第55話 後始末
離れが燃えてしまってからしばらくの間、リリー・メイはベッドから動くことができませんでした。身体中がまだ火の中にいるように熱くて、気を失っては痛くてまた起きて。ずっと悪い夢の中にいるようで、ずっと炎の中を逃げ惑っているようで、それが何日だったのかもよく分かりません。
そしてやっと起き上がれるようになった頃、
「
リリー・メイの姿を一目見て名前を呼んだきり、朱威竜は強ばった表情で立ちつくしてしまいました。
そんなにひどく見えるのかしら、とリリー・メイは自分の身体を見下ろします。
もちろん火傷はまだ全然治っていないから服の下は湿布やガーゼだらけだし、いつも軟膏や消毒薬の臭いがして食事もあまり美味しくないのですが、目に見えるところで目立つのは包帯を巻いたままの手くらいのはずです。後は、焦げてしまった髪をかなり短く整えたのも。でも、髪なんてすぐに伸びるし痛いことではないから別に構わないと思っています。
「何てこと。女の子なのに」
香蘭までが目を潤ませたので、リリー・メイは首を傾げてしまいました。
それよりも香蘭がドレスを着ているのを見たのが初めてだったのでしげしげと――少し不躾に――眺めてしまいます。
「来てくれてありがとうございます、
素敵ですね、と言い切ることはできませんでした。朱威竜の大声に遮られてしまったのです。
「エドワード、お前は一体何をしていた!?」
そして、乾いた音が響きます。ベアトリスお姉様がエドワードを叩いてしまった時と似た、でももっとずっと重い音です。
「おに――エドワード!」
朱威竜がエドワードを握った拳でぶったのだと気付いて、リリー・メイは慌てて駆け寄ろうとしました。でも、全身に痛みが走って思うように動けません。
「莉麗、大丈夫……」
「え、ええ。エドワードは……?」
香蘭が支えてくれようとして、触れても良いのか迷ったように手を伸ばしたところで止まってしまいます。リリー・メイはというと、自分のことよりもエドワードが心配で、頬を抑えて俯いている姿に小さく悲鳴を上げました。
そして、その悲鳴もかき消すのは、朱威竜の怒鳴り声です。
「あの女が莉麗を恨んでいたのは予想できただろう! なぜ莉麗をひとりにした? なぜあの女を屋敷に上げた? 莉麗に大怪我をさせておいてどうしてお前はのうのうとしている!」
朱威竜がまた腕を振り上げたので、リリー・メイは痛いのも忘れてエドワードをかばって朱威竜に立ち向かいました。
「やめて! エドワードはちゃんと言いつけていたの。ジェシカがそれを破ってお姉様を入れてしまったのよ。それに、エドワードだって怪我をしてたの!」
「莉麗。だが……」
「いいんだ、リリー。老朱が怒るのも当然だから」
エドワードは頬を抑えて痛そうにしながら、リリー・メイを制しました
「でも……」
「火事の起きたその日に君が怪我をしたと伝えていたんだ。でも、君の具合が悪かったから今日まで我慢してもらってた。ずっと心配していたに違いないんだ」
リリー・メイはエドワードの頬にそっと触れました。ガーゼが取れたばかりだというのに、また赤く、少し腫れてきてしまっていました。
「――莉麗は怒っていないのか。そんな目に遭っておきながら……!」
リリー・メイがエドワードに寄り添ったからもう手を出すことができないのでしょう。朱威竜はぐっと拳を握りましたが諦めたように身体の脇に下ろしてしまいました。
「だって、お姉様が怒ったのはリリーが余計なことを言ったからだもの。仕方のないことよ」
お姉様、と口にすると胸が痛くなってしまうのを振り払うように、リリー・メイは両手を掲げて朱威竜と香蘭に笑ってみせました。
「それに、スプーンを持つのも痛いから、エドワードがあーん、ってしてくれるの。恥ずかしいけど嬉しいのよ」
「莉麗」
笑ってくれると思って言ったのに、香蘭はますます悲しそうな顔をして、朱威竜はますます険しい顔をしてしまいました。
壊れ物でも扱うように、香蘭がリリー・メイの髪を撫でてくれます。その手が震えていて、目も潤んでいたので、リリー・メイは驚いてしまいました。
「跡は、残らないの? 綺麗になるの?」
「ええと……」
よく分からないのでエドワードの方を見ると、代わりに答えてくれます。殴られたところがまだ痛いのか、少しはっきりしない発音で。とても申し訳なさそうに。
「不自由が残るようなことはないが……完全に跡が消えるかどうかは、何年か様子を見ないと、と」
それを聞いた香蘭は悲鳴のように、朱威竜は吐き出すようにリリー・メイには分からない華夏語をつぶやきました。朱威竜はまた拳をあげようとして、そしてエドワードの傍にリリー・メイがいるのを見て元のところに下ろしました。
「その女はどうなった。どのような罪になる」
エドワードは頬から手を外して、難しい顔をしました。ジェシカのことはもちろん、ベアトリスお姉様がどうなったのか、何度尋ねても教えてくれなかったので、リリー・メイは緊張してエドワードと朱威竜を交互に見比べました。
「……彼女が罪に問われることはない。今回のことは使用人の過失ということになる」
少しずつ、絞り出すようなエドワードの言葉に対して、朱威竜は鞭のように鋭い口調で言いました。
「生ぬるい。お前はそれで引き下がったのか」
「代わりに破談のことは追求されなくなった。更に恨みを買うよりも貸しを作ることにした」
「莉麗はまだ租界の法の元にあるのだろう! 華夏との混血だからと侮られたのか? 不当に傷つけられてどうして黙っていられるのだ」
リリー・メイが思わず震えてしまったほど、朱威竜の声は大きくて恐ろしいものでした。香蘭がそっと、壊れやすい砂糖菓子でも扱うようにリリー・メイの髪を撫でて、ベッドへ座らせてくれました。
朱威竜の鋭い刃のような目を受けて、でも、エドワードは前みたいにひるんだり弱気な顔を見せたりすることはありませんでした。
「ベアトリスは巻き込まれて怪我をした。療養のために本国へ帰って――そして、二度とこの
朱威竜はそっとため息を吐くと、リリー・メイの方をちらりと見ました。
「まったくもって生ぬるい。娘を傷つけられて黙っていろなどとは。できることならこの手で莉麗と同じ目に合わせてやりたい。だが……」
「リリーのためには、その方が良いと思う」
「そう、だな」
エドワードと朱威竜の視線を受けたリリー・メイは、困ってしまってただ首を傾げました。
「どういうこと……?」
「ベアトリスは君の出生を知ってしまった。それに、こんなことをした以上、罪を問うても自由になったらまた同じことをしようとするかもしれない」
「本当に二度と会うことがないのなら、それに越したことはない」
二人が口々に言うのを聞いて、リリー・メイは口を開きかけて、そして返す言葉が見つからないのに気付いてまた閉じてしまいます。
ベアトリスお姉様の名前を聞いただけでも胸がどきどきとして、炎の熱さや赤さや煙の味や臭いを思い出してじっとりと汗ばんでしまうのです。怒った顔でも笑った顔でも、またお姉様に会うことなんてできそうにありません。
だからほっとしても良いくらいなのですが、お姉様は一体どんな気持ちなのかしら、と思うと喜ぶのはとても悪いことのように思えるのです。
だからリリー・メイはわざと全然違うことを口にしました。
「ダニエルは……?」
エドワードは困ったように笑って少し間を置いた後、答えました。どう言ったら良いか、今考えたみたいです。
「ダニエルは、彼女が何をしたか聞いているようだった。顔をちらりと見ただけで話すことはできなかったが……呆然としているようだった」
「そう……」
本当に、とも聞き返すこともできなくてリリー・メイは俯いてしまいました。もしダニエルが怒っていたらもっと悲しくて辛くなってしまうでしょう。その背中を、香蘭が触れるか触れないかくらいにそっと撫でてくれます。
「あの子供も――ダニエルもきっと心配しているでしょう。早く治さなくてはね、莉麗」
「そのことだが――」
エドワードが、とても真剣な声で言いました。リリー・メイが訳もなく不安になってしまうほどに。
「老朱。頼みがある」
「莉麗のためになることならば聞こう」
エドワードは朱威竜に小さくうなずいて、軽く唇を舐めてから切り出しました。
「リリーを引き取ってもらうのを早めたい。今日、これからという訳にはいかないだろうか」
エドワードが言っている意味に気付いて、リリー・メイは叫んでしまいました。
「エドワード! どうして……っ!?」
そして痛くてかがみ込んでしまったところを、香蘭が支えてくれます。でも、言われたことがあまりにリリー・メイを揺さぶったので、もう一度力なく繰り返します。
「どうして……
そう、まだ二ヶ月もあると思ったからこそ、エドワードと長い間離れなければいけないのも我慢しようと思えたのです。その間に思い出をたくさん作って、お互いにずっと好きだと信じられるようになって、それからなら一時別れるのにも耐えられると思っていたのです。
まだ身体中痛いのに、また炎の中にいる夢を見てうなされることもあるのに、エドワードと離れてしまうなんて耐えられそうにありませんでした。
「理由を、聞こうか」
手威竜はリリー・メイを見て眉を寄せた後、エドワードに向き直りました。
「私は何もかも甘く見過ぎていたと思う。姪とされている子供を愛すること、そのために婚約破棄すること、それに
ベアトリスは、決して彼女を許すことはできないが、租界では正しい。ジェシカも――彼女を招き入れてしまった召使も、私よりもベアトリスを信頼したんだ。
だから、リリーの人生に私は関わっていない方が良いと考えた」
リリー・メイの喉がひっという悲鳴を上げて、肩を抱いていた香蘭の指先に力が篭もりました。
「莉麗を、捨てると言うのですか」
香蘭の声は今まで聞いたこともないくらい鋭くて冷たい響きをしていました。
「エドワード……リリーと離れ離れでも良いの!? 二人で幸せになるって、言ったじゃない!」
何て我がままなことを言うのかしら、と思いながらもリリー・メイはエドワードを責めてしまいました。
ベアトリスお姉様が悲しむというだけでも申し訳なかったのに、お姉様はどこか遠くへ行ってもう帰ってこないそうです。ダニエルもきっと悲しいでしょう。そしてジェシカは今どこにいるのでしょう。
こんなにたくさんの人にひどいことをしてしまったのです。リリー・メイとエドワードが幸せに、なんて思ってはいけないことだというのでしょうか。でも――
「私の心は変わっていない! 必ず君と添い遂げる!」
エドワードは香蘭からリリー・メイを受け取ると、優しく抱き締めました。ずっと一緒にいるから、あまり痛くない触れ方も分かってくれているのです。
「ただ、私と君がずっと傍にいたということ、私たちのためにこれだけのことが起こってしまったことは、誰も知らない方が良いと思った。
単に君を朱家に引き取ってもらうだけでは足りない。ベアトリスの両親や、一度だけとはいえお茶会で会ったことのあるご婦人たち。私には彼らも信じられない。世間に血が繋がっていると思われている相手、それもこんなに歳の離れた相手を好きになってしまったと噂される恐れを少しでも減らしたいんだ」
「じゃあ……じゃあ、どうするの?」
エドワードの抱き締める力が弱いのがもどかしくてたまりませんでした。朱威竜や香蘭もすぐそばにいるし、リリー・メイの火傷を気遣ってくれているのだろうとは思うのですが。でも、痛くても良いから、エドワードがそこにいるのだということをしっかりと感じたいと思いました。
「リリー・メイは死んだことにする。可哀想な子供は火事に巻き込まれて召されてしまった」
エドワードの言葉を、朱威竜が引き継ぎました。眉を寄せたままで。怒っているというよりは、悲しそうな表情でしたけれど。
「私は
「そう。私は若く愛らしい華夏の少女に恋をして求婚する。幼い時から育てた子供を愛するよりも、ずっと受け入れられやすい話だ」
二人はそれで納得したようでも、リリー・メイはうなずくことなんてできませんでした。
「でも、イヤよ。今日すぐにだなんて。リリーが……死んでしまうなんて」
「リリー、私の心は変わらないから。名前や立場が変わっても、変わらずに君を愛するから」
「でも……」
涙が溢れて、ぽろぽろと頬を伝いました。顔の火傷はふさがってきたはずなのに、涙が染みる気がしました。それともこれは、心が痛いからなのでしょうか。
「自信がないの? 離れたら私を嫌いになってしまう? 私だって全然怖くない訳ではないんだ」
「ずっと好きよ、でも……」
でも、としか言えないでいると、朱威竜のため息が聞こえました。
「その様子では今日引き取るという訳にはいかないだろう。とはいえ日にちを置いては莉麗――リリーが火事で死んだとする効果が薄れる」
そして、とても可哀想なものを見るかのように、リリー・メイを見て顔を歪めます。
「明日また来よう。一晩で、心を固めておくが良い」
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