(7)
上司としての尊厳を守った僕を待っていたのは、姫路綾子との面倒なコミュニケーションだった。
彼女が十四歳の女子中学生で、本来ならば学校にて勉学に励んでいる時間なのだけれど、今日はメディカルチェックなどの――ようはレリーフへとQLAが規定した様々な検査を受ける指定日だったらしく、彼女はこのショッピングモールのようなオフィスを訪れていた。
秘書である佐々木を連れて僕はオフィスの地下五階へと向かっている。そこで定期健診中の姫路綾子の様子を窺うのが、午前中の僕の仕事だった。
この施設は外からみると三階建ての洒落た建物だが、正確には十二階建てである。地上に三階、そして地下九階。施設のほとんど地面の下に埋まっているという構造だ。
さすがは特務部隊の駐屯基地としても用いられているオフィスである。レリーフに関する情報は秘匿性が高いということもあり、地下の九つのフロアは、どれもレリーフ関連の部署となっているとのこと。
転属してきたばかりの僕は、そんな情報を佐々木女子から説明されながら、降りていくエレベーターのランプを眺めていた。どうやら佐々木女子はクールな口調とは裏腹に、どうにも喋りすぎる癖を持っているようだ。
説明好きなのかもしれないし、世話好きなのかもしれない。もしくは仕事熱心なのだろうか。とにかく僕へと色々なあれこれを延々と伝え続けている。彼女の口にする情報を自分の中でフィルターにかけて、僕は僕の思う重要な話だけをピックアップしていくだけで済むため、それはそれで気楽なのだが。
ただ、どうにも、こうも淡々とした口調で喋り続けられると、妙な眠気が発生してしまう。朝は強いほうだと自負しているが、こうも長々とボディブローを打ち続けられると、タフな腹筋のボクサーだって体をくの字に曲げるだろう。
「佐々木さん」
「……はい。なんでしょうか」
限界を感じた僕は、彼女の話を遮った。話を遮られた彼女は眉を不機嫌そうに少し潜める。どうやらこれが彼女の個性のようだ。これから僕は何度彼女の眉を潜めさせるだろうか。カウントする価値はたぶんないと思う。
「同人漫画を書く以外に趣味ってある?」
「プライベートに対する質問ですか?」
「まぁ、そうかな」
「私に興味があるということですか?」
「うん。そうだね」
「異性として、ですか? それとも部下として、ですか?」
「部下として、だね」
「だったら答えることはできません」
「え、なんで?」
「仕事にプライベートは持ち込みたくありませんので」
「女性として気になる場合だと、どうなるの?」
「サンプルケースが少ないため答えるのが難しいです」
「へぇ、モテないんだ。やっぱ趣味のせいで?」
「……そうですね」
彼女は再び眉を潜めたると同時に、エレベーターが音を鳴らして停止した。地下五階に到着した僕は、佐々木女子に先導されながら指定のポイントへと足を進める。地上フロアは外見も中身もショッピングモールのようだったが、地下は趣が異なっていた。
先端的な研究所と巨大な大学病院を混ぜあわせたようなデザイン。佐々木女子に尋ねると、どうやら地下五階は診療フロアとなっているらしい。現在行われている定期検診はもちろん、人間を辞めた化物と戦うために作られた部隊であるレリーフには、医療設備が必要不可欠とのこと。
そして同時に研究フロアにもなっているようだ。レリーフという人工的に人ではない存在を生み出すためのテクノロジーが、この場所で研究されているらしい。そこには姫路綾子を生み出した、僕の嫌いな技術も含まれているだろう。
「ここです。第二検査準備室。これから宮間監査官には姫路綾子の定期健診に同伴してもらいます。必要な情報は中にいる彼女からお聞き下さい。私は他の仕事がありますので、これで」
「僕の秘書じゃないのか、君は」
「そうです。宮間監査官が余計なことを患わないように、段取りを調整するのも私の仕事です。準備室には連絡用のデバイスも配備されていますので、何かあったら連絡して下さい。規定の時間になりましたら私は再び参りますので、それまでは部屋での待機をお願いします」
「ちょっと待ってくれ。僕を一人にしないで欲しい」
「……甘えたい年頃なんですか?」
「いや、違……いいや、たしかにそうだけれど、そうじゃなくて。彼女と二人きりで上手くコミュニケーションを取れる自信がないんだ」
「中学生の男子じゃないのですから。それでは」
「待ってくれ、佐々木さん! だからこそ女子中学生と二人きりで何を話したら……」
「下ネタでも言って楽しんどきゃいいじゃないですか、私に言ったみたいに」
「あれは、その……なんだ、根に持っているのか、君は」
「えぇ。色々と」
何やら意味深な言葉を残して、佐々木女子は僕を置き去りにしていった。どうやら僕は彼女に嫌われるようなことをしたらしい。思い当たる節が見当たらない僕は、大きく溜息を溢した後に、扉へと重々しい気分で視線を向けた。
部下と接することの難しさを教えられた。その手の経験が皆無だから、どうにも方法が解らない。帰りに書店で『部下との上手な接し方』的なハウトゥー本でも探して購入しよう。参考書さえあれば、僕にできないことなんてない。
それよりも今は扉の向こう側にいるであろう彼女である。悩んでいても仕方がない。冴えたアイデアが浮かびそうにない。そのような理由で扉を開けた僕なのだが、開くと同時に強い後悔に襲われた。
「ちっ」
部屋の中には予想通り、姫路綾子がソファに腰を下ろしており、水色で清潔感の強い検査着を着ながら、僕の顔を見るなり舌打ちした。
どうやら機嫌が悪いらしいという印象を受けたが、彼女が浮かべる眉間の皺はむしろ平常運行であり、判断を下すのに非常なデリケートな考察が求められる。
だから僕は困ったように肩を竦めて、申し訳なさそうに準備室へと入室した。興味なさそうにスマートフォンに視線を落とした姫路綾子は、舌打ち以外のリアクションを僕へと示さなかった。
これでも僕は彼女という特別な存在を管理する権利が業務上与えられている。僕はモラリストじゃないが、人間として持つべき常識は頭の片隅に備わっているはずだ。だから彼女とは良好な関係を築きたいのだが、向こう側にその意志がないと難しい。
「舌打ちは酷いんじゃないか」
とりあえず現状を打開するために話しかけてみる。姫路綾子の視線がこちらへと向けられ、そして再びスマホの画面へと戻された。彼女も何か思うところがあったのだろう。スマートフォンをソファの上へと置くと、ようやく僕へと顔を向ける。
「ごめんなさい。少しナーバスになっていたわ」
粗相なく、そしてとても素直に彼女は僕へと頭を下げた。その態度に少し驚いたものの、悪くない印象を受け取った僕は、とりあえず胸を撫で下ろした。女子中学生の機嫌取りをしているようで(いや、確実にしている)妙に空虚な気分を味あわされたけれど。
「よければ理由を教えてくれないかな」
手探りで距離感を図っていく。僕とて一応は社会人として数年の経験を持ち合わせているのだ。コミュニケーションが苦手だろうと、そこら辺の作法は自分の中でパターン化して、ある程度まで自由に使いこなすことができる。
だからこそ――
「検査の日って、なんか深刻に考えてしまうの。自分が人間じゃないって思い知らされるから。それにアンタの前の監査官が、私に対してあまり友好的じゃなかったから……だから、そのせいで、どうしても一人でいたくなるの、こういうとき。そこにアンタが入ってきたから」
「……あぁ。そうか、うん。概ねは理解したよ」
こうやって胸の内を素直に打ち明けられると、どうしていいか解らなくなる。
大人になって感謝したことの一つに、誰しもが建前や社交性を優先してくれることが上げられる。他人の内面的なことがどうにも苦手で、解りやすくパターン化された会話しか上手に熟せない僕は、このような話が非常に不得意なのだ。
何を口にすればよいのか解らない。自分から話しかけておきながら、僕らの間に沈黙がゆっくりと幕を張った。姫路綾子の手が再びスマートフォンへと伸ばされる。うむ、やはり上手くいかない。
僕は佐々木女子から渡された書類でスケジュールを確認するフリをしながら、彼女の様子を窺ってみる。書類に表記されていた単語の多くが僕には未だ理解できない専門的な用語だった、という点が主な原因だが、それ以外にも一応の理由がある。
彼女というキャラクターについて、少し考えさせられたのだ。
僕は姫路綾子という存在を、高飛車で鼻持ちならない女子中学生だと想定していたが、どうやら真実は異なっていたらしい。いや、半分は正解だと思う。きっと彼女には少なくとも二つの面が内包されているのだろう。
一つは初対面で見せた快活で、積極的で、自尊心の強そうな彼女。そして一つは、彼女が今見せている、ナイーブで、だからこそ素直で、そのせいで近づき難い彼女である。おそらく躁鬱の激しいタイプなのだろう。
自分の分析に満足感を覚えた僕は、意味もなく頷いたりしながら、壁に掛けられている時計に目をやったり、知らない言葉で埋め尽くされたスケジュール表を確認しながら時間を潰している。
残念なことに相手のタイプが解ったところで、それに対応した僕が世界のどこにも転がっていないのだ。憂鬱そうに溜息を漏らす少女と、はたして僕はどのように接したらいいのだろうか。これが大人なら――少なくともこの国のサラリーマンならば、天気の話でもして誤魔化すことができるのだけれど、はたして彼女は食いついてくるだろうか。
物は試しだと僕は口を開いてみた。
「そういや、朝のニュースで知ったんだけど、今年の夏は暑いらしいね」
「ふうん。そうなんだ」
視線は画面から切られないが、返事はあった。僥倖……なのだろうか。
「梅雨入りは来週になるそうだよ。今年の梅雨は長いらしいから、部屋干し用の洗剤が売れるだろうな。その手の家庭用品を扱っている企業の株を買っておくと、夏のボーナスが増えるかもしれないね」
「へぇ。そういうものなのね」
「ここだけの話、某家庭用品企業が強引な企業買収をするって話を知り合いから聞いたんだ。ほら、女性社長で有名なあの企業だよ。それがけっこう面白い話でさ、買収先企業の研究チーフが実は女社長の恋人だったらしく、実は以前から情報が筒抜けに――」
「ごめんなさい。気を使って貰えるのは嬉しいのだけれど、私にはあまり愉快な話じゃないみたい。アンタも無理しなくていいわよ。話しかけづらいのは、私にだって解っているから」
「ははは。解った、そうするよ」
僕は下手くそな作り笑いを浮かべながら、彼女とは違うソファへと腰を下ろした。どうやら僕は失敗したらしい。天気の話から経済の話、そして下衆なゴシップへの黄金リレーを見事に決めたと思ったのだが、よくよく考えると彼女は女子中学生である。
三十代以上の成人男性向けに作成された僕の社交術が、彼女に通じないのも当然だろう。女社長と敵対企業の研究チーフの間で秘密裏に積み上げられた蜜月な関係に食指を伸ばす女子中学生なんて、この世界にどれほど存在するだろうか。
これが通じなければ他に手段は一つもない。仕方がないので僕もスマホを取り出して、ニュースサイトを閲覧することにした。僕だって本質的には無口である。以前の部署では仏頂面に定評のある漢として通っていた。
世界は相変わらず絶好調のようで、今日も人類を褒めそやすトピックスが羅列されている。開始されたばかりの新しいサービスの素晴らしさ、成長を見せる分野の技術への賞賛、挑戦する若者への激励と経験を積み重ねてきた老人への尊敬。悪化することが許されない国際情勢と経済指数と幸福度調査によって構成された世界の全てが、小さな画面へと映し出されている。
大災害前の世界では、考えられないようなユートピア的な情報の群れ。別に難しいことなんてしていない。あの大災害の後に、この世界には一つのルールが生み出されたのだ。原則的な批判の禁止。報道で、通信で、パブリックなコミュニケーションで、批判的な意見が法律的に禁止されたのだ。
情操的情報処理規制法。
日本ではそのような名前が付けられている。
世の中とは実は単純なもので、法律的な制限を設ければ、その刑罰が重ければ重いほど人間の行動は規制される。社会というものが非常にシステマチックなものだという事実に人類が気づいた瞬間から、個人のモラルに託すことがどれほど非合理的かという結論を導き出されるのは、運命と呼んでも過言ではない必然性が含まれていたのだろう。
まぁ、難しい言葉を並べる必要もないか。
ようは文句を言えなくなったのだ。
仮に文句を言うのにしても、とても面倒な手続きが必要になったのだ。
一応ながら文化評論や政治評論などの大災害以前から残されている批評というカルチャーも存在するが、資格制であり、公表するのに査問委員会を通過しなければならいという制限つきであり、あまり機能的とは呼べない現状である。
よくぞまぁ、こんなにも心地の良い世界を作ったもんだと、大災害前の世界を歴史として知っている人間は誰しもが思うことだろう。現状、世界は優しさで満ち溢れている。困った人間へと手を差し伸べること、慈愛を浮かべて他人と接すること、パブリックという言葉を強く意識することが、本気で守らなければならない建前として成立しているのだ。
心根が素直で、豊かな人間性を持ち合わせた人物ならば、これほど生きやすい世界なんて人類史に他はない。後ろ指をさされる不安も、嘘や裏切りに気を使う必要も、誰かに否定される恐怖に頭を悩ますこともないのだから。
優しさに世界が包まれているのだから。
正しくなることが義務付けられているのだから。
法律という確固たる仕組みで契約されているのだから。
だから優しくない人なんていない。
正しくない人は生きていけない。
優しさのない人間は、この世界が必要としてない。
正しくなければ許されない。
僕はこの世界のそういうところが、吐き気を催すほど大嫌いだ。
僕は、本当は、今すぐにでも――
――いいや、これ以上考えるのはよそう。
僕はエリートだ。僕は社会的に認められている。僕は誰よりも偉くなってやる。だからこそ、誰よりも正しくならなければならない。優しくなるのは難しいから、その分、人一倍正しく。間違いだけは犯さないように……。
そこで僕は、はっとした。なにやら深刻に物思いへと耽っていた自分がいて、そんな僕を不可解そうに見つめる姫路綾子の視線に気づいたからだ。リアクションが求められていた。必死に頭の中の引き出しを探して、とりあえず親指を彼女に向けて立ててみる。彼女の首が「はて?」と傾けられ、僕は事なきを得たと安堵する。
どうやら姫路綾子のナイーブさに当たられたらしい。人間はいつだって調子よくいられるわけじゃない。だから僕らは落ち込んでいる他人に同調するよう教育される。共感することで他人の気持ちを理解するよう調整されている。
「ねぇ、アンタ」
呼吸を整えながら心情も整えようとする僕に、彼女は尋ねてきた。
「本当は人と喋るのが嫌いなんでしょ?」
確信を突いた言葉だった。あまりにもクリティカルなため、驚くことすらも許されなかった。コミュニケーションが非常に重要視される世の中である。人と喋るのが嫌いなんて、口が避けても言えたものじゃない。
情操的情報処理規制法には原則的に批判を禁止しているが、二つだけ例外がある。二つというより、一つカテゴリーと一つのシチュエーションと呼んだほうが適切か。
シチュエーションはカウンセリングやセラピーなどの心理的な健康面を保つために必要な行為として認められた場所。カテゴリーは反社会的なもの全てに対して。
コミュニケーション至上主義の現代において、人と喋るのが嫌いなんて公言することは、僕のことを好きなようにぶん殴って下さいと頭を下げるのと同意義である。社会的に殺害されることが許されてしまう。カウンセリングやセラピーの場で漏らす以外、そんなことは絶対に避けなければならない。
よほど気を許した間柄ならば、相手が公的機関に音声を録音して提出される恐れがないため、それは例外と呼ぶ必要すらもない状態なのだけれど、僕と姫路綾子は、そのような関係性を築けていない。出会って二日目の仕事上の関係である。
だのに僕は素直に口を開いていた。
理由は僕にも解らない。
「下ネタしか言いたくない」
……理由は僕にも解らない。
僕は何を言っているのだろうか。年端もいかない少女に対して、なんて口をきいているのだろうか。どうやら脳に致命的なエラーが存在しているようだ。今すぐ倫理セッションに山ほど参加して、月百時間以上のセラピーを受講するべきだ。
自己嫌悪だけで宇宙の果てまで飛んでいけそうな僕がいた。待機室は冬の早朝みたいに静まり返っていて、姫路綾子は目を丸く見開いている。そんなことを言われたのは生まれて初めてだと言わんばかりに、僕のことを凝視している。
誰か今すぐに僕を殺してくれと祈ったが、優しい社会のどこにも僕のために手を汚してくれるヤツなんていない。だったら自分で後始末をつけるしかない。誠意を込めて切腹でもするしかないだろう。
「……今の発言はなかったことにしてくれ。その代わり僕は腹を切る」
僕は懇切に頭を下げ、彼女へと謝罪の言葉を述べた。その姿がよほど滑稽だったのだろう。不意に姫路綾子がプッと吹き出したかと思うと、とても盛大に笑い始めた。苦しそうに腹を抱えて笑い転げる姿を見て、ちょっと僕が引いてしまうほど盛大に。
「はっ……あは、あーっはははは。アンタ、ちょっと、くくく。本当に特別監査官なの? あー、ダメ、苦しい。お腹痛い。こんな大人がいるなんて……くっくっく」
そんな時間が数分ほど経過した後、ようやく落ち着きを取り戻した彼女が、再びソファの上に座っている。「まったく。馬鹿じゃないの、アンタ」なんて愚痴を一言。そしてスマホを片手に、画面の向こう側へと視線を戻す。
けれど先ほどまで見せていたナイーブな雰囲気は吹き飛んでいて、以前に見せた積極的で高飛車な彼女がそこにいた。ウェットで近づき難い雰囲気ではなく、解りやすい単純そうな以前の彼女だ。いや、それは正確じゃない。前とは違う点が一つだけある。
「でもアンタ、悪い人じゃないみたいね」
そう告げた彼女の表情は、それほど不機嫌そうに見えなかった。
グラス・スリッパーズ 山田屋 @yamadaya
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