第51話 あふれる思い

 リリーとお兄様は血が繋がっていないの。好きになってもおかしくないの。


 ずっと言えなかったことを言うことができて心が軽くなったリリー・メイは、にっこりと笑ってしまいました。


「リリー……何てことを言うの。エドワード、本当なの? リリーの親が華夏フアシア人だなんて」


 でも、お姉様のお顔が怖くて、笑顔はすぐに凍ってしまいます。涙の跡が残る頬は痛々しいくらいなのに、つり上がった目がぎらぎらと輝いていてリリー・メイを射抜くようなのです。お兄様に図鑑で見せてもらった、南の国の狩りの様子を思い出しました。槍や矢が刺さった虎は、血を流しているのにそれでも牙を剥いて襲いかかろうとするのだそうです。

 泣きながら怒っているお姉様は、追い詰められた猛獣のように恐ろしくて可哀想で追い詰められているようでした。


「――本当だ」


 お兄様がため息と共に答えました。


翡蝶フェイディエは、リリーの母親はブルネットに翡翠の瞳の混血だった。リリーの黒い髪と黒い瞳は、父親から引き継いだものに違いない」

「そんな……!」


 お姉様が叫んだのでリリー・メイは思わず後ずさってしまいます。単にいけないと言われていたというだけではなくて、絶対に言ってはいけないことを言ってしまったのね、と気付いたのです。


「じゃあ、貴方は始めから知っていたの!? 知っていて、私と結婚しようと……!? 私は隠れ蓑に過ぎなかったの? 二人して私を笑っていたのね!」

「違う、全て私のせいだ!」


 お兄様も叫びました。


「最初、リリーに女性の保護者も必要だからと思って君と婚約した。でも、彼女は私にとって子供や妹ではなく恋人になってしまった! 今となっては他の女性との結婚なんて考えられない。気が変わったんだ。私のせいだ」

「そこまで、リリーを……? 娼婦の子なのに。混血なのに……」


 お姉様が鋭い目でリリー・メイを見下ろしました。逃げ出してしまいたいのに、足が動きません。お姉様の視線で縫い止められてしまったようです。それほど、お姉様の目が恐ろしかったのです。


「ひどいわ、エドワード。私だってリリーのために頑張ろうと思ったのよ。ご両親がいなくて、身体も弱くて、可哀想だと思って……。だからお姉様になってあげようと思ったのに……!」


 お兄様の名前を呼びながら、お姉様はリリー・メイだけを睨んでいます。一歩一歩、近づいてくるお姉さまから離れなくてはと思うのですが、どうしてもお姉様の血走った目、引きつった頬から目を離すことができませんでした。また図鑑のことを思い出します。蛇に対してのカエル、梟に対してのネズミ、狼に対してのウサギ。みんな、食べられてしまうと分かっていても動けないのだそうです。


「やっぱり貴女のせいじゃない。貴女さえいなければ……!」


 すぐ近くまで迫ったお姉様が手を振り上げました。腕が風を切るのが頬でも感じられて、それでもやっぱり動けなくて。

 ぶたれてしまうのね、とリリー・メイはぎゅっと目を瞑りました。


 ぱし、と乾いた音が響きました。


 でも、どこも痛いということはありません。リリー・メイは恐る恐る目を開きます。

 すると、見慣れた色のジャケットが目に入りました。


「お兄様……?」


 目を瞑っている間に、リリー・メイを抱え込むようにお兄様がお姉様との間に入っていてくれました。お兄様の向こうには呆然と目を見開いたお姉様が、信じられないというような表情で右手を見下ろしているのが見えました。


「エドワード……どうして。私、そんなつもりじゃ…………」


 そしてリリー・メイはやっと気付きました。お兄様がかばってくれたこと。リリー・メイの代わりに、お兄様がぶたれてしまったことを。


「お兄様、大丈夫……?」


 撫でてあげたいのにまだ腕を持ち上げることはできませんでした。それに、声も思ったよりかすれた、聞こえるかどうかのものしか出せませんでした。


「ああ、大丈夫」


 それでもお兄様はしっかりとうなずいてくれました。そして。お姉様へ向き直って鋭く硬い声で言いました。


「妹だろうと恋人だろうと、リリーに手を上げようとした者を屋敷に入れるつもりはない。出て行ってくれ」


 お姉様もリリー・メイと同じようでした。動けないし、声も出せない。それでもお兄様の言葉を聞いて、お姉様はふるりと震えると、石像が動き出したのかのようにぎくしゃくとした動きでお兄様に――リリー・メイに――歩み寄ろうとしました。


「違うの、エドワード。そんなつもりじゃ……ごめんなさい……」

「寄らないでくれ」


 お兄様の声に、今度はお姉様がぶたれたかのように固まってしまいます。お兄様はリリー・メイをますますしっかりと抱えて、お姉様から遠ざけてくれました。温かい腕の中で、やっと安全なのだと思えて、リリー・メイはくたりとその場に座り込みそうになりました。


「ベアトリス、分かるだろう。もう終わりなんだ。……申し訳ないとは思っている。でも、もう君に会うことはない」


 お兄様に遮られていたので、リリー・メイはお姉様がどんなお顔をしていたのか見ることはできませんでした。

 ただ、痛いほどの沈黙の後、ドレスの衣擦れと扉が閉まる音がしたので、お姉様が出て行ったのだと分かりました。


 そして、リリー・メイは、お兄様に身体を預けるように倒れ込みました。


「エドワード様……お嬢様!? あの、今、ベアトリス様が出て行かれて――」


 ジェシカのおろおろとした声が、変に遠くから聞こえるような気がしました。


「ああ、仕方ないんだ。追いかけなくて良い。それより、リリーを着替えさせて、薬も用意してくれ。久しぶりに倒れてしまった」

「は、はい」


 リリー・メイはふわふわと雲のベッドにでも寝ているような気分でした。いいえ、本当はお兄様に抱き上げられて運ばれているのだとは分かるのですが。でも、お兄様の腕の中は暖かくて柔らかいのにしっかりとしていて、リリー・メイはすぐに目を閉じて眠り込んで――それとも気絶して? ――しまったのでした。




 目が覚めると、慣れたベッドの上でした。お兄様が言った通り、寝巻きに着替えさせられています。窓の外を見るとすっかり暗くなってしまっていて、かなり長い間寝付いてしまっていたのが分かりました。


「良かった、気がついたね。お腹は空いていない?」


 見ると、お兄様がばさりという音と共に新聞から顔を上げたところでした。


「ううん」


 お兄様は軽くうなずいた後、少し怖い顔を作りました。


「大人の話だと言っただろう。私に任せておけば良かったんだ」

「ごめんなさい……」


 お兄様の頬が赤くなっているのに気付いてリリー・メイはうつむきました。リリー・メイのせいで叩かれてしまったのです。そして、はっとして尋ねます。


「お姉様は……」

「帰ったよ」


 お兄様はリリー・メイの額に手をあてて熱を計りながら言いました。


「リリーを叩こうとするような人とは結婚できない、と彼女の父上にも伝えるつもりだ。――これが、ラオジュの贈り物だね」


 そして、顔を顰めます。悲しんでいるのか怒っているのか、リリー・メイには分かりませんでしたけど。


「これほどの効果とは思っていなかった。あんなに彼女が怒るなんて。あんなに偏った考え方だったなんて。

 君と距離を置かなくてはと、それに必死で色々なことに目を背けてしまっていた。本当に、すまない……」


 リリー・メイの顔に添えたお兄様の手に力が篭もりました。リリー・メイは小さな声でつぶやきます。


「ううん、良いの。これで、お兄様とずっと一緒にいられるのね……」


 リリー・メイは今どんな気持ちなのか分かりません。

 お兄様がお姉様との結婚をきっぱりと止めてくれたこと、はっきりと恋人だと言ってくれたのはとても嬉しいです。

 でも、お姉様のことを思い出すととても怖くて、それに悲しい気持ちになります。心の中では違うことを考えていたのかもしれないけれど、リリー・メイにとってお姉様はずっと優しくて綺麗なお姉様だったのです。それに、お姉様がああなってしまったのはリリー・メイのせいでもあります。

 可哀想だと思うのに喜ぶ気持ちが止まらなくて、どうしたら良いか分からなくなってしまいます。お兄様だけが悪い訳じゃないのに謝ってくれるのも、落ち着かない気持ちになってしまいます。


 だから、リリー・メイは別のことを口にしました。リリー・メイも悪い子だから、叱ってもらいたいと思ったのです。その方がほっとするでしょうから。


「お兄様、ごめんなさい。言ってはいけないと言われていたのに喋っちゃった。アルバートがリリーのお父様じゃないって、老朱が本当のお父様だって――どうなるかしら」


 お兄様の手がリリー・メイの頬から離れました。お兄様が真剣な顔になって、リリー・メイと真っ直ぐに目を合わせてきます。


「ああ、どうにかなる――と、思う。大事な話をしたいんだけど、身体は大丈夫そう、リリー?」


 リリー・メイはベッドの中で身じろぎしました。本当のことを言うなら、これ以上難しいことは聞きたくありませんでした。例えお兄様からでも。熱っぽいから眠りたいわ、と言ってしまいたいと思いました。

 でも、お兄様の表情からしてきっと大切なことに違いありません。


「ええ……大丈夫よ、お兄様。お話を聞かせて」


 だから、リリー・メイはベッドから半身を起こすと背筋を正してお兄様に向き合いました。




 お兄様はリリー・メイに熱いお茶を淹れて、蜂蜜をたっぷりと入れてくれました。黒っぽくなった甘いお茶を飲み干すと少しは気分も落ち着いて、お兄様のお話を聞く気持ちになれました。

 カップをベッドの横の机に避けながら、お兄様が口を開きます。


「君は一緒にいられれば結婚しなくても良いと言っていたね。そう言ってくれるのはとても嬉しいことだ。でも、私は外の世界の常識を知ってしまっているから、やっぱり愛する人と結婚したい」

「でも、リリーとお兄様は結婚できないのでしょう?」


 さっきお姉様に気持ち悪いと言われてしまったことを思い出して、リリー・メイは唇を結んで眉を顰めました。


「そう、叔父と姪である限りは。でも、本当は違うだろう」


 お兄様はリリー・メイの顔を覗き込むと、励ますように微笑みかけてきました。


「老朱に、君を引き取ってもらおうと思う。そして、娘として扱ってもらう。私は、姪のリリーにではなく、朱家の令嬢の莉麗リリーに求婚するんだ。ベアトリスに言ってしまったことを、半分は本当にしてしまうんだ」

「そんなことができるの?」

「できる。そうなるように、頼む。誰に対しても堂々と君と一緒にできる方法をずっと考えていたけど、これしか思いつかなかった。リリー、受け入れてくれる? 君が結婚できる歳になるまで、何年か別れなくてはならないが……」


 何年か、と聞いてリリー・メイの心臓がぎゅっと縮んだように痛みました。リリー・メイにとっては一ヶ月でも一年でもずっと先のことのように思えるのです。更にその何倍もお兄様と離れ離れなんて、耐えられそうにありませんでした。


「リリーはリリーでなくなってしまうの? お兄様と離れてしまうの?」


 呼び方も。朱威竜や玉蓮ユーリェンに莉麗と呼ばれるのは慣れてきたけど、それでもリリー・メイはリリー・メイだと思います。自分がまったく違う人になってしまうようで、お兄様とは関係のない人になってしまうようでとても怖いと思いました。

 でも、お兄様は力強く続けました。


「でもその後はずっと一緒にいられる。良いことばかりではないけど……租界に嫁いだ華夏人として生きていくのは辛いかもしれない。もう何年かしたら君は大人になるけど、それでも夫婦としては歳が離れている方だと思う。守るつもりだが、ベアトリスは何か言ってくるかもしれない。

 何ごともなくても、商会の仕事のためにたくさん勉強してもらわなくてはならない。

 それでも――」


 お兄様はリリー・メイの手を取ると、真剣な顔でささやきました。


「それでも、君が来てくれるなら。結婚して欲しい。私の妻になって欲しい」

「お兄様……」


 リリー・メイもお兄様の手を強く握りました。こんなに温かくてしっかりとしているのに、触れているだけで幸せな気分になれるのに、離れることなんてできるのでしょうか。


「お兄様、リリーはいつまで待てば良いの? 離れてしまっても忘れたりしない? 好きじゃなくなったりしない?」

「何を言っているんだ」


 泣きそうになって瞬きしながらお兄様を見上げると、強く抱き寄せられました。


「必ず帰って来ると言ったのは君じゃないか。私を信じさせてくれるんだろう? 私は、君が離れてしまうのではないかと怯えるのはもう止めたんだ。君を信じて待つよ。君に相応しい男になって、君の居場所を作っておくから」

「お兄様」


 リリー・メイは小さく叫ぶとお兄様の胸にしがみつきました。涙が流れてしまったのを見られないように。悲しい時だけではなくて、嬉しい時でも泣いてしまうことがあるのを、リリー・メイは初めて知りました。


「返事は? リリー・メイ、私と結婚してくれる?」


 ささやくお兄様がずるいと思います。今の呼び方で、リリー・メイの気持ちは分かったに決まっているのです。

 でも、嬉しい気持ちが胸にいっぱいになって、溢れるようでした。この気持ちを、言葉にしないなんてできないことです。

 だから、リリー・メイは深く深く息を吸って、涙をぬぐって、自分でもびっくりするような大きな声でうなずきました。


「ええ、お兄様。リリーはお兄様と結婚するわ! いつになっても、どれだけ離れても、絶対に!」


 それから、すこし息を整えて、言っても良いかどうか迷って、でもやっぱり言いたくて、そっとささやくように言いました。


「愛しているわ、エドワード」


 愛している、前は意味が分からなかった言葉です。でも、今は分かる気がします。ただ好きというだけでは足りないこの気持ちが、きっと愛しているということなのでしょう。


 お兄様が驚いたように目を瞠ったので、リリー・メイは慌てて言い足します。何だか恥ずかしくて、顔が熱くなっているのが分かりました。鏡を見たら、きっと林檎みたいな頬になっていると思います。


「だって、お兄様じゃないのにお兄様って呼ぶのはおかしいから。結婚するのにお兄様、だなんて。だから名前で呼びたくなったの。……ダメかしら」

「いや、あまりに嬉しくて。君に、好きな人に名前で呼んでもらえるのがこんなに嬉しいとは思わなかった」


 お兄様の目も潤んでいて、まるで泣き出してしまいそうでした。もちろん悲しいのかしら、なんて思いません。リリー・メイと同じように、お兄様も泣きたくなるくらい嬉しいのです。


「リリー、もう一度言って」


 だから、何度でも言ってあげようと思いました。


「エドワード、愛してる。――ねえ、リリーにも言ってちょうだい?」

「愛しているよ、リリー」


 それから長い間、リリー・メイとエドワードはお互いに愛していると言い合いました。

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