第52話 二人の未来

 ベアトリスお姉様の一件を聞いたジュ威竜ウェイロンはとても機嫌が良さそうでした。


「思った通りになったな。エドワードから話を聞いて、内心では華夏フアシアを見下している類の女に違いないと思ったのだ」


 怖いくらいに怒ったお姉様にぶたれそうになったからか、それともエドワードの求婚を受け入れてのぼせてしまったからか、あの後リリー・メイは久しぶりに熱を出してしまいました。念のために何日かお屋敷でゆっくりしてから、朱威竜に報告とお礼と、お願いをしにきたのです。


 報告というのは、エドワードはちゃんとお姉様との婚約を破棄したということの。そしてお礼というのは、どうも朱威竜はこうなることを分かってエドワードとの取引を申し出てくれたようなのです。


「そういう女性と婚約していたことでリリーにも嫌な思いをさせてしまった。本当に、申し訳なく思っている」

「でも、エドワードはリリーをかばってくれたんです。代わりにお姉様にぶたれてしまったの」


 エドワードが暗い表情になってしまったので、リリー・メイはかばってあげました。朱威竜と香蘭シャンランの前でエドワードと名前を呼ぶのは恥ずかしくて、そこだけ少し小さな声になってしまったのですが。

 朱威竜はなぜか顔を顰めてしまいました。目を細めて、エドワードを睨むようにしています。


「当然だ。そこで莉麗リリーへの乱暴を見過ごすようなら決して許さなかった。――どうせなら私が殴られようと思っていたのに」

「まさか。朱家の当主ともあろう者が」


 驚いた顔をしたエドワードに、朱威竜は口元だけでほんの少し笑ってみせました。


「本当のことだ。一度くらいは会うことになると思っていたからな。その女はどうせ無礼な態度を取るだろうから、挑発して手を出させようと思っていた。私はラドフォード商会の大事な取引相手になるのだからな。破談の理由にできただろう」


 それから、朱威竜は首を傾げてつぶやきました。


「話を聞いただけでそれほど激昂するとは。その女はよほど華夏のことを嫌っていたのだな」


 嫌いだったからじゃないわ、とリリー・メイは心の中だけで言いました。お姉様にとって重要だったのは華夏とのお仕事ではなくエドワードだけで、エドワードが離れていってしまうと思ったからこそあんなに泣いて怒ったのだと思います。

 どうしても申し訳ないと思ってしまうのを止められないのですが、でも、それはリリー・メイが言ってはいけないことのような気がしました。


「それから、老朱。リリーとのことで大事な話がある」


 だから、エドワードが今日の三番目の目的、お願いのことを話しはじめても、リリー・メイは口を挟まないでじっとしていました。


「そうするしかないだろうな。エドワードが自力で気付くことができたのは幸いだった」


 リリー・メイを――本当のことだからおかしな言い方にはなりますが――朱威竜の娘にということにしてもらって、エドワードと結婚できるようにしたい、と聞き終えた朱威竜は、あっさりとうなずきました。


「認めてくれるのか? 以前リリーを引き取って欲しいと頼んだ時は――」


 拍子抜けしたようにぽかんとした表情になってしまったエドワードを、朱威竜は片手を上げて制しました。


「あれは莉麗を遠ざけたいだけだと見え透いていたからだ。莉麗の将来を考えた上での提案ならこちらとしても願ってはない」

「旦那様は娘には甘いのよ。玉蓮ユーリェンを見ていれば分かるでしょう」


 香蘭がおっとりと言い添えてくれたので、リリー・メイもほっとして微笑むことができました。


「じゃあ――」


 良いんですね、と。目を輝かせて言おうとしてリリー・メイでしたが、また朱威竜に制されてしまいます。


「世間を納得させるにはこの屋敷に来てもらうことになる。エドワードともそう頻繁には会えなくなるが、分かっているか?」


 鋭い目での問いかけでしたが、リリー・メイがひるむことはもうありません。もう、固く心を決めたのですから。


「はい。エドワードを信じているから。それに、エドワードもリリーを信じてくれたの。だから――寂しいけど――頑張ります」


 真っ直ぐに目を見返して答えても、朱威竜はまだ問いを重ねます。


「私は常に屋敷にいられる訳でもない。香蘭も莉麗の面倒だけを見ることは難しい。華夏人に囲まれて、最初は言葉に不自由するだろうが構わないか?」

「どのみち華夏語は覚えなくてはいけないもの。大丈夫です」

「朱家の娘ということになれば香蘭は厳しいぞ。それも、大丈夫か?」


 これにはリリー・メイは驚いて、思わず香蘭の方を見ました。いつもと同じように優しそうに微笑んでいますが――確かに、玉蓮は香蘭のことを怖いと言ったことがありました。

 でも、それも心配するようなことではないと思います。だって、本当のお母様の金蓮ジンリェンほどではないかもしれないけど、玉蓮は香蘭のことがとても好きなようでしたから。


「玉蓮は立派なレディだし、奥様も素敵な方だと思います。大丈夫――エドワードに相応しい奥様になりたいの」

「……覚悟は、できているのだな」


 朱威竜はやっと微笑むと、リリー・メイとエドワードに向けて、しっかりとうなずきました。そして独り言のようにつぶやきます。


「世間に向けた物語としては、どうなるかな。

 離れ離れになっていた娘を見つけたので引き取る。今まで養育してくれた者と、莉麗を縁に商売を始める。そして交際を続けて、大人になった莉麗に求婚する――といったところだろうか。

 姪と結婚するために手段を選ばない変態だと思われかねないが」

「租界ではリリーの顔まで知っている者は少ない。私にがいることもどこまで知られているかどうか。リリーと莉麗が結び付けられる恐れは少ない、と思うのだが……」


 朱威竜はエドワードにうなずきましたが、まだ少し心配そうな顔をしています。


「お前の元婚約者は? 真実を言ってしまったのだろう?」


 それはリリー・メイが口を滑らせてしまったことなので、心配になったリリー・メイはエドワードを見上げました。エドワードは、少し弱い声でしたが、それでも朱威竜を真っ直ぐに見て答えます。


「破談になったのを恨んで悪く――と、敢えて言うが――捻じ曲げたことを言っている。それで通す」


 朱威竜はまたうなずきました。まだ完全に安心したのではないようで、眉を寄せたままでしたが。


「それに、今になって莉麗を引き取る理由が弱い。翡蝶フェイディエのことをどこまで明かして良いものか……」

「わたくしを口実にすれば良いでしょう」


 ずっと黙っていた香蘭が口を開いたので、朱威竜やエドワード、リリー・メイの視線が香蘭に集まりました。香蘭は視線を気にした様子もなく、いつものおっとりとした口調で続けます。


「嫉妬深い正妻わたくしが翡蝶を娘ごと追い出したのです。ラドフォード様のお兄様は全てご承知で受け入れてくださいました。そして十年も経って、翡蝶も亡くなったのでわたくしも許してやる気になったのです。……ヤンライレンの好きそうな話ではありませんか?」

太太マダム、しかし、それでは貴女の評判が……」

「租界でどう言われようと構いませんわ」


 香蘭の声は柔らかいのに、戸惑ったようなエドワードをきっぱりと遮ってしまいました。


「それに、莉麗にも玉蓮にも都合が良いのです。意地悪な継母に虐められた可哀想な子供、くらいに思われていた方が」

「リリー、可哀想なんかじゃないのに」


 リリー・メイは少し唇を尖らせました。香蘭が言うのは本当のこととは全然違います。香蘭は翡蝶を追い出したり、玉蓮を虐めたりなんかしていません。朱威竜はつい今さっき厳しいと言いましたが、香蘭は無闇ときつくあたるような人ではないと思います。エドワードと離れるのは寂しくても、怖いだなんて思うことはありません。

 それに、嘘でも可哀想だなんて言われると悲しくなってしまいます。小さく縮こまっていなくてはいけないような気分になってしまいます。お姉様がリリー・メイをしきりと可哀想だと言ったのは、多分小さく丸めておいてしまおう、というような理由もあったと思うのです。


「玉蓮も同じことを言いそうね。あの子は負けん気が強いから」


 香蘭はずっと笑っています。でも、その笑顔が初めて、どこか悲しいようにも見えました。


「でも、わたくしは本当にひどいのよ。金蓮からは玉蓮の可愛い盛りを奪ったし、翡蝶だって莉麗の花嫁修業は自分でやりたかったに違いないもの」

太太マダム……」


 エドワードが何か言おうとして、でも言葉が出てこないようでした。リリー・メイも同じで、口を開いただけで固まってしまいます。香蘭はひどい人なんかじゃないと言いたいのですが、簡単に言って良いことではないように思えるのです。


「――で、莉麗を引き取るのはいつにするか。こちらの準備もあるから、今日明日にもという訳にはいかないが……」


 だから、朱威竜が話を変えてくれて、リリー・メイは安心しました。いつエドワードと離れ離れになるかはっきり決めてしまう、なんて。これはこれで胸が締め付けられるような気持ちになってしまうのですが。


「そうだな、こちらでもリリーについている使用人に新しい仕事を紹介しなくては。多分、役所での手続きも必要だし……」


 エドワードも我に返ったように、はきはきと話し始めます。

 朱威竜とエドワードのお話は難しくてよく分からないので、そっと香蘭の方をうかがうと、もういつもと同じ優しそうな穏やかな微笑みに戻っていました。




 結局、リリー・メイが朱威竜のお屋敷に移るのは春節チュンジエ――華夏の新年になったらということになりました。その頃には、リリー・メイの本当のが帰省するから、ちょうど紹介できるというのです。


「帰ったら妹が増えているなんて、きっと驚くでしょう」


 香蘭はそういっておかしそうに笑っていました。エドワードは焼きもちなのか心配なのか、ちょっと顔を顰めていたのですが。




「春節まで、二ヶ月と少しね」


 帰りの馬車の中でリリー・メイがつぶやくと、エドワードが手を握ってくれました。


「長いようですぐだろうね。それまで、できるだけ一緒にいられるようにするからね」

「ええ」


 リリー・メイもぎゅっとエドワードの手を握り締めます。


「ねえ……エドワード」


 車輪のからからという音に紛れるような小さな声で、リリー・メイは呼びかけました。はりつめたような声の調子を察してくれたのでしょう、エドワードは黙って肩を抱き寄せてくれます。


「リリー、とても幸せなの。エドワードが好きで、リリーも好きでいてもらえて。老朱も香蘭奥様も優しいし、玉蓮もいるし。でも、そうじゃない人もいるのよね……?」


 エドワードの胸に顔を預けながら、リリー・メイは続けました。


「お姉様。翡蝶。アルバート。玉蓮が金蓮奥様から離されて育ったのは、纏足チャンズーをさせないためだったんですって。……それは、リリーのせいではないのかしら。

 なのにリリーは幸せで良いのかしら……」

「じゃあ私から離れてしまう? 幸せでなくなった方が楽だと思う?」

「それは嫌! 嫌だけど……!」


 どうしたら良いか、なんて言ったら良いか分からなくて、リリー・メイはエドワードの胸の中でいやいやをするように首を振りました。


「リリー」


 エドワードの手がそれを止めさせて、目が合うように顔を上向かせました。


「悲しいことも辛いことも沢山あった。でも、そのうちのどれが欠けても私は君に出会えなかった。君は少なくとも私を幸せにしてくれたんだ。それでは、足りないかな」

「ううん……」


 リリー・メイは首を振りました。さっきよりもずっと弱く。リリー・メイがエドワードを幸せにできる、というのはとても素晴らしい考え方でした。他の何もかもが霞んでしまうくらいに。それだけで十分だと思ってしまうくらいに。

 エドワードの青い瞳を見上げると晴れた日の空みたいにとても綺麗で、吸い込まれてしまいそうでした。何もかも忘れてうなずいてしまいたくなるのですが、それで良いのかしら、とどうしても心の片隅が引っかかってしまうのです。


「リリー」


 エドワードはもう一度呼ぶと、リリー・メイの髪を優しく梳きました。


「起きたことは全て、君のせいだけじゃない。どうしようもないこともあったし、翡蝶は君に笑っていて欲しいはずだ。玉蓮にすまないと思うならこれからもっと仲良くすれば良い」

「でも」


 言い募ろうとすると、エドワードの指先に唇をふさがれました。


「どうしても罪の意識が消えないなら、私が半分は背負うから。良いことも悪いことも分かち合うんだ。結婚するというのはそういうことだ」

「半分こ……? できるのかしら」


 お菓子を半分にして分け合うのは今までもよくやってきたことでした。でも、気持ちまで半分こにするなんて、思ったこともありません。


「させてくれ。全て私が悪いというのは簡単だが、君はそれでは納得できないだろう。

 君は私を救ってくれた。兄と翡蝶が叶わない想いのために死んだのを見て、愛するのも愛されるのも信じられないと、ずっと思ってきたんだ。でも、君のおかげで恋は苦いだけではないと思い出すことができた。今度は私に、君を幸せにさせて欲しい」

「リリーはエドワードのおかげで幸せよ」


 エドワードの真剣な眼差しに、考えるよりも先に口が動いていました。でも、とっさに言ったことでも、心からの言葉でした。だから、リリー・メイはエドワードを見上げて念を押しました。


「本当よ」

「……良かった」


 エドワードは微笑むと、リリー・メイを抱き締めました。リリー・メイもそれに応えてエドワードの背に腕をまわします。


「一緒に、幸せになろう。一人で思い悩むのはしなくても良い」

「うん……絶対に。ずっと、一緒よ……」


 エドワードと結婚できるのは何年か後です。朱威竜の娘ということにしてもらって。香蘭に躾てもらうのです。エドワードのお手伝いができる奥様になれるように。華夏語も覚えなければいけないし、その頃までにはもっと健康になっていたいです。


 やることは沢山あるし、今のリリー・メイには想像もできないずっと先のお話です。


 でも、その先にエドワードと一緒にいられる時が待っています。もう忘れられてしまうかも、とか嫌われてしまうかもとか考えることはありません。

 エドワードの腕の中なら、その時はいつか必ず来るものだと信じることができました。

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