第7話:白猫の本心


「なんていうか、思ってたのと違うなぁ」

 文化祭当日。僕は自分の想像を遥かに上回った過疎状態に思わず大きなあくびをこぼし、武蔵野さんから差し出されたポテトチップスを一枚つまんだ。

「いつもこんなだよ。お祭りと違って外部から人こないし」

「こんなんだったら『動物ふれあいコーナー』でよかった気がする」

「まぁでも、ここは人いるほうだよ。ギャンブル好きのおじさん連中がきてるから」

 部室の外で中年男性達の歓喜と落胆の声が湧きあがった。確かに他の出し物に比べて人は集まっているようだが、とても青春の二文字とは程遠い光景だった。

「助っ人外国人の昭島くんもサッカー部戻っちゃうし。なんかあったの?」

「外国人じゃないけど……まぁ、あったよ。色々ね」

「色々かぁ」

 武蔵野さんはきちんと察してくれたようで、なんとも言えぬ表情で小さく笑った。

「福生さんの姿が朝から見えないのも関係ある?」

 その問いに、僕は即答を控えて首を傾いで、

「関係あるけど、まぁそれはまた別の問題」

「ふぅん……青梅くん、なんか地雷踏んだんじゃないの?」

「たぶんね」

「福生さん、青梅くんには心開いてるっぽいからなぁ」

 ぱり、とポテトチップスが割れる音が響く。僕は武蔵野さんの退屈そうな横顔へと視線をやって、

「あれで心開いているんだろうか」

「少なくとも懐いてるでしょ。もしかすると、青梅くんのこと好きだったりして」

「それはどうだろう」

 もしそうだとしたら、あんな顔で睨みつけるだろうか。嫌われてはいないかも知れないが、しかし心から通じ合える仲ではないだろう。


 文化祭は期待していたような盛り上がりを見せることなく無事に終わりを迎えた。福生さんは結局、朝に一度だけ姿を見せたのを最後に姿をくらませたままであった。その目立つ白髪が姿を見せたのは文化祭翌日の後片付けをしている最中で、まるで何事もなかったかのような薄らとした笑みを顔に張り付けて部室にやってきた。

「ちょっと福生さん! 昨日どこ行ってたのよ!」

 立川さんが飽くまでも常識人視点から不満を述べると、福生さんは返答の代わりにポケットから数枚のチケットの綴りを取り出した。

「あら、これ昨日の賞品の余りじゃない」

「温泉旅館宿泊券。余った予算は学校に返納しなければならないのだけど、もう金券化してしまったと説得して貰ってきたわ」

 その言葉に、部員一同は思わず声を上げた。特に武蔵野さんの食い付きがよく、福生さんに抱きつくようにして喜んでいた。

「さすが福生大明神様! 寒くなってきたから温泉旅行行きたかったんだぁ」

 立川さんも温泉には思うところがあるようで、先ほどの不満もどこかへ吹き飛んでいってしまったようだ。

「あの、福生先輩。それって何人までオーケーなんですか?」

 楽しみを隠しきれない顔で京子ちゃんがそう訊ねると、福生さんはチケットの裏面に目を落とし、

「家族向け四人部屋が一枚と、カップル向け二人部屋が一枚ね」

「じゃぁ僕が二人部屋の一人使用で」

「じゃぁ親戚同士の私とカズにぃで二人部屋ですね! 仕方ないですね!」

 僕の言葉を遮るようにして、なんとも嬉しそうに京子ちゃんは声高らかにそう宣言した。福生さんは小さく頷いてチケットの裏に『青梅兄弟』と書く。口を酸っぱくして言っているが、兄弟ではなく従妹である。

「他二名は異論はない?」

 そう訊ねると、二人は「異議なし」と頷いた。

「なんかあっさり決まりすぎてつまらないわね」

「福生さんは何を求めているんだ」

 僕の問いに、福生さんは晴れやかな笑みで答えた。

「波乱、かしらね」




■  ■




 旅行の決行日となった十一月最初の三連休初日。街の駅を集合場所にした一行は、ただでさえ田舎である土地からさらなる山奥を目指して電車に乗り込んだ。ここへ来るまで電車の扉の開閉ボタンなど使ったことがなかったが、すでに雪が降ろうかというほど冷え込むこの場所では必須の装置であると思い知らされた。

「昨日はまだ少し穏やかな気温だったのにね」

 ボックス席に立川さんと座る武蔵野さんがそうぼやいて、僕は扉へと歩いて『閉』と書かれたボタンを押した。扉が閉まると風の吹き込みは和らぐが、もう一つの扉を閉めなければ完全には風を遮ることはできない。

「これはある種の構造的欠陥では……」

「ほら、文句言わない!」

 立川さんに背中を蹴られるようにして反対側の扉へ走って『閉』ボタンを押す。そうして席に戻った頃に、やっと電車は動き出した。

「御苦労さま」

 席に戻った僕に、立川さんは短く労いの言葉を掛けてこちらのボックス席まで蜜柑をひとつ投げ渡した。僕は礼を言ってそれを剥き、一口目を食べようとしたところで福生さんの指が蜜柑の半分を持って行った。

「仲介料ってとこかしら」

「完全に外部からの搾取だ」

 抗議の言葉も鼻先で払いのけ、福生さんは半分の蜜柑を一粒ずつ口に放り込んでいった。僕はもう半分の蜜柑をさらに半分にして、隣に座る京子ちゃんに手渡した。


 電車の中で既にテンションが上がりきっていた僕らは、目的の駅に着いた頃にはすっかり消耗しきってしまっていた。三時間ほど座り続けていた僕らは駅に到着するなり大きく背筋を引き延ばし、

「疲れた……」

 概ね同じ意味の言葉を口々に漏らして改札を出た。

 駅の外はどこまでも田畑が広がっているところもあの村に似ていれば、すぐそこに山があることも似ている。しかしどこか違う印象を受けるのは、まばらながらも土産物屋などの観光向けの商店が存在しているところだろうか。

「ここから歩き?」

 武蔵野さんが立川さんにそう訊ね、立川さんはパンフレットに目を通して、

「一時間ここでバスを待つか、一時間歩くか。どっちがいい?」

「一時間待ちたいのはやまやまだけど……ここで一時間も潰すってのはなかなかのもんだよ」

 どうする? と一同顔を見合わせ、

「歩くひとー」

 武蔵野さんの言葉に、武蔵野さん本人と僕と京子ちゃんが手を挙げる。

「待つひとー」

 立川さんの言葉には立川さんだけしか手を挙げなかった。

「え、福生さんどうすんの?」

「タクシーに乗るという方法があるわ」

 そう言って視線を二車線道路へと向けると、路肩に停車した黒塗りのタクシーの中で運転手が期待の眼差しをこちらへ向けていた。

「……でもこの人数でタクシー乗れるの?」

 武蔵野さんの疑問に、福生さんは小さく頷いた。

「後部座席に三人。助手席に一人。トランクに一人でぴったりだわ」

「あー、なるほど……って、それ乗れてる? 誰がトランク?」

「そんなの決まってるでしょう。ねぇ?」

 福生さんの視線は自然と立川さんへ。立川さんは不満そうに口を尖らせ、呆れたように小さく溜息を吐いた。

「あのねぇ、いくら私だってトランクなんて乗るわけないでしょう。常識で考えなさいよ、常識で」


 そして数分後、僕は助手席に、京子ちゃん武蔵野さん福生さんは後部座席に乗り込み、立川さんは限界まで体を丸めて狭いトランクに自ら納まった。なんと素晴らしい自己犠牲だろうか。絶対に真似はしたくない。




■  ■




 到着した旅館は想像より大きく、古めかしい作りがとてもよい雰囲気を醸し出していた。通された四人部屋も和風の装いが心地よく、手足を伸ばして床に転がると気持ちよさそうである。

「さて、私達の部屋行こうよ、カズにぃ」

 テンションが上がりきった京子ちゃんは僕の腕を掴んで四人部屋を出た。板張りの床は心地よく軋み、そのリズムが興奮を物語っている。確かにこういう場所に寝泊まりするのは楽しいが、はしゃぐほどのものではないだろうに。

 すぐ隣にある二人部屋の戸を開けると、そこは四人部屋と変わらぬ広さの部屋があった。これを見ると一人で使うのは贅沢極まりないと思ってしまうのだが、しかし男女で分けるならば致し方ないことである。従妹といえど異性は異性。その辺りを京子ちゃんにはしっかり理解していただきたい所であるが、しかし返事は快いとは言い難かった。

「……あのね、カズにぃ。実はね、あの日……お祭りの日の夜からずっと、一人で寝るのが怖かったんだ」

 今にも泣き出しそうな瞳で見つめられながらそんなことを言われると、それ以上の説得はできなくなる。あの日は確かに忘れたくても忘れられない日であるだろうし、僕自身もあれはとんだ災難であった。

「だから……だめ?」

「むぅ……まぁ、仕方ない、か」

 僕がちっぽけな意地を放り捨てると、京子ちゃんは顔を挿げ替えたように笑顔に切り替わった。上手く操作されているような気もするが、気のせいであると信じたい。

「とりあえず荷物置いて何か食べに行こう」

 僕の方から提案すると、京子ちゃんは嬉しそうに頷いて荷物を部屋の隅に置いた。財布だけを持って部屋を出て、扉にしっかり施錠する。ホテルのようなカードキーではなく、よくあるシリンダー錠のアルミ鍵だ。部屋番号の書かれた小さな木板のキーホルダーがついたそれをポケットにしまって、僕たちは四人部屋の方へと向かった。


 旅館での食事は宿泊費に含まれていないとのことだったので、僕らは旅館の外で食事をとるということを事前に決めていた。食事ができるところも事前に立川さんがピックアップしていたのでこれといった問題もなく実に美味しいうどんと天ぷらにありつくことができ、満足感に包まれたまま旅館までの道を寄り道しながら散策することとなったのだが、

「……事前に下調べしてて気付いてはいたけど、この辺本当に何もないわね」

 立川さんは周囲を見回すが、そこにあるのは民家と田畑と斜面のみ。時折無料の足湯を見かけるが、利用客の姿はなかった。

「まぁ、温泉がある『だけ』で、別に温泉街とかじゃないからね」

 武蔵野さんは地図を見つつそう言った。京子ちゃんは道端に並ぶ地蔵に視線をやりながら僕の袖を軽く引いて背中に隠れ、

「なんか、お地蔵さん多いね、ここ」

 囁くようにそう言って、僕の代わりに福生さんが「そうね」と頷いた。

「土砂崩れとか多かったのかしら。それか、何かこの地にまつわる闇の歴史か……」

「福生さん、そういう話は夜の女子会にとっておいて。今無駄遣いすることはないわ」

「女子会?」

 僕の疑問に立川さんは楽しそうな顔で頷いた。

「四人部屋で、女子だけのお楽しみ。青梅くんはまぁ、部屋でのんびりしてるといいわ。どうせ真夜中の話だし」

「ふぅん……なんか楽しそうだなぁ」

「でもカズにぃはだーめっ」

 京子ちゃんまでも楽しそうにそう言って、立川さんと顔を見合わせ「ねー?」と声を合わせる。立川さんもすっかり生物部に馴染んだようであった。

「まぁ、交流深めるのは大事だと思うよ……」

 僕は福生さんへと視線を送るが、肝心の福生さんは苔で滑りやすくなった石組みの階段の上で小さな川を見下ろしていてこちらの視線には気付いていなかった。その『女子会』でどんなことをするのかは知らないが、福生さんがもっと心を開くようになればいいなと、そう思ったのだった。

「女子会かぁ。その間、僕は何してようかな」

「猫でも探していればいいんじゃない?」

 福生さんが言うとまた違った見方ができるのは新鮮であるが、あまり良いこととは思えない。この時やっと思い出してしまったのだが、彼女はここにも『福生スペシャル』を持ち込んでいるのだろうか。さすがに常備してはいないと信じたいのだが、もしかすると生態の違う猫でも試してみようと思っているかも知れない。しかし、「もしかして『福生スペシャル』もってる?」とは訊き辛かった。純粋に楽しんでいるとするならば、その楽しみに水を差すことになりかねない。

「とりあえず、帰ったら温泉かな。せっかくの温泉旅館だし」

「ねぇ咲、ここって混浴とかってあるの?」

 何やらよからぬ事を考えていそうな顔で武蔵野さんが訊ね、立川さんはパンフレットに視線を落とし、

「んー、ないわね」

「えー、ないの?」

「ないものはない。なに歩、もしかして人間の生殖器にも興味が……」

「……」

 黙って目を逸らす武蔵野さん。そこは否定してほしかった。どういうわけか京子ちゃんの舌打ちも聴こえた気がするが、大自然が生み出した環境音の一つだと信じたい。

 少しずつ蓋を押し上げて溢れ出てきた不安に僕は小さく溜息を吐き、福生さんは活き活きとした様子で微笑んでいた。




■  ■




 宿に戻るなり、女子一同は早速温泉へと向かった。僕も温泉に浸かろうと思ったのだが、しかし歩き疲れもあって眠気が襲い、畳みの良い香りと丸めた座布団の寝心地の良さについついうたた寝をしてしまった。

 目が覚めたのは夕方で、立川さんが夕飯のリクエストを取りに来た時だった。夕飯は旅館で食べるようで、今の内に注文しないといけないらしい。塩気が欲しかったので寝ぼけながら天ぷらをリクエストすると、去り際に立川さんが振り向いて、

「もったいないからお風呂入ってくれば? 少なくとも女湯の露天風呂はいい感じだったわよ」

「ん……そうする……」

 眠い目を擦ってそう返事をすると、扉は緩やかに閉ざされた。僕は眠い目を擦って重い体を起こし、タオルを持ってのそのそと部屋を出た。

 しんと静まり返った廊下を歩くと、床板が品良く軋む音が聞こえる。暗闇の中に置き去りにされたような静けさの中ではその音さえ暖か味を感じた。

 この静寂は好きだ。時計の秒針が進む音が聞こえるような静けさ。遠くを走る原付の音も、風が枝葉を揺らす音も、全てが純粋に耳から染み渡るような、清潔さを感じる空間。僕は眠気の奥でその静けさを味わい、気付けば浴場へと辿りついていた。

 服を脱いで感じた寒さに追いやられるようにして風呂へと進むが、露天風呂なので当然のごとく寒かった。急いで桶に湯を溜めてそれを頭から被り、いそいそと温泉に爪先から侵入した。

「あー、生きててよかった……」

 自分で口にして洒落になっていないことに気付いたが、特にどうとも思うことはなかった。自分の中で『両親の死』がどの程度のことと扱われているのか、不思議と皆目見当がつかないのだ。それは『悲しいこと』と知識では知っているのだが、その実感がまったくない。頭のネジが一本抜けてしまうとこのようになってしまうのだろうか。そう考えて一番最初に思い浮かんだのは福生さんの顔だった。

 新しい学校生活最初の衝撃。理由不明のアニマルキラー。噂が正しいとするなら、そのアニマルには人間も含まれている平等主義者だ。出会った頃は、まさかこうして温泉旅行を共にするとは思ってもいなかった。

 それは立川さんや武蔵野さんも同じである。どういうわけか、今僕は学校中から避けられる福生さんと、福生さんを避けていたはずの武蔵野さんや立川さん、そして京子ちゃんと一緒に過ごしているのだ。

「……あれ、なんかこれ、ハーレムっぽい」

 刺激的な発見によってにわかに脳が覚醒してきたその矢先、入口の引き戸が開かれる音が聴こえた。扉から浴場までは仕切りを挟んでいるためにその姿は見えなかったが、ややあって仕切りから出てきたその人物に、僕はまだ頭が眠っているのかと錯覚した。

「あら青梅くん。起きたのね」

「……福生さん。もしかして僕は間違えて女湯の方に入ってるとかそんなお約束展開を繰り広げていたりする?」

 髪をまとめしっかりとタオルで要所を隠している福生さんは、くすくすと笑いながら首を横に振った。

「間違いなく男湯ね」

「なるほど。じゃぁ福生さんが寝ぼけてる?」

「いいえ。眠気の欠片もないわ」

 なるほど、と僕はゆっくり福生さんに背を向けた。

「じゃぁなんでここにいるの」

 そう訊くと、背後で掛け湯をする音が聞こえ、

「男湯がどうなってるのか興味あったの」

「あ、そう……」

 理解はしたが納得はできない僕をよそに、福生さんは湯の中にゆっくりと体を沈めた。それだけでも僕の緊張は決壊寸前であったというのに、再び聴こえた戸の開く音に嫌な予感がし、さらに緊張が高まった。

「カズにぃ……と、福生先輩」

 なんでいるんですか、と京子ちゃんが訊ねるが、それは僕のセリフである。

「京子ちゃん、ここ男湯」

「知ってるよ。男湯がどんな風なのか気になったの」

 従妹の知的好奇心の高さに感心するが、やはり納得はできなかった。

「京子ちゃんも福生さんも、他のお客さんきたら大変なことになると思うんだけど」

「それなら心配ないよ。なんか、泊ってるの私達だけみたいだから」

「廊下静かだったでしょう? 誰もいないのよ、ここ」

 二人の言葉に記憶を辿ってみると、確かに他の客とすれ違ったりということはなかった。確かに、他に客がいては廊下はああも静かにはならないだろう。

 そうこうしている内に京子ちゃんも湯に浸かり、僕はその行為を指摘するタイミングを逃してしまった。注ぎ口から湯が流れ込む水音だけが長閑に響き、誰も何も一言も発さない。そのプレッシャーに耐えかね、僕はおずおずと口を開いた。

「あのー、お二人さん。もう男湯の内部構造は把握しただろうから、この辺でそろそろ」

「えー、せっかくだから温まるまで入っていたいですよね、福生先輩」

 やや上擦った声で京子ちゃんが福生さんに同意を求め、福生さんもくすくすと笑いながら頷いた。

「いいじゃない、青梅くん。複数の女の子と一緒にお風呂なんて、この先あるかどうかわからないわよ?」

「っていうか、二人はそれでいいわけ?」

 背を向けていた体を横に向けそう訊くと、二人は少しの間だけ考え込んで、

「少なくとも、従妹ちゃんはいいんじゃない?」

 各自の都合について答えると思っていた京子ちゃんは福生さんの裏切りとも取れる返答に思わず顔をしかめていた。その顔を見た福生さんもやや不満そうな顔をして、

「私だって、別に気にしてないわ。それにあなたは隠す気なんてないんでしょう? まぁ、いいんじゃないかしら。従兄弟同士なら結婚だってできるし」

「け、けけ、結婚だなんてそんな……」

 京子ちゃんは慌てふためきながら顔を木桶で隠してそう言ったが、まんざらでもないといった様子である。好かれることは悪く思わないが、しかしそこまで好かれるようなことをした覚えもないので、どこか自分だけが状況に置いて行かれているような不思議な疎外感があった。

「とりあえず、二人が出ないなら僕が出るよ」

「あら、たかだか女の子の裸程度でそんな取り乱すこともないじゃない」

 まるで挑発するような言葉に、僕は思わず動きを止めてしまった。確かに、ここは変に気を回すよりも堂々としているべきだろう。本来は「見るべきではないもの」である女子の裸も、向こうから見せに来たのだから別段なんの問題もないはずだ。唯一の問題があるとすれば、もう前のめりになるくらいでは誤魔化しきれないというところだろうか。

「従妹ちゃん、背中流しっこしましょう?」

 そう言って福生さんが浴槽から這い出て、

「んもう、京子って呼んでくださ……」

 京子ちゃんもそれに続こうとして、その動きが止まった。視線を外していた僕は何事かとちらと横眼で見て――――思わず息をのみ込んでしまった。

 福生さんの滑らかな色白の背中。僅かに骨格が浮かび上がった美しいラインを描く痩せ気味の体に、不自然な痣がいくつもあった。それは誤解の余地はない。痛々しい傷の数々である。

「福生さん、その背中……」

 僕の言葉に、福生さんははっとしたようにすぐ浴槽へと戻って湯に深く沈んだ。その顔はひどく焦燥していて、先ほどまでの余裕は感じられない。

「福生さんどうしたの? それ、もしかして」

「カズにぃ! 私ちょっとのぼせちゃったからもう出よう!」

 僕の言葉を遮るように京子ちゃんは声を張ってそう言って、僕の腕を掴んでずかずかと出口へ向けて歩き出した。僕はなんとか拾ったタオルを腰に巻くのが精いっぱいで、突然の連行に逆らうことはできない。

 更衣室へ入ると、京子ちゃんは戸を閉めて自分のロッカーへと急ぎ、バスタオルを体に巻いてから大きく息を吐いた。

「……カズにぃ、さっきのは忘れてあげて」

「え、でも」

「いいから! 女の子には知られたくないことがあるの!」

 見たことのないような強い語調の京子ちゃんに、僕は素直に頷く他なかった。京子ちゃんは悲しさと苦しさの混ざったような顔でロッカーの空洞をじっと見つめていて、その横顔を見つめていた僕は、服を着る間もなくいつの間にかに意識を失ってしまっていた。




 目覚めて最初に感じたのは、空虚さだった。しんと静まった部屋は暗く、外はすでに日が落ちているようだった。ぼんやりと夜光塗料で薄緑に発光する蛍光灯の紐の末端を引っ張って部屋の明かりを点けると、その眩しさに軽い頭痛がした。

 次に感じたのは空腹だった。どうやら夕飯を食べ損ねてしまったらしい。部屋を見回すと、広縁の籐編みの小さなテーブルの上にラップが掛けられた食事が残してあった。

「何時間寝てたんだろ……今、何時?」

 壁に掛けられた時計を見ると、短針はすでに午後十時を指していた。

 あまりにも空腹であったので、ちゃぶ台を用意するのも億劫であり、縁側の籐編みの椅子に腰かけてその場で食べることにした。外は真っ暗で遠くの山さえ見えないが、星空を切り取るように山の輪郭だけは見えるので、それはそれで風情がある。

 時間を置いてもなお美味しそうな刺身に箸をつけると、隣の部屋の戸が開く音がした。こんなにも音が抜けていいのだろうかと不安になったが、どうせ自分達以外には宿泊客はいないので目を瞑ることにする。

「ひゃぁー、寒い!」

 まるで同じ部屋にいるかのように武蔵野さんの声が聴こえた。僕はつい食事の手を止めて、隣室の情景を音から脳内で組み立てる。

「寒さの格が違うわね、ここ」

 立川さんの声も良く聴こえる。コートを壁に掛ける音でさえ筒抜けだ。

「もう一回お風呂入ってこようかなぁ」

「部屋にいれば温まるわよ。それより、武蔵野さん例のブツは?」

 福生さんがそう訊くと、武蔵野さんは何やらわざとらしく小さく笑って、ビニール袋が擦れる音をこちらの部屋まで響かせた。

「長身は得だね。酒屋もノーガード。ここ予約したのも、実は高校生ってことになってる」

「単純におつかいだと思われてたんじゃない? 歩、童顔だし」

「そもそもあんまり気にしてないんじゃないですか?」

「京子ちゃんが買いに行ったらさすがに売らないんじゃないかしらね」

 楽しそうな声が聴こえてくる。どうやら、この広縁部分の壁が異様に薄いらしい。向こうはまさかここまで筒抜けになっているとは気付かないだろう。

 刺身を口に運んで目を閉じて、僕は悪いと思いながらも隣の部屋の音に耳を傾けた。

「っていうか、咲いいの? 一応クラス委員でしょ?」

 アルミ缶が開封されて炭酸が逃げ出す音がする。何回かその音は重なって、一瞬だけ部屋は静まり返った。

「別に規律正しくしたいから委員やってるんじゃないし」

「まぁ、規律正しい人間がローター仕込んで授業受けないよね……」

「ぶふっ! そ、そんなことしてるんですか」

 京子ちゃんが咽ながらそう訊くと、立川さんは何一つ恥じることはないといった調子で、

「ノーパンノーブラの日もあるわ」

「そ、そうですか……」

「っていうか咲、もしかして今日も……」

「置いてきたわよ。そんな節操無いように見える?」

 三人は沈黙で答えた。

「ちゃんとパンツだって穿いてるし」

「そんな当たり前のことを自慢気に言われても」

「でもブラはつけてないのね……」

 福生さんの言葉に被さるように、立川さんの悲鳴のような声が小さく漏れた。僕は椅子とテーブルを壁に近づけ、頭を傾ける。

「ちょ、福生さん……!」

「なんて躊躇ない揉み……Cくらいありますかね、解説の京子さん」

「へ!? いや、なんというか……意外とありますね……」

「おうこら、今意外つったか?」

「ひぃ! す、すみません!」

 疎外感を覚えるほど楽しそうであったが、しかしそこに加わるかどうかと言えばそれは遠慮したい所である。未成年飲酒はダメ、絶対。


 しばらく下ネタを織り交ぜた他愛もないトークが続き、アルコールパワーによってか福生さんさえ積極的に会話に加わるようになってしばらく経った頃。僕がそろそろ眠ろうかと布団に静々と戻ろうとした時、静かになりかけていた部屋に立川さんの声が静かに零れ出た。

「……ところで、福生さんは青梅のことどう思ってんの?」

 思わず僕はその動きを止め、向こうの部屋も不思議と空気が張り詰めたように思えた。

「……どうもこうも、よくしてもらってるわ。私の『実験』についても黙っててくれるし」

「そうじゃなくってさ、恋愛感情的によ。いつも一緒にいるでしょ? そこんとこどうなのよ」

 短い沈黙が流れる。しんと静まり返った部屋に、缶が卓を叩く音がして、

「いつも一緒にいるっていうなら、あなたもでしょ? あなたこそどうなの。リモコン渡してオナニーに使うくらいだから、ただのクラスメイトってわけでもないでしょうに」

 なんだか険悪な雰囲気が壁から染み出ているような気がする。呼吸の音さえ聞えそうな沈黙を合間に挟んで、二人の声が静かに響いた。

「そうね……確かに、青梅には興味があるわ」

「言葉をすり替えて誤魔化そうって?」

「文字通り、言葉通りよ。だって、いつもあなたといて、それでもなお交流を持ち続けるなんて。一体どんな変態なんだろうって興味が」

「青梅くんが聞いたら心外だって怒るわよ、それ」

 全くもって福生さんの言う通りである。

「興味じゃないでしょう? ただ、ありのままの自分を受け入れてくれると思ったんじゃないの?」

「否定はしないわよ。でも、その言葉、そっくりそのままあなたに返すわ」

 先ほどまでの楽しげな雰囲気は欠片も感じられない。しかし、これは飽くまでも僕の予想でしかないのだが、これが立川さんの『本番』なのだ。

「青梅といると気持ちいいんじゃない? 何かしらの反応が必ず返ってくるし、強く咎めたりもしない。それでいて、自分が『普通のこと』をするためのダシになるし」

「ちょっと咲……」

 あまりの険悪な雰囲気に、武蔵野さんが口を挟んだ。しかし、依然として薄壁の向こうから感じるのはどす黒い溜まり水のような空気である。音しか聞こえないのが幸いか――――一体どんな表情でこんな話をしているのか、僕には想像できない。

「福生さん、あんたさぁ……『おかしいフリ』してるでしょう?」

 長い沈黙が流れる。いつ破れるのかも判らない、長い長い沈黙。僕はその呼吸一つも聴き逃さないようにと意識を研ぎ澄ますが、不意に鼻がむず痒くなってきた。窓際は冷えるということをすっかり忘れていたのだ。

「へくしっ!」

 堪え切れずくしゃみをすると、壁の向こうの雰囲気がさぁっと変わるのが解った。沈黙は同じはずなのに、明確な意思が壁の向こうから感じ始め、やがてそれは足音になった。

 隠れようと思ったが、そんなことができる場所はどこにもない。

「青梅ぇ……」

 開かれた戸の向こうにあったのは、引き攣った笑みを浮かべる立川さんだった。僕は一瞬だけ言葉に迷って、

「立川さん、不可抗力って言葉知ってるかな?」

「今は忘れて」

 僕は全てを諦めた。




 三十分に亘って女子会の意義について説教を受けた後、酒が回った京子ちゃんがリタイアしたために女子会もお開きとなった。

 僕は京子ちゃんを寝かせた後、なんだかんだで気に入った広縁に布団を敷いてそこに眠ることにした。

 しんと静まり返った室内に、時計の秒針が進む音だけが響く。この音を気にし始めるといつまでも眠れないのだが、気にしないように意識するほど気にしてしまうという悪循環に陥りやすい。考えないようにすればするほど、頭のなかに重量感のある硬質な音が幽かに響くのだ。

「……カズにぃ、起きてる?」

 その秒針の音を消すように、しかし小さな声で京子ちゃんはそう訊ねた。僕もまた小さく返事をすると、ややあって、

「そっち、行ってもいい?」

「え?」

「ダメ?」

 駄目、ではないが恥ずかしいどころの騒ぎではない。返事を保留にしておくことも恥ずかしいので、僅かな男気を見せて肯定の返事を返した。

 布団が擦れる音がする。畳の上を這い、広縁の板を踏む音がして、やがて暖かい何かが体に触れた。

「一人だと、まだ怖くて」

 その言葉の割には、どこか楽しさが感じられる。京子ちゃんの細い腕が僕の胴に回って、柔らかく甘く香る髪が胸元に押し付けられた。とても柔らかく暖かい体の感触に思わず男の本能が反応してしまうが、相手は近親者であるのだと自分に言い聞かせ、深く呼吸をして気持ちを落ちつけようと試みた。

「……カズにぃは憶えてる?」

 囁くような声がこそばゆい。僕はその快感から意識を逸らすようにして短く訊き返した。

「何を?」

「私がカズにぃのとこに行った時に、お父さんと喧嘩して一人で飛び出して行っちゃって、そのまま迷子になった時のこと」

「……うん。憶えてる」

 京子ちゃんが行方不明になったということで、皆で街中を探しまわったものだ。事故や事件に巻き込まれたのではないかと気が気でなかったのを覚えている。

「道がわからなくって、山の中の神社まで辿りついて草臥れて泣いてた私を、カズにぃが見つけてくれた」

「うん、憶えてる」

「その時、私がまだお父さんとは会いたくないって言ったら、カズにぃはそのまま日が暮れるまで遊んでくれた」

「うん」

「その後、私がお父さんに怒られそうになった時、ほんとはもっと早く見つけたけど無理矢理遊びに誘ったって、そう言ってカズにぃは私のこと庇ってくれたでしょ?」

「……そうだったかも」

 その辺りは記憶が朧になってくる。安心したために強い印象が残っていなかったのだろうか。

 彼女の唇が顎の近くまで寄ってきているのが、その暖かい吐息で感じ取れた。歯磨き粉か、飴玉か、柑橘の仄かな香りが脳の奥をほどよく刺激する。僅かにアルコールの香りもするので、酔っているのかも知れない。

「私、その時からずっとカズにぃのこと……好き、だったんだよ」

 眠かった脳が覚醒する。同時に、雲に隠れていた月が顔を出し、部屋が月明かりに照らされた。布団から肩を出していた彼女は、着ていたはずの浴衣を着ていなかった。

「カズにぃにとっては些細なことかも知れないけど、私にはずっと心に残ってた。私の憧れだった。その憧れは色んなことを覚えていく内に……男と女のこと、とか……そういうのを覚えてく内に小さな欲求になって、それが段々大きくなって……まだ中学生なのに、もう待てなくて……」

 彼女が僕の体によじ登るように、そして押し倒すような形になる。僕は一言も発することができず、股間の位置に座った従妹に対して何も抵抗できなかった。

「ねぇ、カズにぃ知ってるよね? 従兄弟同士って、結婚できるんだよ……?」

 その言葉がトリガーとなったのか、僕は彼女を跳ね退けて部屋から逃げ出した。股間を膨らませたままの無様な逃走。明日からどんな顔をして話せばいいのかわからない不安。そんなことについてぐるぐると考えを巡らせながら、自販機の灯りに照らされたロビーに辿りついた。

 黒い合成皮のソファに腰掛けて呼吸を整える。寒さなど気にならず、暗さにも怖れはない。ただ、あの部屋に戻ることだけが恐怖だった。

 全てを飲み込む無音が、今は頼もしい。こうしていれば目下の不安から解放されるから。両親を亡くしてから久しく感じたことのなかったこの安全な恐怖は、今は喉元に突き付けられたナイフのように鋭利だ。

「青梅くん、大丈夫?」

 暗闇から聴こえる穏やかな声。いつの間にかそこに立っていた福生さんは、僕の顔を一瞥し、薄く瞼を閉じたまま僕の隣に腰掛けた。

「怖い夢でも見たのかしら?」

「……まぁ、そんなとこかな。福生さんはどうしてここに?」

 そう訊くと、福生さんは顎に手をやって、わざとらしく考える素振りをした。

「うーん、そうねぇ……別に大した理由じゃないのだけれど、青梅君が見たっていう夢の内容を教えてくれたのなら教えることもやぶさかではないわね」

「あー、じゃぁいいかな」

 本当に大した理由ではなさそうなので、あまりにも情報的価値が釣り合わない。福生さんは小さく笑って「本当に大した理由じゃないのよ」と念を押した。こんなにも自然な様子で楽しんでいる福生さんを見るのは、これが初めてではないだろうか。

「ここは静かね。あの村も十分静かだったけど、ここはそれに輪を掛けたように静かね」

 その言葉が途切れると、冷たい静寂が返ってくる。それを断ちきるように僕がくしゃみをして、福生さんはまた小さく笑った。

「もう寝た方がいいわ。風邪をひいてしまうわよ」

「……それなんだけど」

 ソファを立ち上がった福生さんはきょとんとした顔で僕を見下ろす。僕はその顔に数秒ほど見惚れて、

「実は、ちょっと理由があって部屋には戻れない、かも」

「喧嘩でもしたの?」

「その方がずっとよかったかも」

 ははぁ、と事情を察したように福生さんは肩を竦めた。

「据え膳食わぬはなんとかって言うじゃない」

「据え膳とはいえ、中学生の従妹まで食うのは悪食じゃない?」

「青梅くんだって中学生じゃない」

「歳が近けりゃいいってもんじゃないと思うな」

 ほとほと困り果てた僕を見かねたのか、福生さんはやれやれと首を横に振って僕の手を取った。京子ちゃんとは違う柔らかさと暖かさにどきりとするが、彼女はお構いなしといったように僕の体を引っ張り上げ、

「なら、丁度いいわ。あの部屋、そっちに聴こえてるか判らないけど、あの変態二人がなんだか変な話で盛り上がってるのよ。あんな部屋に一晩もいたら朝には頭がおかしくなってるわ」

「心中お察しします」

「だから、二人でどこかで夜更かししよ。ほぼ貸切状態だもの、誰の目も気にすることないわ」

 そう言って静かに小走りを始める福生さんに、僕はされるがままに手を引かれていた。

 暗い廊下を歩いていても、彼女の雪面のように真っ白な髪が月明かりを散りばめて照らしているので不気味ではない。むしろ、彼女のその美しさに見惚れてしまい、ただただその美しさに呆然としてしまうのみである。

 知らない旅館の知らない廊下を歩いて、やがて回廊のようなところへ出た。小さな回廊の中心には四畳ほどの小さな庭があり、その中の水たまりのような池には星空が映り込んでいた。福生さんは冷たい床板に座り込んで、僕もその隣に座り込む。空を仰いで、池を見て――――すっかり見慣れた田舎の空も、同じような田舎でも別の場所で見る星空はまた別物のようであった。

「寒いわね」

 彼女の言葉は白い湯気になって立ち上る。小さく切り取られた星空に吸い込まれたそれは、やがて見えなくなった。

「はい、青梅くん」

 彼女の横顔に見惚れていた僕に、福生さんは浴衣の懐から缶を取り出し僕に手渡した。まごうことなきアルコールである。

「一本余ったからとっておいたの。ちょっとぬるいけど」

「あ、ありがと……いや、でもやっぱアルコールは」

 そう言っている傍から、福生さんはもう一本取り出して開封した。よくよく考えると、これはつい先ほどまで福生さんの胸元で温められていたのである。どうしてそんなところに隠していたのかは知らないが、とにかくこの缶は先ほどまで福生さんの胸に触れていたわけであり、ともすれば間接的に触れているようなものだろう。それに口をつけるということは、すなわち――――

「あら、青梅くんは私の酒が飲めないのかしら?」

「へ? あ、いや、ううん……」

 ここで飲まねば男が廃る、というのは悪い発想だろう。しかし、福生さんの前では道徳観念などどこかへ消えてしまうのだ。特に、今日の楽しそうな福生さんは、いつもよりずっと可愛く、そして美しい。

 ずっと胸が高鳴っていた。最初に出会った時から綺麗だとは思っていたが、こうして無邪気にはしゃぐ福生さんはさらに輝いて見える。これが恋とかいうやつだろうか――――そんなことを考えた瞬間に脳裏を過ったのは、京子ちゃんの顔であった。

「……福生さんは」

 缶の蓋を開けると、静かなこの空間には十分な音が漏れだした。その音が消え去ってから、僕はまたゆっくりと口を開く。

「福生さんは、誰かを好きになったことって、ある?」

 その質問に、福生さんは答えない。代わりに、もう一口だけ缶に口をつけ、

「青梅くんは?」

「僕は……どうだろう」

 確かに気になった女子なら今まで何人かいた。しかし、それがこの場でいうところの『好き』であるかどうかは、今となってはわからない。

 福生さんは星空から僕の顔へと視線を下げて、僕の目を覗き込むようにじぃと見つめていた。アルコールが回っているのか顔は仄かに赤かった。

「ひとつ言っておくとね、私の話を聞いたってなんの参考にもならないわよ。私は青梅くんの従妹じゃないし、青梅くんとの関わり方や接し方だって違うから」

 妹じゃなくて従妹なんだけど、とはもう訂正しなかった。

「でも、どうすればいいんだろう。明日からどうやって顔を合わせればいいのかも判らないんだ」

「そんなの知らないわ。私は今まで誰も好きになったことないし、そもそも好きになるってどういうことか判らないんだもの」

「……本当に?」

 風がどこかの木の葉を揺らす。星空に薄い雲が掛かって、回廊に闇が降りる。

「盗み聞きしちゃったのはごめん。でも、あの部屋で立川さんが言ったのは、本当なの?」

 おかしいフリしてるでしょう? その言葉が僕の頭から離れなかった。そんなことを考えたことなど一度もなかった。『フリ』で実際に猫を殺すだろうかと、その考えを知った今でも疑ってしまう。

 雲が過ぎ去って、再び星の光が届いた。そこにあった福生さんの表情は――――今までで一番暗闇に囚われていて、今までで一番人間らしかった。

「それを訊いて、青梅くんには何かいいことがあるの?」

「……どうだろう。でも、福生さんのことはもっと知りたい、と思う」

「知ってどうするの? 弱味でも握って言いなりにでもする?」

 普段とはまるで別人のような視線と語気に圧倒され、僕は軽い眩暈に襲われた。

「私は私。福生美空は猫殺しでクラスメイト殺しの両親殺し。おかしいフリ? あのサドマゾハイブリッドが特別頭おかしいだけでしょ。青梅くんは頭のおかしい女子のツートップに絡まれる可哀想な男の子。その上邪道に入った耳年増と旅行先で近親相姦おっぱじめようとする中堅変態二人つき。素晴らしいハーレムね、同情するわ。でもね、青梅くん。これは前に言ったかも知れないし、他の子にも言われたかも知れないけどね」

 福生さんの顔が眼前に迫る。とてつもなく恐ろしい剣幕であるのに、どこか美しいと思ってしまう自分がいた。

「青梅くん、一番おかしいのはあなたよ。なんで私に付き纏われて平気でいるの? 猫を毒殺するような女が傍にいて怖くないの? 面倒な家庭を持ってる人間に近づけるの? 私だけじゃなくて、立川さんもそう。普通あんなこと知ったら近付かないわよ。もし青梅くんが『普通』の人だったらね」

 どうして――――そう訊かれると困ってしまう。何度か自分でも考えたことのある問いであったが、その答えは自分でも見つけられずにいるのだ。

「確かに、僕は普通ではないと思う。あの日から自分のことが自分のことだと思えなくて、怖くても悲しくても、なんかどっか自分とは少しズレた位置に立ってるもう一人の自分のもののような気がして――――でも、今日こうやってみんなで遊んでたのは素直に楽しかったし、嬉しかったと思えたよ。京子ちゃんに迫られたのも怖かった。関係が崩れてしまうのが怖かった。今も、怖いよ。僕は多分、今、福生さんに嫌われるのが、一番怖い」

 上手く頭の中が整理できずに、考えたままに言葉が口をつく。福生さんは呆然とした表情でしばらく硬直していて、ややあって逃げ去るように廊下の奥の闇へと消えてしまった。

 僕はその後を追うように立ち上がったつもりであったが、どうやらそのまま意識を失ってしまったらしく、気付けば回廊で酒を握りしめながら朝の光を浴びていた。

 ゆっくりと体を起こすと、隣には福生さんではなく京子ちゃんが座っていて、

「おはよう、カズにぃ」

 そういつもの調子で言って、小さく微笑んでいた。



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