事件

第53話 灰は灰に

 リリー・メイが顔を上向けて目を閉じると、エドワードの唇が額をかすめました。お返しに、リリー・メイも背伸びをして少し屈んだエドワードの頬にキスをします。


「いってらっしゃい、……お兄様」

「ああ、リリーも良い子で」


 エドワードはリリー・メイの頭を撫でるとお仕事へと出掛けて行きました。


 暗い色のコートを着たすらっとした背中が、颯爽とした足取りで出て行くのを見送って、エドワード、とつぶやくのは心の中だけです。

 ジェシカたち召使がいる前ではお兄様と呼ばなければいけないのです。エドワードと呼べるのは二人でいる時だけです。それでもふとした弾みにまたお兄様と言ってしまうこともあって、そうすると妹に戻ってしまったの、なんてエドワードにからかわれてしまうのです。


 ジュ威竜ウェイロンのお屋敷に移るまで本当にあと少し、二ヶ月あるかどうかです。いってらっしゃいのキスも、二人でのお勉強も、お兄様と呼び間違えるのも、もう少ししたらできなくなってしまいます。だから、どんなことでもエドワードと過ごす時間は大切にしないと、とリリー・メイは決めているのでした。




ウォーシー……私は……」


 華夏フアシア語の勉強にも身が入ります。朱威竜のお屋敷の人たちとちゃんとお喋りできるように、今から少しでも多くの単語を覚えておかないといけません。

 いつもはしない舌の動きも使って発音しなければいけないので練習していると疲れてしまうのですが、そのおかげか、最近ではかなりそれらしい――朱威竜や香蘭シャンランが喋っている時のような――音が出せるようになってきたと思います。


 冊子ノートの頁を何枚か華夏の文字で埋めた頃、扉をノックする音がしてジェシカの声が話しかけてきました。


「お嬢様、お茶の時間ですよ。今日は華夏の点心ですから、離れでいただきましょう」

「はあい」


 点心は点心ディエンシン、と心の中でつぶやきながら、リリー・メイはペンを置いて立ち上がりました。

 そして、離れへと向かう廊下を歩きながら、年配の召使を見上げておねだりします。


「ねえジェシカ、手を繋いでくれる?」

「まあ、珍しいこと。もちろんですよ」


 微笑みと共に差し出された手を握ると、エドワードよりも小さくて、すこしかさかさとしていました。


 朱威竜のお屋敷に移ったら、ジェシカとも会えなくなってしまいます。エドワードはちゃんと新しい仕事を紹介するから大丈夫だと言っていますが、それでも寂しいのはどうしようもありません。

 だから、リリー・メイはジェシカとの思い出も、この手の温かさもしっかりと覚えておこうと思うのです。




 華夏風に造られた離れも、しっかりと目に焼き付けようとリリー・メイは首をめぐらせて隅々まで見渡しました。

 窓枠の細工も、屋根に載った魚のような彫刻も、冬になって周りの草木が色あせたので、一層鮮やかに見える朱色の柱や明るい色の瓦も。全て忘れないように。


 もちろん、エドワードと結婚したらまたこのお屋敷に戻ってくることができるのでしょうが。でも、思い返すとこの離れに対して抱いた気持ちも前とは全然違うものなので、とても不思議な感じがするのです。

 最初は異国風のエキゾチックな綺麗な建物というだけでした。それから、エドワードはずっと翡蝶フェイディエのことを好きだったのだと思ってしまって、何だか嫌なところだと思ってしまいました。そして今は――アルバートが翡蝶を閉じ込めていたところだと思うと悲しい場所のようにも思います。でも、お母様が住んでいたところでもあるので、何だか懐かしいような気持ちもあります。

 短い間でこんなに考え方が変わってしまうなんて、前は想像もしていませんでした。


「こちらの部屋ですわ」

「ええ」


 部屋の中の様子もよく見ておかなくちゃ、それから今度はエドワードも一緒にお茶がしたいわ。


 そんなことを考えながら、リリー・メイはジェシカが開けてくれた扉をくぐって部屋の中へ足を踏み入れました。


「ご機嫌よう、リリー……お久しぶりね」


 そして、聞こえた声と目に入った姿に息を呑みます。


 部屋の中で待っていたのは、ベアトリスお姉様だったのです。前に会った時――リリー・メイがぶたれそうになった時――からそんなに日にちが経った訳でもないのに、すっかりやつれてしまっていて、痩せた頬に目が大きく目立ってぎらぎらと輝くようです。

 口元は弧を描いているのに、目元は固く強ばったままで。そんな姿のお姉様が、リリー・メイの方へ手を伸ばしてたたずんでいたのです。


 部屋の隅では鋳物のストーブ――やはり華夏趣味の意匠のもの――に火が入っていて暖かいはずなのに、なぜかリリー・メイの肌に鳥肌が立ちました。


「ジェシカ?」


 慌てて振り向くと、扉は閉ざされていました。駆け寄って開けようとするのですが、鍵が掛かっているようでどうしても開きません。


「ジェシカ、どうして? 開けて!」

「お嬢様のためなのです」


 扉の向こうから少しくぐもったジェシカの声が聞こえてきました。


「エドワード様はおかしい! お嬢様を華夏人のところにやってしまうなんて。

 ベアトリス様はお嬢様のために必要な方です。レディとしての振る舞いも社交も、大人の女性になった時のことも、ベアトリス様に教えていただけば良いのです。

 お嬢様、ジェシカのお願いです。どうかエドワード様にベアトリス様のことを取りなして差し上げてください!」

「そんな……」


 決して開こうとしない扉に、リリー・メイの目の前が暗くなるような気がしました。そうすると他の感覚が研ぎ澄まされて、お姉様の声が耳に突き刺さるように響きます。


「リリー、どうか話を聞いて。ジェシカのように分かってちょうだい。エドワードは私に会ってくれないの。だから貴女からお願いして。馬鹿なことはやめて、考え直して、って」


 できるだけお姉様から離れようとリリー・メイは壁に張り付くのですが、扉が閉まっていてはどこに逃げることもできません。足の長さも違うので、あっさりとお姉様に腕を掴まれてしまいました。


「ねえ、お願いよ。エドワードは貴女には甘いもの。大事な妹の貴女には。ね、今までずっと良くしてあげたでしょ?」


 お姉様は優しくリリー・メイの髪を梳くのですが、リリー・メイは怖くて身体の力を抜くことができません。お姉様の手を振り払おうともがくのですが、決して離してくれなくて、服の上からでもお姉様の爪がリリー・メイの腕に食い込むのが分かりました。


「リリーは……エドワードの妹じゃないわ……」


 痛くて目に涙をにじませながら、それでもリリー・メイは首を振ります。でもお姉様は全然聞こえていない様子でした。


「本当は姪なのよね。どっちでも良いわ。結婚できないのには変わりないもの。エドワードにはちゃんとした奥様が必要よ。小さな女の子が好きだなんて評判になったらいけないわ。貴女だってエドワードの邪魔になりたくないでしょう? この前エドワードを叩いてしまったのは貴女のせいだもの。貴女からも謝ってくれるわよね?」

「無理よ、お姉様。エドワードはリリーが好きなの。もうお姉さまとは結婚しないの。叩かれたからじゃないのよ……!」


 はっきりと言わなければと思うのに、舌も喉も固まってしまったようで、弱々しい声しか出ないのが情けないと思いました。こんな小さな声なので、リリー・メイは自信がないと思われてしまったのでしょうか。お姉様は口元だけの笑みを深めました。


「あら、そうするとエドワードは困るわよ。私、お父様にお願いするつもりなの。エドワードの邪魔をして、って。華夏人なんかと取引を始めたって無駄なのよ。

 ねえ、リリー。エドワードが貴女を好きならもうそれで良いわ。ただ、結婚するのは私にして。私にエドワードを分けてちょうだい。その方がエドワードのためにもなるのよ」


 お姉様とエドワードを分ける、と聞いて、リリー・メイの身体が熱くなりました。そんなことはさせないわ、と心の底から思いました。強い気持ちに後押しされるように、痛いのも怖いのも忘れて大きな声で叫びます。


「そんなの嫌よ! エドワードが好きなのはリリーだけだもの。絶対に渡さないわ!」


 お姉様はすっと目を細めると、言い聞かせるようにゆっくりと、かえって怖いくらいに優しい声で言いました。


「分からない子ね。貴女じゃエドワードの役に立たないの。彼には私が必要よ」


 リリー・メイは必死にお姉様の目を見返しました。腕をつかまれているせいで、とても近くにお姉様のお顔があります。いつも優しそうで暖かそうと思っていたキャラメル色の瞳なのに、今はなぜか濁ったように見えました。目の白いところに血管が浮いているからその赤い色のせいかも知れません。

 そんなことまで見えてしまうくらい、お姉様はリリー・メイに顔を近づけているのです。


「そんなことないわ!」


 この前は、こんな怖い目のお姉様に睨まれて、蛇や梟に睨まれた獲物のように動けなくなってしまいました。

 でも、今は違います。エドワードはリリー・メイのものなのです。お姉様に申し訳ないとは思っても、絶対に譲ることなんてできません。だから、リリー・メイは一生懸命に口を動かしました。


「リリーだってちゃんとお勉強するの。お仕事のことも、華夏のことも。お姉様にも負けないわ。エドワードを愛してるの!」

「嫌な子ね!」


 お姉様がリリー・メイの髪を掴んで引っ張ったので、リリー・メイは小さく悲鳴を上げました。髪が切れるぶちぶちという音が頭に響くように聞こえました。


「さっきからエドワード、エドワードって……前はそんな呼び方してなかったじゃない。恋人のつもりなの? おかしいわ、子供のくせに!」

「いつまでも子供じゃないわ。もうすぐ大きくなるもの。そうしたらエドワードに指輪をもらうのよ。そのためにラオジュのお屋敷に行くの。本当の娘にしてもらうの。それなら結婚できるもの!」


 悲鳴を上げたのは驚いたからというだけでした。不思議ともう怖くも痛くもありません。髪を掴まれたままの傾いだ体勢でよろけそうになりながら、それでもリリー・メイは懸命に言い募ります。

 お姉様が可哀想だとか気の毒だとかいう気持ちなんてどこかへ行ってしまいました。とにかくエドワードはリリー・メイのものだと言いたかったのです。


「混血のくせに!」


 そう叫ぶなり、お姉様はリリー・メイの髪を強く引っ張りました。そうすると身体の均衡バランスが崩れてたまらずに床に倒れてしまいます。はずみで頭を床にぶつけてしまって、目の前がぐらぐらと揺れました。絨毯を敷いてある本館と違って、離れの部屋は板張りのままだったのです。


母娘おやこ揃ってエドワードを誘惑したのね。そんなに小さいのに淫売の血は争えない!」


 お姉様の声が上から降ってきます。どん、と。お姉様の足が目の前に、顔のすぐそばで鈍い音を立てたので、リリー・メイは震えて少しでも遠くへ転がろうとしました。


「ベアトリス様!? 今の音は――お嬢様!?」


 扉を開く音と共に、ジェシカの慌てた声が聞こえました。そして息を呑む音が。


 ジェシカ、助けて。


 そう言おうとしたのに、リリー・メイの声はお姉様の声にかき消されてしまいます。


「何でもないのよ。この子、興奮してまた倒れてしまっただけ。お医者様を呼んでくれる? その間は私が看ているから」

「で、でも……」

「お願いよ」


 お姉様のいつになく低い声に、ジェシカはまた息を呑んだようでした。


「は……い、ベアトリス様」


 ぱたぱたとジェシカが走り去る足音が響きました。リリー・メイは追いかけようと、お姉さまから逃げようとするのですが、頭がまだぐらぐらして立ち上がれませんでした。


「ジェシカはしばらく戻らないわ」


 目を動かすと、お姉様がリリー・メイのすぐそばにかがみ込んでいました。床に倒れてしまったリリー・メイからは、とても嬉しそうに微笑む口元しか見えません。それでもきっと目はぎらぎらと輝いているのでしょう、針で刺されるように鋭い視線が注がれるのをはっきりと感じました。


「その前に全て終わらせてしまいましょう。大丈夫よ、そんなに辛くないはず」


 やっとほんの少し顔を持ち上げることができたのに、頭の後ろに強い力がかかってまた床にぶつけてしまいます。お姉様がリリー・メイの頭を掴んで床に叩きつけたのです。


「前にダニエルを連れてきた時、庭で頭を冷やしていたと言ったでしょう。その時にジェシカに頼んでここに入れてもらったの。とても綺麗に手入れされていて、とても腹が立ってやりきれなくなったの。エドワードはずっとここにいた女のことを想っていたのね、って。

 その女はもう死んだけど、エドワードはまだその娘に囚われている、それも嫌だった。ましてこんな小さな子を!

 ……だからみんないなくなれば良いと思ったの」


 痛みに声も出ないリリー・メイに、お姉様は優しく語りかけます。


「貴女が教えてくれたことよ。華夏人は遺品を燃やして死者に届けるのでしょう。返してあげるのよ。灰は灰に――娼婦の娘は忌々しい娼婦に。そうすればエドワードには私だけ」


 服の首の後ろ辺りを掴まれて、リリー・メイは子猫が親猫に運ばれるように引きずられました。冷たい床に震えたのも何秒かの間だけで、すぐにリリー・メイは肌に火の熱さが近づくのを感じました。

 リリー・メイはストーブの真ん前に転がされてしまいました。

 目の端を黒っぽい棒がよぎって、リリー・メイは身をすくませました。火かき棒で叩かれるのかと思ったのです。


「ふっ――」


 お姉様が息を漏らす音が聞こえ――金属がこすれる嫌な音と、身体が跳ねてしまうような衝撃と共に、ストーブが床に、リリー・メイの目と鼻の先に倒れてきました。火かき棒でストーブをいたのです。

 真っ赤に燃えている石炭が髪に触れそうになって、リリー・メイは必死に身をよじってストーブから離れようとします。


「阿片をべてあげるからすぐに気持ちよくなるわ」


 華夏風の建物は木で出来ています。石炭が床に転げ出たところがみるみるうちに黒く赤くなり、炎と煙が上がり始めました。

 お姉様のスカートにも火の粉が散っているのに、お姉様は全然構わない様子でリリー・メイの髪を優しく撫でました。


「私、貴女のお姉様になろうと思ってたのに。可愛くて可哀想だから、ずっと面倒を見てあげようと思ってたのよ。――なのに、こんなことになってしまうなんて」


 とても、悲しいわ。


 お姉様はそうつぶやくと、背を向けて部屋を出て行ってしまいました。ぱたりと扉が閉ざされます。

 今度は鍵なんてかかっていないから立ち上がって逃げなければいけません。でも、リリー・メイの頭はまだぐらぐらしていて、とても身体を起こすことなんてできそうにありませんでした。

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