、このままではお互いによくないのではないか、と思っているのだ。せめて京子ちゃんは高校生になってから冷静に考えてほしいものである。きっとその頃には素敵な出会いの一つでもあることだろう。多分。

「っていうか、福生さんこそどうすんの。ここにそのまま住むの?」

 武蔵野さんから福生さんへ。しかし福生さんの視線はこちらを向いていた。ああ、嫌な予感がするなぁと思ったが、それも悪くないかもしれないと思う自分も同時にそこにあった。

「そうね。なんなら青梅くんの家にでも居候しようかしら」

「うわ、不純異性交遊。同棲よ。淫行だわ」

 げぇ、と舌を出した立川さんに、「あんたが言うな」と三人分の声が揃った。

「そういえば、生物部大丈夫なの? もう部員は京子ちゃんだけでしょ」

 ふと思いついた疑問を立川さんに訊ねると、その答えはあっさりと返ってきた。

「あー、多分消滅ね。あれだけの面倒見切れないでしょ」

「あの動物どうすんの」

「小さいのは配る。大きいのは引き取り手を探す。それでも駄目なら……校長がなんとかしてくれる」

「え、ちょっと待って。その『なんとかする』って、それ食材にするとかそんなんじゃないよね……?」

「まぁ、その辺は、ね。信じるしかないわ」

 信じられない。少なくともカメ類は全滅だろう。イノシシもすぐに鍋にされてしまうかもしれない。

「……イノシシとポニーは山に放そうか」

「ちゃんと引き取り手探しておくから安心なさい」




 立川さんと武蔵野さんが帰った後も、僕は病室に残っていた。福生さんは僕が持ってきたこの辺りの県立高校のパンフレットを読みながら、医者に腹が痛いと言って貰った整腸剤を飲んでいる。今日初めて知ったことだが、福生さんは普段から胃腸が弱いらしいのだ。

「ねぇ、福生さん」

 錠剤を飲み込んだ福生さんに僕はそう声を掛ける。福生さんはこの先に続く言葉を予想していたのか、僕の顔を見ずにベッドへ視線を落としてしまった。

「福生さんさ、どうして『福生スペシャル』を自分で飲んだの?」

「それは、どうして『あの人』に飲ませなかったのか、ってこと? 青梅くんが駄目だって言ったんじゃないの」

「まぁ、そうなんだけど。でも自分でのむこともないでしょ? 自分で飲むくらいなら相手に飲ませるでしょ」

 数秒遅れで自分の言葉を整理しているとなかなかとんでもないことを言っていることに気付くのだが、もはや訂正などはしない。福生さんはちらと僕の顔を見て、すぐに目を伏せた。

「……最初から、自分が飲むためのものだったから」

「最初から?」

 そう、と福生さんは頷いた。

「長く苦しまずに死ねるように、殺虫剤とかいろんなところで集めた毒物を混ぜて作った『福生スペシャル』。ネットとか図書館とかで毒物について調べたりして生み出した、私を殺すためだけの毒薬」

 その情熱を別のことに活かせないだろうか。それとも、活かすことを考えられないほど追いつめられていたのだろうか。

「絶対に死ねるように猫で実験してたの?」

 ゆっくりと頷く。僕もそれに続くように小さく頷いた。

「……なんのための犠牲だったのかしらね。私はまだ、こうして生きてしまっている」

「たとえ福生さんが計画通り死んだって、死んだ猫は嬉しくもなんともないし、蘇ったりもしないよ」

「そうね……やっぱり、あの人に飲ませるべきだったわ。同じ人間だもの、それが一番のはずなのに」

「どうしてそうしなかったの? いや、そうすべきだったってわけじゃなくって……でも、僕はそこが気になるんだ。なんで福生さんは『自分を殺す薬』を作ったのに、『相手を殺す薬』は作らなかったの? 僕と福生さんの価値感が違い過ぎるからなのか、それとも僕が何か重要なことを見落としているのか判らないけど、僕にはそこが解らないんだ」

 福生さんは僕の顔をじぃと見つめていた。病室の外はこの世界から切り離されてしまったかのように静かで、差し込む西日にさえ音を見つけられそうなほど。彼女の頬を伝ったのは汗か涙か。しかし、その顔は歪に笑っていた。

「だって、意味ないんだもの。あの人を殺したって、きっとまた私は幸せにはなれない。おばあちゃんが私を殺すかも。殺された方がマシってことされるかも。その時におばあちゃんも殺したとして、その次は? 本当に二人も殺した私は、どうやってマトモに生きればいいの?」

 僕には答えられない。その答えを持っていないし、これから一生かけてもその答えを得ることはできないだろう。僕は過去の悲しみから壊れることで逃げ、福生さんは未来の悲しみから逃げるために死を選んだ。

「どうせいつか人は死ぬ。誰も永遠に生きはしない。だったら、せめて私ができる復讐は、私が死んだことを永遠に背負わせてやることだわ。生きている内に苦しんで、その後で死ねばいい。私一人のために少ない人生の残り時間を無駄にすればいいんだわ」

 福生さんの声は震えていた。今にも決壊しそうな堤防のように、冷静さにしがみついているように。それでも、今の僕は無神経の塊だ。無神経なのに塊というのもおかしな話だが、言うなればドーナツの穴と同じだろう。

「どんな理由があっても猫を巻き込んでいいってことにはならないよ。福生さんもまた、猫を殺したことを背負ったまま最期を迎えることになる。もう絶対に下ろせない事実を背負って、これからずっと生きて行くんだ」

 僕のその言葉を引金に、福生さんは声を押し殺して泣き出した。でも、と僕が言葉をつづけても泣き止まない。肩に手を置くと、その肩はとても小さく、力を入れれば砕けそうなほど華奢であることに気付かされた。

「でも、ほんの少しでも軽くすることはできるかもしれない。野良猫を引き取ったり、犬でもいいけどさ。でも、まず手始めにハムスターなんかどうかな? ペットショップで買った、あのハムスター」

 福生さんは泣きながら小さく頷いた。福生さんが殺したと言ったあのハムスターを――――殺したと偽って生物部のハムスターにこっそり混ぜていたそのハムスターを飼うと、震える声で口にした。


 不思議なことに、僕の記憶はそこで途切れていたようであった。精神的ストレスが掛っている場面でもなかったはずなのに、気付いた時には僕はもう自室のベッドの上だったのだ。

 どうやって帰ってきたかも判らない。気を失って、福生さんが京子ちゃんに連絡を入れて伯父が迎えにきたのだろうか。それともタクシーに乗せられたのか。あるいは、自力で帰ってきたのに憶えていないだけなのか。

「おはよう、カズにぃ」

 困惑している僕を見つめる視線が一つ。ベッドの脇に座り込んで、縁に手を掛けるようにしている京子ちゃんはどういうわけかあまり機嫌がよくないらしい。

「おはよう、京子ちゃん。あー、ところで、病院からの記憶がないんだけど」

「そうだろうねえぇ」

 声にどこか刺々しいものを感じる。これは間違いなく原因を知っているといった顔だ。

「もしかして、京子ちゃんが迎えに来てくれたのかな」

「迎えに行ったというか、カズにぃがいると思って病院行ったら現場に居合わせたっていうか……と、とにかく! 憶えてないやつはノーカンだから」

 なんのカウントの話かは見えないが、どうやら僕が意識を失ったことは確かであるらしい。さて、一体なにがあったやら。

「福生先輩も可哀想といえば可哀想だけど、カズにぃに手ぇ出すのはやめてほしいな……」

 何やらぶつぶつと呟きながら不機嫌そうな足取りで京子ちゃんは部屋を出て行った。

 僕は解らないなりに頭を悩ませ、とりあえず福生さんに直接何があったか訊くことを思いついた。その翌日から福生さんの態度が若干冷たくなったような気がしたのだが、きっと気のせいだろう。




■  ■




 本当に短い間であったが、寝泊まりしていた部屋を片付けていると若干の寂しさがある。ここで得た数々の思い出はそう簡単にどこにでもあるものではなく、わずか半年でありながら数十年を過ごしたかのような気さえしていた。

 大きな家具などはないので、衣服などをダンボール箱に押し込んでいく。壊れやすいものなどはないので、とにかく入ればいいと押し込んでいく。ここへ来た時のダンボールにそのまま詰めているが、中にはまだとり出してもいないものもあった。

「……あっ」

 その中の一つに、写真立てがあった。僕の両親が写っている写真が収められた写真立て。ここへ来た最初の日に、箱から出さなかったものの一つ。

 改めてその写真を見つめると、あの日には感じなかった何かがぼんやりと胸の中に浮かんでいるような気がした。それがなんなのか判別がつくほど劇的ではないけれど、それでも確かに何かを感じることができたのだ。




「なんだか寂しくなるわね」

 あまりその言葉通りといった風ではなく、立川さんは形式的にそう言った。それは別に薄情というわけでもなく、立川さんも近いうちにこの村を去るからである。

 僕は電車の時間を気にしながら、背後の開放的な駅舎に電車がまだいないことを目視で確認し、立川さんの言葉に何度か頷いた。

「でも、一番会いやすいのは立川さんだよね。横浜でしょ?」

「そ。横浜の外れの方だけど。親戚が住んでるからそこに下宿させてもらうつもり」

 いいなぁ、とその隣で武蔵野さんが羨ましそうに漏らした。武蔵野さんはこの村から一番近い高校へと進学することが決まり、しばらくは残留することとなったのだ。

「私も大学は首都圏にするよ」

「東京じゃなくて首都圏」

「東京の大学って頭よさそうだし」

 きっと武蔵野さんの頭には東京大学の名前しか浮かんでいないのだろう。探せば入れそうなところはあるかと思うが、しかし都道府県を大学の志望基準に含めるのはあまりいいこととは思えない。

「私もカズにぃと同じ高校受けるから、その時まで待っててね……」

 京子ちゃんはまるで今生の別れかというほどに目を腫らして涙声でそう言った。本当に有言実行するのではないかと思わせるが、そうなったらいよいよ腹を括るべきなのかもしれない。

「……福生さん、こないね」

 僕が心の中で呟いたその言葉を、代わりに武蔵野さんが口にした。ここにはあの眩しいまでの白髪の姿はなく、湿り気を帯びてきた春の風が虚しく吹いていた。

「うーん、こないだ福生さんからあらゆる問題が解決したからもう大丈夫だって聞いたんだけどなぁ」

「寝坊してるんじゃない? あんまりそんなイメージないけど。咲、メールしたんでしょ?」

 武蔵野さんが立川さんにそう訊いて、立川さんは自分の携帯電話を開いて頷いた。そういえば、福生さんはこの期に携帯電話を買ったらしいのだが、僕はまだそのメールアドレスどころか電話番号さえ知らない。こちらの番号を教えようと思ったのだが、色々とどたばたとしていていつの間にか失念してしまっていた。

「ちゃんと間に合ってるわ、ってメールにあるけど」

「間に合ってねー」

 どこを見ても福生さんの姿はない。あの白髪を隠すことは容易ではなく、建物の裏などに隠れているならまだしも、こちらを確認できる位置にいればこちらの方が先に見つけるだろう。

 辺りを見回している内に、僕が乗るべき電車がホームへと進入してきた。僕は慌てて荷物を担ぎ、有人の改札を潜った。

「向こう着いたらメールするけど、一応福生さんによろしくって」

「頭ひっぱたいて伝えとく」

「あと福生さんのアドレス送って」

「わーったわーった」

 武蔵野さんが若干不安そうな顔でサムズアップするので、僕も同じように親指を立てて見せた。しばらく会うことはないかもしれないが、永遠の別れではない。世界は広くて狭い。同じ国なら、会おうと思えば会えるだろう。

 あまり余韻に浸っていると未練が残りそうなので、僕はホームに停車した車両にすぐに駆け込んだ。一番近いボックスシートの進行方向の席に座ると、なんだかもやもやとした気持ちが湧き上がった。

 これはなんだろうか。悲しみともなんともつかぬ、重く粘性の感情だ。もしかすると、これが未練というやつなのかもしれない。そして、それは恐らく福生さんへ向けてのものだ。

「福生さん……ちゃんとお別れしたかったな」

 窓の外を見ていた僕の心の呟きは口から漏れ出し、そして虚空へと消えた。誰が拾う事もない言葉。どこにも刻まれない言葉。そう思っていたのだが、それを聞いている者がいたようであった。

「あら、もうお別れのこと考えてるなんて気が早いのね、青梅くん」

 そう言って、がらがらと大きなキャリーバッグを引き摺って車両の奥から歩いてきたその人は、やれやれと口にして僕の対面に座った。窓から差し込む光がその髪に――――真っ白な髪に反射して眩しい。そんな髪を持った人間を、僕は二人と知らなかった。

「福生さん!?」

「他に誰に見えるっていうの?」

 ちょっと暑いわね、と福生さんはショルダーバッグから緑茶の入ったペットボトルを取り出して一口つける。僕はなんで福生さんが最初から電車に乗っていたのかが不思議で声も出なかった。

「福生さんいつからここに? なんで?」

「青梅くんが宇宙へ旅立つアストロノーツよろしくサムズアップ決めてる間に乗ったのよ」

「ってことは、最初からホームにいたの?」

「屋根を付けるべきね。春の日差しとはいえ暑かったわ」

 はい、とペットボトルを渡されたので、喉が渇き始めていた僕は反射的にそれを一口飲んでしまった。そうしてから間接キスという言葉が頭をよぎったが、今はそれどころではない。

「あっ、福生さんも今日引っ越しなんだね」

「まぁ、そうなるわね」

「どこに住むの?」

 そう訊くと、福生さんはきょとんとした顔で僕を見た。

「青梅くん、どこに住むの?」

「質問に質問で返すのはよくないと思うなぁ」

「そんなこと言ったって、私は知らないんだもの」

 なんだか話が噛み合っていないような気がする。きょとんとしながらもどこか福生さんが楽しそうなのがその証拠だろう。

「……福生さん、どこに住むか決まったんだよね?」

「うん」

「それって、どこ?」

 僕は訊く。福生さんは首を傾げる。

「さぁ? どこかしらね。東京っていうことは確かなんだけど。そろそろ教えてくれないかしら、青梅くん?」

 ああやっぱり、と僕は肩を落とした。けれど、心のどこかでそれを喜んでいる自分もいることにも気付いていた。少なくとも退屈はしないだろうなと、前向きに考えよう。

「というわけで、私は今日から青梅くんの専属家事手伝いとなるわけだけど。まぁ一人暮らし初心者には学業と家事の両立なんて難しいでしょう? 丁度いいんじゃないかしら」

「もはや一人暮らしではないよね」

「別に、青梅くんが野宿しろと言うならそうすることもやぶさかではないのだけれど。でももしそうなら私は青梅くんを心の底から軽蔑するわ。心に傷を負ったか弱い女の子を家の外に放り出すなんて! 青梅くんの鬼! 悪魔! 色情魔!」

「まだ追い出すなんて言ってないんだけど」

 そんなことができるはずがない。僕はもう、すでにこれからのことが楽しみとなってきているのだ。やはり彼女らの言うとおり、僕は相当おかしいのだろう。

 ドアが閉まり、電車はゆっくりと走り始めた。福生さんはずっと僕が支払うべき福生さんの給与について話していて、僕は頬が疲れるまで苦笑いしながらそれを聞いて楽しんでいた。長い線路の上で、疲れ果てて眠るまで。



"Where do you go for the white cat?" Closed...

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白猫の行方 isa @coldminute

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