第8話:白猫の最期の…
廃墟の裏には猫の死体。ひどく苦しんだのだろう、のたうち回った形跡が地面に刻まれ、口と目と耳、そして尻から血が溢れていた。この残虐行為の主の姿はここになく、もう何日も顔を見ていない。
あの波乱の旅行から帰ってからというものの、福生さんは学校を欠席し続けていた。既に冬休み三日前だというのに連絡の一つもなく、部活に顔を出すこともない。
「このまま卒業式まで来なかったりして」
という武蔵野さんの冗談も冗談に聴こえず、僕は何度か彼女の家の前まで行こうかと思ったのだが、しかしあの時の――――福生さんの家の前で会った時のあの顔を思い出すと、それもあまり得策ではないように思えたのだ。
あの旅行から変わったことと言えば、それは僕の生活の中にもあった。京子ちゃんの一挙一動が気になりだし、その視線が常にこちらを注視していることに気付いたのだ。
ただでさえ居心地の良くなかったこの家にさらに居辛くなった僕は、生物部の活動が終わるや日暮れまで村中をぶらついて時間を潰して過ごしていた。
歩きながら考えていたのは福生さんのことばかりであった。
猫が死んでいることから、家の外に出ているのは間違いない。しかし、学校にも来ないで一体何をしているのだろう。
そこまで考えて、福生さんも家に居場所がないのだということに気がついた。家にいても、あの恐ろしい男がいるだけで福生さんには何もいいことがない。だから家の外にいる。猫殺しもその暇つぶしのためだろうか。
もうすぐ年が変わる十二月の終わり。だというのにまだ歩いたことのない所がこの村にはたくさんある。終業式を終えた後、僕は福生さんの家の周囲を散策してみることにした。
村の人間も滅多に寄り付かない荒んだ地域。そのさらに奥には、手つかずの自然がそのまま残されていた。護岸整備されてない自然のままの小川が流れ、砂利道の両脇の枯れ草は腰ほどの高さまで伸び放題になっている。畑もなければ家もない。同じ村の中でも、まるで別の土地に来たような錯覚をしてしまった。
僕は小川の流れと反対の方向へと歩いた。二十分ほど歩いて砂利道は砂利の山道となり、やがて大きな砂防ダムに辿りついた。
砂防ダムの上流側は砂利で埋まってしまっていて、すでにダムの役を果たしてはいなかった。この川に流されたらそのまま放りだされて死んでしまうだろうなとぼんやりと考えながらも、僕は四つ這いになってダムの下を覗き込んだ。二十メートルか、それ以上の高さがある。
「そんなことしてると危ないわよ」
突然の声に思わず奈落へ身を乗りだしそうになったが、寸でのところで僕は此岸に留まった。声の主はジャージ姿でリュックサックを背負い、呆れたような顔をして立っていた。
「青梅くんは自殺志願者だったの?」
「いや、死ぬ気はなかったよ。落ちたら死ぬとも思ってた。でも、『落ちたら死ぬ』のが危ない、っていうのがよく解らなかったかも知れない」
「青梅くんは本当にどうしようもないわね。とりあえずそこから離れて」
言われるがままに崖の淵から離れ、改めて福生さんに礼を言った。
「ありがとう。あのままだとうっかり落ちてたかも」
「その原因が私じゃなければいいんだけど」
思ったより元気そうな福生さんに僕はほっと胸を撫で下ろした。そして、同時に当然の疑問も湧き上がった。
「ところで、福生さんはどうしてここに?」
「それはこっちのセリフよ。こんな所までどうしたのかしら? まさか迷子になったとか?」
楽しそうにくすくすと笑う福生さん。しかし、あの温泉での笑顔とは違って、どこか造り物のように思えてしまう。心の底から楽しんでいる、といった風ではない。詰まらないわけではないだろうが、何か隔たりを感じてしまうのだ。
「こっちに来れば福生さんがいるかもしれないって思ったから」
「……なら、私がいることに驚くのは少し違うんじゃないかしら」
そういえば、と僕は納得して頷いた。福生さんは肩を竦めてジャージのポケットに両手を突っ込んだ。
「で、福生さんはなんでここに?」
「別にいいでしょう?」
「気になるなぁ。学校休んでここで何してたのか、すごく気になる」
「あら、嫌味を言うなんて進歩したわね。でもずっとここにいたわけじゃないのよ? ただ、今日は呼び出されただけ」
「呼び出された? 誰に?」
そう訊くと、福生さんは少し難しそうな顔をした。
「……知らないなら、教えないわ。秘密の話だから」
「ふぅん」
とにかく、『福生スペシャル』の大規模な実験でないことに安心し、福生さんが病気とかではないことを確認した僕は、短く分かれを告げて山の奥の方へ向かった。
「そっちは危ないよ」
福生さんの忠告に僕は頷き、しかし奥へ行く。道がある内は大丈夫だろう。
途中からかなり道が険しくなったので、僕はそこから引き返すことにした。とてもコンビニへ買い物へ行くスタイルで歩く道ではなく、怪我をすることは目に見えていたからだ。ちなみに、この村ではコンビニへ買い物へ行くスタイルにはさほど意味はない。コンビニがないからだ。
どうしてこの村にはコンビニがないのか、その生活に慣れたことに対する適応性などについて考えながらさきほど歩いた道を下っていると、木々の揺れる音と流れる水の音しかしない静かな森の中に、どこからか甲高い悲鳴が聴こえてきた。僕はこの山に福生さんがいたということを思い出し、転びそうになりながら山道を駆け降りた。
「福生さん!」
彼女は砂防ダムの淵にうつぶせになっていた。足をやや広げ、何か踏ん張っているように見える。
「青梅くん手伝って! 手を貸して!」
いつになく必死そうな福生さんに驚きながらも、僕はその傍まで駆け寄った。そして、福生さんが下へと伸ばした手の先にあるものを見て、僕は愕然とした。
「き、京子ちゃん!? なんでこんなことになってんの!?」
「青梅くんいいから手伝って!」
言われるがまま僕も手を伸ばして京子ちゃんの腕を掴むが、日ごろの運動不足が祟ってあまり助力にはなっていないようだった。人間一人を持ち上げることは大変なんだなぁと思いながらも手に痺れを感じ、自分の体が徐々に引きずり込まれて行った。
「カズにぃ、手を放して。このままだとみんな落ちちゃう」
「そんなこと言われたって、何がどうなってるのかさっぱり分からないままっていうのはよくないって!」
自分でも何を言っているのか判らない。ただ、これ以上手から力が抜けないようにするので精いっぱいだ。
「全部私が悪いの。自業自得ってやつ。だから、放して」
そう言う割には、京子ちゃんの手は震えていた。絶対に放さないでと、体がそう訴えていた。
「今度は、放さないから……」
そう言ったのは、隣で歯を食いしばっている福生さんだった。今度は、とは一体どういうことなのか――――思考を取られていると、またゆっくりと体が滑った。
「今度は、今度こそは絶対放さないから!」
ふっと、体が浮くような感触があった。福生さんが立ち上がり、バランスが崩れて奈落へと落下を開始したのだ。
もうダメだ――――色々なことが走馬燈のように頭を駆け巡り始めたその瞬間に、滑り落ちそうになった体は再び停止した。立ち上がった福生さんはそのまましゃがみ込んで、まるで綱引きのような姿勢になっていた。
僕も福生さんが後ろに体重を掛けた隙に同じ体勢になる。すると、二人で同時に後ろへ全体重を掛けると京子ちゃんの体は面白いくらい簡単にダムの淵まで引きずり上げることができた。
「――――つまり、ダムを覗きこんでた福生さんを驚かせようとしたら逆に落ちそうになった、ってこと?」
僕の怒りを感じたのか、京子ちゃんは俯きながら頷いた。福生さんは砂防ダムのコンクリートの上で大の字になって肩で息をしている。僕も腕が二センチくらい伸びたのではないかという痛みが肘にあり、しばらく荷物を手で持つ気は起きないだろう。
「もうそんな危ないことしちゃダメだよ?」
「そこはもっと怒るとこだと思うよ、カズにぃ」
「怒られたいの?」
「うん」
満面の笑み。この反応をおかしいと思う僕の頭が壊れているのか、それとも彼女が壊れているのか、はたまたその両方か。
「カズにぃに怒られると嬉しいよ。だって怒るってことは私のためを思ってくれてるんでしょ? それなら怒ってる瞬間は私のことを考えてくれてる。私のことだけを見てくれてる。私のためだけに私を叱ってくれる。私がカズにぃの中で特別な存在になるの。私のことを見捨てずに叱ってくれるの。だから嬉しいよ。私、すごく嬉しい。たとえ一瞬でもカズにぃの時間を独り占めできるなら、私はどんなに叱られても構わない」
「なんか、かえって怒りにくいなぁ」
困り果てた僕は何度も福生さんに視線を送るが、福生さんは神妙な面持ちでどこか別の方を向いており、何か深く考え事をしているかのようでもあった。
「そういえば、福生さん、さっきのはどういうこと? 今度は、って前もあったの?」
ふとつい先ほどの福生さんの言葉を思い出したので素直に訊ねてみると、彼女は明らかに僕を避けて顔を背けた。
「もしかして、福生さんの噂に関係ある?」
「……そうよ」
観念したのか、それとも本当は言いたかったのか、福生さんは不機嫌そうな声でそう小さく返事をした。とりあえず僕らはダムから離れ、大きな岩の上に座って一息ついた。福生さんは返事をしたことを後悔しているのか、気の進まなそうな顔をしていた。
「で、何があったの?」
僕が追い立てるように訊くと、明らかに不満そうな視線を僕に向け、ややあって重たい口をゆっくりと開いた。
「概ね噂通りよ。私のせいでクラスメイトが一人死んだって、それだけのこと」
「その言い回しだと、殺してはいないってことでしょ」
福生さんの表情は、日が暮れるかのようにゆっくりと暗くなっていった。それからしばらくしても福生さんは口を開こうとはせず、僕はそれ以上のことを訊いてはいけないのだと悟った。
「……もう帰ろう。京子ちゃんには強く言い聞かせておくから。また、学校で」
福生さんは小さく頷いた。京子ちゃんは反省しているような表情をしつつも、どこか嬉しそうでもあった。
「そういえば、福生さんをここに呼んだのって京子ちゃん?」
そう訊くと、京子ちゃんは少しの間考え込む仕草をして、ややあって強く頷いた。
「そう。ちょっと相談ごとがあったんだけど」
「なんの相談?」
「それは秘密。でも、もうわかっちゃった」
京子ちゃんは僕の前を駆けて山を降りて行った。僕は小さくなるその背を見つめ、福生さんのところへ戻るかどうか悩んだが、京子ちゃんを野放しにしておくのは良くない気がしたのでそのまま帰ることにした。
僕は、僕だけが壊れているのだと思っていた。ここにきて彼女らに出会うまで、僕だけがおかしいのだと。けれど、それは違っていた。福生さんには何か後ろめたいものがあって、立川さんはどうしようもない変態で、武蔵野さんもちょっと変わった性癖を持っていて、京子ちゃんも必要以上にポジティブでアクティブであることがわかった。
僕は家に帰るまで、これからのことをずっと考えていた。そのつもりだった。しかし、僕が考えていたのは、概ね福生さんのことだけだったのだ。
家に帰っても、あの砂防ダムでの一件のことは伯父や伯母には伝えなかった。強く言い聞かせると言っておきながら未だ会話すらなく、僕は悶々としながら福生さんのことを考えていた。彼女の噂。家族殺しと、クラスメイト殺し。どうやらクラスメイト殺しの方は何か周囲の誤解があるようだけど、家族殺しの方はどうなのだろうか。
先ほどから十分に一回の頻度で叱りにこないのかと確認してくる京子ちゃんはしばらくお仕置きとして放置し、彼女自身のことや、彼女の周囲に集まる死の話題についてベッドの上で深く考えることにした。
まずは彼女のことだ。彼女の白い髪は生まれつきのようだが、どうやらアルビノとはまた少しだけ違うらしいということ。肌も白いには白いが真っ白というほどではなく、極端に虚弱というほどでもない。
彼女は今、彼女の親戚のアパートに住んでいる。以前に出会った彼がそうだろうが、伯父か叔父か、はたまたもっと遠縁かは判らない。一つだけ、頭と察しが悪い僕でも解ったことは、彼はあまり優しい人間ではないということだ。
■ ■
「それじゃぁ、カズにぃ……私のこと、絶対忘れないでね……」
そう言って京子ちゃんがまるで家出するかのような大荷物を持って出て行ったのが三日前のことである。伯父によれば、どうやら毎年夏休みと年末の四日間は東京のお台場へ行っているらしく、行きの二倍の荷物を抱えて帰ってくるのだとか。
一体何をしに行っているのか具体的に伯父に訊ねてみるが、どうやら口止めされているらしく数度深く頷くだけであった。毎年のことであるので危険なことではないと思われるが、遠い地でトラブルに巻き込まれないかと少し心配ではある。帰りは今晩、年が変わるかどうかぎりぎりの頃らしい。
そんなこともあって想像以上に退屈な大晦日となりそうだったが、それを知ってか知らずか丁度良いタイミングで年越しパーティーのお誘いの電話があったのであった。あろうことか福生さんから。
まさかあの福生さんから人間的繋がりを重んじる催しに誘われるとは思ってもみなかった。これは福生さんの人類としての大きな一歩であると痛感しつつ、夜まで待ち切れぬ気持ちで待ち、日が暮れてから会場である生物部のプレハブへと向かった。
僕はてっきり、普段昼食をとっている動物がいない方のプレハブで開催するものだと思ったが、そこは今は運動部の部室改修による荷物の一時預かり所と化していた。その時になってようやく思い出したが、その条件を飲まなければ卒業までエアコンを止めると脅されたと武蔵野さんが言っていたような気がする。
そうであればと動物を飼育しているプレハブの中では一番スペースのあるカメなどを飼育している方へ行ってみたが、しかし部室の中を覗いた僕はもう早速家に帰りたくなっていた。なぜならば、そこにはすでにこの地上で最も面倒な『酔っぱらい』という存在が、福生さん相手に絡んでいたからだ。
冬休みだというのに白衣を着込み、大吟醸の一升瓶を抱え込んで、何が楽しいやら笑い、何が悲しいやら泣き、何が腹立たしいやら怒っている。僅か五分の間に喜怒哀楽のほぼ全てを披露する酔っぱらいのエキスパートに対して僕では荷が重いだろう。こんな過酷な状況こそ歩くマゾヒズムこと立川さんにうってつけだろう。
「こんな状況は立川さんくらいしか耐えられない、とか考えてなかった?」
いつの間にか背後にいた立川さんの囁きに思わず声が出そうになったが、そうなってはあの空間に引きずり込まれるのは確実であるので、寸でのところでこらえた。
「いやでも、適材適所って言うでしょ?」
「いくら私だって、あんな酔っぱらいの妄言聞かされたって興奮しないわよ」
そうは言うが、すでに顔が若干緩んでいる。快感もない苦痛を味わっている自分を想像して快感を得ているのだろうと予想できるようになってしまったことは進歩と言うべきか、とにかくこの調子なら放りこんでも問題はないだろう。
「っていうか、日野先生も呼んだんだ福生さん」
「いや……多分、偶然捕まったって感じね。日野先生、実家帰りたくないって言ってたし」
「家族と仲悪いのかな」
「カレシに捨てられたからお見合いセッティングされてんだって」
どちらが可哀想かはこの際知るところではない。とにかく、福生さんの犠牲を無駄にしないように今はここを離れようと立川さんとアイコンタクトをとって、素早く踵を返し、
「あ、もうみんなきてたんだ」
武蔵野さんの明るくよく通る声によって、部室の中から魔が放たれた。
それからしばらくは酔っぱらいのよく判らない愚痴と説教を聞かされていたが、その燃え盛る炎の中へさらにアルコールを注ぐという立川さんのファインプレーによって猛獣はミドリガメの水槽に顔を突っ込んだまま眠りについた。やっと静かになったころにはさすがの福生さんもぐったりとしており、立川さんだけはどこか満足げな表情をしている。武蔵野さんは福生さん以上に疲弊を顔で訴えながら、その元凶の頭を何度か手で叩いた。
「ねぇ咲、カメかわいそうなんだけど」
「そうね。イノシシのとこにでも置いておけば?」
そうしよう、と武蔵野さんと立川さんは日野先生を二人掛かりで引き摺ってイノシシ小屋へと向かった。それではイノシシが可哀想だろうと思ったが、さすがにあんまりなので心の内に秘めておくことにする。
「はぁ、本当に酔っぱらいは嫌いだわ。この世に存在してほしくないものトップスリーの中で二位と大差をつけて堂々一位ってくらい嫌いだわ」
「ご愁傷様。でもこないだの旅行のとき飲んでたじゃん」
「あの程度は酔っぱらいの内には入らないのよ。普段の自分も忘れ、他人の迷惑も気に留めずに酔った勢いでさらに酔うのを酔っぱらいと呼ぶのよ、青梅くん」
そもそも未成年の飲酒についての是非について語るべきところであるが、共犯者同然であるためにその言葉には説得力はないだろう。
イノシシに日野先生を押し付けに行った二人が戻ってくると、さてと武蔵野さんが手を打って仕切り直した。
「まぁ、なんか色々あったけど……とりあえず今日はここで年越すまで騒ぐってことで」
「今更だけど大丈夫なの? 許可とってある?」
言いだしっぺらしい福生さんへ視線を送ると、福生さんは小さく肩を竦めて見せた。
「酔っぱらい教員のことを黙ってる代わりに、ってことでいいんじゃない?」
許可はとってないらしい。
「まぁ、どうせ教師だってみんな実家帰ってるだろうし? いいんじゃないの、別に。いざとなったらイノシシを解き放って有耶無耶にするわよ」
立川さんまでそんなことを言い出すので、僕は無事に年越しできるようにとどこかの神に祈りを捧げた。
「いいからお鍋すんでしょ? ほら咲、あっちに折り畳みのテーブルあるから持ってきて」
「ここではさすがにスペースないんじゃないかしら」
福生さんの懸念通り、立川さんがテーブルを広げようとしてもミドリガメの水槽が邪魔をしてテーブルを広げることはできない。一度テーブルを元に戻した立川さんは水の中で枯葉に混ざり冬眠しているカメを睨みつけ、
「歩、スッポン鍋って食べてみたくない? カメだけど」
「やめてよ! 咲まで福生さんみたいなこと言わないで!」
失礼ね、と福生さんは口を尖らせた。確かに、福生さんは殺しはせど食べはしない。どちらが残酷かは判らないが。
「そういえば従妹ちゃんはどうしたの?」
今になって気付いたというように福生さんがそう訊ねた。僕は聞いた通りに東京へ行っているということを告げると、なるほどと武蔵野さんだけが理解を示すように深く頷いた。
「武蔵野さん、京子ちゃんが何しに行ってるか知ってるの?」
「まぁ、予想はつく。けどこれは私の一存では口にできないなぁ」
「そんな口にできないようなことしに行ってるんだ……」
「あ、いや、別に悪いことじゃないけど、それを知られたいかどうかは彼女次第っていうか……って、それより鍋! どうすんの。外でやる?」
「せっかく屋根のあるとこに集まったのに?」
立川さんはそう言ってカメの水槽をどこかへ追いやろうとするが、重量もあるため持ち上げることもできない。そもそも、大して広くないこのプレハブの中で動かしても結局テーブルを配置することはできないだろう。
「邪魔なカメね……っていうか、冬眠してるんだから外に置いておけばいいじゃない」
「そんなことしたらみんな凍っちゃうでしょ。校長先生が食べちゃうかも知れないし」
「僕は前から薄々気づいてたんけど、多分校長先生って福生さんより危険だよね」
猫も食べてそうである。もしかすると、生物部の暖房使い放題を許しているのは、校長先生のための珍味を飼育させるためではないのだろうか。
「ハムスターも気付かない内に減ってたり」
「減ってはいないなぁ。なんか一匹増えてたりするけど」
武蔵野さんのその言葉に、何故か福生さんが視線を泳がせた。それに気づかぬ立川さんは、ハムスターのケージをそれぞれ見て、
「また繁殖したんじゃないの?」
「いきなり成体で生まれないよ。秋頃の話だけどさ、ゴールデンハムスターの肥え太り具合……もとい成長を記録してたんだけど、なんかいつもより一匹多くてさ。数え間違いかと思って何度も数えたんだけど、どう数えても一匹多くて」
「……それまでのカウントを間違えてたんじゃないの?」
福生さんはいかにも興味が薄いというようにそう言ったが、その表情からはどこか不安が見て取れる。はて、何か思い出すべくことがあったような気がするが、彼女らと関わるようになってから色々なことが多すぎて上手く思い出すことができない。この半年の間に人間の死にすら直面しているというのだから、実に濃厚な半年と言えよう。
「それより鍋でしょ、鍋! せっかく材料持ってきたんだから」
部屋の隅に置かれたビニール袋を福生さんの白い手が引き寄せた。中には豚肉や椎茸など真っ当な食材が詰まっており、可食に値しないものは見当たらない。
「へぇ、どれが猫肉?」
武蔵野さんには僕の心の声が通じていたようである。
「私のことなんだと思ってるの」
「なんだろう……ミステリアス美人?」
ミステリアスというには謎が深すぎる気もする。しかしそれ以外で形容しようとしても、あまりよい言葉は思いつかない。
とにかく、せっかく用意された普通の肉で鍋をするべく、寒さを堪えて外にテーブルを出すことにした。大晦日の夜、盆地のようになったこの村。風を遮るものは何もなく、満天の星空は大気の冷たさを物語っている。そんな指先が冷たく痛むような寒さの中、カセットコンロに手をかざしながらの年越しパーティーは始まった。
今回も用意されていた酒と日野先生が残した大吟醸で不良中学生たちはほどよく酔い、年が明けるまであと二時間というところで武蔵野さんと立川さんは眠ってしまった。外に寝かせておくと凍死しかねないので暖房の効いたプレハブの中に寝かせ、僕は福生さんと共に煮詰まった鍋をつまみながら夜空を見上げていた。
「大晦日くらい起きてられないのかしらね」
福生さんの吐く息は白い。コートを羽織って毛布を掛けてもまだ寒い。地面に敷いた断熱素材のマットでさえ、じんわりと冷たさが染み込んでくるかのようだった。
「まぁ、いいんじゃないかな。生きてればあと何十回か体験することだし、そんなに特別なことではないかもよ」
「そうかしら? 『その時』というのは、その時にしか存在しないんじゃないかしら。今日という日は永遠に特別で、その人生の中で比較できる日は二つとない」
「福生さん、今日はいいこと言うねぇ」
若干アルコールが入っていたので軽い調子でそう言ったが、福生さんの表情はどこか浮かないようであった。普段からそんな無益なことを口にしてるかしら、とでも言われるかと思ったがそれもない。ただ黙って手の内の紙コップの、大吟醸が写す星空を見つめている。
「……ねぇ、青梅くん。もし青梅くんが次の瞬間に死ぬとしたら、それは満足のいく死かしら?」
思わずシラフになるような『死』という単語に、僕は口を開いたままその続きを待ってしまった。それは何かの比喩で、あるいはあまり笑えないタイプの福生ジョークなのではないか、と。
「満足は……できないんじゃないかな。死んだら満足も不満もなにもないと思う、けど」
「そうなんだけど、そうじゃなくて……今の自分から見て満足かどうか。未練があるかどうかとか、いつ死んでもいい覚悟があるかとか、そういった話」
「まさか鍋に『福生スペシャル』を入れたとかないよね?」
やや声が上擦っているのが、自分の声を聴いて初めて判った。福生さんは僕の目を見ず、ただじぃとアルコールの水面を見つめている。
「そんなことはしないわ。だって、青梅くんは私の数少ない『お友達』だから」
「でも、それにしたって穏やかじゃない話題だね。これから新年を迎えるのに死の話なんて」
「これから新年を迎えるから、よ。そんな疑問を抱えたまま新年を迎えるの? 新しい年になったのに、そのもやもやを引き継ぐのかしら。それは酷いわ、あんまりよ。私は今年のことを全部置き去りにして、新しい心と体で新年を迎えたい」
「体も?」
そう、と福生さんは小さく頷いた。
「でも、それはできないでしょう? だからせめて心だけでも新しくしたい。これは譲歩なのよ」
僕の箸がすっかり汁を吸ったシイタケに伸びる。福生さんの箸が溶けかけた白菜に伸びる。周りは静寂さえ煩く感じるほど静かで、山の向こうが宇宙空間だと言われても信じるほどである。そこへ石を投げ込むように、福生さんは口を開いた。
「青梅くんは死にたいと思ったこと、ある?」
「それは本気で?」
「そう」
僕は『あの日』より前のことを思い出していた。『あの日』以降は、恐らくそう思ったことは一度もないからだ。しかし、それ以前の記憶を遡っても心当たりは見つからなかった。
「ない、と思う。少なくともそう思ったことを思い出せないよ」
「そうね。青梅くんには素晴らしい家族がいたし、今も素敵な親戚がいるから。素敵な友人も」
「……福生さんは?」
そう訊いてほしいんじゃないかと思った。福生さんは自分からそんなことを言うことはできないんじゃないかと、そう思った。
「聞きたい?」
「うん」
「素直ね」
「福生さんはあんまり素直じゃないね」
「そうかしら?」
「うん。素直じゃない時はすごく丁寧っぽく話すし」
えっ、と福生さんの口から驚きが漏れる。どうやら意識的にやっていたわけではなかったらしい。
「それで、どうなの? 福生さんは死にたいって思ったこと、ある?」
福生さんはしばらく僕の顔を見つめた後、ついと顔を逸らして前髪を掻き乱した。見たことのない反応であったが、福生さんを観察してきた僕の勘はこれを恥ずかしがっていると認識した。
「今まさに、よ」
結局その話題についての福生さんの正直な答えは聞く事ができなかった。知りたかったかどうかと言えば、福生さんについてのことを知ることができるならば知りたかったが、この話題については知らずともよかった、といったところである。僕はそれより、好物だとか、休日の過ごし方だとか、靴下は右と左のどちらから穿くのかなど、さして生きていく上で重要でない事柄について知りたかったのだ。
ものの質というものは、そういった重要でないところに隠されているように思える。真に上質なものは見えぬところまで気を使うのと同じで、真に上質な人間はそういった行動の端々にその一端を垣間見ることができるのではないだろうか。
とまぁそれらしいことを並べてみたが、つまるところそういう『裏側』を知りたいということなのだろう。野良猫に毒を盛り、両親とクラスメイトを殺したと噂される彼女の裏の顔――――ともすれば闇の反対の光の顔を、僕は知りたかった。
「もうすぐ年が明けるわね」
福生さんの言葉は白い湯気となって消えた。鍋を片づけた僕らは毛布を持って部室を飛び出し、福生さんと初めて言葉を交わしたあの廃墟に来ていた。猫の怨霊などが溜まっていそうだが、生憎と僕はそういった自分に対する『脅威』を感じる機能が麻痺しているので恐怖はない。示し合わせることもなくここへ辿りついたのは、彼女にとっても僕にとっても、ここが特別な場所だからだろう。
「年を越すまで起きているのなんて、いつぶりだろ。去年どうしてたのかもよく思い出せない」
僕の言葉を、福生さんはどこか眠そうに聞いている。除夜の鐘が遠くに聴こえ始め、その一定のリズムがさらに眠気を誘っているようであった。
「……福生さんは、今まで年越しってしたことある? 起きた状態で」
「あるよ。お父さんと、それとお母さんとね。その日だけは夜更かしが許されていて、ただそれだけで楽しかった。みんなで一つのことを楽しみに待ってて、それに加わるだけでよかった」
眠そうな言葉が口から洩れてくる。普段の福生さんだったら、はぐらかして終わりだろう。しかし、今の福生さんは催眠術にでも掛ったかのように素直だった。
「お蕎麦食べて、日の出まで起きてられたら初詣にも行って、明るいと眠れないから夜まで起きてるけど、元旦の夜はいつもよりぐっすり寝てた」
「ふぅん。いいなぁ」
「青梅くんは? 私も青梅くんのこと知りたい」
僕はそう訊かれたことが嬉しかった。その瞬間は嬉しかった。しかし、いざ語ろうと思っても、ふと手元を照らしていた明かりが消えたかのように何も思いつかなくなる。自分の両親のことを思い出そうとしても断片的なことしか思い出せず、どこか輪郭がはっきりしない。そうして悩んでいる自分を俯瞰しているような錯覚をし、僕は呼吸を忘れていることに気がついた。
「……今、やっと解った。僕はこんなにも壊れているんだって」
「無理に思い出そうとしない方がいいわ。きっと、いつか思い出せるようになるから」
「そうかな。本当にそんな時がくるかな。僕はこれから一生自分のことをぼんやりと上から見つめながら生きていくんじゃないかな。過去、現在も未来も全ての恐ろしいことに見て見ぬふりをして生きて行くんじゃないのかな」
福生さんの手が僕の手に触れた。よく冷えた僕の手には、焼いた鉄のように熱く感じる指先。見た目の白さよりもずっと暖かいその熱が、僕の心を十分に落ち着かせた。
「大丈夫よ。今はまだそれを受け入れられないかも知れないけど、いつかふっと、夢から覚めるように理解できるようになるから」
「それは福生さんの経験?」
福生さんは答えなかった。その沈黙こそが答えだと言わんばかりに。
「僕は福生さんのことは、他のクラスメイトの誰よりも知っていると思う。でも、それまでの福生さんのことは何も知らない。どうして『福生スペシャル』の実験を繰り返すのか、なんで噂を否定しないのか、現状をどう思っているのか。髪のこととかはどうだっていいよ。綺麗だし似合ってる。みんなそこも気にしてるみたいだけど、僕はそんなことよりも、どうしてこんなに優しいのに猫を殺してまで『福生スペシャル』の実験を続けているのかっていうことが気になるんだ」
誰でも判ることだろう。薬品を実験する理由など、一つしかない。
「ねぇ、福生さん。完成した『福生スペシャル』は、最後は誰が飲むの?」
僕は、福生さんのその顔を見てほんの少しだけ後悔した。彼女の顔は眠気が消えていて、もう素直な福生さんではなくなっていた。
「どうかしらね。もしかしたら青梅くんかもしれないわね」
ふふふ、とわざとらしく福生さんは笑って見せた。もうこの顔からは本音は聞けないだろう。あと少しで福生さんの心のドアノブに手が届くところだったのに、愚かな僕はその指先でドアを押し閉めてしまったのだ。
「福生さん、駄目だよ。人を殺すのは、それだけは駄目だよ」
「どうして? 猫はよくて人は駄目という理由は? もちろん、法に縛られているという理由以外でお願いね。私はどんな覚悟もできているわ」
僕の手から彼女の手が離れる。立ち上がった福生さんは笑いながら――――どこか悲しそうな顔で、僕を見下ろしていた。
「青梅くんも気付いてるでしょ? 私がおじさんによく殴られて使い走りさせられてるって。機嫌悪い時は最悪よ。お腹を蹴られた時なんて血尿が出たわ。背中には灰皿代わりにされた痕が消えずに残ってる。でもおばあちゃんがおじさんに私を押しつけたから、おばあちゃんからお金貰って暮らしてるおじさんは私を仕方なく置いてるの」
「押し付けた、って」
「私が殺したから。おばあちゃんの息子であるお父さんをね。おじさんはあんなだから子供は残せないだろうし、仕方なく私を生かしてるってわけ。別に金持ちの家でもないし、伝統だとか歴史があるわけでもないのにね!」
意識が物凄い勢いで遠のいていく。今まで感じたことのない強い遊離感。今までがどれだけ穏やかに気を失っていたのだろうというほど強烈な眩暈に、しかし僕は耐えていた。今ここで気を失ったら、僕はもう二度と福生さんの心に触れられなくなる。
「もううんざりよ。全部終わりだわ。丁度昨日、『福生スペシャル』が完成したの。猫は悲鳴も上げずに数秒痙攣してぱったり死んだわ。猫缶に入れた量の数十倍の量を肉にでも混ぜて食わせれば人間だって死ぬでしょうね」
それは駄目だ、と声に出ない。気付けば僕は何も見えていなかった。暗黒の空間に身一つで放り出されたような孤独感と、体の内側から凍っていくような寒さに僕は凍て付き、何も口にすることができなかった。
「さようなら、青梅くん。楽しかったわ。最期にお話しできたのがあなたで、本当によかった」
これは本当よ。その言葉だけが耳の中でエコーし続け、気付けば僕は暖かいプレハブの中で目覚めていた。
■ ■
いつ運ばれたのかも解らなかったが、少なくとも新年の一日目はいつの間にか始まっているようであった。
「カズにぃ、起きた」
僕の頭上では京子ちゃんが不満そうな顔で座り込んでいた。ばっちし股間の布が見えていたのでそれを指摘するが、
「見せてるの」
と言われてしまったのでそれ以上追及することはできない。スカートの裾を暖簾のように潜って上体を起こすと、どういうわけか武蔵野さんと立川さんも浮かない顔をしていた。
「あー、運んでくれたんだね。ごめん、本当にごめん」
その時の状況がいまいち思い出せないのでとにかく感謝と謝罪を示すが、それでも誰の表情も変わらない。よほど大変だったと見える。
「青梅くん、何聞いても取り乱さないでね」
どんな謝罪をしようかと考えていると、武蔵野さんが言いにくそうに口を開いた。まるで余命宣告でもされるのではないかというような雰囲気に思わず喉を鳴らす。武蔵野さんは何度か言葉を探すように口を開けたり閉めたりしていたが、ややあってついにそれを口にした。
「実は……さっき、福生さんが病院に運ばれたって」
「福生さんが? なんで?」
福生さん――――昨晩何があったのか、いまいち思い出せない。思い出せないが、思い出さないといけないような気がする。
「それを知ってるはずだったのが青梅なんだけど」
「どうだろう……でも、気を失ったってことは、十二分にあり得るね。で、なんで病院に? 怪我でもしたの? イノシシ?」
武蔵野さんと立川さんは顔を見合わせ、それから再び武蔵野さんが口を開いた。
「自殺未遂。なんか、色々混ぜて作った毒物を飲んだんだって」
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