エピローグ

第57話 恋の味とは

 その日、莉麗リリーはいつもよりも早く目が覚めました。ゆうべは中々眠れなかったのに、心臓がどきどきして自然と目が開いてしまったのです。まるで、目を閉じて開けたらすぐに朝になっていたようです。

 窓の外は朝もやが濃く立ち込めていて、池の様子もよく見えませんでした。でも、太陽の光はもやを射して部屋へ届いていて、爽やかな朝の空気と共に莉麗の目をしゃっきりとさせてくれました。


終于やっとね……」


 華夏フアシア語でつぶやくと、莉麗は伸びをして、身支度を始めました。


 着替えるのは、いつもの華服ではなく久しぶりに洋装です。香蘭シャンラン奥様に見立ててもらったクリーム色の生地のものです。結婚の申し込みをされるかもしれないのだから、外国ワイグオの――このお屋敷の人にとっての呼び方です――花嫁のように白っぽい衣装が良いと話して決めたのです。


 今日は、朱威竜おとうさまが取引相手の租界の人を紹介してくれるのだそうです。誰に、とは教えてくれませんでした。でも、ほんの少し嫌そうな顔をしていたり、嫌なら行かなくて良いとしつこく言ったりしたので、誰のことだかすぐに分かりました。


 今日こそ、やっと、エドワードに会えるのです。今度こそずっと二人でいられるように、誰におかしいと言われることもなく恋人になれるのです。


 お父様はいつもエドワードの名前を言いません。仕事の請求なんかに混ぜて手紙を届けてくれる時も、租界の噂を聞かせてくれる時も、莉麗が心変わりしていないかうかがっているようでした。莉麗はいつも目を輝かせて嬉しそうに笑うので、お父様をがっかりさせてしまうようなのですが。


 あれからもう五年です。

 あれ、というのが何を指すのか、莉麗にもはっきりとは言えないのですが。

 金鶏ジンジー大路ダールーで偶然にお父様と出会ってから? エドワードに翡蝶やアルバート、莉麗のお母様と、お父様と聞かされていた人たちの話を聞いてから? 恋の意味を知って思い悩んでから? 想いが通じる喜びと、それがおかしなことだと言われる苦しさを、苦さを知ってから?

 それに、あの恐ろしい火事のこと。火傷はもう治って、赤くなったところが残っているだけなのですが、炎の記憶は今でも時々夢で莉麗を襲います。

 でも、それさえもエドワードと離れなければならなくなったことに比べればまだ辛くはなかったのです。

 振り返ってしまえば早いようですが、この五年間は一日一日がとても長くて、何ヶ月も続くかのように思えました。


 お父様もやっと諦めてくれたのです。莉麗は決してエドワードを忘れたりしないと、華夏の若い男の人をいくら紹介されても、そちらを好きになったりしないと。租界の法では十六歳から結婚できるということなので、特にこの一年は何度もお願いしていたのです。

 莉麗はもう十七歳なのですから、いつ結婚してもおかしくないということなのに。もっとも、玉蓮ユーリェンもまだ決まった人がいないので、お父様はやっぱり娘が大事過ぎるということのようです。香蘭奥様と金蓮ジンリェン奥様が口を揃えることでした。




 髪を整えてお化粧もしてもらって大庁ひろまへ行くと、香蘭奥様が笑顔で迎えてくれました。


「莉麗、とても綺麗よ。ラドフォード様も喜ぶでしょう」

「ありがとうございます、太太おくさま


 あらかじめ聞かされていた通り、香蘭奥様は礼儀作法や女の子の嗜みにとても厳しいのです。だから、奥様に認めていただいたということは本当に綺麗にしてもらえたということなので、莉麗は一安心しました。


 今日は莉麗の大事な日ということで、別邸から金蓮奥様と玉蓮も見送りに来てくれています。

 香蘭奥様や玉蓮と違って、金蓮奥様は眉を顰めていましたけれど。洋装をした莉麗を頭のてっぺんから爪先まで眺めると、金蓮奥様は莉麗をぎゅっと抱き締めました。


「やっと馴染んできたのにワイライフーのところにやってしまうなんて可哀想に。旦那様もひどいわ」

「金蓮奥様。でも、私の好きにさせてくれたことですから」


 髪型が崩れないように金蓮奥様をなだめながら、莉麗は笑って見せました。


 華夏語が話せるようになってみると、金蓮奥様はとてもお喋りで、でも、玉蓮や香蘭奥様が言っていた通りに心配性で租界のことを苦手に思っている人でした。エドワードと結婚するということも、まるで悪い人に攫われてしまうように思っているようなのです。


「莉麗はシュイジャオもまともに包めないのに。お嫁に行くのは早すぎるわ」


 それに、料理や裁縫に関しては、金蓮奥様は香蘭奥様と同じくらい厳しいのでした。お説教になりそうなので、玉蓮に向けて苦笑してみると、玉蓮は呆れたように言ってくれます。


「莉麗は洋菓子なら母様よりも上手よ。租界に行くのだから別に良いじゃない」

「そもそも今日にも嫁ぐ訳ではないのよ。夕方には帰ってくるのに大げさね」


 玉蓮と香蘭奥様に口々に言われて、金蓮奥様はでも、と言いながら莉麗を離してくれました。代わりに莉麗を抱き締めるのは、玉蓮です。


「頑張ってね、莉麗。ひどいことをされたら父様に言いつけるのよ」

「大丈夫だと、思うけど……」


 玉蓮までエドワードを悪い人だと思っているようで、莉麗は困ってしまいます。お父様が――名前はそうと言わないけれど――言っていたことでは、エドワードは正式に商会継いで華夏との取引を増やしているそうです。莉麗を迎えるためにしてくれているに違いないので、莉麗もお勉強を頑張ることができたのです。


「用意は良いか? そろそろ、行くぞ」


 そこへ声を掛けたのはお父様です。莉麗と同じように、今日は洋装をまとっています。


「はい、お父様」


 不機嫌そうにしているのがおかしくて、莉麗は玉蓮と顔を見合わせて笑いました。頑張って、と口の動きだけで言われたのに大きくうなずくと、莉麗はお父様の腕を取ってお屋敷を出ました。




 この五年の間にも、租界へ行ったことはありました。香蘭奥様や玉蓮と交代で、お父様の仕事の関係の人とお茶会をしたり夜会に出たりしたのです。

 だから、馬車の窓から見える景色も、もう慣れたものです。リリー・メイだった時にも何度も通った道でしたから。それでも、エドワードと会うための道だと思うと、いつもよりも何か輝いているようにさえ思えました。

 うきうきと弾む気持ちに任せて、莉麗はお父様にいたずらっぽく問いかけました。


「お父様、今日紹介してくださるのはどんな方?」


 すると、思った通りにお父様は顔を顰めました。元々、今日は朝から怖い顔をしていたのですが。


「……莉麗とは一回り以上も歳が離れている男だ。良い歳をして結婚もしていないからつまらない男なのだろう」

「まあ、それなのにどうして会わせてくださるの?」


 莉麗がくすくすと笑うと、お父様はふいと顔を窓の外に背けてしまいました。


「取引先としては大事なのだ。外来戸には珍しく華夏のことをよく学んでいる」

「その方は格好良いのかしら?」


 お父様は莉麗の方を振り向くと、一層嫌そうな顔をしました。莉麗の笑顔が、それほど晴れやかだったのでしょう。


「――知らない。自分で確かめれば良い」

「そうするわ」


 お父様がまた顔を背けてしまったので、莉麗は声を立てて笑いました。




 でも、懐かしいお屋敷の前に着くと、莉麗の笑顔は消えてしまいました。中に入ればエドワードに会える。そう思うのに、今になって怖くなってしまったのです。

 五年も会っていなくて、本当に好きなままでいてもらえるのでしょうか。華夏との仕事も、結婚していないのもたまたまだったらどうしましょう。

 それに、莉麗の姿は五年前とは全然違います。背も伸びたし、体つきも変わってしまいました。リリー・メイと同じ子だと、気付いてもらえないかもしれません。


「莉麗? どうした?」


 怪訝そうなお父様の腕に、莉麗はしがみつきました。


「どうしよう、お父様。怖くなっちゃった」

「では、また今度にするか? 馬車の中で待っていれば良い」

「それも嫌だわ。やっぱり会いたいの。でも……」


 お父様が嬉しそうに破顔したので、莉麗は慌てて首を振りました。五年もの長い間離れ離れだったのです。こんなに近くまで来たのに会わないで引き返すことなんてできません。ただ、どうしようもなく不安だというだけなのです。


「お父様、手を握っていて。引っ張って欲しいの」

「……分かった」


 がっかりしたようにため息を吐きながら、それでもお父様は言う通りにしてくれます。お父様の大きな手を握ると、やっと少し安心できて、莉麗は小さい子供のように手を引かれて、うつむきがちにお屋敷の中へと導かれていくのでした。


 客間に通されても、だから、莉麗は恥ずかしくて顔を上げることができませんでした。お父様が紹介する声が頭の上を通るのを聞くだけです。


「エドワード。言っていた通り、今日は下の娘を連れてきた。莉麗リリーという」

「とても可愛らしい令嬢だ。どうして真っ直ぐに顔を見せてくれないのだろう」


 エドワードの声はちっとも変わっていないので、莉麗の心臓が拍子を飛ばしたように急に高くなりました。うつむいた視界には、ぴかぴかに磨いた靴だけが映っています。少し顔を上げれば、何度も夢に見てずっと思い描いてきた大好きな顔が見られるはずです。でも、自分の顔も見られてしまうと思うと、どうしてもそれはできなくて、お父様の手を握る手に力が篭もりました。


「いつもは人見知りしない娘なのだが。お前のことが怖いと言っていたぞ」

「……嫌われてしまったのかな」


 お父様が意地悪なことを言うので、そしてエドワードがとても傷ついたような声だったので、莉麗は勢いよく顔を上げました。


「そんなことない! ずっと会いたかったの!」


 すると、驚いたように目を瞠ったエドワードの顔が目に入りました。


 思い描いていたのと全く同じ――という訳ではありませんでした。五年間で莉麗が大きくなったように、エドワードも同じ時間を過ごしていました。仕事のせいなのか、少しやつれたように見えるし、背丈の差も、見上げるほどではなくなっています。

 それでもきらきらと光る冠のような金の髪も、晴れた空みたいな青い目も、大好きなエドワードそのままでした。だから、莉麗は頬を染めて、唇を軽く開いたままで、言葉を失ってしまいました。


「リリー。いや、莉麗、か……? 綺麗になった……!」

「エドワード」


 口元をほころばせたエドワードが、莉麗の方へ手を伸ばしました。大好きな声に名前を呼ばれるのも恥ずかしくて、莉麗はまたお父様の腕に顔を隠すようにしてしまいます。


「娘が怯えている。気安く近づくな」

ラオジュ、だが……」


 エドワードはお父様と莉麗を交互に見ました。悲しそうに曇ってしまった目を見て、莉麗の気持ちが変わってしまったと疑っているのが分かって、莉麗はお父様の腕を振り払ってエドワードに駆け寄りました。

 懐かしくて愛しい青い目を、前よりもずっと近いところにある目を見つめて、懸命に訴えます。


「違うの、怖くなんかないわ。愛してるのエドワード……ただ、恥ずかしくて。……私、変わってしまったから……」

「リリー。私、と言うようになったんだね」


 しみじみと言ったエドワードに、莉麗は一層顔が熱くなるのを感じました。自分のことを名前で呼ぶなんて、とても子供っぽいことだったのです。


「大人になったの。お勉強もたくさんしたし、夜会にも出たの」

「うん。ジュ家のお嬢さんたちのことは聞いていたよ。だから、立派なレディになったのはわかっていた。でも……」


 でも、がどう続くのか、聞きたい気も聞きたくない気もしました。とにかく、莉麗の身体は言うことを聞いてくれなくて、エドワードの瞳に見入ることしかできません。


「こんなに綺麗になっているとは思わなくて、心臓が止まるかと思った」

「また、好きになってくれた……?」


 綺麗、とは香蘭奥様や玉蓮がよく言ってくれることです。でも、エドワードから聞かされると全然違ったように聞こえました。涙で声が詰まりそうになりながら、莉麗は問いかけました。


「ああ。リリー・メイと同じように。それよりももっと。前にも言っただろう。君は何度でも私に恋をさせてくれる……」

「エドワード……!」


 エドワードは莉麗の頬に手を伸ばそうとして、そっと莉麗の背後を――お父様を――うかがいました。きっと、この上もない渋面をしているに違いありません。莉麗はエドワードから目を離して振り向くなんてできそうもありませんでしたけれど。


「庭を、見せてもらっているぞ」


 ため息に続いて、扉の閉まる音がしました。


 でも、二人きりになっても、エドワードは手をもう少し伸ばして莉麗に触れてくれることはありませんでした。だから、焦れてしまった莉麗は、もう一歩、エドワードに近づいて睨め上げました。


「エドワード。どうして抱き締めてくれないの? 前みたいに」

「リリー。莉麗。だって、君がすっかり大人になってとても綺麗になったから……」


 エドワードは莉麗から目を逸らして、莉麗が歩み寄った分だけ下がってしまいました。まるでが好きだと認める前のみたい、と思って、莉麗は唇を尖らせました。


「だって、ずっと離れ離れで寂しかったのよ。抱きつきたいし――キスもしたいわ」


 できれば、今度こそ恋人のキスを。なのに、エドワードはそんなに嬉しくないのかしら、と思って莉麗は不安になってしまいます。


「エドワードは……私に触れたくないの?」

「そんなことはない!」


 莉麗がさっき言ったのと同じ言葉を、エドワードは莉麗以上に大きな声で叫びました。そしてすぐに、また弱気な表情に戻ってしまいます。


「抱きしめたいしキスもしたい。……その他のことも。ただ、君はもう小さい子供じゃないから簡単にそうしてはいけないと思って……いや、子供に対しては別の意味でいけなかったんだが……」

「じゃあ、まだ好きでいてくれるのね」

「当たり前じゃないか! 私がこの五年どんな思いで……!」


 莉麗はエドワードに最後まで言わせませんでした。離されてしまった一歩の距離を埋めてエドワードの背に腕を回すと、大きく見開かれた目を見上げて微笑みます。


「じゃあ、キスして」


 背が伸びた分、エドワードの顔が近くなったのは嬉しいことです。それでも、唇にキスをするには、背伸びをしてもエドワードにも屈んでもらわなければいけません。


 何秒かの間、エドワードは戸惑うように莉麗を見つめていました。半端な高さに腕を上げて、莉麗を抱き締めて良いのか迷っているようでした。だから、莉麗は辛抱強く微笑んで、良いのよ、と伝えました。


 そして。


 莉麗の背にもエドワードの腕が回ります。爪先が床から浮きそうなくらいに強く抱き寄せながら、エドワードがささやきます。


「老朱には、まだ秘密だよ」

「そうね。もちろん」


 莉麗は目を閉じると、エドワードの唇を受け入れました。柔らかくて温かくて、愛する人の吐息と鼓動を間近に感じて。


 エドワードが前に恋が苦い味だなんて言ったのは嘘でした。確かにこれほど苦しい思いをするなら恋なんていらないと思ったこともありました。エドワードが好きだからこそ、嫉妬や悲しみの苦さも知ってしまいました。


 でも、恋の味はそれだけではありません。


 だって、何よりも幸せな瞬間の味は、もちろん何よりも甘いものだったのですから。

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恋は苦い味がするとか 悠井すみれ @Veilchen

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