第49話 子供たち
ダニエルは
「何だか、来ちゃいけないところのような気がする……」
その気持ちが少し分かるので、リリー・メイは少し笑いました。バカにしていると思われないように、ほんの少しだけ。
皆思うことは同じなのです。リリー・メイも絵本の中に紛れ込んだみたいだと思ったし、この前の
「いつもの服だからよね? この前は華服を貸してもらったし。……玉蓮もね、租界は別の国みたいって言ってたわ」
「そうか、僕とは逆になるんだ……」
そう言うと、ダニエルはジャケットの襟元を正しました。見ているだけでも緊張していると分かったので、リリー・メイはわざとらしいかもしれないけど明るく言いました。
「大丈夫よ。お招きしてくれたんだもの。嫌なら会ってくれないわ。玉蓮も楽しみそうだったのよ?」
「そう。そうだな……」
まだぎこちない表情のダニエルの背を、お兄様が軽く叩きました。
「
「うん、エドワード兄さん」
ダニエルはこっくりとうなずくと、意を決したようにしっかりとした足取りで門をくぐっていきました。
今日は最初から玉蓮はこちらのお屋敷にいて、ドレス姿で迎えてくれました。お母様の
「
ダニエルの姿を見た玉蓮はきらきらと目を輝かせました。それでも男の子が恥ずかしいのでしょうか、お父様の朱威竜に半分隠れる感じで、まるで猫が物陰から玩具を狙ってしっぽを揺らしているようでした。
「玉蓮、行儀が悪い。きちんと挨拶を」
「はい、父様」
朱威竜に押し出された玉蓮は、真面目な顔になってダニエルの前に進み出ました。
「はじめまして」
リリー・メイと初めて会った時よりも、ずっと滑らかな挨拶でした。そういえば、玉蓮は本国の言葉がどんどん上手になっていたのです。スカートを摘んでお辞儀をするのも、レディらしく優雅なものです。
「朱玉蓮です。お会いできて嬉しいわ、ダニエル――」
「ダニエル・レイシー。こちらこそ嬉しい。
そう言うと、ダニエルは玉蓮の手をとって軽くキスをしました。ダニエルと玉蓮は一つ違いで、玉蓮の方が少しだけお姉さんだったはずです。歳の割には身体の小さいリリー・メイと比べると二人とも大人っぽくて、見とれるのと同時に羨ましくなってしまいます。
次に、ダニエルは朱威竜に向き直りました。リリー・メイと一緒にいられるようお願いしに来た時のお兄様ほどではないけれど、横で見ているだけでもとても緊張しているのが分かりました。
「この前は、助けてもらったのに失礼なことを言ってしまってすみませんでした。それに、服や食事もありがとうございました。ええと……」
朱威竜の黒い瞳に見下ろされて、ダニエルは言葉に詰まってしまいそうになったようでしたが、それでも最後まではっきりと言いました。
「華夏人だからって、その、下に見ていたのは間違っていたと思います。もしも、許してくれるなら、華夏のことをもっと教えてくれませんか?」
言い切ると、ダニエルはぺこりと頭を下げました。それを、朱威竜は不思議そうな顔で見下ろしています。
「この前とは別人のようだ。一体何があったのだ?」
ダニエルは恐る恐るといった感じで顔を上げると、リリー・メイと玉蓮を交互に見ました。
「リリーは普通の子だったし――ユーリェンも、言葉が二つも話せるなんてすごいから。僕の方が間違っていたんじゃないかと思ったんだ」
「莉麗のお陰という訳か」
朱威竜はリリー・メイに対してにっこりと微笑みました。そして、ダニエルに向かってびっくりするほど優しく語りかけます。
「こちらこそまともに名乗りもせず名前も聞かず、無礼だった。玉蓮と――莉麗とも仲良くしてくれると嬉しい。租界では黒い髪と瞳は目立ってしまうから、気にせず付き合ってくれるものは一人でも多い方が良い」
「はい」
ダニエルはほっとした表情でうなずきました。
リリー・メイもとても嬉しく思います。玉蓮は良い子だから、ダニエルともすぐにお友だちになれるでしょう。お兄様とお姉様が結婚を止めるとなったら、ダニエルもリリー・メイを嫌いになってしまうかもしれませんが、それは玉蓮には関係ないことです。玉蓮が租界の社交界に出る時、ダニエルはきっと助けてくれるはずです。ダニエルも華夏のことを知ることができます。
二人にとって、それは多分良いことです。
朱威竜や
三人とも、隠れんぼをしたりするような――といってもリリー・メイはやったことがないのですが――小さい子供ではないのですが、リリー・メイやダニエルにとって見慣れない華夏の広いお屋敷を探検するのはとてもわくわくする冒険のようなものでした。玉蓮もいて、この模様はどういう意味だとか、どんなご先祖様が使っていた家具だとか、全部教えてくれるからなおさらです。
一通りお屋敷の中を見終わると、三人は庭に出ました。お屋敷の中はちょうど良い暖かさに保たれていたのですが、歩き回っているうちに暑いくらいになってしまったのです。広い池を渡る風が火照った頬には気持ち良いくらいでした。
「夏だと蓮が綺麗なんだけど。冬で残念だったね」
そうつぶやいた玉蓮が枯葉を摘んで池に撒くと、黒っぽい大きな魚が水底から浮かび上がって、大きな口で枯葉を飲み込みました。
「玉蓮の名前は
前に聞いたことを思い出して、リリー・メイはダニエルにも教えてあげました。ダニエルが首を傾げるので、華夏語の文字はそれぞれ意味と発音を持っていることも教えます。
「ユーリェン。玉蓮……。ふうん、華夏語は難しいな」
ダニエルは不思議そうな顔で玉蓮の名前を繰り返しつぶやいていましたが、すぐに笑顔になってリリー・メイに微笑みかけました。
「リリーは百合だから二人とも花の名前だね」
「あら、莉麗はジャスミンよ。美しい、ジャスミン」
「え?」
「ここのお屋敷の人はリリーを莉麗って呼ぶの。華夏語をあててもらったのよ」
玉蓮の言葉にダニエルが混乱してしまったようなので、リリー・メイは慌てて説明しました。本当は
玉蓮も小枝を拾って地面に文字を書いてくれます。紙に書いてもらったのとは違って見えづらいし歪んでいるので、ダニエルは難しい顔になってしまいました。
「綴り……というか字も全然違うのに意味も発音も覚えなきゃいけないのか。大変だな」
苛々を晴らそうとするように、ダニエルが小石を池に投げ込むと、驚いた魚が跳ねて小さな水しぶきが上がりました。魚が可哀想だわ、とリリー・メイは横から口を出します。
「リリーも華夏語も勉強するつもりなの。一緒に教えてもらわない?」
嫌われなかったらだけど、と付け足したのは心の中だけですが。そんなことは知らないダニエルが嬉しそうに笑ってくれたので、リリー・メイは少し胸が痛くなりました。
「いいな、それ。どっちが早く上達するか競争だ」
「男の子って皆そうなのね。兄様たちも競ってばかり」
「兄さんもいるんだ。良いな。僕は姉さんだけだから」
二人は和やかに話していますが、ベアトリスお姉様の話題が出たので、リリー・メイは余計に苦しくなってしまいます。ダニエルはお姉様が好きだし、お兄様に「兄さん」になって欲しいのです。
そこへ、華服を着た召使が三人に近づいてきました。女の人だけど
「――――」
「――――――?」
華夏語で一言二言交わすと、玉蓮はリリー・メイとダニエルへ振り向いて訳してくれました。
「お茶とお菓子の準備ができたからおいで、って父様が。お仕事のお話は終わったって」
玉蓮の後についてお屋敷へと戻りながら、リリー・メイは小声でダニエルに話しかけました。
「ねえ、ダニエル。ベアトリスお姉様は元気?」
「うん……どうかな、この前ほどじゃないけど機嫌は良くないと思う。何だか落ち込んでるみたいで――エドワード兄さんと何かあったか、リリーは知ってる?」
「ううん、知らない」
リリー・メイは後ろめたく思いながら首を振りました。お兄様とお姉様がどんなお話をしているのか聞かされていないのは本当ですが、お姉様が怒っているとしたらリリー・メイのせい、そして、悲しいとしたらお兄様との結婚が取り止めになってしまうからに違いないのです。
ダニエルというお友だちがいなくなってしまうのが怖くて、本当のことが言えないリリー・メイは、自分がとても嫌な子だと思いました。
「そっか……」
ダニエルは少し顔を顰めましたが、すぐにリリー・メイに笑いかけてくれました。
「でも、姉さんは今日はリリーと仲良くしてきなさいって言ってたんだ。だから、リリーは心配することないと思う」
リリー・メイはダニエルに笑い返そうとしましたが、ちゃんとできたかどうかは分かりません。
ベアトリスお姉様はリリー・メイのことが嫌いで、嫉妬していて、怒っていると思います。どうしてそんなことを言ってくれたのかが分からなくて、怖くなってしまったのです。
お屋敷に戻ると、華夏風と本国風の、二種類のお茶とお菓子が用意されていました。
「ダニエルは口に合わないかもしれないから好きな方にすると良いわ。……莉麗はどちらでも大丈夫なようだけど」
香蘭は微笑んで言ったのですが、食いしん坊だと言われているようでリリー・メイは少し赤くなってしまいました。でも、確かにどちらの国のものだろうとお茶もお菓子も美味しいのです。
「僕はこっちをいただきます」
ダニエルは華夏の
「とても甘いからお茶も一緒にいただくのよ」
「うん。とても、美味しいです。ありがとう」
玉蓮に勧められたやり方で月餅をいただいたダニエルを見て、お兄様が感心したように言いました。
「子供は慣れるのが早いな。すっかり友だちじゃないか」
朱威竜も嬉しそうに玉蓮を眺めています。
「玉蓮は本当に物怖じしないな。これなら租界での社交も大丈夫だろう」
「父様のお仕事のためだもの。頑張るわ」
それを聞いたダニエルは、首を傾げてお兄様と朱威竜に問いかけました。
「そういえば、仕事の話をしていたって。兄さんは華夏とも取引するの? するんですか?」
丁寧に言い直したのは朱威竜に対してです。ダニエルはこの人に対してはまだ緊張しているようでした。
「ああ、そうだ」
ダニエルの堅苦しい口調が微笑ましいとでも言うように、朱威竜は優しく答えました。最初に会った時の冷たい態度とは全然違うので、驚いてしまうくらいです。もっとも、あの時はダニエルも随分失礼な言葉遣いだったのですが。この前のお買い物で玉蓮が言っていた通り、ちゃんと話せば何もかも大丈夫だということなのでしょうか。
「特別おかしなことでも驚くことでもないだろう。何しろ租界の人間全てを合わせたよりも華夏の人間の方がはるかに多いのだ。こちらとしても租界の品には興味があるしな」
「なるほど」
ダニエルは納得したようにうなずきました。
「じゃあ、華夏のことをもっと勉強しなきゃですね。さっきも、文字や言葉を教えてもらいたいって言ってたんですけど」
「望むなら助けになろう。玉蓮や莉麗のためにもなることだから」
それから朱威竜は、意味ありげな間を置いてから続けました。
「君の姉にも勧めると良い。エドワードの妻になるなら必要なことだ」
「はい。そうします!」
ダニエルは嬉しそうに答えたのですが、リリー・メイは驚いてお兄様の方を見てしまいました。朱威竜はお兄様に結婚を止めて欲しいはずなのです。なのにこんなことを言うなんて、やっぱりリリー・メイとお兄様を離そうとしているのかと思ったのです。
でも、お兄様は小さく首を振って唇に指を一本あてました。黙っていて、ということだと分かったので、リリー・メイは不安な気持ちのままでしたが、それをお兄様や朱威竜にぶつけることはできませんでした。
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