04:良介

 考えるのが億劫になると、人は何も考えないようになるのかもしれない。

 少なくとも、僕はそういう人間だ。


 考えたくない。

 何も、考えたくない。

 

 考えても考えても答えは出ないしどんどん袋小路にはまっていくだけで、出口のない迷路の中に入ってしまったような気がする。


 だから、僕は考えることをやめる。止めてしまう。

 ただそれだけのことで、今この瞬間だけは、僕は楽になれる。


 考えない。何も。

 頭の中を、真っ白にする。




 いつからだろう。

 いつから僕は、こんな風になってしまったんだろう。

 第一志望だった高校の受験に、失敗したから?

 行きたかった大学に受かったのに、馴染めなかったから?

 人とうまく、コミュニケーションが取れない。距離感が分からない。

 自分から話しかけるのは苦手なくせに、話しかけられると、間を持たせないとと思って、無駄に饒舌になってしまう。

 そうして気が付くと、僕はひとりになっている。


 口喧くちやかましかった母が、段々と腫れ物に触るように、僕に接するようになってきた。

 父が、なるべく僕とは顔を合わせないようになった。

 妹や弟も、両親と似たり寄ったりな態度になる。

 閉じたドアの向こうに行くのが怖くなった。同じ屋根の下で暮らす家族でさえ、顔を合わせることが恐ろしくなり、息を潜めて、食事やトイレを済ませた。

 このままじゃいけない、これじゃ僕はダメになる。

 頭では分かっていたのに、身体が、心が付いていかなかった。動くことを徹底的に拒否していた。


 認めたくなかった。

 自分がダメな人間なんだと。

 認めたくなかった。

 誰もが当たり前のようにしていることが、できない自分が。



 気が付いたとき、僕は家を飛び出していた。

 何も持たず、着の身着のままで。

 どこをどう歩いたのかも記憶になかった。

 ただ、ひたすらに歩いて歩いて。

 ——海に来ていた。


  --------


 ぼーっと、海を見ていた。

 何も考えてなかったし、視線の先に、海があっただけだった。

 波止場のふちに座って、ただ、見つめていた。


 最初、僕は話しかけられていることに、本当に気が付かなかった。

 声は聞こえていたと思うんだけど、それが僕に対してだという認識がなく、認識がないから、聞こえていなかった。

 しばらくして、やたら良い香りがすると思った。

 それでようやく、隣に誰かが居ることに気が付いた。


「はい、どうぞ」

「……は」


 その人は、やたらと人懐こい笑顔で、湯気の立つマグカップを僕に差し出していた。良い匂いの発生源は、そこだった。

 戸惑い黙り込む僕を、まったく気にしないで、そして僕がカップを受け取ることを疑わない顔で、差し出してきた。

「このお茶、とっても良い匂いでしょ? でも一人分入れるのが面倒くさくてさ。一緒に飲んでくれると、すごく助かるんだ」

 そう言って、僕の傍に、ごく自然にそのマグカップを置いてくれた。

 白い湯気がゆっくり立ち昇る。恐る恐る僕はそれを手に取り、ゆっくりと口をつけた。爽やかな香りが、鼻を通り抜けて、気持ちがふと緩むのが分かった。



 気が付くと僕は、大声で泣いていた。

 吠えるように、泣き叫んでいた。

 泣いて泣いて、喉が痛くなるくらい泣いて。


 泣き疲れて、ふと我に返ったとき、隣からそっと、温かく濡れたタオルが差し出された。

「泣きすぎると、目って痛くなるよねぇ。これで少し温めとくと気持ちいいよ?」

 そう言うと、僕を横にして、目の上にその温かいタオルを乗せてくれた。

 ……本当に、気持ちが良かった。さっき飲んだお茶の匂いが、そのタオルからほのかに香る。

「お茶、ちょっと入れすぎちゃったんだ。役に立って良かった」

 嘘だと思った。見え見えの、分かりやすい嘘だった。

 こんなに無条件に、無防備に、人に優しくできる人がいるわけない。

 そんな人、いるわけ、ない。


 その人は、横になった僕の傍で、他愛のない話をしていた。

 僕が聞いていようが聞いていまいが、気にしていないみたいだった。

 つらつらと、話し続ける。その声が妙に心地良くて——気が付いたら僕は眠っていた。びっくりするくらい、深く、ぐっすりと。

 外だし、風は吹いてるし、しかも見ず知らずの人の隣で。





 目が覚めたとき、まず目に入ってきたのは、綺麗な三日月だった。

 いつの間にか、僕は寝袋の中に入れられていて、意外と寒くなかった。

 一瞬、自分が今どこにいるのか分からなくなって、パニックになりかけた。でもそれを忘れるくらい、綺麗な三日月で。そういえば月をこんな風にゆっくり見るのって、すごくすごく久しぶりで。

 そうしているうちに、自分が家を飛び出したこととか人前で泣き叫んだこととかを思い出して、もう、死にたいくらい恥ずかしくなってきた。

 あまりの恥ずかしさに寝袋の中で身悶えていると、僕が起きたことに気が付いたらしく、

「大丈夫? ごめんねー、風邪ひいちゃうといけないから、勝手に寝袋の中に入れさせてもらっちゃった」

 と言って、カラカラ笑っていた。あまりにも僕が熟睡していて、全然起きなくて、むしろびっくりしたらしい。

「……あの、すみません、その……あ、ありがとう……ございます」

 たどたどしく僕が言うと、その人は優しく笑って、

「いいよー、好きでやったことだし。むしろごめんね?」

 と、両手を合わせて拝むように謝られてしまった。

「いえ、そんな……僕のほうこそ、なんか色々すみません」

「あ、お茶飲む? それともなんか食べる? 僕、お腹空いちゃってさ。適当に買ってきたんだけど、お腹空いてるときにコンビニ行くとダメだね、買いすぎちゃう」

 そういって、傍にあったコンビニ袋からおにぎりや菓子パン、ゼリー飲料をごそごそ出して、並べていった。

「最近独り飯でちょっと寂しかったんだ。一緒に食べてよ」

 好きなの食べてと、ニコニコした顔で誘ってくる。食べ物を目の前にしたら、ふいに僕のお腹がぐうぅ……と鳴った。

 あまりにもべたべたなタイミングで鳴った音に、思わず顔を見合わせて——ふたりで、声をあげて笑ってしまった。



「僕は佐藤航平。一般的な佐藤に、航海の航と、平凡の平。君は?」

「木島です。木島良介です」

 佐藤さんの入れてくれたお茶を飲みながら、お互いに自己紹介をした。

 佐藤さんは、喫茶店をやっているそうだった。それから放浪が好きで、絵を描くのも好きなのだと。

 旅先でお金がなくなると、露店似顔絵描きをして旅費を稼ぐのだそうだ。


 他愛ないことを、話してくれた。

 他愛ないことを、沢山、話した。

 ——他愛ないと思っていたことに、自分の本心が隠れていた。


 佐藤さんは、聞き上手な人だった。ただ聞いているだけじゃなくて、さりげなく聞き出したり、自分の経験や気持ちを話してくれた。

 取り留めなく支離滅裂になる僕の話を、根気よく聞いて、整理して、気づかせてくれる。

 僕が、人の目を見て話すのが苦手だと分かると、横に座って、顔を合わせなくて大丈夫な感じで接してくれた。

 二人で防波堤の傍に座って、海を見ながら話した。


 高校受験に失敗したこと。大学に馴染めなかったこと。

 家族と見えない壁ができていること。

 それで、家にいるのが辛くなったこと。

 もう、どうしていいか分からなくなっていること。


 佐藤さんは、ひとつひとつ、何も言わないで聞いてくれていた。

 そして、僕が話し尽くして何も話題がなくなって。


 不意に、怖くなった。

 見知らぬ他人に、僕は一体何を話しているんだろう?

 こんな僕の話を聞いて、この人は心の中で笑っているんじゃないか。

 そう考えると、途端にこの場から逃げ出したくなった。


 怖くて、佐藤さんの顔を全く見れなくなった。

 知らず知らず、身体が震えだす。

 どうしよう、変な人だって思われてる。きっとそうに違いない。


「——大丈夫だよ」

 静かに、木島さんが呟いた。

「だって木島君は、見ず知らずの僕と、こんなに話せたんだもん。全然だめじゃないよ。君は優しい人だと、僕は思うよ? 優しすぎて、今はちょっと『優しさ』が『弱さ』になっちゃってるだけ」

 海を見たまま、まるで独り言のように佐藤さんは話し続けた。

「僕ね、いつも好きなことしかしてこなかった。結果的に、兄さんに色んなもの押し付けて、責任とか役割とか、自分が面倒だと思ったことから逃げて生きてる。もういい歳なんだから、ちゃんとしないとなーって思うんだけどさ——ホント、僕ってダメだなって、つくづく感じてる」

 意外だった。

 そんな風に思ってるようには、全然見えなかった。

「直そうと思ったんだ。頑張ってもみた。でも、どうしてもダメだった。逆に自分が壊れそうになっちゃて。自分でもさすがに呆れた。僕はなんて、我儘な人間なんだろうってさ。誰の役にも立てない。生きてるだけ無駄なんだって思えて。それで、気が付いたら家を飛び出して——海に来てた」

 まるで、自分のことの様だった。これは僕の話なんじゃないかって、思えた。

 話を続ける佐藤さんの姿に、ふと、自分の姿が重なる気がした。

「ぼーっと海を見て。そしたらさ、なんか自殺しそうに見えたみたいで。通りすがりのおっちゃんに、『バカなことやめろ!』って大声で怒鳴られて、それで逆に、びっくりして海に落ちちゃって。海の水、すごく冷たくてさ。死ぬって思った。本当に死ぬって。そしたらなんか、色んな人の顔が浮かんで。——死にたくないって思った。無我夢中でバタついて、そうしたらそのおっちゃんが、自分も海に飛び込んで助けてくれて」

 その時のことを思いだしたのか、懐かしそうな、切なそうな瞳で海を見つめる。

「おっちゃんにすごーく怒られて。っていうかさ、そもそもおっちゃんが怒鳴らなきゃ落っこちなかったんだよ? これは今でも、実は根に持ってるんだよね、僕」

 くっくっくと、喉の奥で笑う佐藤さん。その顔は、本当は根になんか全然持っていないって、分かる。

「でもまぁ、おっちゃんが助けてくれたから、僕は今、ここにいるんだよなぁ……て思うんだ。もしもあの時、声をかけてくれなかったら。——僕は、ここにはいなかったかもしれない。少なくとも、今の僕はいない」

 そこまで話すと、ふいに僕のほうを向いて、笑った。


「君が生きていてくれて、本当に良かった。——ありがとう」

 

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