第50話 告白

 玉蓮ユーリェンとダニエル、二人のお友だちと一緒のお茶会はとても楽しいものでした。以前租界の奥様たちや令嬢たちとのお茶会に招いていただいた時は、お菓子は美味しかったけれど何の話をしているかよく分からなくて緊張してしまったのです。

 でも、この二人となら、華夏フアシア語のお勉強のことや、さっき見てきたお屋敷のこととかを話せるので、リリー・メイもお喋りを楽しむことができるのです。


 これで、気になることが何一つなければ良かったのですが。


 ただでさえベアトリスお姉様のこと、お兄様のこれからのことと考えることが多いのに、ジュ威竜ウェイロンお兄様エドワードと結婚するなら華夏のことを勉強すれば良い、なんて言ったのです。リリー・メイとお兄様が一緒にいられるよう応援してくれていると思ったのに、気持ちが変わってしまったのでしょうか。


 お兄様も朱威竜も和やかにお喋りをしているし、玉蓮やダニエルのいる前で聞いてはいけないようなことの気がして、リリー・メイも知らない振りで笑っていることしかできませんでした。




 だから、お屋敷に戻るとすぐに、リリー・メイはお兄様を問い詰めました。


「お兄様、ラオジュと何をお話していたの? お姉様との結婚は止めるのよね? やっぱり結婚するなんて言わないわよね?」


 不安で泣きそうになっているリリー・メイを、お兄様は優しく撫でてくれました。この前のように跪いて目線を合わせて、額を近づけて言い聞かせます。


「ああ、私は君のものだと言っただろう。

 今日は、老朱にお願いをしてきたんだ。手伝ってくれるつもりだというから、甘えてしまうことにした。……彼の手を借りるのは情けないけどね。でも、多分私から言い出すのを待っていたんだと思う」

「何のことなの?」


 確かに朱威竜はお兄様が気付くのを待っているのだと、香蘭シャンランが言っていました。でも、何に、でしょうか。どうしてお姉様の味方みたいなことを言ったのでしょうか。


「ベアトリスとの結婚を止めたら、私は彼女の家に嫌われる。老朱が指摘した通り、商売にも影響があると思う」

「そう……」


 眉を寄せて俯いてしまったリリー・メイを上向かせて、お兄様は安心してというように笑いかけました。


「だから、その減る分の取引を、朱家に引き受けてもらうことにした。今日はそのお願いをしてきたんだよ」


 リリー・メイは、首を傾げてゆっくりと瞬きをしました。


「結婚を止めても、大丈夫なように、ということ……?」

「そうだ。華夏との取引はあまり例がないからね、最初は上手くいかないかもしれないけど、その方がリリーもやりやすいだろうし」


 自信がなくて小さな声で聞いたのですが、お兄様ははっきりとうなずいてくれました。そして続けて言われたことに、リリー・メイの心もほんの少し明るくなりました。


「華夏とのお仕事。リリーもお手伝いできるわね!」

「ああ、どうか助けて欲しい。早く仕事でも君と一緒にいられるようになりたいな」


 租界の社交界のことはリリー・メイにはよく分かりません。もちろんこれから勉強していくつもりではありますけど、時間がかかってしまうと思います。華夏のことも、知らないことの方が多いとは思うのですが、朱威竜や玉蓮と一緒だと思うとだいぶ気が楽になります。何より、華夏でならリリー・メイの黒い髪や黒い瞳も全然おかしくはないのです。


「ありがとう、お兄様。リリーのことを考えてくれて」

「お礼は今度老朱に。……自分で気付けなかったら君を任せられないところだったと言われたよ」


 リリー・メイはこれにはくすくすと笑ってしまいました。朱威竜はお兄様に対してとても厳しいのです。でも、ちゃんと二人のことを考えてくれているのです。お兄様にとってもお父様になったようでした。


「じゃあ、お姉様のことは?」


 そうと分かったからには、お姉様のことを尋ねるのも大分気が楽でした。朱威竜がリリー・メイやお兄様にとって都合の悪いことをするはずはないと信じることができましたから。

 お兄様は表情を改めると、リリー・メイの頭にぽんと手を置きました。


「老朱からの贈り物だから上手く活かせと言われたよ。彼を失望させる訳にはいかないから、後は私がきちんと断る」

「お兄様……?」


 リリー・メイにはやっぱりよく分からなかったのですが、お兄様があまりにも真剣なお顔をしていたので、それ以上聞くことはできませんでした。ただ、お兄様を信じて待っていようと思いました。




 ベアトリスお姉様が訪ねてきたのはそれから数日後のことでした。といってもリリー・メイは挨拶をした訳ではなくて、ジェシカから聞かされただけなのですが。


「大事なお話をするからお嬢様は部屋にいて欲しい、とエドワード様が」

「……リリーはいなくて良いの?」


 きっと結婚の話だから、リリー・メイにも関係があることだと思います。でも、ジェシカを見上げると困ったような顔で首を振りました。


「大人のことだから、ということですわ。……ベアトリス様はとても思いつめた表情をされていてお気の毒なほどでした。お嬢様は、何があったのかご存知ではありませんか?」

「知らないわ」


 リリー・メイは嘘をついてしまいました。リリー・メイのせいで結婚を取り止めることになったからお姉様は怒っているし悲しいの、なんてジェシカにはとても言えなかったのです。

 ジェシカもリリー・メイが本当に何か知っているとは思っていないのでしょう。そうですよね、とうなずくと、お茶とお菓子を出してくれました。良い子でお勉強をしていてくださいね、と言い残して。


 リリー・メイはお兄様に作ってもらったお手本を見ながら華夏の文字の書き取りをするのですが、全然集中することができません。文字というより模様というか絵のような感じで、意味が中々覚えられないからでもありますが、もちろんお兄様とお姉様が何をお話しているのかが気になって仕方ないというのが一番の理由です。

 また線を引く数を間違えてしまって、ため息を吐いて間違えた文字を塗りつぶします。冊子ノートの白かった頁は、もう塗りつぶされた黒い染みでいっぱいになってしまいました。


「お兄様、何のお話をしているのかしら……」


 つぶやいても答える人なんていなくて、小さな声が壁に吸い込まれていくだけです。いつものリリー・メイの部屋なのに、なぜかよそよそしくて寒いような気分さえしました。それだけ待っているのが不安なのです。


 リリー・メイは扉の方を窺いました。ジェシカはさっきお茶を持ってきてくれたばかりなので、当分様子を見に来ることはないでしょう。


 ちょっとだけ、様子を見てみようかしら。


 リリー・メイはペンを置くと立ち上がりました。出来るだけ静かに、椅子をきしませないようにしたのですが、それでもさやさやという衣擦れの音がうるさいくらいに大きく聞こえました。扉を開ける時の蝶番ちょうつがいの音も、お屋敷中に響いてしまうのではないかとどきどきしてしまいます。


 部屋を出てしまうと、今度は廊下を行き来する召使にも気をつけなければいけません。角を曲がるたびに注意深く辺りを見渡して、足音を立てないように気をつけて。リリー・メイはやっと客間の扉の前にたどり着きました。

 でも、まだ安心はできません。お兄様とお姉様に気付かれてはいけないのです。

 リリー・メイは深呼吸すると、手のひらをスカートで拭ってから、扉をほんの少し、指先よりも細いくらいにそっと開きました。


「どうして華夏なんかと取引をするの!? 訳が分からないわ!」


 すると、お姉様の大きな声が聞こえてきたので、リリー・メイは思わずびくりと震えてしまいました。


「華夏は大きな市場だし、租界のご婦人の中にも華夏風に興味を持つ方々は多い。投資先としては優秀だと思う。

 それに、レイシー氏――君のお父上と取引を止める分を補わなくては。何度も言わせないでくれ」


 お兄様の声はお姉様ほど大きくはありませんが、苛々としているような感じがしました。お姉様がいらっしゃったと聞いてから、リリー・メイだってしばらくはちゃんと勉強していたのです。お兄様が言った通り、本当に何度も同じやり取りをしていたのかもしれません。


「訳が分からないわ。私に分かるように言ってよ!」


 お姉様はまた叫んだ後、うって変わって優しい声になりました。


「お父様のことなら大丈夫よ、私に取りなしを任せて。婚約破棄なんてしないって言って。そうしたらお父様も許してくれるわ。そうしたら、華夏と取引なんてしなくても良いでしょう? 私、あの人たちとの社交なんてできないわ」


 まるでおねだりでもしているような声です。でも、お姉様が言ったことに、リリー・メイは悲しくなりました。リリー・メイと一緒にいるために、お姉様との結婚を止めるために、お兄様はやっぱり大変な苦労をしていたのです。


「もう決めたことだ。先方に対して今更断りを入れることはできない」

「でも華夏人よ。強く言ってくるなんてできないでしょう」

「……どうして私に指図しようとするのか分からないな、ベアトリス。華夏と関わりたくないなら破談は歓迎するべきじゃないのか? 私は君に無理強いしようとしている訳じゃない。馬鹿なことを言い出したから君の方から断ったと、吹聴しても構わない」

「そんな……私は、貴方のために言ってるのよ、エドワード」

「気遣いはありがとう、でも君の助言は必要ない」

「エドワード……!」


 リリー・メイが息を詰めて聞いているのを知らない二人は激しく言い合いをしています。お兄様がこんなに冷たく切り捨てるような言い方をするのは、最初に朱威竜のお屋敷に行ったときくらいだと思います。あの時のお兄様の冷たい目を思い出して、リリー・メイは怖くなってしまいました。


 そして、朱威竜がどうして贈り物だなんて言ったのかも分かってきました。あの人にはこうなることが分かっていたのでしょう。租界の人の中には華夏の人を無視したり馬鹿にしたりするような人もいると、良く知っているのでしょうから。だからわざとダニエルに取引のことを伝えさせて、お姉様の方から結婚を嫌がるようにしようとしたのでしょう。


 リリー・メイが考えている間にも、お姉様は次々と鋭い言葉をお兄様に投げつけています。


「大体、その華夏人は何でそんなことを言いだしたのかしら。リリーを狙っているんじゃないでしょうね。あの子、丸め込まれていたみたいだし……」

「そんな人ではないと言っただろう! 歳上だが私の友人で、尊敬する人だ。奥方たちも令嬢もいる人に何てことを――」


 お兄様が言いかけたのを遮って、お姉様は一際大きな声で叫びました。


「奥方!? やっぱり汚らわしいわ。一体、リリーを第何夫人にするつもりなのかしら。ねえ、エドワード、リリーを売り飛ばすみたいにしてまで私と結婚したくないの? あの子が心配じゃないの?」


 お姉様の声を聞くうちに、リリー・メイは悲しくなってしまいました。お姉様は優しかったけど、華夏の人に対してはこんなにひどいことを思っていたのです。いつも笑ってお菓子をくれたりしていた陰で、リリー・メイも変な子だと心の中では思っていたのでしょうか。

 でも、悲しいのはリリー・メイ自身のためだけではありません。ひどいことをお姉様が口に出してしまったのは、それだけ結婚を止めるのが嫌だからだと思います。こんなことを言ってもお兄様が考え直すはずはないのに、それでも言ってしまうのは、お姉様もどうしたら良いか分からないのでしょう。


「君がそんなに偏見に塗れているとは知りたくなかったな」


 お兄様も驚いたような悲しそうな声でした。


「その様子では、やはり商売を手伝ってもらう訳にはいかない。租界の中だけの付き合いで済むような男は他にも幾らでもいるだろう」

「あなたがそうしてくれれば良いじゃない! どうして私を捨てて華夏の方へ行こうとするのよ!」


 リリー・メイは唇を結んで息を止めると、客間の扉を一気に開け放ちました。


「お姉様、リリーのせいなの」

「リリー!? 来てはいけないと言っただろう!」


 お兄様が目を丸くしているのが目に入りました。言いつけを破ってしまって、悪い子だとは思います。でも、リリー・メイとお兄様、二人のせいでこうなってしまったことです。リリー・メイだけどこかに隠れている訳にはいかないのです。


「リリーはお兄様が好きでお兄様もリリーが好きなの。ずっと一緒にいるのよ。だからお姉様と結婚できないの」


 部屋に入ってみると、お姉様は涙を流していました。大人の人が泣いているのを見たのは初めてです。泣き止んで欲しいと思うのですが、リリー・メイにはそれはできません。だから、リリー・メイは胸が引き裂かれそうになりながら、それでも続けました。


「ごめんなさい、お姉様。でも、お兄様をあげたりなんてできないの。ラオジュとお仕事をするのもリリーの見た目とか、お母様が華夏人なのが都合が良いからよ。お兄様がリリーのためにしてくれたの。リリーもお兄様のお手伝いをするの。みんなリリーのせいなの」


 怖くて足が震えそうだったけど、リリー・メイは最後まではっきり言うことができました。


「リリー……そんなこと、でも……」

「部屋に戻りなさい、リリー」


 お姉様は目をこぼれ落ちそうなほど見開きました。お兄様は、焦った様子で大股にリリー・メイに近づいてきます。


「貴女とエドワードは血が繋がっているじゃない! それも大人と子供で……そんなことありえないわ。気持ち悪い!」

「違うわ」


 お兄様が何か言おうと口を開こうとするのが見えましたが、リリー・メイが続ける方が先でした。


「リリーのお父様はアルバートじゃないの。本当のお父様は朱威竜、ダニエルと一緒の時に助けてくれた人、お兄様が取引を始める人よ。だからリリーにひどいことをするはずなんてないし、リリーがお兄様を好きになっても何もおかしくないの」


 言ってはいけないと言われていたことだわ、と口が動いてから思い出しました。でも、言ってしまうと変にすっきりした気分になりました。


 朱威竜のことを悪く言われるのにも、お兄様に恋をしてはいけないと言われるのにも、可哀想だと言われるのにも。リリー・メイはうんざりしていたようなのです。

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