(6)


 とにかく僕は不機嫌だった。

「まったく、ふざけんじゃないよ!」

 そんなセリフを漏らしながら、飲んでいたビールのジョッキを机に叩きつけるくらい、不機嫌だったのだ。ここが非常に庶民的な居酒屋で、周囲の客から稀有な視線を向けられないのなら、もっと醜態を晒していたに違いない。

 それほど不機嫌だったのだ。

 原因は全て、あの痛々しい女子中学生にある。

 酒でも飲まないとやってられないのだ。


 

 僕が今日出会った姫路綾子は、QLAが生み出した全く新しい生き物だ。後天的に人類を辞めたわけではなく、最初から彼女は違っている。彼女は生まれる以前から既に人間ではないのだ。

 胚の時点から徹底して科学で弄られた――

 ――生得的なスーパーヒューマンなのである。



「まったく、ふざけんじゃないよ!」

 おかげで僕は不機嫌である。

 僕は別にヒューマニストじゃないし、モラリストでもないし、誇れるような倫理観も持ち合わせていない人間だが、姫路綾子という存在には腹がたった。


「おいおい。今日は荒れてるな、珍しい」

 栄転祝いに、飲みへと連れてきてくれた友人の河上尚春は、困った顔で笑っていた。彼とは大学からの付き合いである。大学時代の僕にできた唯一の友人であり、次席で卒業した僕よりも成績のいい人間……つまりは、彼が僕らの世代の主席であった。

「そりゃあ、荒れるよ。まったく……上は何を考えてるんだ」

 だのに彼は大学を卒業後、スーパーでレジを打つ仕事をしている。工場から送られてきた弁当を、棚に並べる仕事をしている。出会った時から妙なヤツだと思っていたが、僕の想像を遥かに上回る変人だったようである。


「なんだよ、新しい職場が気に入らないのか」

「気に入らないね。いや、ある一点を除いたら素晴らしい環境だと思うんだけど、その一点が死ぬほど気に入らないんだよ」

 友人とはいえ、レリーフに関しては守秘義務があるため、詳しい話をすることはできない。そういう職業に僕が就いていることを彼は知っているので、あまり詳しくは詮索してこない。つまり、変だけど彼はいいヤツなのだ。


「これで給料がよくなかったら、今日にでも僕は転職しているよ。そうだね、次はもっとオープンな組織がいい。僕がストリッパーになったら人気が出ると思うか?」

「……需要がねぇとしか答えようがないな」

「そうか。需要がないかぁ。くそう、くそう」


 ジョッキが空になったので、ビールをもう一杯注文した。普段は飲んでも一杯だけで済ませる僕なのだが、今日は特別である。酒でも飲んでないとやってられない気分なのだ。

 おそらくデジタイズによって僕のストレスは観測され、QLAから週末に訪れるべきアクティビティがメールとして僕の個人アカウントに送信されてくるだろう。


 世の中はどんどん人と心に優しくなっているはずなのに、今日の僕はやさぐれている。職業的に疑問を抱かれる側であるのは解っているが、本当に優しくなっているのかと疑問を抱く。解りやすい問題点が目に映るのに、誰もがそこを指摘しようとしない。


 最大多数の最大幸福って原理に内在された致命的なエラー。

 大勢の人が幸せになればなるほど、そこからこぼれ落ちた人間の悲惨さ。

 社会を維持するために犠牲となる一定数の存在。


 現実の持つネガティブな一面が、脳内でグルグルと渦を巻き始める。何もかもが間違った光景のように思えてくる。一人の笑顔を生み出すために消費される感情は、きっとマイナスサムの循環をしていて……いや、辞めておこう。変に考えすぎるのは僕の悪い癖だ。


 運ばれてきたビールを一気に半分ほど飲み干して、大きく息を一つ吐いた。

 姫路綾子の一件はたしかに僕の道徳と相反するけど、そういうことに頭を悩ませるほど僕は聖人属性を持っていないはずだ。もっと利己的で、自分の立身出世にしか興味のない人間のはずだ。

 だから今は気分を切り替えて、自分のことだけを考えよう。

「なんだかスッキリしないな。なぁ、河上。なんかトキメクようなセリフをくれないか」

「なんだよ、唐突に」

「僕はスッキリしたいんだ。こういうフリに、君は凄い打率を叩き出しているじゃないか」

「もうちょい事前に言えって。急にネタを求められてもだな……」

 そして怒るならば、もっと別のことに怒るべきだ。異なるアプローチを試みるべきだ。僕は何も道徳的な理由だけで、姫路綾子の一件にストレスを感じているわけではない。

「……弁慶、おまえ女だったのか」

「最高だ! 君は本当にピンズドで欲しい物を放り込んでくれる」

 この僕が。最高学府を次席で卒業した僕が、どうして女子中学生の子守を任せられないといけないんだ。そうだ、怒るならば、この一点に関して怒るべきなんだ。

 僕は完全に仕上がった日本型のペーパーテストエリートである。事務作業でこそ最も輝かしい功績を上げる人間なのだ。それが対人コミュニケーション、しかも毛も生え揃わないガキのお守りなんて、考えただけで頭が痛くなる。


 この点に関しては友人である河上に漏らしてしまってもかまわない情報だ。姫路綾子の存在に関して、唯一といっていいほど他人に伝達するのが許された情報だった。そして愚痴りたい僕の要求と直結した。

 だから僕は河上に、その一点を猛烈な速度で愚痴り始めた。なんだか気に食わない女子中学生の相手をしなくちゃいけなくなった。顔は整っているが、とにかく不機嫌なツラを晒していて、僕に対して非常に辛辣な態度を示してくる。


 出世街道とはいえ、これはさすがに僕のキャパシティを超えている。データをマクロでまとめたり、解りやすいプレゼン資料を作ったりすることが僕に求められるべき能力なのだ。女子中学生の機嫌を窺うなんて、学生の家庭教師にでも任せていればいい。


 そういうことを非常に理路整然とした言葉で彼へと伝え続けたのだが、この河上という男はどうも物事をシリアスに受け止めない癖を持っていて、僕がこんなにも困っているとアピールしているのに、どこ吹く風といわんばかりに飄々と話を聞いている。

 学業成績で解るように、彼はとんでもなく頭のよい人間なのだが、何事にも熱しない性格の持ち主なのだ。学生時代は、それが少し腹立たしく、そして同時に嫉妬を覚えたりしたものだが、今は色々と彼を知って自分の中で上手に整理ができている。


 けれど、次のような物言いは如何なものだろうか。青筋立てて延々と自分の不遇を訴える僕に、こいつはこんなことを平然と言いやがるのだ。

「別にいいじゃん。せっかく若い子と触れあえんだからさぁ、そのことを喜んだらいいんじゃねぇの」

「な、なな、何を言ってるんだ君は破廉恥な!」


 僕に対して、エロスで行動しろと彼は提言してきたのだ。未成年に対する情緒的なデリカシーが求められ続ける昨今、性的な目を子供に向けることが、どれほどリテラシー違反なのか彼だって解っているはずなのだが。


「失礼だが、僕は毛が生え揃わないガキに興味はないね。どうせなら、白いものが混じっているくらい成熟した女性にテンションを上げる人間だ。若い女なんてクソだね。流行ばかり追いかけて中身がない」

「そう言いながら、二次元じゃロリが好きじゃねぇか」

「現実とフィクションを一緒にするな。あれはだね、僕の中にある少女性を補完しているんだよ。つまり僕の精神には未熟な部分が存在して、それは少女の形をしており、だからこそフィクションでそこを補完する必要が――」

「おまえってさ、たまにだけどマジで気持ち悪いこと言うよな」

「なにを今更。中学のころ、同じクラスの女子に『宮間君って夏場に腐らせたカレーみたいな雰囲気だよね』って言われた男だぞ、僕は。おそらく向こうに悪意はなかったし、例えが上手いと感心してしまったが、よくよく考えるとすげぇ落ち込む出来事だった」

「ポジティブに捉えたら、惜しいってことなんだけどな」

「なるほど。あいつ、実は僕にホの字だったのか」

「そりゃポジティブに捉えすぎだ」


 他愛のない会話をしながら、運ばれてきた塩辛をつまみ、ジョッキのビールで喉を潤す。こうやってストレスを解消することが、大災害の世界じゃ最も重要なことの一つとなった。そのために時間を取ることが、僕らの国では義務付けられている。

 デジタイズが常に精神状態をモニタリングし、自分が今どのような状態であるかを数値化して知らせてくれる。そして必要な処方箋……リラックスするために必要なアクティビティが指定され、休日にはそこで過ごすことがモラルと化している。


 他にも多くの法律や規則や規範が生まれているが、人に優しくなるってのは本当にそういうことなのだろうかと疑問に思いつつ、僕は毎日を過ごしている。あまり深く考えることは僕の精神に悪い影響を与えるし、デジタイズの数値があまりに悪化すると強制的にセラピーを受講させられる。

 僕のように社会的なエリートを目指す人間にとって、それはあまり望ましくない。デジタイズが計測する数値は既に社会の根幹に組み込まれており、社会的評価と紐付けられている。良くない精神状態にならないよう懸命に気を使わないといけない。

 そのせいで気疲れしてしまうそうだが、そうならないよう事前にストレスを解消しなければならない。それ以前に、あまり深く考えこまないように気をつけないといけない。非常に繊細なバランスが要求される。そしてバランスを崩させないために社会はどんどん発達していく。


 ビール二杯で顔を赤くした僕は、えらくご機嫌な様子で居酒屋を出て、河上に別れを告げた後に帰宅。同時にベッドへと倒れこんで、スーツを脱ぐこともなく爆睡した。酔いのおかげか、ふわふわとした心地よさを堪能しながら。

 翌日になるとスッカリ気分は整えられており、昨日の不機嫌さが嘘のように吹き飛んでいた。僕らは子供の頃から教育されているのだ。どんなことがあろうと、家に帰ってベッドに寝転べば、翌日には全てが元通りになるように。

 箸の使いかたとか、キーボードのタイピングとか、長くなった爪を切るのと同等の習慣として、僕ら大災害後の世代には、色んなものを誤魔化しながら生きていく術が身につけられている。


 それが善いことかは僕には解らない。そして、僕が考えるべき問題とも思えない。とにかく僕は、目が覚めたなら出社の準備を始め、電車に揺られ、昨日から赴任した職場へと向かわなければならないのだ。


 それだけのことを自覚していても、思い煩わない生活というのは、案外と難しい。昨日と同じ風景が僕の前には広がっているのに、頭の中だけをクリアにするのは至難の技だ。どれほど習慣づけられても、どれだけ教育されていても、やはり気になることは気になるし、思いすごしだと割り切れないことだって多々とある。

 なんとなく頭の片隅にあることが、不意に浮かび上がることもある。そういえばアイツあんなことを言っていたな、なんてことが脳裏を過る。これは僕だけの悩みかもしれない。他の人に確認したことがないので普遍性が解らない。


 こういう回想は、いつだって間の悪い時に訪れる。今回もそうだった。


 職場と到着した僕が、個人オフィスにて秘書である佐々木女子から本日のスケジュールを説明されている最中、ふとした拍子に僕は面倒なことを思い出す。

 秘書の佐々木は淡々とした事務的な口調で、僕へと必要な情報を伝えていた。僕はマグカップの横においてあったマドラーを弄りながら、彼女の話を聞いていたのだが、そういえばと僕は思い出した。

 昨晩の会話である。もちろん、河上と居酒屋で喋った内容だ。どうしても気になることがあった。自分一人では判断のできないことだ。だから彼女に意見を求めるべく僕は口を開いた。それが相応しい内容であるかを鑑みる前に。


「そういや佐々木さん、一つ質問してもいいか」

「……はい、なんでしょうか」

 話を遮られた秘書佐々木は、少しだけ眉を潜めていた。

 まぁ、いい。優先順位の決定権は上司である僕にある。

 ……そう考えたのが失敗の原因だろう。奢る平家はなんとやら。やはり人間、謙虚に生きていくことが大切なのかもしれない。が、後悔したところで後の祭りだった。僕は彼女に次のような質問をしたのだ。


「僕は二次元じゃロリコンなのに、現実じゃ人妻が大好きなんだ。それを友人にからかわれたのだけれど、それっておかしなことだろうか?」


 このとき見せた彼女の表情は、なんとも味のある素晴らしいものだったと思う。職場におけるセクシャルな問題が非常にデリケートな昨今、部下に向かって上記のような質問を投げかけるのは、よほどの奇天烈じゃないと不可能だろう。


 僕はその奇天烈になっていたのだ。しかるべき場所に叩き上げられ、糾弾されても文句は言えなかった。けれど、そうはならなかった。秘書佐々木が立派な社会人であったことに、僕は感謝しなければならないだろう。

 部屋の中には非常に気まずい空気が流れており、僕が失言を犯した自覚があることは解りやすかったと思う。そして僕と佐々木女子は、出会ったばかりの上司と部下で、だから色々とコミュニケーションが必要な状態だった。

 見事な機転を彼女は利かせてくれたのだ。

 そして同時に、失言を犯した僕のフォローをしてくれた。


 秘書佐々木は眼鏡を丁寧にかけ直すと、とても冷静な口調で……先ほどスケジュールを説明していた彼女と何も変わらない様子で、僕へとこのように告げてきたのだ。

「少し解ります。私も現実では線の細い美少年を好みますが、ガチムチの漢たちがバイブをケツマ☆コにブチ込みあう同人漫画を書いたりしますから」


 僕の秘書は非常に優秀な女性だった。


 初めて部下を持って、難儀なものだと億劫に思っていたのだが、どうやら悪いことばかりではないようだ。頭の痛くなるような仕事がこれから待ち受けているけれど、彼女がいるならば、どうにかなるような気さえしてきた。


 そのことが確認できたので、結果オーライだと思おう。僕は彼女に感謝の言葉を述べた後、マグカップへと手を伸ばした。芳醇なテーストが口内に広がって、自分自身の立場と境遇が変わったことを自覚させられる。

 そして僕は彼女に言わなくてはならないことがあった。気まずい空気を流してくれたのはありがたいことなのだが、僕はこれでも彼女の上司なのだ。キャリア組ではない彼女に、教えておくべきルールが一つある。


「なぁ、佐々木さん」

「はい。なんでしょうか」

 彼女へと背を向けて、窓の外に広がる海岸線を見つめながら僕は告げた。

「表現が直接的すぎる。もう少し言葉を選んで欲しい」


 背後から舌打ちが聞こえたような気がした。

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