第56話 再見
寝室の扉が閉まりました。
失礼なことではあったのですが、リリー・メイにはそのことをよく考えることができません。ただ、エドワードにしがみつくことしかできないのです。
だって、明日には別れなくてはいけないと言われてしまったのです。リリー・メイは死んだことにして、全然違う女の子にならなければいけないそうなのです。ずっと過ごしたこのお屋敷を出て、大好きなエドワードとも離れなければいけないのです。
「エドワード……本当に、そうしなければいけないの? 最初に言っていた通りではダメなの?」
朱威竜のお屋敷に行くのは
「リリー、私の気持ちを考えてくれ。ベアトリスを屋敷に入れてしまったと、君に暴行していたと聞かされた時、頭が真っ白になって息が止まる思いだった。それで仕事を投げ出して帰ってきてみれば、離れが燃えていて君は中に取り残されてるなんて。君の声が聞こえなかったら、一緒に燃え尽きてしまおうかと考えていたよ」
「そんなこと言わないで!」
燃えていく部屋の中にひとり残されるのは――その時は阿片でふわふわとした気持ちだったのですが――恐ろしい記憶でした。助けられて阿片から醒めてからは身体中が痛くて、熱が出たり咳き込んだりするのとは全然違っていて、今まで怪我といったらちょっと擦りむいたり刺繍針で指先を刺してしまったりするくらいだったリリー・メイは、痛みでまた死んでしまうかと思ったくらいだったのです。
エドワードまであの炎の中をくぐって、大怪我をするところだったと思うと、また煙に襲われたかのように息が詰まってしまうのです。
「うん、だから君が助かって良かった。またこうして一緒にいられて良かった」
エドワードの手が優しくリリー・メイの髪を梳きました。肩につくかどうかくらいに短くしなければならなかったのですが、髪ならいくら触れても痛いということはないので、よくこうして撫でてくれるのです。
「でもね」
聞きたくないわ、と示そうとしてリリー・メイは首を振ってエドワードの手から逃れました。でも、エドワードはリリー・メイを抱き寄せると、はっきりと告げました。
「ただ好きだから一緒にいたい、では駄目だったんだ」
「だから
「それだけでは足りなかった」
エドワードが何て続けるのか聞きたくなくて、リリー・メイは耳をふさごうとしました。でも、エドワードの腕に阻まれて手を上げることができません。無理に動こうとしたらまた痛いし、でも聞くのも嫌でどうしようもできなくて、リリー・メイはエドワードの胸に額を押し付けました。
「問題は、私たちは血が繋がっていると思われているというだけではなかった。歳が離れていることも、君が華夏人の見た目なことも。それはどうしようもないことで、私たちが一生戦わなければいけないことだ。
でも、せめて子供の頃から育てた君に恋してしまったという――悪評、は避けられる」
「そんなにおかしなことなの!? エドワードはリリーを育ててくれたのよ。お父様もお母様もいなかったのに、何もかも与えてくれたの。好きになるのは当然じゃない!」
「ありがとう。
でも、それが愛になるのは、世間では不自然だと、おかしなことだと思われてしまう。私の方も。小さい姪を妹のように可愛がるのは良くても、恋をしてキスをしたいと思うのはいけないこととされているんだ。ジェシカを見て分かっただろう」
ジェシカを考えるのも、お姉様のことと同じように悲しくて胸が締め付けられることでした。
離れが燃えてしまって、リリー・メイが怪我をしてしまったのは確かにジェシカのせいかもしれません。でも、ジェシカだってリリー・メイを思ってやったことだったはずなのに。お茶を淹れてくれたり、寂しい時に話し相手になってくれたりしたジェシカを思い出すと、そして今お世話をしてくれているのは違う人だと思うと、あんなに楽しかった日々には戻れないと思い知らされるのです。
「リリーは、ジェシカも大好きだったのに……」
「ジェシカもそうだったと思う。でも、分かってくれなかった。それくらい、難しいことなんだ」
リリー・メイは唇を噛みました。リリー・メイを大好きなはずのジェシカにまで、エドワードと結婚するなんておかしいと思われてしまったのでしょうか。
エドワードと朱威竜の言うことを聞かなければならないと分かりかけて、それでも嫌でたまらなくて、リリー・メイはエドワードを見上げて訴えました。
「全然会えないって訳ではないわよね? 老朱はそう頻繁には会えないって言っていただけだもの。時々は、会えるってことよね?」
「リリーは私の取引先のことを知らないだろう? 老朱に引き取られても同じことだ。仕事を始めたばかりの相手と頻繁に家族ぐるみで会っていたらこうする意味がない。……だから何年かは会わない方が良い」
「そんなの嫌……!」
何年間も、一度もエドワードと会うことができないなんて、考えるのも恐ろしいことでした。言葉にならない思いがもどかしくてエドワードの胸を叩くのですが、痛いのは火傷が擦れたリリー・メイの方で、心と身体、両方の痛みにリリー・メイの目に涙がにじみます。
「リリー、大丈夫だから。またこうして触れ合える日は必ず来る」」
エドワードが髪を撫でてくれても、今はちっとも嬉しいと思えませんでした。また、がいつになるかなんてさっぱり分からないのです。
「お兄様と関係のない子になってしまうなんて嫌!」
また名前を呼び間違えてしまいます。もう妹だなんてつもりはないのに。リリー・メイはエドワードを、お兄様としてではなく愛しているのに。それくらい、どうしたら良いか分からなくなってしまっているのです。
「離れたくらいで、書類の上での結びつきがなくなったくらいで関係がなくなると思う?」
エドワードは辛抱強くリリー・メイに語りかけました。
「それに、例えなくなったとしても、また新しい関係が始まる。君は華服も似合っていたし、これからどんどん美しくなる。どれだけ離れても、いいや、離れた分だけ、君に新たに惹かれるに決まっている」
「お兄様。エドワード」
エドワードの言葉も、優しい目もとてもしっかりとしていて、リリー・メイの不安を少しだけですが和らげてくれました。本当に、エドワードの言うとおり大丈夫ではないのかと思えて、身体から力を抜くことができました。
「何度でも、私を恋に落としてくれ。リリー・メイ」
そこへそうささやかれて、リリー・メイこそまたエドワードに恋をしてしまったようでした。頬が熱くなったのが分かります。きっと真っ赤になっているのでしょう。心臓もどきどきとしてきました。
「リリーも……
恥ずかしいけれどエドワードから目を離せないでいると、エドワードは微笑みました。朱威竜に殴られてしまった頬が赤くなっていて痛そうです。でも、痛いのは身体だけではないのでしょう。青い目をのぞき込めば、エドワードもリリー・メイと同じように悲しくて寂しいと思っているのが分かります。それでもエドワードは微笑んでくれました。
「老朱を説得してくれる? できれば君が心変わりすれば良いと思っているようだった。華夏の若者を紹介するつもりなのかもしれない。彼の息子たちも、良い青年たちなのだろう。あの
「しないわ!
朱威竜のことをお父様と呼ぶのは初めてでした。これはまだ、ごっこ遊びのようなものです。リリー・メイは莉麗という華夏の女の子になった振りをしているのです。だからまだふざけているようなもので、くすくすと笑うことさえできました。
でも、自分のことを華夏人だと考えることで、確かにリリー・メイから莉麗へと気持ちが変わっていくのが分かりました。
「エドワード。リリーって、リリー・メイって呼んで。最後だから」
でも、今は。明日が来る前は。リリー・メイはリリー・メイです。思うさまエドワードに甘えて抱きつく子供のリリー・メイです。手のひらに汲んだ水が流れ落ちるように瞬く間に過ぎてしまう短い間ではありますけど、今だけはエドワードを抱き締めて、優しく呼んで欲しいと思いました。
「リリー・メイ、愛しているよ。いつも君を想っているだろう」
「リリーも。エドワードをずっと愛するわ……」
愛していると言われて、愛していると返すのは、前は涙が出るほど嬉しいことでした。でも、今は涙が出るほど悲しくなってしまうので、リリー・メイはエドワードの服でこっそりと涙を拭きながらつぶやきました。
翌朝、朝もやも晴れないうちに朱威竜は迎えにきました。誰にも見られないように。リリー・メイがいなくなってしまうのをどうやって死んでしまったことにするのかは分からないのですが、エドワードが全てやってくれるそうです。
「もっと泣きはらした顔をしているかと思った。良かった」
身の回りの本当に少しの荷物だけを鞄に詰めたリリー・メイを見て、朱威竜は微笑みました。でも、リリー・メイが悲しいのは分かってくれているのでしょう。どこか気遣うような感じがしました。
「今日は、奥様は……」
「屋敷で莉麗を迎える準備をしている。玉蓮も呼んであるから寂しくないだろう」
「ありがとう、ございます」
エドワードが朱威竜に何か
「今までリリーに出されていた薬と、今回の火傷の処方の書付だ。参考にして欲しい」
「感謝する」
朱威竜はうなずくと、リリー・メイを促しました。
「名残は尽きないだろうが切りがない。人目につく前に帰ろう」
帰る。今まではお客様としてお邪魔していたお屋敷へ。とてもおかしな感じがしました。でも、きっと朱威竜もわざとそう言ってリリー・メイに覚悟を決めさせようとしているのだと思います。
リリー・メイは首を痛いほど巡らせて、お屋敷の様子全体を目に収めようとしました。そして――
「エドワード……あの、」
何と言ったら良いか分からなくて口を開けたまま棒立ちになってしまいました。
何年も帰ることができないのですから、いってきます、が相応しくないとは分かっています。でも、だからといってさようなら、とかごきげんよう、なんて言ったらもう二度と会えなくなってしまうような気がしたのです。
「リリー。何て言ったら良いかな……」
エドワードも同じ気持ちなのでしょう、困った顔で立ち尽くしています。
すると、朱威竜がため息を吐きました。
「
「え?」
突然聞こえた華夏語の響きに朱威竜を見上げると、リリー・メイの髪を撫でながら教えてくれます。優しい、でも、エドワードがするのとは違う触れ方でした。
「再見、と言いなさい。華夏の別れの挨拶だ」
「お別れじゃ、ないわ……」
「分かっている」
朱威竜は――それとも、もうお父様と呼んだ方が良いのでしょうか――リリー・メイに微笑みました。
「また、会うという意味だ。華夏では別れは永遠のものではなくて、常に次に会うことを考えているのだ」
リリー・メイはつぁいじぇん、と口の中で転がしました。華夏語の発音は難しいのです。きちんとできているか分かりませんでした。でも、朱威竜が言ったことはとても素敵だと思いました。リリー・メイとエドワードは一時離れ離れになるだけです。また、会えるのです。
「エドワード、また、会いましょう」
「ああ……必ず」
エドワードを見上げると、くしゃりと顔を歪めてリリー・メイを抱き締めました。火傷を気遣っているので、とても弱くでしたけれど。リリー・メイは、でも、心の方がずっと痛かったのでエドワードの背に思い切り腕を回しました。身体中にずきりと走る痛みと共に、エドワードの温もりも刻みつけます。
「再見、リリー」
「……つぁい、じぇん」
そして、リリー・メイは朱威竜の方へ駆け寄ると、手を引かれて今までずっと暮らしてきたお屋敷の門を出ました。
「……永の別れという訳ではない。たまには手紙を渡せることもあるだろう」
「ええ……」
馬車の中で朱威竜が慰めるように言ってくれましたが、リリー・メイは上の空でした。
窓の外の景色は、もう動き始めていてお屋敷も見えなくなってしまっています。それでも、エドワードの姿を求めて、リリー・メイは窓の外を見続けました。
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