第3話:2

「君さあ、スーパーってじっくり見た事ある?」


 岬はすさまじく唐突にそんな事を聞いてきた。そう言えばこいつ……どうしていつも黒い服を着ているんだろう。髪も瞳も黒いのにその上黒服黒コート黒いズボンに黒ブーツなんて……フィクションではいいかもしれないが現実では悪目立ちし過ぎである。


「な、ないけど……っていうかスーパー自体行った事は数える程しかないけれど……」


 言いつつ俺はその「数える程」を数え始めた。確か保育園に行っていた時と……あまり愉快でない感情が頭をよぎり、思わず顔をしかめてしまう。


「まあまあ、そんなスーパー行った回数ごときで悲壮な顔をしなくていいから。でも、僕はスーパーはもっと活用されるべきだと思うんだよなあ……主婦の皆様や学校の調理実習をする学生さん達だけじゃなく、時間のないサラリーマンやOLや独り暮らしの学生やご年配もろもろね」


「でも、スーパーなんてそうそう行く用ないだろう……今はコンビニもあるんだしさ……」


「まあ、確かにコンビニの方が近くて便利だろうけど、スーパーにはスーパーの良さがあるんだよ」


「何だよ」


「品揃えが多い」


「……」


「ま、その品揃えの多さと広さが『何を見ればいいのか分からない』って思わせる要因でもあるんだけどさ、そんなのスーパーの『使い方』を知らないだけだよ。使い方さえきちんと分かればスーパーの良さもきちんと分かる。そういう『使い方』をきちんと教える所が今現在はないんだけどね。大学とか新人研修とかで近くのスーパーについての教育とかあったらいいんじゃないかと思うんだけどな」


「ええっと……どういう?」


「それは『実地』で教えるよ! あくまで僕みたいな無能で無才な凡人の考える事だからあくまで参考程度にだけどね! でもスーパーに着くまでまだちょっと時間があるしなあ……透也、何か僕に話したい事ある? いつも僕ばっかり喋っているのも失礼だし」


 喋り過ぎの自覚あるんかい……と思ったが、まあ……いいか……そこは、別に。だが、話したい事……一応思考を巡らせてみる。


「いや、俺はお前みたいにそんな話すような事ないし……あ、じゃあお前、なんでいつも黒い服ばっか着てるんだ? 黒が好きなのか? 言いたくないなら別にいいけど……」


「僕の話!? 僕みたいな無能で無才の凡人に興味を持ってくれるなんて嬉しいな! ありがとう! えーと、黒は確かに好きだけど、別に黒だけが特別好きっていうワケでもないよ。どんな色でもその色にはその色の良さってものがあるからね。でも強いて言うなら無色透明が一番好きかな! 無色透明を色と言っていいのかは分からないけど綺麗だよね! あー……っと、僕が黒い服ばっか着ている理由はね、『これ以外似合うものがないから』だよ。まあ決してこの格好が似合うっていうワケではないんだけれど、僕はご覧の通り目も黒髪も黒特徴も取っ掛かりもない無個性の極みみたいな顔立ちをしているからね、彫りの深い外国人用に作られた洋服はもう致命的に似合わないんだ。正に『服に着られている』っていう感じでさ。だから出来れば和服を着たい所なんだけど、和服こそ目も黒、髪も黒、扁平な顔立ちの日本人に最も適した服だと思うし、僕は病衣に関しては『死ぬ程似合う』と言われた事のある男だからね……でも、着物や浴衣や袴はそれなりの値段がするし、っていうか着るのが面倒だろう? だから僕は安価に作れて簡単に着れる作務衣や甚平を普段着にしたいと常々思っているんだけどさ、今そういう格好で出歩いたら黒服よりも浮いてしまうからね。全く、ここは『和』の国であるはずなのにさ、なんで『和』という言葉や文化はここまで廃れてしまったんだろう。和服、和風、和食、和菓子、和物、大和、平和、和平、もっと『和』を重んじて推参するべきじゃないのかな。むしろ『日が出ずる国』っていうエラソーな意味の『日本』じゃなくて『大いなる和』の『大和』に国名を改名したっていいと思う。『日本人』っていうとピンと来ないけど『大和人』って言ったらなんかこう大らかでいかにも『私は平和を何より大事にしています!』っていう感じがすごいじゃない。それなのに一体日本人はいつから『大和魂』を無くしてしまったって言うんだろうね。まあ僕ごとき無能で無才の凡人が気にしても仕方ないけどさ、とりあえず僕は甚平と作務衣で外を歩けるようにして欲しいよ。日本人には日本人に似合う格好があるんだからそれをもっと推して参っていくべきだ!」


 などと、岬がマシンガンのようなトークを繰り広げている間に俺達はスーパーへと辿り着いた。岬は先程の熱弁などコロっと忘れたようにカートに買い物カゴを乗せると、悪目立ち黒コート姿で野菜コーナーへと足を進める。


「まずは野菜に関してだね。野菜って言うとどうしても生野菜丸ごとをイメージしてしまいがちだけど、今は千切りキャベツやスライス玉ねぎの袋詰めとかサラダパックとかも売っているから、こういうのを買ってツナ缶や生ハムを乗せればすぐにサラダが作れるよ。まあサラダはコンビニで買ってもいいけれどスーパーの方が安上がりな事もあるからね。あとは電子レンジで温野菜に出来るのもあるし、煮物やポテトサラダなんかの調理済みのも売ってるし、僕がオススメしたいのはなんと言っても野菜炒め用野菜の袋詰めだね。野菜炒めはもちろんの事、焼きうどんや焼きそばや味噌ラーメンや野菜餡かけの具としても活用出来る。あとたけのこの水煮は焼き豆腐と煮ればさっと煮に出来るし米と化学調味料と醤油を入れれば炊き込みご飯にする事も出来る。フキの水煮はちくわとこんにゃくを入れて炒め物に出来るかな? ここだけでも活用の幅は広いよね。ちなみに子供の好き嫌いをなくそうとピーマンをどうにか食べさせようとしている親御さんは多いけどさ、僕らが知ってるピーマンが青くて苦いのはピーマンがそういう食べ物だからじゃなくてまだ完熟していないからだ。完熟したピーマンは赤くて苦みもなくてさらに栄養価も青いピーマンより高いんだって。まあ完熟したピーマンは青いピーマンと違ってすぐ悪くなっちゃうから出荷には適さないらしいんだけど、だったらトマトみたいに缶詰にしたらどうかなって思うんだ。そうしたら保存が出来るし子供でも食べやすいかもしれないしペーストにしてカレーに混ぜたりパンやお菓子の生地に混ぜたり色々活用の幅が広がるんじゃないかと思うんだ。その他の野菜も缶詰に出来たら便利じゃないかと思うんだけどな」


「『魚は捌けなければ意味がない』って言う人もいるけれど、今時そんな大人数で集まる事ってそんなにないし、魚焼きグリルがなかったり洗うのが面倒って事もあるだろうし、少なくとも独り身で最低限の料理がしたいって場合はそんなに無理しなくていいんじゃないかと思うんだ。今だとサバの味噌煮とかカレイの煮付けとか焼き魚とかも普通に売ってるし、ツナ缶やサバ缶やサンマ缶なんかも便利だし。あとはふりかけやシャケフレークなんかもいいんじゃないかと思うんだけど栄養素的にはどうなんだろうね……魚介の代わりになるのかきちんとした情報が欲しいよなあ」


「肉は僕は……実はあまり好きな方じゃないんだよね。嫌いって程でもないけれど食べ過ぎると胃もたれを起こすんだ。まあ最近では美肌とダイエットのために肉を食べろってやたら推奨しているみたいだけれど、僕はそれ自体は結構疑問に思ってるんだ……まずたんぱく質は糖質や脂質に比べて安全なエネルギー源みたいに思われているけれど、糖質の構成物質は水素と酸素と炭素なのに対し、たんぱく質の構成物質は水素と酸素と炭素と窒素と硫黄などが含まれる。だから糖質はエネルギーとして使われると水と二酸化炭素に分解されるけど、たんぱく質は窒素化合物……つまりアンモニアを生じるんだ。まあすぐに無毒な尿素に変換されるんだけどアンモニアを尿素に変換する臓器である肝臓にはその分負担が掛かるはずなんだからさ、僕はその辺りの危険性も検証すべきだと思うんだよね。まあ現在理想とされているたんぱく質の必要量が少ないだけかもしれないけどさ、それならそれでたんぱく質をどれだけ摂取したらいいのかしっかり実験結果を出して政府なりWHOなりに提出してからにして欲しいよね。『現代人』なんて何処の誰を指しているかも分からない言葉を使って肉を食べろなんて言う前にさ。第一肌荒れの原因なんてアレルギーとか顔への刺激の多さとか紫外線量とかストレスとか気候とか寒冷刺激とか腸内環境とかその他の病気とか色々考えられるワケだし、ダイエットに関しても全体的な食習慣運動習慣睡眠時間ストレス環境その他の疾患とか色々と考えるべきだろう? それを直接顔を合わせて情報収集したワケでもないのに『とりあえず肉食べろ』なんて、風邪だと診断してもいないくせに風邪薬処方するぐらい横暴だと思うんだけどな。あと肉を食べるとどうしても味付けが必要だろう? 塩分摂取量的にはどうなんだろうとか考えちゃうよ……あ、でも何も肉を食べるなって言いたいワケじゃないんだよ。お肉も栄養豊富だからね。何よりおいしいし、『おいしい』という感覚が脳に与える恩恵も決して無視は出来ないからね。


 ただし一日に摂取するたんぱく質量は一日摂取カロリーの二十パーセントを目安にした方がいいんじゃないかっていう意味だ。一応現代の日本のカロリー摂取量に対する糖質とたんぱく質と脂質の理想的な比率は糖質六十パーセント、たんぱく質二十パーセント、脂質は二十パーセントと言われている。まあ、これは正確な数値ではなく『覚えやすいからこう言っている』だけで、今後見直される可能性もあるから細かい数字は各個人で調べて欲しい所だけどね。成人男性の理想的一日平均カロリー摂取量は千五百キロカロリーから二千キロカロリー、女性なら千二百キロカロリーから千五百キロカロリーだ。これも身長・体重・筋肉量・季節環境・体調によって変化するからあくまで目安程度だけど参考ぐらいにはなるだろう。


 それを踏まえたうえで話を肉に戻すけど、例えば肉三百グラムとかよく聞くけれど、それ全部たんぱく質だとしたらたんぱく質は一グラム四キロカロリーだから千二百キロカロリー……明らかに多過ぎだろう? まあ実際は脂肪も含まれてるからそこまではいかないだろうし肉の種類にも依ると思うけど肝臓的にはどうなのかな……本当に将来何の影響もないって言い切れるのかな……脂肪の量だって気になるし、アミノ酸のバランスや他の栄養素を摂取出来てるかっていう所も気になるし、あと最近だと終末糖化物質っていうのも気になる話なんだよね。『糖化』って書いてるから単純に糖質を連想しそうになるけれど、終末糖化物質は『たんぱく質が糖と結びついた物質』であって食物的にはむしろステーキや唐揚げなんかに多い物質らしいんだ。まあ僕の見たネットサイトの研究者の先生方とテレビに出ていた研究者の先生が正しかったらの話だけど、同量の生米と比較するとフライパンで焼いたステーキの方が千倍多い事になるらしいよ。あ、ちなみに終末糖化物質って言うのは体全体の老化に関わる物質らしいんだけどね、これによって肌だけじゃなく血管も脳も心臓も全部老化しちゃうんだって。具体的には動脈硬化と骨粗鬆症と白内障とアルツハイマーの危険かな。まあこれも将来どう転がっていくか分からない話ではあるけれど、『証明されていないという事はないという事にはなり得ない』ワケだし、もっと多角的方面から物事を見て話して欲しい所だね」


「僕は大豆製品と卵はもっと活用されるべきだと思うんだ。たんぱく質と言うと肉ばかり連想する人が多いけど、豆類や卵だって立派なたんぱく源だからね。しかも安いし、セロトニンの原料になるトリプトファンも豊富だし、終末糖化物質もお肉に比べて少ないらしいし。まあだからと言って食べ過ぎはよくないんだけど、普通に満遍なくバランスよく食べてれば食べ過ぎにはならないんじゃないのかな」


「牛乳は大人になってからお腹壊して飲めなくなる人が多いんだけどね……乳糖不耐症ってヤツだ。でもジュースみたいな糖類過多のものを飲むより遥かに健康的だし、牛乳もトリプトファンが入っているからね……まあどうしても無理ならヨーグルトやチーズをおススメするよ。僕は牛乳にりんごジュースを混ぜて飲むのが最近のトレンドかなあ。紅茶を入れてミルクティーにしたりオールスパイスを入れてチャイ風にしてもいいよねえ。ちなみにヨーグルトの乳酸菌は人によって合う菌が違うらしいから便秘改善目的で食べるならそこは注意が必要かな。まあ便秘を治すためならヨーグルトだけに頼るんじゃなくて水溶性食物繊維と不溶性食物繊維を満遍なく取って水分補給を気を付けて適度に体を動かしてストレスを溜めないようにしてその他の乳酸菌性食品を食べてって全部やった方がいいけれど。でも人によって便秘の症状も改善法も個人差があるから万一なっちゃったら医者に行った方がいいだろうね」


「果物は一日一個程度が理想らしいね。水溶性食物繊維が豊富だしビタミンCとかの栄養もあるし生の果物は酵素やポリフェノールも期待出来るし。最近は果物は糖質が含まれているから食べてはいけないと言う人もいるけれど、そもそもなんで糖質がそこまで悪者にされているか僕は疑問なんだよね。確かに糖質が血管に大量に流れているとやがて糖尿病に発展しかねないし、細胞のたんぱく質が糖化して終末糖化物質に変化して老化を促進するって話だけれど、それはブドウ糖が余っているような状態……つまりエネルギー過多状態の結果だと思うんだよね。糖質は体内に入るとATP回路に入って水や二酸化炭素に分解されるからむしろエネルギーとしてはクリーンだし、糖質一グラム四キロカロリー、たんぱく質一グラム四キロカロリー、脂肪一グラム九キロカロリー、アルコール一グラム七キロカロリーを考えるとエネルギー源としてはたんぱく質と同等だ。エネルギーとしての糖質をたんぱく質や脂肪やアルコールで置き換える必要なんてないはずだ。まあ、だからと言って食べ過ぎは問題なワケだけどさ、でもそれって『食べ過ぎが問題』なのであって『食べるのが問題』なワケではないと思うんだ。『糖質、たんぱく質、脂質、その他の栄養素を適性に摂った結果』問題が起きたならそれは改正すべきだけど、『たんぱく質、脂質、アルコールなどでカロリーを満たして糖質を余らせた結果』問題が出たのなら、問題は『糖質を摂ったから』じゃなくて『たんぱく質や脂質やアルコールを摂り過ぎたから』じゃないのかな? まあ世の中には糖質摂り過ぎの人もいるからそういう場合は制限した方がいいけどさ、それでもきちんとその人の食生活を調べてからどうこう言うべきじゃないのかな。『自分はこうだから』『こういう人がいたから』なんて、せいぜい『七十億分の一の話』に過ぎないんだ。たかだか七十億分の一の事例を全てに当てはめようなんて、それは拡大解釈ってもんじゃないかと僕は思っているんだけどな」


「日本人のご飯離れが深刻化しているけどさ、僕はご飯についてはもっと見直されるべきだと思うんだ。っていうか最近だと炭水化物と糖質を同一視していたり砂糖とご飯は同じ糖質だから栄養素的には同一だとか言う人もいるけどさ、炭水化物は糖質と食物繊維が一緒になっている時の名称であって糖質と同一ではないし、砂糖はショ糖、ご飯はでんぷんって違う種類の糖なんだよ。もっと細かく言えばショ糖はブドウ糖と果糖の混合物ででんぷんはブドウ糖がいくつもくっついたものだ……つまり違う物質なんだよ。それにご飯にもアミノ酸や食物繊維といった栄養素は含まれているしね。砂糖と一緒なんて言って米農家さんの生活を圧迫するのは止めて欲しいなあ。最近ではお米を冷やすと吸収されにくいでんぷんに変わるって説もあるワケだし。


 それでも、百歩譲って白米が駄目だと言うのなら玄米を食べればいいじゃないか。玄米は白米よりも栄養価に優れているし、白米と違って血糖値を急激に上げるという事もない。それに最近だとリポポリサッカライドという免疫力を上げる成分が発見されたという話もある。そもそも血糖値を急激に上げないように食物繊維や汁物から食べればいいだけの話であって、それだけで白米を悪者にするのもどうかと思うけど、とりあえず僕は政府にはもっと玄米食を推奨して欲しい所だね。あとは甘酒とかもち米とかも使えると思うんだ。甘酒は飲む点滴と言われる程栄養豊富だし冷やせば熱中症対策温めれば寒さ対策になるし、もち米はご飯より消化しにくいから腹持ちが良くて食べ過ぎ防止に繋がるし……飼料米に変えるよりも玄米やもち米や甘酒を推奨した方が農家の救済処置にはなるんじゃないのかな……それにさ、米は太るみたいな事を言われているけど、米程ダイエットとバランスのいい栄養管理に向いている食べ物はないと思う。こんにゃくとキノコと油揚げとごぼうと人参を入れて炊き込みご飯にしてもいいわけだし、お茶漬けや雑炊やお粥にして夜食にしてもいいわけだろう? キムチともやしと卵を入れてチャーハンにしてもいいわけだし、ちょっとのひき肉とピーマンとナスとカボチャとトマトを入れてドライカレーにしてもいいわけだ。どんな食材にも合うし水を吸うから嵩増しも出来るし肉や魚や野菜と違って保存性にも優れているわけだし炊いた後でもレトルトとか缶詰とか色々利用出来るのに、なんでご飯の立場がこんなに危うくなっているんだろう……米がそんなに余っているならさ、食糧不足に喘いでいる国に支援金ならぬ支援米として送ってもいいと思うのに……他にも米粉にして小麦粉の代わりにすれば食糧自給率低下をちょっと止められるんじゃないのかとか色々活用できると思うんだけどな」


「お菓子については食べ過ぎには注意だよね。まあどんな食べ物でも食べ過ぎには注意なんだけど、コレステロール過多は高血圧や高脂血症や脳梗塞や心筋梗塞に繋がりかねないし、揚げ油に含まれるトランス脂肪酸は細胞の老化を招きかねない。でも最近だとドライフルーツやナッツ類や野菜チップスや食物繊維を複合したスティックバーやこんにゃく系デザートやカカオポリフェノールの割合の高いチョコレートとかがあるからさ、こういうのを夕方頃食べるのはいいんじゃないかと思うんだ。空腹が長く続くと後で食べ過ぎを招きかねないし、イライラして仕事の能率が下がったら元も子もないからね。お菓子の栄養素もきちんと分析されて成分表に乗ってくれたらいいんだけどな……あ、ご飯の代わりにするのは駄目だからね。お菓子はあくまで間食だよ」


「……と、一通り説明させて頂いたけど、どうかな透也」


「……」


 どうもこうも、


 「ついていけない」、それが正直な感想だった。なんだこいつ。スーパーに入ってから一人でどんだけ喋ったんだ? 大変申し訳ないが最初の一行目から暗唱してみろと言われた所で絶対無理だ。


「何お前……俺をスーパーに連れて来るために原稿でも暗記してたのか……?」


「え? 暗記? してないしてない。だってこんなの普通に話せる事でしょう?」


「話せねえよ! お前の頭はどうなってんだ! 台本一冊でも入ってんのか!?」


「やだなあ、僕は無能で無才で凡人の何処にでもいる役立たずの一般人だよ。台本一冊丸暗記なんてそんな芸当は出来ないって。したとしても忘れる忘れる」


 岬は事も無げにそう言ってレジにカートを押していった。本当……こいつ、一体どういう人間なんだろう。マンガやアニメじゃあるまいしだけど、こいつがどういうキャラクターなのか未だにさっぱり掴めない。


 ……あれ? そう言えば岬の説明聞いててすっかり忘れてたけど……


「岬、一体何買って……」


「うっ、うう……」


 その時、俺達の進行方向に立っていた男の人が急にうめき声を上げた。よく見えないが苦しそうだ。体に力が入っていないみたいに足下がグラグラしている。


「岬、あの人……」


 ドタン、と、何か重いものが落ちたような大きな物音が響き渡った。黒い影が弾かれたように俺の横から飛び出し、男性の傍に膝をつく。


「大丈夫ですか? しっかりして下さい、大丈夫ですか?」

 

 岬は男性の肩を叩いた後、首に触れ、視線を周囲に巡らせた。そして駆け寄ってきた店員へと視線を止める。


「救急車呼んで、AEDを持ってきて下さい、早く!」


「は、はい!」


「透也、ちょっとこっちに来てくれ」


 岬に呼ばれ、俺は慌てて岬の元へと駆け寄った。岬は男性の顎を持ち上げ口元に黒いハンカチを当てている。


「透也、心臓マッサージのやり方分かる?」


「わ、分からない……」


「人工呼吸は?」


「分からない……」


「じゃあ僕が合図したら、ハンカチ越しにこの人に息を拭き込んで。顎は上げたまま、鼻は摘まんで。いいね」


「あ、ああ」


 岬は俺と場所を変わると、膝立ちになって男性の胸に両手を当て力強く押し込んだ。リズミカルに何十回も押し、そして俺に視線を向ける。


「大きく二回吹き込んで」


「フ―、フ―」


「いいぞ。合図したらまた二回だ。焦らないでいいから、落ち着いて」


「AED持ってきました」


「開けてスイッチを入れて下さい。それから人払いと、救急隊員が来たらここまで案内をお願いします」


「は、はい」


「透也、電気ショックするから離れて。絶対にこの人に触るなよ。すいません、危ないので離れて下さい」


 岬はパッドを男性の胸に張り付けた後俺と周囲に声を掛け、店員が持ってきた機械のスイッチを押し込んだ。しばらくして機械音声が「解析中です……直ちに心臓マッサージを開始して下さい」と告げ、岬が再び男性の胸を押し始める。


「透也、僕が合図したらまた息を……」


「すいません、こっちです」


 先程の店員の言葉と共に、担架を持った救急隊員が数人こちらに向かってきた。岬は男性の傍から離れて救急隊員に場を開け渡し、ボードのようなものを持っている隊員へと歩いていく。


「苦しそうに胸を押さえた後、急に倒れました。人工呼吸と心臓マッサージ、AEDによる電気ショックを行いました」


「ありがとうございました。あとはこちらで」


「透也、行くよ。あとは救急隊員に任せよう」


「え……でも……」


「僕らがこれ以上しゃしゃり出ても邪魔になるだけだよ。餅は餅屋、プロに任せるのが一番だ。さっさと帰ろう」


 岬は置きっぱなしだったカートを再び確保すると、倒れた男性から遠ざかるように別のルートを通っていった。何事もなかったようにレジへと入り、そそくさと会計を済ませ、人ゴミに紛れるようにスーパーから出て、全身の空気を全部抜くように息を吐く。


「はー、びっくりした。焦ったよ。あんなにパニックになったのは久しぶりだ」


「パニックって……全然落ち着いていたように見えたけど」


「それこそ全然だよ。頭の中の救急対応の本を必死に引っ張り出しちゃったよ。まあ対応としては間違ってなかったと思うけど……」


 ……いやいや、出来てたよ。十分だよ。少なくとも、何をすればいいのか全然分からなかった俺なんかより。


「はー、しかしこういう事があると救急救命の知識についての普及の必要性を感じるよな……一応自動車教習所とかでAED教育をやるとは言え、いきなり心臓発作とか脳梗塞とかに出くわす事もあるんだから」


「いや、早々ないだろう……」


「いやいや、『絶対にある』とは言わないけれど、『絶対にない』とは言い切れない以上、出くわす危険性は考慮して知識と手技の周知徹底はするべきだと思うけどな。特に今は高血圧とか脂質異常症とか糖尿病とか心筋梗塞脳梗塞が当たり前みたいな時代だからね。若い人でも生活習慣病になる事はあるし、生活習慣病以外にもさっき言ってた低血糖とか気胸とかパニック障害とか過呼吸とか動脈剥離とか……」


「ちょ、ちょっと待ってくれよ。なんだよ、その、き……」


「気胸は肺に穴が開いてしまう病気。原因不明で、やせ形の若い男性に多いんだ。パニック障害は脳の青斑核っていう所に異常が起こって、心臓や肺はなんともないのに突然動悸や眩暈や呼吸困難に襲われる。過呼吸は主に心因的な理由で呼吸数が上昇して酸素不足に陥ってしまう病気」


「呼吸の回数が多いのに酸素不足になるのか?」


「呼吸っていうのは肺に酸素を取り込んで二酸化炭素を外に出す行為なんだけど、過呼吸は動作が多いだけで酸素の取り込みと二酸化炭素の排出が上手く出来ないから実質的には呼吸困難に陥ってしまうんだ。昔はペーパーバック法と言って口に紙袋やビニール袋を当てて呼気に含まれる二酸化炭素を吸わせるのがいいとされていたんだけれど、現在は二酸化炭素を吸わせる事は意味がない、どころか症状を悪化させる危険があるという事で患者を落ち着かせてゆっくり呼吸させる事、場合によっては酸素を吸引させる事になっている」


「へ、へえ~……」


「医者や看護師や救急救命士とかならある程度鑑別と対処も可能だと思うけど、医学知識がない素人にはなかなか判断が難しいだろう? 対応だってそうそうスムーズにいくものじゃないと思うし……人工呼吸をする時どうして顎を上げて鼻を摘ままなきゃいけないのかとか、心臓マッサージはどのぐらいの強さでやらなきゃいけないかとか、AEDを使う時の注意とか具体的な流れとか、そういう事も分からないって人も結構いるんじゃないのかな。僕はそういう事をこそ義務教育でやって欲しいと思うんだけどなあ……人体の機能とか、栄養素とか、病気の原因とか症状とか治療法とか治療にどれだけの資材とお金と時間と労力と人員が掛かってしまうのかとか。それが分からないから溢れる情報を自分勝手に解釈して非健康的な生活習慣を繰り返し、病気になって治療に時間やお金を浪費し社会経済を圧迫するみたいな事態に繋がっていくと思うんだけど」


「……お前さあ……」


「ん?」


「そう思うなら、どうしてそういう職業に就こう、とか思わないんだ?」


 俺は、思い切って尋ねてみた。ものすごく失礼だと思うけど。俺みたいな、生きる気力さえ失くしているような人間が言っていい事ではないと思うけど。


「お前、今二十八とか言ってたけどさ、前に言ってたよな。七十歳や八十歳になっても大学行くために勉強して受かる人もいるんだって。お前頭いいと思うしさ、今からでも大学受験して、必要な資格取って、そういう職業に就くっていう手もあるんじゃないか? どういう職業がいいのか、俺には分からないけれど……」


「無駄だから」


「……え?」


「無駄だから。そんな事しても、無駄だから」


 岬は、そう言った。真っ黒な目で。白いビニール袋を手にした真っ黒な格好の男は、俺から目を逸らして歩いたまま言葉を続ける。


「まあそうだな、例えばだけど、この前言っていた教育論の話でもしようか。あくまで無能で無才の凡人の考えと聞き流して欲しい所だけれど、僕は今の教育内容は足りない部分と無駄な部分が両方あると思っている。具体的な改善策としては義務教育を終えた人達全員にアンケートを取って、今覚えている知識、今使っている知識、子供の時に覚えておけば良かったと思う知識、覚えるのは後回しにしてもいいと思う知識、使うのはごくごく少数だと思われる知識、絶対に使わないと思われる知識、そういった情報を収集してそれを元に全く新しい教育方針を立てればいいんじゃないかと思っている。まあそれを実行するのはすさまじく大変だと思うけれど、そっちの方が『実戦的』だと思うからだ。少なくとも、鎌倉幕府が出来た経緯よりも鎌倉幕府が出来た年を重視したり、小説の解釈を限定したりするような今の教育よりはずっとね。


 けれど、それを実践するためには様々な障害が存在する。今現在の教育内容を一新する事になるだろうから現場や制度の混乱は計り知れないだろうし、その前に現在の教育方針を重要視している人達からものすごい反発に遭うだろう。また、仮に実践出来たとしてもその結果がどうなるかは分からない。もっと正確な言い方をするなら、その結果がきちんと出るのはその教育を受けた子供達が社会に出て働き出してから……まあ二十年前後はかかると思った方がいいのかな? そんなに長い間世間が待ってくれるとも思えないし……とまあね、上手くいく見込みがまるでないんだよ。医学知識についてもそうさ。一応テレビの健康番組とか健康に関する講演会とか、雑誌とか本とかネットとか、会社や地域ぐるみでとか様々な試みがなされているワケだけど、それをやってさえの現状が『これ』なんだ。だから僕は義務教育の段階で人体に関する事と医学知識については習得させるべきじゃないかと思うんだけど……中には高校や大学に行かない人もいるからね……でもさ、今のきっつきつの義務教育の現状で、人体と医学に関する時間を入れる事は出来ないだろう? 教育改革についての話はさっきも言った通りだ。


 まあそれでも『世論』を動かせさえすれば上手くいく率はすごく上がると思うけど、じゃあ僕に世論を動かす事が出来るかと聞かれたら、まあ無理だよね。僕は無能で無才の凡人にしか過ぎないワケだし、今現在国民の考えを一つにまとめられる程の舞台なんて存在しないし。一番可能性があるとしたらそういう内容をテーマにした娯楽作品を作る事だと思うけど、僕は無能で無才の凡人で、そんな教育だの政治だのという堅苦しくて面白みのないテーマを面白おかしく書き立てるような才能はないからね。つまりさ、僕が何を考え何を思った所で、僕にはそれを実現に移すための手段が『ない』んだよ。だから『無駄』なんだ。僕は無駄な事はしたくない」

 

 岬は、言った。きっぱりと。でも……と俺は言葉を続ける。


「でも、お前、今の状態は問題だと思っているんだろう……? 思っているから、もっとこういう事が必要じゃないのかとか、そういう事を言ってんだろう……?」


「まあ、問題だとは思っているよ。産婦人科が不足し幼児虐待が後を絶たず、保育園と保育士が足りなくて待機児童が増え続け、学校ではいじめと体罰と自殺とモンスターペアレンツが横行し社会ではブラックバイトとブラックバイトが幅を利かせ、詐欺と横領と汚職がなくならずセクハラとパワハラとモラハラとマタハラがいつまで経っても解決せず、テロとエネルギー不足と超高齢化社会は加速の一途を辿っている、そんな現代社会に何の問題もないなんて言えるヤツは大馬鹿者だ。


 でもさ、それをいくら問題だと認識しても、僕にはどうにも出来ないんだ。僕が一生懸命勉強して大学に入り教師や医者になり今のままじゃいけないんだと大声を張り上げたりした所で、何も変わらない。『無駄』なんだ。僕は無駄な事はしたくない」


 岬は、きっぱりと言い切った。何の光も感じられない、ブラックホールのような瞳で。けれど次の瞬間には目をにこりと細めてみせる。


「まあ、でも、安心しろよ。だって世の中には『この国一番の天才』とか『今世紀最高の天才』とか言われている人達が星の数程いるじゃないか。どこそこの有名大学を出たとか何冊本を出版したとか何の賞を取ったとか総資産はどれぐらいとか、そういう有能で有才な非凡人達がいっぱいいっぱいいるじゃないか。別に僕みたいな無能で無才の凡人がどうこう足掻こうとしなくても、そういう天才がきっとなんとかしてくれる。なんとかなるなるだいじょーぶ。


 ま、そういう天才達がいっぱいいるはずなのにこの惨状っていうのには失笑しか出ないけどね」


 サラッとブラック過ぎる事を言っている!


「うん、でも、まあ、とりあえず、僕みたいな無能で無才の凡人がしゃしゃり出るような幕じゃないよ。そういう事は『私は世界中の人間の役に立つために生まれてきた』みたいな事を豪語する天才にお任せする事であって、僕みたいな無能で無才の凡人が背負うような事じゃない。なんとかなるなるだいじょーぶ」


 岬は目をにこりと細めた、目を細めているだけで全く笑っていない顔でそう言った。その笑顔めいた、全く笑っていない表情に、何故か心臓が冷たくなるような思いがした。


「お前……さあ」


「……」


「……もし、もしも、だぞ、もしも、今の問題だらけの現状がそのままずっと続いていって、その結果この国や、世界が、滅びるような事になったら、どうする?」


 俺は、思わず聞いてしまった。この現状が続いた結果、この国や世界が滅びるなんて大袈裟かもしれないけれど、この国や世界が様々な問題を抱えているのは本当で、解決の目途も立っていないのも本当だ。だから、聞いてみた。


 岬は真顔でこう答えた。


「『別に、何も』。だってもしそうなったとしたら、それは人間の『自業自得』だろ? 正直虐待もいじめも体罰も自殺も、ブラック企業も詐欺も横領も、テロも戦争も貧困も環境汚染も人間全員が一丸になって当たれば解決する問題だと思うんだ。だってそれらは全部『人間』が引き起こした問題だからね。


 でも、このまま一部の誰かが足掻くだけで、その他大勢が見知らぬフリと上っ面の綺麗事を続けていけば、人間は自分の怠慢と責任逃れのせいで破滅する事になるとは思う。でも、そうなったとしたらそれは『自滅』で、『自業自得』だ。自業自得で滅びるような連中が滅んだ所で、同情はしない。憐れむ理由も道理もない。別にどうとも思わないよ。僕ははっきり言って人間が滅んだって別にどうでもいいからね」


 岬はそう言い切った後、コートから鍵を取り出した。話に夢中で気付かなかったがいつの間にか岬の家に着いていた。


「ま、とりあえず入ろう入ろう。今日は急な事があって疲れちゃったし」


 岬は何事もなかったようににこりと目を細めると、俺に先に入るように促した。俺はとりあえず中に入り、玄関で靴を脱ぐ。岬が後に入って鍵を閉めた。


「ちょっと早いけど先に夕ご飯の準備をしちゃおうかな。それとも昼寝してからにする?」


「なんでナチュラルに昼寝タイムを入れてるんだよ……とりあえず手を洗わせてくれ……」


「どーぞー」


 俺は手洗い場の方へと向かった。電気をつけて鏡を見ると思いの他酷い顔をしていた。いや、それは俺の主観でしかないのだけれど、少なくとも晴れ晴れとした顔だとは言い難い顔だった。


 岬は、曾根崎岬という男は、本当に一体どういうヤツだというんだろう。別に人を殺すとかそういう訳ではないのだけれど、たまに思う。こいつは実はものすごく冷たい人間じゃないのかと。優しい所もあるとは思うのだけど、前も「親を捨てろ」なんて何でもない顔で言ってたぐらいで、その時の目もやっぱり、さっきと同じぐらいに冷たかった。例えるなら崖下で人が今にも落ちそうになっていても、それが助けるに値しない人間だと判断したら「自業自得だ」の一言で切り捨てていけるような、そんな目だった。


 その一方で、目の前で人が倒れれば必死になって助けようとするヤツでもあって……いや、だからこそ、あいつの事はよく分からない。時々何処までも冷徹で冷淡で冷酷な目をするくせに、一方でとても優しい人間のように見える事もある。よく分からないのだ。分からないから、まとまらない。岬に対する割り切れない考えが、俺の表情を一層ひどいものにさせていた。


 もっとも、分からないのは岬の事ばかりではないのだが。俺は何故今もここに立っているのだろう。死のうと思っていたはずなのに、何を当たり前みたいに今も生きているのだろう。どうして岬に料理を習おうと思ったのだろう。今だって、このままあの玄関を出ていけるはずなのに。


「透也ー、大丈夫?」


 突然、岬の声が聞こえてきた。俺は慌てて声を上げる。


「だ、大丈夫、今行く」


 俺は電気を消して岬の待つ居間へと戻った。岬はすでに台所に立ち何か作業をしているようだ。


「ちょっと早いけど夕ご飯の準備でもいいかな? それとも後にしようか?」


「いや、やろう。後になって面倒になるのも嫌だし……って、これ……」


 俺は台所に並んでいるものに視線を落とした。じゃがいもと、人参と、玉ねぎと、豚肉と、箱に入った……


「カレー?」


「透也好きだって言ってたじゃない。いきなり色々は無理だけど、自分の好物の作り方ぐらいは知っててもいいかなって思ってね」


「好物だって……覚えててくれたのか?」


「友達だもん。そんなの当たり前じゃない」


 岬は事も無げにそう言ったが、俺にとってそれは『当たり前』などではなかった。実の親だって兄弟だって、俺の好物が何かなんてちっとも覚えてくれなかった。いつも兄さんが優先で、俺の事なんて存在さえしてないみたいで……


「と、透也、どうしたの? 泣いてるの?」


「な、泣いてなんかねえよ!」


 誤魔化すようにそう言った。嬉しかったけど、それを素直に言うのは気が引けた。なんなんだよこいつ、本当に分からない。友達だとか言うくせに、こいつの考えている事が俺には全然分からない。


「カレーが嫌なら肉じゃがとかにも出来るけど……」


「い、いや、カレーでいいよ。肉じゃがも好きだけど、カレーがいい」


「そう。じゃあとりあえず人参をピーラーで剥いてくれるかな。僕はじゃがいもと玉ねぎを切るから」


「え、全部やらせてくれるんじゃないのか?」


「いきなり全部は難しいから、ちょっとずつね。包丁はもうしばらく先かな」


 なんだよ、それ。思わずむっとしてしまった。包丁も持てないような小さな子供じゃあるまいし。


「透也、そんなに焦る必要はないよ。千里の道も一歩から。ローマは一日にしてならず。大器晩成。少しずつでいいんだよ。とりあえず炒めるのと味付けだけはやらせてあげるからむくれないでよ」


「ちょ、頬をつつくんじゃねえよ!」


 払いのけると岬はにこりと目を細めた。言っている事とやっている事が完全に子供扱いだ。岬の方が年上で、俺が習う立場とは言え、腹が立つ。けれど実際包丁を持ってじゃがいもの皮を上手に剥けるのかと問われてしまえば自信はない。


 俺は溜息を吐き、とりあえずピーラーで人参の皮を剥く事に専念する事にした。ピーラーで人参の皮を剥くなんて多分小学生以来だし、これさえ出来ずに包丁なんて確かに高望みというものだろう。


「まあ教えると言っても、僕は適当だから参考にはならないと思うけどね」


「いいよ、それで、少なくとも何も出来ないよりはマシだから」

 

 言いながら俺は、どうしてこんな事をしているのかと再び考え始めてしまった。さっき鏡の前で思っていた事は嘘じゃない。俺はどうして今ここに立っているんだろう。死のうと思っていたはずなのに、何故まだここにいるんだろう。死のうと思っているのは本当で、生きている意味などないと思っているのも本当で、ここは俺の居場所じゃないと、思っているのも本当だ。


 なのに、岬に料理を習おうとしているのも本当で、何でもいいから少しは役に立てるようになりたいと思っているのも本当で、カレーが好きだと覚えてもらえて、嬉しいのも本当で。死にたいと思っているくせに、生きたがっているようで、自分の事のはずなのに自分の事が分からない。


 そう言えば、こいつは、一体どうして俺をこの家に置いているんだろう。自殺志願者の友達が欲しいとか、言えない理由があるとか、でも、自業自得で自滅するようなヤツ、助ける義理はないんだろう? それなのになんで俺なんかにこんなに構って、優しくしようとしているんだ?


「透也、どうしたの?」


 黒い瞳とかち合って、俺は思わず目を逸らした。いや、目を逸らすな。聞けばいい。聞けば分かる。岬の事も、自分の事も、きっと。


 でも俺は、その一歩が踏み出せなくて、一言がどうしても出てこなくて、諦めた。自分の事と岬の事に目を向けるのを諦めた。それは今じゃない。いつか、きっとその時は、いつか来るから。


 だから


「何でもないよ」


 俺はそう言った。

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