第3話

「ただいま」

 玄関で靴を脱ぎつつあずきはそう言った。

「あら、おかえり。ごはんもうすぐできるから着替えたらすぐ降りてらっしゃい。ちゃんと手も洗ってうがいするの忘れないでね」

 ちょろっと廊下に顔を出したのはあずきの母親だ。

「んー。わかってるって」

 手を洗うのは帰宅時の習慣となっているのでそんなことを一々言われなくともそうするつもりだった。とりあえず洗面所に向かい手洗いとうがいをしたら、自室に行き着替えを済ます。

 そして晩ご飯を食べるべく自室のある2階から1階へ移動した。

「あずき、配膳手伝って」

「はーい」

 母親に言われて食器やサラダを運ぶ。

 リビングには他に弟の颯太そうたとあずきの父親もいるが、それぞれ2画面の携帯ゲーム機でゲームをしている。どうやら同じソフトで協力プレイをしているらしい。

 まったく、こっちも協力してほしいな、そうあずきは思ったが口には出さない。配膳を手伝ってほしいと頼んでもどうせ2人ともゲームに夢中だし、4人分の配膳はあずき1人でも十分にできるくらい楽な仕事なので彼女は黙って食事の用意をする。

「みんな、ごはんできたわよ。さぁゲームやめて食事にしましょ」

 父はいかにも楽しみだといった風にゲーム機を閉じ、颯太はもっとゲームしたかったのにという感じでしぶしぶゲームをやめる。

「おお、今日は母さん手作りのから揚げか!うーん、腹減ったな!」

 やや大げさにそう言うが、お母さんの手作り料理はどれもおいしいし、お父さんはそのおいしい料理を食べたいがために特別なことがない限り仕事を定時で終わらせて帰ってくるのだ。楽しみにしているのはウソではない。

「いただきます」

 全員でそう言ってあずき一家の食事が始まる。

 その日の晩ご飯のメインはから揚げだが、ただのから揚げではなくネギ入りのピリ辛中華風ソースがかかっている。もちろん先ほどできたばかりの熱々である。そして炊きたてほかほかのご飯に当然温かい豆腐とわかめの味噌汁、お母さん謹製きんせいのゴマドレッシングがかかったグリーンサラダ。

 サラダ以外のものは出来立て熱々を提供する、これがあずきの母親のモットーだ。出来立てが一番おいしいとフライパンの片付けなども後回しにするほどの温かくておいしい料理へのこだわりが、父親の胃袋をがっしりしっかり掴んで放さない。料理好きな母親あってのこの家庭ということなのだ。

 箸を持つ手を動かしつつ、やれ今日は仕事がしんどかった、やれ今日も学校はいつも通りだったなど他愛のない会話をする4人。そんな中母親の一言があずきを少しばかり動揺させることとなった。

「ところであんた、家に動物連れ込んだりしてないでしょうね?今日あんたの部屋ちょっと掃除したら猫?みたいな毛が落ちてたんだけど。動物を好きなのはいいことだけど野良猫なんてどんな病気持ってるかわかんないんだし、気をつけなさいよ」

「つっ、連れ込んだりはしてないよ?えっと友達が猫飼ってるからその子の家でちょっと猫触らせてもらっただけだよ。たぶん、その猫の毛が服に付いてたんだと思う」

「そう?ならいいけど」

「もし捨て猫を拾ってきたとかでもちゃんとお父さん達に相談するんだぞ?うちは一軒家だから相談してくれた上であずきがちゃんと世話をするって言うんなら飼育を許可するからな」

「わかった。けど捨て猫拾ってきたりなんかしてないからねっ。あと勝手に部屋掃除しないでよ」

 本当に捨て猫を拾って匿っているわけではない。友達の家で猫を触らせてもらったというのも嘘だ。お母さんが見つけた猫の毛というのはあずきがあの魔法の影響で猫人間になった時に抜け落ちたものに違いない。

 猫の毛の正体がバレなかったことに安堵しつつから揚げを食べる。もっとも、その猫の毛があずき由来で彼女が変身していた時のものなんて想像すらできないはずなので妙にぎこちない感じになる必要もなかったのだが。

 一応難を逃れることができて内心ホッとしつつ箸を動かす姉の横で、彼女の秘密を知るよしもない弟はせっせとご飯を口に運んでいた。




 夕食後の自由時間、あずきは自分の部屋にいた。いよいよ図書館でメモしたスペルを試すことができる。念のため家族には宿題をするから部屋に来たりしないでと釘を刺しておいたので邪魔が入ったり、魔法の存在を知られたりはしないだろう。

 かばんからスペルの書かれたメモを取り出して確認すると同時にどのスペルを試すか考える。

「うーん、まずは…」


       フモーフモ・ポー

           風が吹く吹く ひゅるりらと


 いくつかメモした中から最初に選んだのはそれだった。それを選んだのは風が吹くというのはとてもわかりやすい現象で気軽に試せそうな気がしたからだった。

 どれくらいの風が吹くのかわからないので少し緊張するが、すぅーっと深く息を吸い込み覚悟を決める。

「……フモーフモ・ポー」

 魔法の引き金を引いた。変な呪文を唱えるのは自分しかいないとわかっていても恥ずかしいものだった。こんな変なことを言っているのを家族の誰かに聞かれたら目も当てられない。一応邪魔をしないでねと言ってあるが、もしかしたら廊下で弟が聞き耳を立てているかもしれないという不安に駆られ、ドアを開けて確認したが誰もいなかった。

 ドアを閉めて寄りかかると魔法が発動するのを待つことにした。何も起こらないまま数分経ったがそれでもまだ待つことにした。それから10分も待ったが風が吹く気配はこれっぽっちもなかった。まだかなー、まだかなーと、待つ10分はいつもよりもとても長く感じた。

 どうして何も起こらないのだろうか?ひょっとしてまだ発動まで時間がかかる?そんな疑問が頭によぎる。とりあえずもう一度呪文を唱えてみることにする。以前は恥ずかしさもあり、小さい声で唱えたので今度ははっきりと唱えてみる。

「フモーフモ・ポー」

 そして再び彼女は魔法の発動を待った。ジリジリと時間だけが過ぎていく。その間にも部屋に異変が起きないか隅々にまで目を凝らしながらひたすら待った。だが結局何も起こらなかった。何もせず、ただ部屋の様子が変わらないかだけを観察しながら過ごす時間は息が詰まりそうだった。

 仕方がないので彼女は宿題や授業の復習をするなどいつも通りの日常を過ごした。お風呂に行って帰ってきたら、自分がお風呂に入っていた間に風が吹いたりしたんじゃないかと思ったが、机の上に置きっぱなしにしておいたプリントの位置はお風呂に入る前と変わっていなかった。

 そしてあずきはベッドに入って眠りに就こうとする。眠っている間に突風でも吹くんじゃないかという期待と不安を胸に抱いて。


 翌朝、目が覚めたあずきはメガネをかけて部屋の隅々まで変化がないかしっかりチェックした。しかし、大きな変化は見られなかったし、机の上にそのままになっていた消しゴムのカスや机の片隅にうっすら積もった埃も昨日とまったく変わらずそこにあった。魔法が発動していない証拠だった。

 結局魔法は発動しなかったので、どうして失敗したのか考えながら彼女は机の上を軽く掃除した後、朝の仕度や用事を済ませると学校へ向かった。ちなみに失敗した原因の究明には至らなかったらしい。




 帰宅。時間帯は大体夕方ぐらい。今日は綾香を始めとする仲のいい友人達と少し遊んでから帰宅したので帰りが夕方ぐらいになった。晩ご飯はまだできていないらしい。

 時間があるので、自分の部屋で先日メモしたスペルを唱えてみる。メモしたものをすべて試してみたが、どれも効果は出なかった。

 あずきは考える。どうやら魔法を発動させる条件が揃っていないのかもしれないと。その仮説が正しいのかどうかはわからないが、成功させるためのヒントはたぶんあの本にあるような気がする。そう思うとあずきは家を出て、図書館に向かうことにした。

「ちょっと図書館行ってくるねー。すぐ帰ってくるから」

「…はーい、気をつけて行ってらっしゃい。ごはん冷めない内に帰ってくるんだよ?知らない人に声かけられても付いて行っちゃダメだからね!」

「うん、子供じゃないんだから大丈夫だよ。じゃあ行ってきまーす」

 料理をしていた母親に行き先を告げて、ポケットにハンカチを入れるとあずきは図書館へ向かった。

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