第12話

 こいつは馬鹿か、と思ったのには理由がある。

 黒衣の男が動かなかったからだ。

 俺がでかいリュックを足元に放り投げても、走り出しても、リュックを踏み台にして跳躍しても、そいつは動こうとしなかった。

 それどころか、胸部に俺の飛び蹴りが命中するまで、まったく防御らしい行動を見せなかった。

 なんというか――そう。ぜんぜん慣れてないやつ、という感じがした。

「ん?」

 と、黒衣の男は呻いた。なんだか困惑したような声だった。

 飛び蹴り、という攻撃方法を選択した理由は二つある。

 第一に、相手が片手で大男を釣り上げるほどの腕力を持っている、ということ。取っ組み合いになれば勝目はないと思ったし、至近距離でも危ない。なんらかの方法で距離を取るべきだった。

 第二には、そこそこの距離があったということ。飛び蹴りならば走り込んで殴るよりも速いし、素手での攻撃手段としては最大のリーチがある。相手を蹴飛ばして、あわよくば転倒させる方法はこれがベストと思えた。

 何より初対面の人間がいきなり仕掛けてくる技ではなく、多少は意表をつく効果もある。

 いや、正直に言ってしまうと、こうした理由は後からこじつけたものだ。このときはただ、衝動的に飛び込んで、思いっきり蹴り飛ばそうと思っただけだ。しかし、俺の目論見は概ね成功した。

 飛び蹴りは命中したし、黒衣の男はよろめいて、吊り上げていた大男を手放した。

 やつはバランスを崩して倒れかけた――そこまではいい。予想外だったのは、黒衣の男は倒れながらも俺の足をつかみ返したということだ。しかも、転倒すらしなかった。

「面白いな!」

 俺の足首を捕まえて、黒衣の男は笑った。

「きみ、大した闘争本能だ。いいね。やりがいが」

 楽しそうなささやきを、耳元で聞いた。

「ある」

 そして風の音。

 視界が回転して、上下左右を見失う。

 なんだこれ、と思った次の瞬間に、強い衝撃が背中から肩にかけて突き抜けていた。

 頬がざらつくアスファルトに擦れる。

 熱い、と痛い、を混同することはよくある。いまがそれだ。遅れて気づかされる――投げ飛ばされた――俺が。片手一本で、棒きれを投げるようにして。ほとんど無意識に、受身は取れたようだ。すごいな。我ながら、人体の反射能力は摩訶不思議としか思えない。

 めちゃくちゃ痛かったが、それ以上に怒りがあった。

 なぜ俺が、こんなことをされなきゃいけないんだ。

「なんだよ」

 悪いのは絶対にあの黒衣の男の方だ。

 俺は確かにたったいま、まともな大人がやるべきじゃないことをやった。悲鳴の原因を確かめにきて、初対面の男に飛び蹴りを食らわせた。それはわかる。ちゃんとした大人が、なんらかのペナルティを俺に与えるなら、それは仕方ないかもしれない。

 だが、人間の首をへし折って吊り上げるようなやつに、俺が投げ飛ばされる道理があるか?

 あるわけがない、と思った。こんなのは非常識すぎる。俺が必死に社会の一員になろうと努力しているのに、この黒衣の男には非常識が許されるのか?

 さらに怒りが沸いてきて、頭の奥が熱くなり、すぐに冷たくなった。

 脳みそが汗をかいて、すぐにその熱を冷やすような感じだ。喧嘩をするときはいつもそうなる。


「牧原くん!」

 これまでにないほど慌てた、芹沢の声が降ってくる。

「ダメだよ」

 俺はちょっと朦朧とする視界で、彼女の顔を見た。

 輝くように赤い右目。

 そこから涙が溢れ、頬から顎へとこぼれ、滴っている。涙の色まで赤い。そいつは血の涙だ、と遅れて気づく。ついでに唇が震えているのがわかった。

「逃げよう。逃げないと、あいつは――」

 芹沢が震える声で言って、俺を強く抱え込もうとした。

 ふざけるな、と俺は思った。

 逆だ。追いかけるのはこっちの方だ、こんな理不尽なことを押し付けやがって。あの黒ずくめの野郎、逃がしてたまるか。

 ――とは思ったが、咄嗟には身体が起こせないし、声も出なかった。

「おお」

 と、黒衣の男は驚いたような声をあげた。

「こんなところに? すごいな。いや、本当にすごい。信じられない! どうなってるんだ?」

 なんだか愉快そうだ。明らかに喜んでいる。

 その声に対して、俺はさらに怒りを覚えた。

 人を殺して、俺を投げ飛ばしておいて、なんだその態度は。俺が味わっているのと同じくらいの理不尽を押し付けて、苦しめてやりたい。我ながら信じがたいほどの闘争心が湧いてきた。

 しかし、飛び起きようとしたところで、強烈な痛みに遮られた。

「うわあっ! ま、牧原くん、肩、肩! なにそれ!」

 芹沢が悲鳴をあげた。

 肩か。

 骨が折れているのかもしれない。さっきから右の肩が異常なほど痛い。抑えようとしたが、その前に何かが触れてきた。硬質な感触。あまりに唐突だったので、俺は危うく叫び声か怒鳴り声か、どちらかをあげるところだった。

 痛みはなかった。

 ただ、不思議な冷たさがあった。よく冷やされた金属に、手を近づけたときに似ている。

「ウ」

 サヤだ。

 あいつの声がして、右の肩に触れているものの正体を知る。角だろう。冷たさのせいか、痛みが引いていくような気がした。

「ウ。う――うぅ」

 サヤが唸った。苦しそうな唸り声に聞こえた。痛みが徐々に消えていく。どんな理屈だ。俺はどうにか動くようになった首を捻って、彼女の姿を見ようとした。

 だが、先に目に入ったのは、やたら嬉しそうな黒衣の男の姿だ。

「ユニコーン!」

 やつは赤い両目を細め、笑っていた。ちくしょう。

「どうやらきみも無事に逃げ出したようだね。回収に失敗して、心配していたんだが。これはよかった。でも、それはよくないな」

 黒衣の男は、一歩、こちらに足を踏み出した。

「きみの特性は、軽々しくそういうことに使うものじゃない。すぐに磨り減ってしまうよ。やめた方がいい」

「う――ギ、ギッ」

 苦悶とも、警戒ともつかない声が、サヤの喉から漏れていた。あるいは恐怖か。サヤの薄く青い瞳が、まっすぐ黒衣の男に据えられていた。

「牧原くん」

 俺の腕を浮かんだ芹沢も、あの黒衣から目を離せないようだった。

「あれはまずいよ。本物だ。私と違って、全身の血液が『それ』なんだ。つまり、その」

 一度だけ息を飲み込む。

 続く単語を口にするため、芹沢は多大な力を必要としたようだった。

「吸血鬼だ」

「ああ。そうだよ。同類に会うのは初めてかな」

 黒衣の男はいとも簡単に認めてみせた。芹沢とは対照的だった。

「でも、きみは珍しいね。右目だけが『そう』なのか。さぞかし不便だろう――それに無意味だ」

「黙れ!」

 珍しく強い語気で怒鳴り、芹沢が俺の腕を抱え込むのがわかった。

「私は違う。同類じゃない」

「なおさら興味深いな。その右目だけが、吸血鬼。その状態だと、どのくらい特性を残しているのかな?」

 黒衣の男はさらに一歩、近づく。もう至近距離といってもいい。

「身体能力の変化は? 眷属は作れる? 太陽光への耐性は?」

「うるさい。来るな」

 と、芹沢は言った。声に力がない。

 こいつは良くない。

「芹沢、俺がやる」

 右肩の痛みは消えている。俺はサヤの肩を叩いて、『もういい』という意志を伝えようとした。サヤは角を俺に押し付けたまま、動こうとしない。奇妙に思って、俺は彼女の顔を見る。

 汗がひどい。

 明らかな苦痛か、それと同じくらいの疲労を感じているのが窺えた。喉の奥からは軋むような唸り声が漏れ、苦しそうに喘いでいる。

 いますぐ何とかするべきだ。

 俺はサヤを抱え上げ、強引に芹沢に押し付けた。そのくらいできた。気のせいかもしれないが、痛みが引いたし、体が軽く感じる。

 俺は芹沢の肩を掴んで、一度だけ揺さぶった。

「サヤを引っ張って逃げろ。警察か何か呼べ。それか、そうだ。スオウだ!」

「え」

「あいつを呼べ」

 言ってから立ち上がり、黒衣の男に向き直る。

「ん? きみ?」

 やつの赤い瞳が、俺の頭からつま先までを眺めた。

「きみがやるのか? まあ面白いけど、あまり意味はないと思う」

「芹沢、行け」

「え、いや、牧原くんは」

「行けって! スオウだ!」

 芹沢は固まったまま動かない。状況がわかっていないのか。くそっ。俺は発作的に舌打ちをした。強引にでも立たせてやるべきか。

 実際にはそれどころじゃなかった。

 黒衣の男が動いた。意味不明なほど素早い。蛇が飛びかかる動作にも似て、一瞬で距離を詰めてくる。腕がこちらの胸元へ伸びた。辛うじてその瞬間だけは見えた。ほんの影だけ。

 なんの捻りもない、直線的な軌道。

 フェイントも何もない。たぶん格闘技の類をやっていたわけではないのだろう。だったらかわせる。スピードはあっても、狙いがわかってさえいれば。

 かなり無様だったが、俺は体をひねって回避できた。代償として足がもつれる。

「すごいね」

 黒衣の男は笑った。

「こっちはどうかな?」

 お前に褒められても嬉しくない、と言い返したかったが、そんな暇もない。黒衣の男が、俺の襟首を掴む。

 回避しようにも、至近距離過ぎた。今度は避けられない。

 黒衣の男は俺を片手で持ち上げようとする。青白い顔に、むかつく微笑が深まった。芹沢とサヤは固まったまま動かない。動けないのかもしれない。

 俺は黒衣の男の、頭に手を伸ばした。

 こういう場合に考えていたことだ。つかみ合いになったら、まず顔を掴んで、眼球に指を入れる。その赤い目を抉ってやる。

「おお」

 黒衣は感心したようだった。

「きみ、なかなか」

 その続きは、最後まで発せられることはなかった。

 瞬間に、風が渦を巻いたように思う。

 ぼっ! と、強烈な音が俺の眼前で弾けた。

 黒衣の男はその直撃を受けた。ハンマーか何かでぶん殴られた、なんて表現はやや生ぬるい。大型のバイクで吹き飛ばされたように、黒衣の男は吹き飛ばされた。

 必然的に、掴まれていた俺も地面に投げ出される。

 風が鋭く、どこか禍々しい音を立てて流れていた。その流れが収束する先、俺たちがやってきた方の通りに、俺は灰色っぽい人影を見た。見覚えのある人物だった。

「――ようやく、追いついた」

 眼鏡をかけて、灰色のインバネスコートを着た、長身の女だ。片手には変な意匠の施されたライター。

 間違いなく、尾形さんがいなくなった夜、サヤを追いかけていたあの女だ。やや息が荒いところを見ると、走ってきたのかもしれない。

「まさか同時遭遇とはな」

 それから彼女は俺たちに一瞥をくれた。

「縁があるな。面倒なときに、面倒なことばかりさせてくれる。だが」

 彼女の指が、ライターのフリントホイールを擦った。

 火花は散らず、風が渦を巻く。

「いまは立って、走った方がいい。死にたくなければ」

 見えない衝撃が、黒衣の男を再び吹き飛ばした。

 やつの顔は笑っているように見えた――それを見て、俺は確信した。助っ人のように現れた彼女にも、こいつは勝てる相手ではない。俺たちではなおさら、逃げるべき相手だ。

 理屈ではなく、ただそう思った。

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