第11話

 結論から言えば、「長瀬工務店」への訪問は、ほとんど空振りに近かった。

 主に手がかりの回収という点では、収穫があったとは言えない。

 長瀬工務店の店舗は、駅からかなり離れた、「九十縫町」という路地裏のさらに奥にあった。道のりはまるで迷路のようで、やたらとわかりにくい。そういう区画だ。サヤのために買った日用品の類を持たされた俺は、かなり苦労して狭い通路を通り抜けねばならなかった。

 道中、サヤがワゴンの屋台で売っているクレープやら、パンの類に興味を示し、時間を取られたのも大きかった。芹沢が最初にキャラメルクレープを半分奢ってやったのが災いして、食べ物の匂いがする度にいちいち立ち止まらされた。

 それだけではない。

 街にあるもの全てが珍しいのか、少し目を離すとふらふらどこかに行きかねない危うさがサヤにはある。最終的には俺がその手首を引っ張って、強制的に連行する羽目になった。

「彼女の好奇心は、まったく大したものだね」

 サヤに吠えられたり唸られたりした芹沢は、ひどく疲弊した様子だった。それでも口調だけはいつものスカした感じを保っていたのだから、こいつもなかなか大したやつなのだろう。

「いったいどんな環境で育ってきたのか気になるよ」

「こいつが会話とかできれば、少しは違うんだけどな」

 つくづく俺たちは知らないことばかりだと思い知らされる。サヤはこの手の人間が多くいる地域に近づいたことがないのか。とんでもない山の奥で育ったのか、閉じ込められていたのか。

 様々な可能性だけが脳裏をよぎったが、とにかく、いまは店での顛末を記載しておこう。

 俺たちが苦労してたどり着いた「長瀬工務店」の店構えは、よくある昔ながらの個人商店そのものだった。特徴といえば、昭和の風味を存分に残した看板と、店先に置かれた白い猿のようなマスコットの人形くらいだろう。

 よく磨かれたガラス戸を開くと、予想以上に若い店長が迎えてくれた。

「ああ、尾形さん」

 と、長瀬店長は、あっさりとその名前を口にした。

「そういえば、今月はまだ来てないね。きみたち、緑陽館の学生さん?」

「ええ」

 芹沢はうなずいて、学生証まで差し出してみせた。

 こういうときは、芹沢のコミュニケーション力が頼りだ。やつはいかにも真面目な学生の顔をして、長瀬店長と応対する。

「尾形さんにはお世話になっています。ただ、腰を痛めてしまったらしくて。今日は代理で買い物を頼まれているんです」

 芹沢は小さく、そして不安そうに頭を下げた。

「いつもの通りって伺っているんですが、これで伝わりますか?」

 よくもまあ、そんな嘘を平然と口にできるものだ。俺は後ろでサヤと一緒に見ていることしかできない。

 長瀬店長は『今月は』と言った。

 確かに尾形さんが月に一度訪れているのならば、『いつもの通り』で伝わるかもしれない。その効果はあった。長瀬店長は朗らかに笑った。

「そうなの? 珍しいね、学生さんが取りに来るのは。じゃあ、ちょっと重たいかもしれないけど、いつも通りのを。尾形さんによろしくね」

「はい、ありがとうございます。ええと、代金は――」

「聞いてないの? いらない、いらない」

 長瀬店長は大げさに手を振った。

「うちの爺さんの代からの約束事なんだ。今年の分のお金はもう貰ってるし。毎月一度、尾形さんにこいつを渡すようにって」

 カウンターの上に、リュックサックが乗せられた。ごん、と、いかにも重たそうな音が響く。いったい何が入っているのか。

「あの、これって――」

「ありがとうございます!」

 俺が中身について聞こうとしたところを、芹沢がすばやくお礼の言葉で遮った。

「牧原くん、荷物をよろしく」

 リュックサックを抱えて差し出す、その咎めるような目配せが『聞くな』と言っていた。

 俺もそこまで馬鹿ではないので、意味はすぐわかった。『いつもの』を回収するなら、余計なことは言わない方がいいだろう。長瀬店長から不審に思われたら困る。あとで中身を確認すればいいだけだ。なるほど。

「しかし、あれだね。あの人にも仲良くしてる学生さんがいるんだなあ」

 長瀬店長は感慨深そうに唸った。

「不思議な人だよね。爺さんの知り合いだったらしいけど、すごい無口だし、ぼくもよく知らないんだ。きみらは、どう?」

 一瞬だけ、俺と芹沢は顔を見合わせた。サヤが俺たちの間に割り込むように移動し、軽く飛び跳ねた。

「いえ」

 結局、芹沢はそれだけ答えた。

「私たちにとっても、すごく不思議な人です。お爺様のご友人だったんですか?」

「うん。爺さんは三年前に亡くなっちまったんだけど、戦争の頃に軍隊で一緒だったらしいよ。なんだっけ、海軍だったかな。いやでも、色々やってたとか言ってたもんなあ」

 ぼくも詳しくは聞いてないけど、と、長瀬店長は付けくわえた。

「戦争ですか」

 芹沢も、そこから言葉を続けられなかった。どんな質問が有効か、咄嗟に思いつかなかったのかも知れない。

「ま、尾形さんによろしくね」

 長瀬店長は、カウンターに頬杖をついて言った。

「きみたちも、早めに帰った方がいいよ。ここのところ物騒だから。日が暮れる前にね」

 俺たちは窓から外を見た。

 思ったより、この店を探してウロウロとしすぎたか――太陽は、徐々に傾き始めている。


「それ――中身は?」

 長瀬工務店から少し離れたところで、芹沢が尋ねてきた。

 もちろん、俺は好奇心からリュックサックの蓋を開け、中身をすでに探っている。そしてすぐに失望した。

「いや。ぜんぶ尾形さんの部屋にあったやつだ」

 鉄のやすりだとか、ブラシ、研磨剤、洗剤、少量のチョコレート菓子。めぼしい手がかりはない。少なくとも、俺にわかるようなものは何もなかった。

 これにはさすがに疲労感を覚える。背負いなおすリュックサックが、なんとなく余計に重たく感じた。

「また手がかりが無くなったか」

「いや、そうでもないよ」

 芹沢は赤い右目を開閉してみせた。俺の推測では、たぶんウィンクなのだろう。以前より少し上達しているように思える。

「とりあえず長瀬工務店の先々代店長と、尾形さんが知り合いだってわかった。しかも戦争で一緒だった。興味深い事実だと思わないかい? この方向から、何かを辿れるかもしれない」

「どうやって? 芹沢、お爺ちゃんに友達でもいるのか?」

「うん」

 一秒ほどの沈黙があった。

「それはこれから考えよう」

 このように、しばしば芹沢は軽やかに問題を先送りにする。

「とにかく疲れたよ――そうだろう、牧原くん? 今日はもう早く帰ろう。思ったより時間がかかってしまったね。日が暮れてしまいそうだ」

「一番時間がかかったのは、お前がサヤの服を選んでるときだったけどな」

「サヤくんに着せやすい服を選ぶ必要があったからね」

「色にもこだわってたじゃねえか」

「デザインは重要だよ。サヤくんだって牧原くんの地味すぎるチョイスより、私の審美眼に同意しているように感じたし」

「なんだと、おい」

「ギ」

 勝手に自分の意見を捏造されて、サヤも不機嫌そうに呻き、立ち止まった。

 最初はただそれだけだと思ったが、その顔を見て違和感を覚える。サヤの白い頬がこわばっていた。犬歯をむき出し、かすかに喉を鳴らし続け、呻き続けている。

「ギギ」

 べったりと赤い夕日を浴びて、サヤの小柄な影も長く伸びていた。

「ん、なんだい?」

 サヤの歩調にあわせていた芹沢も立ち止まらざるを得ない。俺もだ。気になる。

「何か、あるのかよ」

 俺はサヤの瞳が、正面ではなく斜め前方を睨んでいることに気づいた。俺たちの行く狭い路地の先、曲がり角の向こうだ。生ぬるいような風が、そちらから吹き付けてきたように感じた。

 芹沢が俺の顔を振り返るのがわかった。不安そうな顔だ。

「牧原くん?」

 俺はそれに何か答えるのを忘れた。

 生ぬるい風に混じって、誰かの声が聞こえたように思った。

 それも、ただの声じゃない――そいつは、そう、悲鳴だ。

 間違いない。

 そう思ったときには、走り出している。

「あ! ちょっと、まずい。これって」

 芹沢が俺を引きとめようと手を伸ばしかけた。ちゃんと止められておけば良かった、と後になって思う。サヤが立ち止まって唸り声をあげたのだって、あれが『警戒』を意味していたのだと、少し考えればわかることだ。

 それでも俺は曲がり角まで駆け込んでいたし、そうする自分を止められなかった。

 いつもそうだ。

 悲鳴が聞こえたと思ったなら、まともな大人ならどうするか。関わらないようにして、すぐ逃げるべきだ。安全な場所まで行って、何も聞こえなかったふりをするのが、しっかりした大人の対応だと思う。なんなら、あとで警察とか救急車とかを呼んでもいい。

 ただ、咄嗟の判断を迫られたとき、俺にはそれができない。

 そうして自分から最悪の事態に足を踏み入れる羽目になる。

 このときが、まさにその典型であり、極地でもあった。

「――ああ」

 角を曲がった俺が耳にしたのは、驚いたようなその言葉。

 目にしたのは、暑苦しそうな黒衣を身にまとう、長身の男。

 狭い路地裏であり、夕日のせいで完全に影になっていたが、それでもはっきりとわかった。それくらい印象的な光景だった。

 黒衣の男は、片手で一人の人間を持ち上げている――最初は人形か何かだと思った。俺の視線はそこで止まった。黒衣の男が掴んでいるのは、首の付け根あたり。宙吊りにされているのは、スーツ姿の男性だ。かなり大柄で肩幅も広い。

 しかし、その太い首はへし折られ、真横に曲がっている。

 あまりにも突然のことで、馬鹿げた話だが、俺は動くことを忘れた。ただ見ていただけだ。スーツの大男の口の端からぶくぶくと血の泡が吹きこぼれ、全身が大きく痙攣した。

 たったいま、この瞬間に彼は死んだのだと、俺は直感した。

「見られてしまったな」

 と、黒衣の男は苦笑いのような表情を浮かべた。悪戯でもしているところを見つかったかのような言い方だった。その様子も、言葉も、あまりにも凡庸であったせいだろうか。俺はろくな反応を返せなかった。

「うん。失敗だった、それは認める」

 黒衣の男が俺を振り返る。

 絵の具を塗り重ねたように顔色は青白く、えらく痩せていた。年齢不詳な顔つき。二十代だか三十代だか判然としない。その両目が、赤く輝いているのがわかった。芹沢に似ていた。

「とはいえ、頃合ではあったかもしれない。何事も練習だ。まだ、全身を使うことに慣れていないからね。手伝ってくれるかな?」

 黒衣の男は笑った。

 あまりにも普通すぎる笑顔、違和感はただ一点。その犬歯がやけに鋭く尖っていて、おまけに赤い血を滴らせていた。

 なんだこいつ、馬鹿なのか、と俺は思った。

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