第54話 炎

 扉はすぐに炎の向こうになってしまいました。


 そこら中から床や壁板が燃えるばちばちというような音が聞こえて、煙が喉と目に染みます。咳き込みながら、リリー・メイは少しでも炎から遠ざかろうと床を這い回りました。

 でも、炎はとても早く広がってしまうので、安全なところなんてどこにもありません。怖くて怖くて涙が出てくるのですが、それも火の熱さですぐに乾いてしまいます。


 それに、何だか身体がおかしいのです。転ばされた時と、お姉様に床にぶつけられた時と。頭を打ってしまって目の前がぐらぐらする感じはあったのですが、それとは別に手足を自由に動かすことができないのです。

 とても眠いようなのに、どこか楽しいような。炎に包まれて怖くて熱いはずなのに、逃げなければと焦る気持ちが、ふわふわとした綿菓子みたいに溶けてしまうのです。床にへたりこんで炎が迫ってくるのを眺めている気分は――お姉様が言ったように――気持ちよくさえありました。

 大きくなっていく炎はもう怖いものではなくて、揺らめく花びらを持った薔薇が魔法の力でひとりでに踊っているようで、リリー・メイはぼんやりとうっとりと見とれました。


 辺りからは何か嗅いだことのない甘い香りが漂っています。これが、阿片の香りなのでしょうか。お菓子なんかの甘さではなくて、遠い国の花を思わせるような、肌にまとわりつくような不思議な香り。翡蝶フェイディエが死んでしまうまで溺れたという阿片の香り。この香りに包まれて、リリー・メイもこのまま焼かれて死んでしまうのでしょうか。


 それでも良いかしら。


 できるだけ煙を避けて床に横たわりながら、リリー・メイは部屋を見上げました。唐草模様の壁紙や、青磁の壺。天井にさえ素敵な絵が描いてあったのに、今は炎の花びらに彩られてどんどん黒くなってしまっています。翡蝶の部屋がなくなってしまいます。

 翡蝶が赤ちゃんの頃のリリー・メイと過ごしていたという場所です。でも、翡蝶が好きな人と引き離されて閉じ込められていた場所でもあります。だから、リリー・メイにはこの離れが燃えてしまうのが良いことなのか悲しいことなのか分かりませんでした。


 ただ、阿片の香りが煙が、もやのように頭の中をかすませています。きっと翡蝶もこんな風だったのでしょう。何もかもどうでも良くなって、夢の中のような気分にひたすら漂っていたのでしょう。だってきっと目覚めるよりも気持ちが良いから。


「違うわ……」


 本当に目を閉じようとして、リリー・メイははっとつぶやきました。はずみに煙を吸い込んでしまって、また咳き込んでしまったのですが。でも、その苦しさで少しぼんやりとした感じが醒めました。

 翡蝶は、ジュ威竜ウェイロンと引き離されたから阿片を使うようになったそうです。それに、アルバートと結婚させられたから。租界のお屋敷で、華夏フアシア人としてはいられなくなってしまったから。でも、リリー・メイは違います。

 華夏人でも租界の人でもない。本当のお父様のことを人には言えない、もしかしたら翡蝶よりも半端な子かもしれません。でも、玉蓮ユーリェンやダニエルのような友だちがいます。朱威竜や香蘭シャンランはリリー・メイのことを考えてくれていて、エドワードとの未来のためにお手伝いをしてくれます。


「エドワード……!」


 つぶやくと――喉が熱気で焼けそうでほとんど声にならなかったのですが――リリー・メイは扉へ向かって一歩踏み出しました。

 何よりも、誰よりも。リリー・メイはエドワードと一緒にいると決めたのです。勝手に死んでしまってはエドワードが一人になってしまいます。そんなことはできません。


 でも、いつもならほんの数歩の距離のはずの扉が、今はとても遠く見えました。阿片のせいか不思議とあまり熱いとは感じないのですが、それでも壁のように行く手を阻む炎を前にそれ以上進むことができません。

 手を伸ばしてみても、服の袖に火の粉が飛ぶのを見て慌てて引っ込めてしまいます。火を吹くドラゴンがリリー・メイを食べてしまおうと舌なめずりしているようでした。


「エドワード」


 もう会えないのかしら、と悲しくなってもう一度つぶやいた時でした。ごうごうと炎が壁や床を燃やしていく音に混ざって、大好きな声が聞こえました。


「リリー、どこだ、どこにいる!?」


 エドワードの声を聞いて、リリー・メイは必死に叫びました。


「ここよ、エドワード! 助けて!」


 煙にむせながらの頼りない声で、どこかで何かが焼け落ちる音の方がずっと大きくて。エドワードには聞こえないかと思いました。それでも、リリー・メイは何度も叫びました。苦しさと煙で涙を流しながら。


「ここだな!?」

「エドワード!」


 やがて、扉のすぐ向こうからエドワードの声が聞こえたので、リリー・メイはいっそう大きな声で――と思っただけで喉から出たのはかすれた声だけでしたが――呼びました。


「待っていろ」


 しっかりとした声に、今度は安心で涙がこぼれました。でも、同時に怖くなります。扉がもう火に包まれていました。取っ手も真っ赤になってしまっています。開けることなんてできないと思ったのです。


「エドワード、やっぱり良いわ。危ないもの!」

「下がっていなさい!」


 扉に何かがぶつかる音が何度か響いたかと思うと、炎の固まりのようになった扉板が内側に弾けるように倒れてきました。言われるまでもなく、それを避けて後ずさりすると、リリー・メイの足元からほんの少し先で床にぶつかって炎と火の粉を巻き上げました。


「リリー、良かった、間に合った!」

「エドワード……」


 そして、扉を破ってエドワードが入ってきました。力強く抱き締められて一瞬だけほっとするのですが、ジャケットのあちこちが焦げているのに気付いて、炎の中だというのにリリー・メイは凍えるような気持ちがしました。


「お兄様、大丈夫?」


 思わず前の呼び方をしてしまうと、エドワードが頬を微かに緩めて笑いました。そして、しっかりと立てないリリー・メイを抱え上げます。


「ひどい阿片の臭いだ。煙も。できるだけ息を止めていなさい」


 はい、とうなずく間もなく、口元に冷たいものをあてられました。水で濡らしたハンカチね、と気づいたのはリリー・メイを抱き上げたエドワードが廊下を戻り始めてからです。

 エドワードの胸にしがみつくようにしながら、リリー・メイは目に焼き付けました。翡蝶が暮らしていた場所、華夏風の綺麗な造りの離れの全体にまで炎が回っているのを。


「翡蝶の離れが燃えてしまうわ」

「黙って。そんなことはどうでも良い」


 エドワードはぴしゃりと言って、リリー・メイを腕に庇いながら炎をくぐります。

 ベアトリスお姉様はものを燃やして亡くなった人に届ける華夏の弔いのやり方のことを言っていました。空の上で翡蝶はまたこの離れに住むのでしょうか。喜ぶのでしょうか。

 阿片のせいか煙のせいか分かりませんが、ぼんやりとした頭でリリー・メイはそんなことを考えました。


 そしてやっと燃え落ちようとする離れから抜け出た時、冬の空は目に染みるほど青く澄んでいました。




 離れの外では、黒い制服と帽子の消防隊員が慌ただしく行き来していました。エドワードの新聞を横から覗いて、絵で見たことはありましたが実際に見たのは初めてです。いつもはのどかなお庭に険しい顔の人たちがたくさんいるのが怖くて、リリー・メイはエドワードにしがみつきました。


「リリー、火傷が――それに阿片も吸っている。手当をしてもらって休んでいなさい」

「エドワードは……?」


 リリー・メイはかすれた声で聞きました。

 そんなことを言われても、阿片を吸ったせいのふわふわと夢見るような気分は続いていて、どこも痛いところはないのです。それに、エドワードだって炎の中をくぐってきたから心配でした。


「私はこの場にいなければいけない。それに、大した怪我はしていないんだ」

「本当……?」


 疑わしく見上げると、エドワードは煤だらけの頬で笑って、リリー・メイの額にキスをしました。


「ああ、本当だよ。だから早く休みなさい」




 両手のひらを見下ろすと、皮がべろりと剥けていて真っ赤になって、血と透明な水のようなものがじゅくじゅくと滲んでいました。阿片のせいで痛みを感じないうちにひどい火傷をしていたのに気付いて、リリー・メイは気が遠くなってしまいます。


「早く、冷やさないと」


 倒れそうになるのを誰かが支えてくれて、リリー・メイは荷物みたいに運ばれていきます。煙と阿片ですっかり利かなくなってしまった鼻に、消毒液とお薬のつんとする臭いが届いたので、きっとお医者様でしょう。


 お屋敷の中の一室では暖炉で火が赫々あかあかと燃え盛っていました。煉瓦れんがに囲まれた中であっても、真っ赤になって炎をまとった石炭が怖くて、リリー・メイは身体を固くしてしまいました。

 部屋には陶製の浴槽も置いてあって、たっぷりと水がはってあります。どうするのかしら、と思っている間に、リリー・メイはとぷんと浴槽に漬けられてしまいます。服を着たままお風呂だなんて変な感じです。でも、お風呂にしては水が冷たくておかしいわ、とも思うのでした。


「冷た過ぎはしない? 声は出ないでしょうから大丈夫だったらうなずいて」


 横を見ると、浴槽の脇に白い帽子で髪を隠した看護婦さんが屈んでいました。見慣れない人に少し緊張しながら、リリー・メイは黙ってうなずきました。

 看護婦さんは、冷たい水の中で少しずつリリー・メイの服を脱がせていきます。服もかなり燃えてしまったこと、生地がリリー・メイの身体に焼け付くようになってしまったこと、それを剥がすと恐ろしいただれや水ぶくれがたくさんできていることに気付いて、怖くて見ていることができなくてリリー・メイはぎゅっと目を閉じました。


「眠ってしまいなさい。阿片が効いているうちに」


 リリー・メイの肌を手当しながら、看護婦さんがつぶやきました。そして、その言葉を最後に、リリー・メイはどんなことをされたのか分からなくなってしまったのです。




 リリー・メイは痛くて目が覚めました。身体中が熱くて、まだ燃える離れの中にいるのかと思ったくらいです。声にならない悲鳴をあげたところに、額に冷たいものを感じました。濡れた布を載せてくれたようです。


「お嬢様、お気の毒に。冷えた果汁なら飲めるでしょうか」

「ジェシカ……?」


 つぶやいたつもりが、かすれたため息のような音しか出せませんでした。

 少しでも身体を動かすと痛いので、目だけを動かして枕元をうかがうと、スプーンで果汁を差し出しているのはジェシカではない召使でした。顔は知っているしお喋りすることもあるけれど、ジェシカほど親しい訳ではありません。


「ジェシカは?」


 冷たい林檎の果汁を飲み込むと、もう少しだけはっきりした声が出せるようになりました。でも、その召使は答えないでもう一口果汁をリリー・メイの口に流し込みました。


「跡がひどく残ってしまうということはないということですわ。エドワード様も落ち着いたらすぐにいらっしゃいますから。……ご気分は?」

「気持ち悪いわ……」


 熱を出したときとは違う、とても嫌な感じが全身を襲っていました。火傷がなければベッドの中でごろごろと転げまわって気を紛らわそうとしていたでしょう。でも、痛くてそれはできないので、リリー・メイはただ小さく首を振りました。


「阿片の副作用ですね。本当に、可哀想に」


 甘い果汁がほんの少しだけ痛みを和らげてくれるようでした。でも、この人はジェシカではないので心配になってしまいます。


「ねえ、ジェシカは?」

「寝てしまうのが良いでしょう」


 召使は決してリリー・メイの問いには答えてくれなくて、それでも優しく言いました。痛いのと熱いので確かにとても疲れてしまって、リリー・メイはまたすぐに眠ってしまって――そして次に目が覚めると、枕元にはエドワードがいて、リリー・メイの顔を覗き込んでいました。


「お兄様――エドワード」


 また呼び間違えてしまったからか、エドワードはほんの少し笑いました。その頬を白いガーゼが覆っているのを見て、リリー・メイは息が止まりました。


「やっと来ることができた。大丈夫……ではないのだろうが、とにかく君が無事で良かった」


 そして、エドワードは自分がひどい怪我をしているかのように辛そうに顔を歪めました。


「すまない。私の考えが甘かった。君と結婚できると思って舞い上がって――ベアトリスのこともジェシカのことも、全く気持ちを考えていなかった」

「それは……リリーも一緒よ」


 ベアトリスお姉様があんなになってしまったのは、リリー・メイのせいでもあるのです。エドワードと一緒にいられればそれで良いと思ったのですが、それはお姉様が悲しい思いをしても仕方がないということだったのです。

 リリー・メイは悲しそうなエドワードの頬に手を伸ばしたいと思いましたが、触って良いのか分かりませんでした。それに、そもそも腕がまだ上がらないようでした。

 気まずい沈黙のあと、エドワードはリリー・メイを覗き込んで励ますように微笑みました。


「――ひどく痛むよね。痛み止めもあるが阿片が入っているからどうしても私は嫌で。でも、君が耐えられないなら――」

「いらないわ」


 まだ気持ちが悪くて、これが阿片の効き目なのだと思うともう味わいたくなくて、リリー・メイはエドワードが言い終わる前に遮りました。倒れてしまうのはもともとよくあったことです。ちょっといつもより具合が悪いだけだと思うことにします。

 それから、リリー・メイは気になっていたことを尋ねました。


「ねえ、ジェシカは無事なの?」


 エドワードは悲しそうに微笑みました。リリー・メイの髪に触れるか触れないかのところを撫でてきます。


「怪我という意味ではジェシカは何事もない。ただ、会いに来ることはできない」

「どうして?」

「私は決してベアトリスを屋敷に上げてはいけないと言っていたんだ。でも、ジェシカはそれを破ってしまった。様子がおかしいベアトリスを見て私を呼びにやってくれたのも彼女だが、それでも君に会わせることはできない。分かるね?」


 ジェシカを最後に見た時を思い出すと、同時に炎の記憶が蘇ったのでリリー・メイは何秒間か目をつむりました。真っ赤な石炭と、床や壁を舐める炎。息を詰まらせる煙。崩れていく家具。それを振り払うために。

 それからやっと口を動かすことができました。


「……お姉様は……」

「ベアトリスにももう会えない。彼女の家族がそうさせない。醜聞になるから、もう誰も彼女には会えない」

「そうなの……」


 リリー・メイはまた目を閉じました。何もかも億劫で、またすぐに眠ってしまいそうです。でも、もうひとつだけ聞きたいことがありました。


「離れはどうなったの?」


 まぶたの裏の暗闇に、エドワードの声が響きます。


「全焼とまではいかなかったが、柱もかなり崩れてしまったからね。取り壊すことになるだろう」


 多分答えは分かっていたと思うのですが、リリー・メイはため息をつきました。


「翡蝶のものだったのに……」

「そうだね。でも、もう彼女はいないから」


 エドワードの声がとても静かなものだったので、リリー・メイは思わず目を開けました。身体中痛むからほんの少ししか目を動かせないのですが、エドワードは声と同じように静かに微笑んでいました。


「離れを手入れし続けながらなかなか入ることができなかったのは、やはり翡蝶を忘れられなかったからだ。彼女を慕うと同時に彼女の死に罪の意識を感じていた。ずっと彼女に縛られていた」


 エドワードの指先がそっとリリー・メイの頬に触れました。


「焼け落ちていく離れを見ながら私が考えていたのは君を守ることだけだ。君が、翡蝶の記憶から私を解放してくれた。勝手な気持ちの押し付けではなくて、愛することを教えてくれた。これほどのことになっても、やっぱり君が愛しい」


 リリー・メイは何も言うことができなかったので、疲れと熱っぽさに任せて寝てしまうことにしました。


 ベアトリスお姉様。ジェシカ。それに、もしかしたら翡蝶も。


 リリー・メイとエドワードが幸せになるためにいなくなってしまった人たちがいるのがとても怖くて。でも、同時にエドワードの気持ちが嬉しくて。言葉にすることなんかできなかったのです。

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